2019年6月12日水曜日

ありがとうございました。これからもよろしく。

 とりあえずこのWeb日記と云い張っていたブログは今日でおしまいにします。

 閑話休題

 昨年の五月、置かれた状況・環境に翻弄されてすっかり減退してしまった創作意欲に再び火をつけて、みやかけおを再起動するのを目的に、ブレインストーム的にブログを始めたのですが、あれから一年が過ぎ、まあ、再起動のプロセスも完了したかな、という実感を得るに至りましたので、ひとまずここでブログ終了ということにいたします。向後は、ふと思い浮かんだことはツイッターで呟き、140文字に収まらないものはTumblrに紛れ込ませるというスタイルでやっていきたいと存じております。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。なにはともあれ、今後とも『ザ・ガーベージ・コレクション』をよろしくお願いいたします。では引き続きまたよろしくどうぞ。

2019年6月7日金曜日

のるかそるか

 久しぶりにツイッターでツイートを再開してから早一ヶ月が過ぎたわけだけれどもまあなんですよ、ツイートやるとブログを書くのが面倒になるね。まあ自分の場合「閑話休題」つって短文の連続でブログを構成しているのがほとんどだから、形式的には変わらんのだけれども、やっぱりこう、頭の使い方がちょっと違う気がするね。どう違うか聞かれてもよくわかんないから具体的には答えられないけど、ツイッターの方が、アップした後にやっちまった感が強くなる気がする。虚飾が少なくなると云うのか、むき出しに近いと云うのか。パッと上げられるだけに後から後悔することが多いような気がする。まあ自分が好きでやってることだから別にいいけどね。

 閑話休題

 キモチップの人っていまどんな気分なんだろうね。

 閑話休題

 どうせ年金が破綻するんであればいっそのことあれだよ、いまの老人たちに若い人たちを養ってもらうようにしたらいいと僕は思うよ。老人の皆さんがもらう年金から、それこそ年金とか健康保険みたいに天引きで幾らかとってそのぶんを若者にやっちゃえばいいんじゃないの。老人の貯金なんか片っ端から国が取り上げちゃえばいいと思うよ。

 閑話休題

 こういうことをツイッターで書くと、私のことを本当に馬鹿扱いをして怒ったみたいなリプライや呆れたようなエアリプライを送ってくる人が現れるから嫌になって、かつて私はつぶやくのをやめたのだった。世の中のことなんか真剣に考えてるわけねぇじゃんか。面白い何かが見つかるといいと思って眺めてるだけ、笑いにつながる要素を見つけようとしてるだけだっつーのに。

 閑話休題

 ツイッターにもちらと書いたのだが、31日間無料だというから、お試しで雑誌読み放題サービスの楽天マガジンに登録をしたのだった。自分はもうおっさんだからおっさんが読むようなエッチな記事が載っている週刊誌を何冊か読んでみた。するとほとんどの週刊誌においてエッチなグラビア記事がカットされている。縦しんばカットされていなかったとしても、水着姿や下着姿の綺麗な女性のグラビア記事、その胸元や股間の部分が悉く灰色の四角で覆い隠されていてまるで昭和の頃のエロ本さながら。昭和の頃のエロ本が隠していたのは法律で掲載することが罷り成らない性器の部分だけだったから、むしろ昭和の時代よりも隠す範囲が余計に広がっていて、これは世の中の進歩なのだろうか退歩なのだろうかと暫し考えていたのだがそのうちに馬鹿馬鹿しくなって考えるのをやめた。こっちの灰色のはバター塗ったって取れそうにないしね。

 閑話休題

 だってそりゃあ山ちゃんはツッコミの天才だからなあ。水道橋博士師がやり始めたボケの解説を含めたツッコミを、バラエティ番組・トーク番組に合うように改変した形で持ち込んで来ちゃったんだからなあ。あんなの出来ないよ普通。知識と臨機応変の物凄さ、使う言葉の的確さとしたら、これはボケになるけど玉袋筋太郎師のそれと双璧だと思うなあ。

 閑話休題

 でも芸能人の結婚の話題とかほんと興味がないや。住む世界の違う人たちのことだしね。

 閑話休題

 WWDCでAppleのから新規なものが色々発表されたけど、うーん、もうテクノロジーそのものが面白い時代じゃあなくなったなあ、という思いを改めて強く感じたね。iPadOSぐらいかなあ、なんか新しい感じがするのは。これからはテクノロジーを使うことで人間が変化していくことが一番面白くなるんじゃないかなあ。たといばSNSが登場してくる以前と以後では人間の生活が変わったような気がするんだよね。意見だったり生活だったりを表明するのが生活の一部に完全に加わったよね。そういう変化がいかに起きてくるかが見所のような気がするね。

 閑話休題

 ほんと、これからはテクノロジーを使いこなす人と、テクノロジーに使われるだけの人との差がどんどん開いてくると思う。SNSだって使わないといけない時代にどんどんなって来てる。自分などもSNSにすっかり出遅れてしまったからツイッターをやっていてもなんだかツイッターに使われている気がして仕方がない。うまく生活に取り込むことができる人とそれができない人との差がどんどん出てくると思う。

 閑話休題

 ちょいと用向きがあって神田に出たから神保町に回って三省堂書店に足を運んだのだがやっぱり店内の活気は大いに失われていて、あゝ、栄華を誇った大型書店が時代の波に飲み込まれていくのを見るような気分になった。書店で無数の本の中から面白そうなものを探すという行為、ブックハンティングと呼ばれた行為はいまでも至極楽しいものだけど、それももう時代とともになくなっていくんだろうなあと思った。

 閑話休題

 いずれ電子書籍をサブスクリプションで利用するのが当たり前になれば、またブックハンティングの楽しさは復活してくるだろうけど、そこまではしばらくの間、世の中で話題になった本ばかりが売れていく状況が続くんだろうね。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。愛用のGooglePlayミュージックに入ったから椎名林檎氏のニューアルバム『三毒史』をこのところずっと聴いている。だからいま僕の脳内ではアルバムに収録されている『神様、仏様』という楽曲で椎名林檎氏とデュェットしている向井秀徳氏が云う「繰り返される諸行無常、よみがへる性的衝動」というフレーズが繰り返されて困っています。

2019年5月27日月曜日

私は告白する。

 あれは自分が二十歳の頃だったと記憶するけれども、朝の通勤ラッシュで身動きの取れぬ千代田線の車内で、自分の股間が誰かにぎゅうと握りしめられるという結構な事態に遭遇したことがあった。
 股間を握りしめられている時には、そのようなことが起こっているとはすぐに感知ができず、うわー、股間がなんか痛い。ぐらいにしか思わなかったのだけれど、霞が関の駅で吐き出されるようにして電車から降りたら、見るからに変態の小男の爺いが好色な目でこちらをみていたから、あの生き物が自分の股間を握りしめていたのだと気付いて途端に怖くなった。翌日から電車に乗る時刻と車両をちょっとずつ変えるなどの対策を講じたりして、次回が訪れないようにと気をつけた。
 そんな目に遭ったことは流石に人には云えず、だからそこから二、三週間の間は心のうちでひとり煩悶するばかりで、だからどこか心ここに在らずの夢遊な感じで生活をしていた。
 無論、そんな自分の経験と軽々しく一緒にすることは出来ないが、今般、女性の皆さんが安全ピンの話題と共に痴漢被害を訴える気持ち・恐怖というのはわかるような気がする。見知らぬ誰か(しかもそれは多くの女性にとって自分よりも明らかに屈強に見える生き物だ)の排泄を無理矢理に請け負わされたような陰々滅々たる気分はちょっと他に例えようがない。

 閑話休題

 すっかり毎朝の愉しみとなった『おしん』もいよいよおしんが東京に出てくる展開となった。座敷女中という名の飯炊き女郎にされるのを忌避するべく、生まれ故郷の山形を捨ててやって来たおしんが行き着いた先は、女工哀史そのままにして肺病で死んだおしんの姉が奉公をする約束になっていた髪結いの店。
 で、そこの女主人を演じているのがかつての名女優・渡辺美佐子なのだが、いやあ、氏が使うその歯切れの良い東京言葉に朝からすっかり聴き入ってしまった。
 そうして聴き入りながら、あゝ、現在、もうこうした東京言葉を完全に使いこなせる女優・俳優はいないと云っても過言ではないよなあと思った。男優の方はまだ歌舞伎役者や落語家など伝統芸能の担い手がいるからなんとかなるけれども、女優となったらほぼ皆無。だいぶん標準語に寄ってはいるけれども天海祐希がいるくらい。
 いまから約三十年前に『極道の妻たち』で岩下志麻が珍妙な関西言葉を使ってから以降、方言が使われるドラマや映画では決まってその方言の出来不出来が話題になるけれども、これが東京言葉となるといったいに話題となることがない。東京言葉を使えない当節の女優がこれをやると東京言葉を字面の通りに発音するから(語尾を〜じゃねぇよ、みたいにするだけ、みたいな)、単に乱暴粗雑な言葉遣いになってしまう。
 いまや東京言葉は完全にドラマや映画から消失していて、他の地域の方言に比べたらその悲惨なことは遙かに甚大なのだが誰も話題にしない。落語や講談や浪曲や歌舞伎があるからなんだろうかね。

 閑話休題

 『ザ・ガーベージ・コレクション文芸部恒例(嘘)映画紹介コーナー』今回は僕が大好き、名匠・ビリー・ワイルダー特集。

 てなわけで、ワイルダーの映画と云われていまパッと頭に浮かんだものをいくつか。

お熱いのがお好き』(1959)
 話としたら至極くだらない、無理ばかりの話なんだけど、映画全体に品があるんだよなあ。大口ジョー・E・ブラウンとジャック・レモンがタンゴを踊る馬鹿馬鹿しい場面のまあ素晴らしいこと。

アパートの鍵貸します』(1960)
 割れたコンパクトで全てを説明してしまう物凄さ。この頃のシャーリー・マクレーンの溌剌たる可愛らしさと云ったらない。全てのセリフが気が利いてる。

情婦』(1957)
 文句なーし。チャールズ・ロートンからグレタ・ガルボからタイロン・パワーからエルザ・ランチェスターから、映画の発端から仕舞いまでもうみんなみんな素晴らしい。

サンセット大通り』(1950)
 キートンなんかのかつての大スターが集まってトランプをする場面がすごく怖い。グロリア・スワンソンの物凄いこと。夢に出てきそう。

あなただけ今晩は』(1963)
 この頃のジャック・レモンとシャーリー・マクレーンのコンビはもう鉄壁で、またサゲがなんとも落語っぽくて……それはまた、別の話。

昼下がりの情事』(1957)
 背伸びをして自分が悪い娘だと云い募るオードリー・ヘップバーンの純情可憐なこと。『魅惑のワルツ』のルーティーンギャグもいい。

地獄の英雄』(1952)
 カーク・ダグラスが生き埋めになっているというのにマスコミや野次馬の酷さと云ったら!

 閑話休題

 という六本をご紹介しましたよ。ビリー・ワイルダーの映画はとにかく好きで、数十に上る監督作品のほぼすべてを観ているのだけれども、どれもこれもよく出来ていてほんと、何度も繰り返し観たくなるような映画ばっかり。誰か一人映画監督を選べと云われたらやっぱりワイルダーになるよね僕の場合。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。映画の紹介をこういう形ですると、すごく自分が頭の悪い人みたいに思えてくるね。やっぱり「僕はこれが好きなんです!」って、映画の紹介じゃなくて、それを観ている自分、それが好きな自分の説明に堕しているから頭悪そうな感じになるんだろうね。そう考えると、やっぱり本物の評論家ってすごいよな。淀長さんとか。解説を聴いてるだけで、その映画を観てみたいと思わせるものね。

2019年5月22日水曜日

また自分語りをしちまったよ。病んでんのかな。

 こんにちは! こんにちは! こんにちは!

 閑話休題

 元気に挨拶をしてみたんである。元気ですかー。元気があればなんでもできる、って、赤いマフラーを巻いて知らない人の横っ面を叩くばかりの猪木しか知らない世代の皆さんはやっぱりちょっと可哀想だと思うな僕ぁ。しかしどうなのかねぇ、昨今のプロレスブームに乗ってプロレスを観出した人に全盛期の猪木の試合を観せたらどんな反応をするんだろうかね。想像するに、全く違うなにかに見えるだろうね。陰湿・陰惨な印象を受けるだろうねやっぱり。猪木とタイガー・ジェット・シンの試合なんてもう、この人たち一体なにをやってるんだろう、どうしてこんな殺し合いみたいなことをやってるんだろう……って思うんじゃないかな。それとも「これも結局はプロレスだから」という観点に基づいて笑いながら観るのかな。うーん、そう観られちゃうかもしれないなあ……。

 閑話休題

 こんにちは! と、打ち込んだ時には猪木の話をするつもりなど全然なかった。

 閑話休題

 そういうわけだから僕はこの数日間、筒井康隆大人著したところの『不良老人の文学論』を読んでいたのであった。筒井氏が物した(その多くは21世紀になってからのもの)、他の作家が書いた小説本の解説文や帯の推薦文や音楽CDのライナーノーツ、谷崎賞や山田風太郎賞の選評、さらには多様な雑誌・書籍に掲載された随筆などが一挙にまとめられている。どの文章もその話題とする幅の広いこと、凄まじいばかりの知識量から弾き出される論評の見事に、その意見の高等にああ面白い。ああ面白い。ほんと面白いまじ面白い。筒井氏が引き合いに出す本をみんな読みたい。各賞の選評において筒井氏が絶賛している小説をみんな読みたい。と、阿呆のように思いながらぐんぐんに読んだ。

 閑話休題

 餓鬼の時分、本を読む大人が周りにいなかったから読書の習慣が身につくまで時間がかかった。十代の頃は読むものといえば『マカロニほうれん荘』『ドカベン』などの漫画、或いは野球やプロレス、パソコンやコンピュータゲーム関連の雑誌・書籍くらいのもの。それらについては相応の分量を読んでいて、従って本屋に赴くこと、本を読むこと自体はけして嫌いではなかった。だが小説本の類は読むに至らなかった。

 閑話休題

 それでも長ずるに従い知識欲が高まってくると小説本に対する興味が次第に湧いてきた。すでに、面白い・これが好きだと自認した上で落語を聴きはじめていた高校三年生の頃、俄然、小説本を読んでみたいと思うようになった。読まねばならぬとすら思い始めていた。しかしそれについて善導してくれる人が周りにいない。学友には今更、小説を読みたいんだけとどうしたらいいかなあ、なんて話をするのも、それまでがそれまでだっただけに気恥ずかしい。

 閑話休題
 
 小説本に対する興味は日を追うごとに増してくる。本屋に行くたびに小説本の売り場をうろつく。だがどこから手をつけていいのかわからない。そんな中で目に留まったのが筒井大人の文庫本『農協月へ行く』。
 当時、小説本というのは皆、国語の教科書に載るようなものばかりだと思い込んでいたから、このタイトルは一体なんだ、ふざけまくっているじゃないか。と思って記憶に留まった。本屋に行くたびにこの本は一体なんなんだろうとその背表紙を見ながら思いを巡らせた。
 
 閑話休題

 平成の始まりから十ヶ月が過ぎた高校三年生の秋の夜、勇気を出して『農協月へ行く』を手に取り立ち読みをしてみる。しかしそれまでに小説本を読んだ経験がないから読み方がわからない。書かれている内容を日本語としては理解ができるものの、小説として理解・把握をすることができない。冒頭の数頁を読んでみたがなんの情景も頭に浮かんでこない。
 やはりダメだ。小説は難しい。そう思って落胆し、結局その日は結城昌治著『志ん生一代』上下巻を買って帰った。この本は古今亭志ん生の評伝で、だからノンフィクションだと思って面白く読んだのだが、今にして思えば"小説・古今亭志ん生"とでもいうべき内容だった。

 閑話休題

 十九歳になって働きはじめた。あまり真面目な働き手ではなかったから、昼休みに職場の近傍にある小さい本屋に赴くのが、息抜きの域を超えた楽しみになった。当時、都会の真ん中にもまだ当たり前のようにあった個人経営の本屋。雑誌の類を立ち読みするのが主たる目的だった。

 閑話休題

 その本屋にあった、けして大きくはない文庫本売り場の書棚。そこにずらりと並ぶ筒井康隆大人の文庫本。赤い背表紙の新潮文庫、薄黄色の背表紙の角川文庫、グレーががった茶色の背表紙の中公文庫、赤紫色の背表紙の文春文庫。いやでも目に飛び込んでくる。当時はまだ筒井大人の世代が小説界の先頭集団だったから、どの本屋の売り場にも大量に並んでいた。だが自分としては『農協月へ行く』の経験から小説本は自分にはハードルが高すぎると思って、読もうという気すら起こらなくなっていた。

 閑話休題

 そうこうしているうちに二年が過ぎて二十一歳になった。仕事はいつまで経ってもしくじってばかりで、剰え恋い焦がれた女の子は夜毎ビリヤードやダーツで遊んでいるような洒落乙な野郎に掠め取られてしまう。小供の時分にイメージしていた二十一歳とはかけ離れた暗澹たる日常。
 そんな鬱積を抱えながら過ごしていたある春の日の昼休み。いつもそうしているように例の小さな本屋に赴き、いつもだったらそうしなかっただろう、筒井康隆大人の文庫本をさしたる決然も無いまま手に取り購入した。よほど鬱積が溜まっていたんだろう。

 閑話休題

 入手したのは『笑うな』というショートショート集。『農協月へ行く』は以前読めなかったという恐怖が残っていたから敢えて避けた。
 退勤の電車の中で早速読み始める。なんてことだ。面白い。ページを手繰る手が止まらない。電車の中だということを忘れて読み耽る。家に帰っても読み続ける。寝る時間を削ってまで読み進め、到頭その日のうちに読み了えてしまった。なんたる面白さ。世の中にこんなに面白いものがあるのかとすら思った。

 閑話休題

 ショートショートは筒井大人の本道ではない。だが小説本を読んだことがなかった自分にはこれが全くもって塩梅がよかった。一つの話が短いからトントンと読み進めることができる。

 閑話休題

 そこからはもう字義の通りに読み漁った。字義の通りに読み捲った。字義の通りに読み耽った。通勤退勤の時間を中心に空いた時間のほぼ全てを費やして、一週間の間に二、三冊のペースで読んだ。筒井康隆なかりせば夜も日も明けぬ、とばかりに読み捲くった。本屋に行くたびに「まだ読んでいない筒井の本はないか」と餓鬼道に堕ちた人のようになって書棚を漁る日々が続いた。

 閑話休題

 小説本を読んでみたいという気持ちを抱いてから、また『農協月へ行く』を近所の本屋で手に取りながらも読み方がわからず落胆してから、数年間にわたって蓄積されていた小説本への思いが爆発したんだろう。そこから向こう二年ほど、二十三歳までの間に、当時書店に流通していた、優に百を超えていただろう筒井大人の小説本を粗方読んでしまった。
 筒井ファンの間で「七瀬三部作」として名高い『家族八景』『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』の三冊など、とある土日の二日間で読み了えてしまった(しかも一冊読み了えては近所の本屋に買いに行き、を二度繰り返した)。三年前まで小説の読み方からしてわからなかったというのに!

 閑話休題

 筒井康隆大人の小説本を熱狂して読んだことで自分のなかに読書の習慣ができた。ここを起点にしばらくの間、乱読に近い形で色々な小説家の小説本を読んだ。もちろん真に読書家たる人に比べれば大した量ではない。読むものも偏っている。剰え、小供の時分に形作られた習慣ではないから、ちょっと気が逸れると数ヶ月もの間、一切本を読まなくても平気になってしまう。それでも小説本を読む楽しさを知ることができた。筒井康隆大人の小説に出会っていなければ、きっと小説本に親しむことが無いままに齢を重ねていたことだろう。そう考えるとちょっと恐ろしくなってくる。

 閑話休題

 それにしても筒井康隆大人の小説本を読み捲った三年間は今思い返してもどうかしていたとしか思えない。あれだけ熱狂して本を読み続けたのは後にも先にもあの時期しかない。一体、なんだったのだろうと今でも不思議に思う。

 閑話休題

 って、だからこんな感じで自分語りをするつもりなんかなかったのになんでこんなことを書いてるんだ俺はぁぁぁぁぁぁぁぁっ。

 閑話休題

 今般読んだ『不良老人の文学論』で、表現の自由について触れている随筆があるのだが、そこに、

「表現が一部の人の特権であった時代は昔のことであり、今や誰でもネットで自分の考えを述べることができる世界なのである。それらを許容できるかどうかは読む人の知識、教養、知性にかかっている」

 とあって、全くその通りと、首の骨がどうかなるくらいに激しく首肯した。情報のフィルタリングを自分でちゃんとやらないと、ネット見てても腹立たしくなったりするばかりだよね。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ようやく再び投打がかみ合い出したよペイスターズ。今永に加えて濱口がポテンシャル通りの投球をしたら途端にチーム全体に流れというかこうすれば勝てる、みたいなムードが出来上がってきた感じだね。加えて東も今日で二連勝。これでうまく先発三本柱で勝ちを計算できるようになればチームが安定してくるだろうね。やっぱり野球はまず投手だよな。







2019年5月17日金曜日

あなたならどうする

 それにしても老人が運転する車が暴走をする事故が後を絶たない。報道を閲するたびに嫌だなあと思う。私の身近にいる老人どもも口々に「自分は運転に自信があるからあんな無残な事故は起こさない」と息巻いている。もうこんなことを云っている時点で完全なる加害者予備軍だ。なにしろこれら老人ときたら、自らが朝に云ったことを夜には忘れているような塩梅なのだから、ブレーキとアクセルを踏み間違えるなどお茶の子さいさいだろうと思う。
 まあ考えてみればこれだけの大量の老人が世の中に存在するという事態の発生は、我が国有史以来初めてのことなんだろうから、いままでにないようなことがどんどん起こってくるとは思う。
 かかる加害者予備軍の老人たちから、自動車や運転免許を取り上げるのが一番いいんだろうが、世の中からリタイアし、為した子供達もその手元を離れるなどして、それが為に誰からも頼られることがなくなり、誰からも認められることがなくなった老人たちにとって、自分の存在を確認する手段、まだまだ自分だって世の中に参画できるんだという自信を得る唯一の手段が自動車の運転をして車列に加わることなんだろうと思う。
 とすれば、これを取り上げるのはほぼ無理なことで、まあ精々この、我々老人予備軍の中年をはじめとするそれ以下の年代の人々が、当節の老人の無残さを目に心に焼き付けて、きっと自分はああはならんぞと心に誓って、未来を変えて行くしか手がないんだろうと思う。「明日は我が身」ってのはマジ真理。

 閑話休題

 しかしなあ、我々、つーか、斯く云う私とて、じゃあ歳をとってインターネットを止めることができるかと云われると、これはうーん、難しいだろうなあと思う。まあ私なぞは性格的にあまり人と関わり合いにならない方だから、人々が蠢いているのを眺めているばかりになるだろうけど、それにしたってインターネットに接続するのをやめることはないだろうなあと思う。

 閑話休題

 それにしても最近、我が身を振り返ってふと空恐ろしくなるのは、たといば、店などで物品を購入する際に、店員の人と交わす短いの会話の中に、つい、この商品を買おうとするに至った自分の経験や来歴を少し話してしまうことがある(どこそこへ行った時に使っている人がいて、それを見たときにすごくいいなあと思ってねぇ。なんて話してしまっている! それも結構嬉しい気分で!)。って、ひぃーっ、これがエスカレートすると、コンビニやなんかの学生バイトに延々と自分の日常のことを嬉しそうに話している老人になってしまうじゃんか! と思って僕は自分が恐ろしくなる。だからなるべく、店員の人などに、個人的な話をしないようにしようと改めて思っているところでありんす。でも老人になって寂しくなってくると、そんな風になるんだろうなあ。いやだなあ。いやなことだなあ。

 閑話休題

 老人の身の上話をいつまでも楽しそうに聞いてくれる優れたAIロボットの登場が待たれるネ。LINEのりんなをはじめいまのAIキャラは喋りすぎだ。必要なのは聞き役だ。

 閑話休題

 十歳のYouTuberねぇ。変に思想的なことを云うあたりがあの餓鬼の限界だね。自分を正当化する為に他の人を貶めるのは年齢に関係なく足らない奴のやることだから。学校に通っている他の子供をロボットとか云った時点で面白くもなんともないもの。これが、十歳はこんなに素晴らしい、ってことをアピールして人気になったら凄かったと思うけど。大人がみんな「うはあ。自分も十歳に戻りたいなあ」って思っちゃうようなそういうトークをして受けたんなら偉かったと思うけど。アハ体験のもじゃもじゃと会ったからってなんなんだよ。そんなしょっぱい体験、ちっとも羨ましくないよ。朝から晩まで河童を探して歩いてた、とかそんな話をされる方がよっぽど羨ましいよねぇ。あるいはなかなかちんこに毛が生えてこなくて心配になってるとかそういう話をしろって。

 閑話休題

 そのうち二歳のYouTuberとか出てくるんじゃねぇの。ニコニコ笑いながらカッパえびせんとか食ってるだけの配信とかでみんながすげー喜ぶ感じの。そうして最終的には胎児のYouTuberだ。

 閑話休題

 でももう子供YouTuberを企画している大人の連中はいるんだろうなあ。そうしてそこで人気が出た餓鬼は齢を重ねていくうちにみんなマコーレー・カルキン(ハリウッド史上最年少のアル中患者)みたいになっちゃうんだ。

 閑話休題

 面白いなあ幻冬社の人。あの言動って、バイトテロがやってることとほとんど変わらないもんなあ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。Netflixにはモンティ・パイソン関連の作品が続々入り、Amazonプライム・ビデオには権利が切れたクラシック映画が続々入り始め、いやー、いい時代になったねぇ。これであとは私が大好きなビリー・ワイルダーやエルンスト・ルビッチの映画がどんどん入ってくるといいんだけどまだ権利が切れないのかな。ルビッチの映画なんか随分切れてそうだけど。ヒッチコックだってイギリス時代の古いのは切れてるみたいだし。こないだもルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』をもう十何回目かで再見したけどやっぱり面白かったもんなあ。How would Lubitsch have done it?

2019年5月10日金曜日

夜空にYOU KISS!

 脳は案外簡単に騙せるのだそうで、たといば、現在の感情とは関係なしに口角を上げるだけで脳は「あ、いま自分、なんか幸せな気分楽しい気分っス。だって口角を上げるというのはそういう気分の時にする行動っスから」なんつって、そういう風に働いてしまうのだそうですよ。するとあら不思議、仮にその時の感情がいやーんな気分であったとしても、いまは楽しい気分幸せな気分嬉しい気分なんだよねー、なんて騙されてしまうのだそうですよ。でもさー、その口角を上げるというのも、その命令を出しているのは脳なわけだよね。だとしたら脳は自分で自分を騙してるの? うーん、ここまで考えてくるといつも軽いパニックに陥る。口角を上げろと命令している脳は確かに俺の脳だけど、口角を上げることで気分がいいと勘違いしている脳は誰の脳なんだろう。なんて『粗忽長屋』のサゲみたいなことになるからみんなもっと古典落語を聴いたらいいと思う。

 閑話休題

 しかし脳が簡単に騙されるというのはなるほどそうかもしれんと僕も思う。たといば僕はもう二十五年以上にわたって内田有紀嬢のことが大好きなんですよ。
 お若い皆さんにとっては内田有紀嬢といえばドラマなどで脇を固める演技者アンパサンド落ち着いた大人の女性(しかも四十代にはとても見えない!)という印象になりましょうけれども、えーと、あれは西暦でいえば1993年ごろ、世の中に勇躍登場した時の彼女といえばこんな感じのショートカットがよく似合う中性的な魅力に溢れたおにゃのこだったわけで、そういう感じの女性を見ると頭の回線が、不良品の良心回路がショートしたときのキカイダーみたいに壊れてしまう僕は、当時、もう明けても暮れても内田有紀嬢だったわけであります。
 なにしろ、芸能人の写真集を買ったのは後にも先にも内田有紀ファースト写真集『YUKISS』ただ一冊のみだったりするわけですよ。いやほんとあの写真集は繰り返し読んだし繰り返し使……いや、あの、ねぇ。

 閑話休題

 そうして内田有紀嬢のことを二十五年もずっと応援しているものだから、いつしかその状況が常態となり、いまでは僕の人間を構成する一要素になっているわけなんですな。
 こういう状態に陥ったとき、自分の脳内でどんなことが起こるかというと、内田有紀嬢を見ると、なんだか古い友人のような、或いは近しい親戚が活躍しているのを見るような気分になってしまうのですな。
 これはやはり脳が騙されているのだと僕は思う。知り人でもなんでもなく、ただただ一方的に見ているだけの彼女のことを、友人知己どころか親戚とすら思ってしまっている(もちろん薄っすらと思うだけだけどね)のだからもうこれは完全に脳が自分で自分を騙してしまっているのだと思う。
 とはいえまあ世の中を騒がせる数多のストーカーの皆さんや、実際に迷惑行為に及ぶような行き過ぎたファンのようにはなってないからまあいいかと思って、今日も今日とて、ああ、有紀ちゃん頑張ってるなあ。とか思っているくらいが関の山なのでまあたぶんセーフ。

 閑話休題

 そういうわけだから僕はこれからもどんどん自分の脳を騙していこうと思う。とりあえずは、自分は面白いことを考えられる・作れる人間なんだと思って、積極的に脳を騙していこうと思う。でも、そうして俺の脳を騙している脳はいったい誰の脳なんだろう。って、また『粗忽長屋』に戻っちゃう。

 閑話休題

 でもあれですよ、内田有紀嬢が吉岡秀隆氏と結婚したときには特になんとも思わなかったけど、氏と離婚をしたときには部屋でひとり、拳を突き上げ「俺にもチャンス到来」とかわけのわかんないことを思っていたからあの頃の俺の脳は相当にやばかったんだと思う。

 閑話休題

 話は変わるがまじ面白いなあ『おしん』。本放送がされた1983年には自分はもう小学六年生だったけど流石にちゃんと、YouTuberにもなることなく小学校に通っていたから朝ドラは観ていなかったし、その後、数回あった再放送も特段見逃していた。加えて橋田壽賀子の書く脚本なんて所詮井戸端会議をそのまんま書いてるみたいな脚本なんでしょう……と、見もしないで決めつけていたしね。ところがどうですか『おしん』はまじスタートからフルスロットルみたいな展開で、おしんに降りかかる人生の出来事にもう惹きつけられっぱなし。いやいや、ほんと、なんでも決めつけちゃダメだね。

 閑話休題

 『なつぞら』はもう観るのやめちゃった。『半分、青い』とは違う感じで「いったいいま自分はなにを見せられているのだ」感がすごくなってきちゃったからね。

 閑話休題

 それではそんなことでお後がよろしいようで。まだいろいろ書こうと思ったんだけど眠くなってきちゃった。じゃあ一足お先におやすみなさい。寝る前に枕を三回叩いてから寝ると好きな人が夢に出てくるというからそうして内田有紀嬢が出てくるのを待望して寝よう。おやすみー、と枕をトントントン。








2019年5月5日日曜日

ザ・総括(赤軍的な意味じゃないからねッ☆)

 自分語りをしたい日もあるさ。

 閑話休題

 2002年の秋、それまで運営していたウェブサイトに行き詰まりを感じて一旦閉鎖した。当時の流行だったテキストサイト(日記形式のサイト。ブログの前身みたいなもの)の形式で運営していたのだが、もっと作品の要素が強いものをたくさん作りたくなった。しかしそれまでのサイトのスタイルでは、それをするのにそぐわない。そうしてリニューアルを前提とした閉鎖だったから、その時点で再開後のサイトはイメージしてあった。

 閑話休題

 リニューアル後のサイトの名称は閉鎖をする時点で、現在のものにすると既に決めてあった。正しい表記を期するのであれば「ガベージコレクション」ということになる。元々の言葉の由来はプログラミングの技法のことだが、この言葉にインスピレーションを受ける直接のきっかけになったのは八〇年代の中頃、中学三年生の時に読んだパソコンゲーム情報誌『ログイン』に連載されていたコラムのタイトルだ。当時、その言葉の意味するところはわからず、さらにインターネットもない時分だから調べることもできなかったが、なんか響きの格好いい言葉だなとずっと頭に残っていた。だからこれを新しいサイトのタイトルにしようと速断に決めた。

 閑話休題

 しかし実際に文字に起こしてみるといまひとつピンとこない。ロゴを拵えてみるが、私のデザイン能力の不足とも相俟って、どうにもパッとしない。苦心惨憺の末、ガベージをガーベージにしたら少しましになった。もう一声、という感じがしたから頭にザ、をつけたらピタリとはまった感じがした。斯くしてサイトのタイトルは『ザ・ガーベージ・コレクション』に決まった。サイトの評判が上がったときに「ガベージコレクションだろ」とコメントされているのを幾たびも目にした。

 閑話休題

 閉鎖したサイトを運営している頃は、ハンドルネームを本名に近いものにしていた。せっかくサイトを一新するのだから名前も変えるのは当然だと思った。加えてこれは今でもそうだが、可能な限りネットとリアルを分ける姿勢を貫いているから、その観点からもハンドルネームは是非とも変えなければならないと思った。かてて加えて私の本名はどちらかといえば珍名さんに属する方だから個人が特定されやすい。その観点からも変えなければならないと思った。

 閑話休題

 しかしハンドルネームがなかなか決まらない。数百という候補を考え、紙に書いてみるなどしたのだがどれもピンとこない。その中の一つに「森旬(もり・じゅん)」というのがあって、これが森繁みたいでいいかもなあ、と思ったのだが、人間の名前っぽさが残っているのが気恥ずかしく、結果気に入らずどうにも決めきれない。そうして決めあぐねているうちに頭の中が破裂しそうになって、これはたまらんと部屋のベッドにごろりと寝転んだ。2002年冬、小春日和の土曜午後。

 閑話休題

 気分を変えようとベッドの傍に置いてあった当時愛用のiPod(第二世代)でシャッフル再生をした。かかったのは三代目三遊亭金馬が演ずる古典落語『居酒屋』。縄暖簾に醤油樽、そんな江戸風情な居酒屋に入ってきた酔っ払いを迎えた店の小僧、大神宮を祀ってある神棚の下の席に座れとの意味で「宮下へお掛けねがーい」と頑是ない調子で云う。楷書のような芸と評された三代目金馬の芸に乗せられ私の頭の中でぴかりと電灯が点いた。

 閑話休題

 「みやしたかけお」という名前が閃いた。なんとなく語呂がいい気がして頭の中で繰り返し名乗ってみて更には紙に書きつけてみる。かなりいい感じだがやはりみやしたの部分が平常の人間の名前みたいで気に入らない。更には私の高校時代の同級生に宮下某というのがいて、これがクラス全員から嫌われている了見の悪い男児であったから縁起が悪い気もした。だからみやしたは駄目だと思った。

 閑話休題

 みやしたかけおの字面を頭の中でアナグラム的に動かしてみる。「みやかけお」という字面になったところでこれだと思った。「みやした」から「した」をとっただけなのに人間っぽさが随分消えた。紙に書き付けるまでもなくハンドルネームはこれに決まった。それから十五年以上もこのハンドルネームを使っているから、いまでは自分のアイデンティティの結構な部分を占めるようになった。自分でもいい名前だと思う。曰くがありそうな印象を与える名前だと思う。実際はこういう塩梅で曰くなどなにもないのだけどね。

 閑話休題

 二〇〇三年四月二十九日にリニューアルしたサイトを公開した。なんだか逃げたくなって公開したその日は東京ドームに行って日ハム対近鉄のゲームを観に行った。近鉄の四番打者が中村紀洋だったのをはっきり憶えている。帰宅したら、閉鎖前のサイトから観てくださっていた幾人かの方からお祝いのメールが届いていた。同じ年の六月、当時当たり前にあったホームページ紹介のサイト、そのトップページに掲載されてアクセス数が急峻に増大、当時利用していたサーバーの転送容量を超えてしまい、周章てて転送容量に制限のないサーバーに移転した。

 閑話休題

 図らずも、自分のやっていることが時代に合致していた。YouTubeもなければSNSもない。スマートフォンが世の中に登場するのはまだ何年も先の話。そうした時代状況の中、持たざる人々が作品を他者に見せようとするならば、サイトを作ってそこで公開するのがスタンダードな状況だった。サイトを持つことが人々の注目を集めることに繋がる時代だった。さらにはFLASHというアニメ・動画作成のツールが登場して、当時の脆弱な通信環境でも動画やアニメを発表することができるようになり「FLASHアニメ」が大きな潮流となった。そんな時代にうまく立ち会うことができた。結果、その後の数年間で、サイトを作らなければけして見ることができなかっただろう風景をいくつも見せてもらうことができた。雑誌でサイトが紹介され、FLASHアニメの上映イベントで出品&登壇させてもらい、テレビに出させてもらい、動画作品の連載を持たせてもらった。

 閑話休題

 二〇〇五年ごろだったか、YouTubeが伸してきたのを知ったときには、時代が音を立てて急カーブに突入していくような感覚を覚えた。もうこれまでのやり方が通用しなくなると直覚的に思った。その後ニコニコ動画が現れたときには個人サイトで作品を発表するやり方はもう終わりだと思った。さらにはブログが一般的になり、mixiを嚆矢とするSNSが花開くにつれて個人サイトの文化は実際に廃れていって、スマートフォンが市民に行き渡る頃には完全になくなった。気づけばあれだけ流行したFLASHももうない。

 閑話休題

 そんな時代の変化の最中にあって私は大きく体調を崩した。それまでにいただいていたいくつかの引き合いは、本業ではなかった気安さを盾に、不義理を承知で割と簡単に諦めてしまった。しかし体調が落ち着いてくるとまたなにか作りたくなった。すでに個人サイトは歴史の中でその役割を終えていたが、私がやれるのはそれしかなかった。さんざ作ってきた動画を作るつもりはもうなかった。また、私が持っている程度の動画作成の技術では到底太刀打ちできないところまで時代は進化してしまっていた。また、私の興味自体も他のところに移っていた。

 閑話休題

 サイトを始めるにあたり、私がやりたかったことのひとつに、コンピュータでしか表現できない作品というものがあった。『十億アクセスの彼方に』など、既存のメディアには当てはまらない、ジャンルの鬼っ子みたいな作品だ。そもそも私は動画や小説といった、既存のジャンルの何かを作りたいと思っていたわけではなかった。コンピュータで表現できる面白い何かを作ることを希求していた。だからこれからはこうした、インターネットをパスティーシュするような作品を中心に作っていこうと思った。時代には乗れないだろうと思ったがもうそこはいいと思った。

 閑話休題

 その後は好きなことを好きなようにやっている。客としての自分を喜ばせるためにやっている側面が大きくなった。そうしているうちにさらに洒落にならないレベルで体調が悪くなったりもしたのだが、それもまあなんとか持ち直して平常に近い感じで暮らしている。サイトを辞めようと思ったことも幾たびかあったが、これまでの経験から人間案外なんとかなるもんだと思って辞めずに続けている。ここへ来てだんだんまた楽しくなってきた。

 閑話休題

 私が創作を始めた原点は八〇年代中頃、雷に打たれたようにパソコンが好きになったことにある。十五歳の頃だ。パソコンがあれば面白いことができる、他では体験できない面白い時間が過ごせる、そう感じて毎日を過ごしていた十五歳の自分に突き動かされて、いまだにサイトを辞めることができずにいる。なにかを作ることを辞めることができずにいる。きっと死ぬまで辞めないんだろうと思う。

 閑話休題

 自分語り乙。ってのも懐かしい言葉ですないまとなっては。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。有楽町のビックカメラって、元が歴史ある有楽町そごうの居抜きだから、建物の作りが結構古くて、トイレなど、現代の常識ではありえない感じで段差があって面食らうんだよね。こないだ足を運んだ時には、まあほんと、二十年ぶりぐらいに「段差がないと思って歩を進めたら段差があって空足を踏んでガクンとなる」経験をしたよ。危なかったけどなんか懐かしくって嬉しくなっちゃったもの。




2019年5月3日金曜日

転がる軽石のように

 そういうわけだから六、七年ぶりにツイッターでつぶやきをすることにした。はっきりとした理由はないが、昨夏から自分の身の回り、あるいは世の中的な部分においても、変化しているなと感じることが続いていて、ああそうか、これはもう自分も変化する時期に来たのかも知らんなあ、ちょうどこれまでのやり方に飽きてきたところだし、と思ってつぶやきを再開した。
 あれだけSNSは嫌だと不平不満を表明していたのによくもまあ平気でつぶやきを再開できるものだと、自分でも呆れるばかりですが、まあ、人なんてのは変わってゆくもので、解剖学者の養老孟司先生が、昔の人が名前を変える(桂小五郎が木戸孝允になった的な)のは人間が変わるということを知っていたからだ。てなことをご著書の中に書いておられたから、まあ人間なんて基本的に変わってゆくものなんですから此処はひとつ許してちょんまげ(昭和)。

 閑話休題

 しかし変わるといえば私の目にはいつだって女性というものの変わりっぷりには驚かされるばかりです。女の子が娘になり、娘が女性になり、女性が彼女になり、彼女が妻になり、妻が母になり、母が祖母になり、と、子孫繁栄の側面においてクラスチェンジをするたびに、どんどん別の生き物へと根底からメタモルフォーゼするように見えてしまいますな。対して男というのはいつまでたってもぼーっとしていて変わりませんな。夫になろうが父になろうが、その根底は虫カゴと網を振り回して林の中でカブトムシを探している夏休みの子供のまんまという場合が多いように見えますな。は? それはお前が単にそうなだけだ。いつまで経っても大人になりきれぬまま取り返しのつかない年齢になってしまった自分を肯定したいだけだろうと。なるほどお説ァ御尤も。

 閑話休題

 令和になってはや三日。約ひと月前から令和令和と予告されていたためにすっかり慣れてしまいましたな。しかしやはり皇位継承の儀があるってのはいいもんですね。わたしゃ別段、右や左といった確固たる思想など持ち合わせていませんが、天皇という存在があるというのは僕はいいものだと思う。誤解を恐れずに云えば、国の一番上の存在が神話に繋がっているというのは実にいいものだと僕は思う。実を超えるのは虚だと思う。

 閑話休題

 先週末に一挙再放送された『トクサツガガガ』を遅ればせながら初見で、且つ、一挙視聴ではなく各駅停車の感じで観ているのですが、いやあ、噂に違わず面白いですなあ。私自身は隠れ〇〇というアビリティを得たことがないので、登場人物の感慨に直接共感することはないのですが、それでも、カラオケや食事会の場面において「ああなんか自分とこの人たちとの間には見えない壁があるみたい」という断絶は若い頃から今に至るまでずっと感じているから、そこんところはすごくわかる。
 そういや餓鬼の時分、プロレスが好きだと表明すると鬼の首を取ったみたいに「あんなのは八百長で〜」と云ってくる連中がいて、ツイッターのアホリプライやインスタグラムのアホコメントを閲していると、なるほどあの時の八百長野郎どもが世の中、いかに跋扈しているかがわかるというもの。マイナーなものを愛好する人間を見ると攻撃をせずにはいられない無意識の差別主義者が時代の今昔を問わずいかに多いかということ。
 それにしても主役の小芝風花ちゃん滅茶苦茶可愛いねぇ。確か松岡茉優嬢が彼女のことを「ドラクエの精霊の泉」と評していたと記憶するけど、うーん、役を演じている上でもなるほどそんな感じがする。『あさが来た』に出てた時は脇で光るタイプになるのかなと思ったらとんでもなかった。

 閑話休題

 あのあれね、令和婚とかしちゃう人って、車のナンバーとかにいちいち意味づけとかしてそう。誕生日とか結婚記念日とかの番号をいちいち選んでそう。って、こういうのをツイッターで云えば良いのか。早速云ってくる。

 閑話休題

 高橋みなみ嬢の結婚相手は「一般男性」とのことですが、この「一般男性」という芸能人有名人の結婚の際にしか使われない語、『あまちゃん』の中でギャグに使われたことで世の中に流通しなくなるかと思ったら、一時減ったもののまた大手を振って使われ始めていて、なんだかなあ。という感じ。もいっぺんみんな松田龍平氏演ずる天野アキのマネージャー水口が酔った挙句、CM契約上、恋愛禁止の状態にあるアキと付き合っている種市先輩に「いっぱ〜んだんせ〜い。ルパ〜ンさんせぇ〜い」と絡んでいくスーパーに面白い場面を見直したほうがいいと思う。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。いまグーグルプレイミュージックがKYON2の楽曲の中では私が一番好きな『My Sweet Home』を再生したからいまとても良い気分です。『スイートホーム』てドラマの主題歌だったんだよなあ。懐かしき平成の風景。って、そのドラマあんまり観てなかったけど。とおーくでー だーきしめーていーてー ねぇ とおーい そらからー そおーっと みーまもーってー いてー。








2019年4月30日火曜日

ドント・ストップ・ミー・ナウ

 そういうわけで平成最後の日だから世の中の耳目がみんなそっちへ向いているというのに僕はときたら新作を更新しました! なんて喜んでいるのだから、僕の感性がいかに時代と乖離してしまっているかというのがわかろうというものです。とはいえ、僕だって足らない頭脳とセンスと技術をフル回転させて新作を拵えたのだからどうか観ていただきたい。どうぞよろしくお願いします。そうして願わくば、サイトの其処彼処に設置されているグーグルアドセンスのCMをクリックしていただきたい。すると私の手元にチャリンと一円にも満たぬような小銭が加算されるのであり、その辺りをどうかお願いをしたい。あるいはもっと直接的にお金をくれたらいいと思う。右や左の旦那様、哀れなホームページ乞食にお恵みを。

 閑話休題

 そういうわけで当方のツイッターアカウントでうるさいくらいに告知を繰り返しておりますが新作を更新いたしました。
 昨年暮れに公開しました『グランドール城にて』第一話の後編でございます。
 前編の公開から早くも四ヶ月が経ってしまい、前編の内容など覚えておりませんでしょうが、すごく計算された緻密なシチュエーションコメディ(当社比)ですので、お手数ですが前編からご覧いただきますれば、きっと面白いものを観たという感想を抱いていただけるものと確信しております。面倒くさいの嫌! という方には前編のあらすじもご用意しておりますのでご覧いただければ幸いです。
 前編で王様がついたとんでもない嘘を、王家の人々とその周辺の人々が尻拭いをするために奔走するというドタバタぶりをお楽しみいただければ幸いです。
 自分で云うのもなんだけど、割と得意なタイプのお話なので作ってて楽しかったですよ。古い話で恐縮ですが、十年以上前に僕が作った『マジデカ』とか憶えている方がいらしたら、あんな感じのテイストです。あの要素をもっと膨らませてあるので、相当に面白いと思いますですよ。
 『フォルティ・タワーズ』とかレイ・クーニーの戯曲が好きなので、積み上げた伏線があとでギャグとして破裂するようなものを志向して作っています。
 まあ、騙されたと思って一度ご覧になってくださいな。まじ面白いから。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。自分は断然平成に生きた時間の方が長いのだけれど、どうにも昭和の方が印象に深いのはやっぱり子供時代が丸々昭和だったからなのかなあ。きっとそうなんだろうなあ。してみると、今の高校生なんかも、令和三十年くらいになる頃には、令和の方が長い時間を生きたとしても、平成の方に思い入れができるのかもしれませんや。時間の感覚って本当に不思議ですなあ。







2019年4月28日日曜日

人間はカンガルーの足である

 平成が令和に変わるからといって別段自分の生活には変わるところはないよねー。なんて恬然と構えていたのだが、やはり元号が変わるというのはどこか、無意識のレヴェルで人々の生活に影響を及ぼすようで、自分の身の回りにおいても、これはもうずっと変わらぬのだろうなあと諦めていたことに変化の兆しが現れてきたり、将又、これは変わって欲しくないなあと思っていたことがパッと変わってしまって大いに狼狽する、なんてことが其処彼処で起こっていて、本当に不思議な気分になります。
 そこまで考えて、はて、昭和が平成になった時には身の回りにどんな変化があったかしらん。と、思い出そうとしたのですが如何せんもう三十年も昔の話ですからとんと思い出せません。あれは平成初期の話と思っていたことが、よくよく調べてみたら昭和五十四年くらいのことだったりして、もうめちゃくちゃです。
 ならば、ミレニアムと騒いだ、世紀が一つ繰り上がる時にはどうだったかと思い出してみますが、やはりこれももう十九年も前の話なのでとんと思い出せません。うんうん記憶を振り絞っても、当時加入していた小田急ケーブルテレビがいわゆるY2K問題に引っかかって元日早々映らなくなったことぐらいしか記憶にありません。今はシネスイッチ銀座の1だか2だかになってる銀座文化劇場で『2001年宇宙の旅』を観たのは九〇年代の後半だったはずでミレニアムと関係なかったしなあ。

 閑話休題

 と、そんな塩梅で、あと五年もしたらいま感じている、元号が変わるのに合わせていろんな身の回りの状況が動いている気がするなんてことも、すっかり忘れてしまうのだろうなあ。もちろん、個々の出来事は忘れないんだろうけど、それが改元とセットで記憶されることはないんだろうなあ。人間は忘れてしまう生き物なのですなあ。

 閑話休題

 そういえば井上ひさし氏の長編小説『吉里吉里人』の中に、見たもの聞いたものを全て忘れることができない人が出てきて、面白かったなああれ。忘れられないってのも辛いもんだと読んでて思ったっけ。あれ、あの人が出てきたのは『吉里吉里人』じゃなかったっけ。って、もう忘れちゃったよ。人間は忘れしまう生き物なのですなあ。

 閑話休題

 自分にとっての平成は、その始まりがちょうど社会に出る年齢とほぼ合致しているからまあいろんなことがあった。右も左もわからぬままに右往左往していた時期があり、なんだか全てが嫌になって社会的には引きこもりみたいなことになってみたり、そうかと思ったらあれ俺もしかして行けんじゃね? みたいな、浮かれた時期があり、そうして浮かれていたらどすんと落とされるようなこともあり、そうかと思えばもう俺の人生はほとんど終わったようなもんだなあと思うようなこともあって。それでもまだ結構楽しく生きてるんだから大したもの……って、まあこんなことは平成と区切らなくっても、人間の一生の中で普通に起こることで(なにしろ十七歳から四十八歳までの期間のことなのだから!)、それをば、改元されるという世の中のムード、空気に飲み込まれるようにして、恰も、自らの人生を平成という時代に投影しようとついしてしまうものだが、人生と元号なんて基本的には関係ないのであって、ならば何故、人はそんなことをしてしまうのかというと、やはり自分の人生を少しでもドラマチックに思いたいがためなんだろうなあと思った。

 閑話休題

 平成生まれの人には多分、元号と自分の人生を重ね合わせて考えるような感慨は今の所はないんだろうと思う。平成生まれの皆さんの人生はまだまだ午前中だものね。けれども、そんな平成生まれの皆さんとて、令和が終わる頃にはそんな気分になってると思うよきっと。

 閑話休題

 まあ人生の収支決算をすれば、やっぱりマイナスになるんだろうなあ僕の平成は。

 閑話休題

 でもほんと、なんで改元をゴールデンウィークに合わせたんでしょうね。発表を正月にして新年度から令和にすればうんとわかりやすかったのにねぇ。三ヶ月あれば随分準備にも余裕ができただろうにねぇ。10連休に対して諸手を挙げて賛同している大人を政治家以外に見た試しがないよ。

 閑話休題

 ああそうそう。近頃はとんと映画館に足を運ばなくなっているから今頃になって『ボヘミアン・ラプソディ』を観たのだけれど、いやあ、面白かったなあ。クイーンについては直撃世代じゃないし、個人的にも洋楽にほとんど興味がなかったから詳しくは知らなかったんだけど、そんな私みたいなライト層が観るのに最適な、オーソドックスな伝記映画の作りになっていて、ラストのライブエイドの場面など、もう、うわあ! と、言葉にならない感激に襲われるように、全く見事に作ってあって大に感心した。爾来、クイーンの曲ばかり聴いているという全くもってミーちゃんハーちゃんな感じで日々を過ごしております。加えて、クイーン直撃世代ではなくとも、フレディ・マーキュリーが死んだ後、日本のテレビコマーシャルその他で盛んにクイーンの曲が使われたのを体験した世代ではあるから、クイーンの曲そのものには耳馴染みがあったし。

 閑話休題

 しかしあれだなあ、たとい洋楽に疎かった私でも、ライブエイドのことはよーく記憶しているから、どこか、あの頃の時代を追体験するような気持ちで画面を観ていたのだけれど、考えてみたらライブエイドが開催されたのは今から三十四年も前の話で、してみると、いまの三十代の皆さんの目には、歴史上の出来事として映っているんだろうなあと思ったりなんかした。

 閑話休題

 平成が終わるいま観る『おしん』の物凄さ。でも今の時代にあのテイストを取り入れた新作を作ったらすごい駄作になるんだろうな。

 閑話休題

 『なつぞら』の方が『いだてん』より視聴率がいいという時点で視聴率なんて信用しちゃダメだってわかりそうなもんだろうに。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。相変わらず我がベイスターズは負け続けているわけですが、いやそれにしてもすごいなあ、ここまでホームランでしか点を取れないチームというのはかつて見たことがないよ。それでも今日も明日もホームランを期待する野球を目指すんだろうなあ。そら宮崎が額面通りに打ってればまた違ったんだろうけど、とはいえ、幾ら何でもなあ。ラミレス意固地になるからなあ。あれだけやりたがってた守備の大胆なシフトもやらなくなっちゃったし。ラミちゃんもう気持ち切れちゃったかなあ。でもここから優勝したらすごいけど、まあ無理だろうなあ。今年は今永が球界を代表する投手になることと、神里が一番打者に定着するのを楽しみにしてるけどね。この二つが真に達成されたらチームの形がはっきりしてくるよきっと。あと、大和と柴田で二遊間を固定すると野球がすごく落ち着いてくると思うけどね。セカンドが下手だとショートも割りを食うよ。二遊間が低レベルだと守備全体が割りを食うよ。





2019年4月19日金曜日

秘せずは花なるべからず

 あれ。また『十億アクセスの彼方に』がまとめサイトやツイッターでちょっと触れられてるや。もう終わった作品だと思ってたらそうでもなかったのかな。まあなんにせよありがたいありがたい。あれ作ったの2004年の秋だもんなあ。まだインターネットの情報誌が本屋で売ってた頃だよ。ヤフーBBマガジンとか。まだ街中でADSLのモデム配ってた頃かなあ。2004年だともう配ってなかったかな。いずれにせよ、いまのネットを近世としたら当時のネットは中世の時代というくらいに違っちゃってるね。

 閑話休題

 たといば僕は、朝はんや小腹が空いた時などにフジパンのスナックサンドを購入し、うまうまと食することがある。その度に、僕は、ここに、世の中に対する密やかな怒りが込められていると感じる。
 フジパンのスナックサンドの封入袋、そのおもて面には『元祖 Since1975』とロゴがあしらわれ、その裏面には、このタイプの惣菜パンはスナックサンドが元祖である、といった文言が記載されている。これはやはり世の中に対する密やかな怒りの表明なのだと僕は思う。
 当節、ああした、おにぎり的なサンドウィッチといえば? と問われたときに、世の中の大半の人々は「そりゃあんた山崎のランチパックに決まってるでしょうが」と云うだろう。
 フジパンの立場に立ってみればこれは悔しかろう思う。まじむかつくと思う。超MMと思う。そもそもランチパックなんか自分らのをパクっただけじゃないか。それをなんだ世の中の連中ときたら。大量のテレビCMに簡単に扇動されて、ランチパックの方が本物でスナックサンドの方をパチモンみたいに云いやがって。元祖はこっちだぞ。ざけんな。といった世の中に対する怒りわーと叫んでアピールしたいだろうと思う。
 しかしフジパンはそれをしない。外袋に、わかる人だけがわかればいいみたいな感じで密やかに、品良く、自分の主張を表明するのみで済ませる。そんなフジパンの行動とその奥にある心根の程を思うたびに僕は覚えず涙を落とす。
 もちろん涙を落とすと云うのは全くの嘘なのだが、それでも僕は、スーパーやコンビニでスナックサンドとランチパックが併売されていたら迷わずスナックサンドを手に取り、元祖であることを表明している外袋のロゴと文言に目を通し、わかるわかるわかるよ。フジパン君の気持ち、よぉくわかっとる。わかっとるよぉ、と植木等の声音で思ってからレジに持って行き購入する。そうしてフジパンに共感・共鳴しつつ、うまうまとスナックサンドを食する。これこそが元祖なのだというフジパンの思いを胸に抱いて。

 閑話休題

 ただ、ランチパックの方がいろんなコラボとかしてて展開が派手だからつい買っちゃう時があってその時はごめんフジパン、と心の中な謝りながらランチバックを買って食べる。あとデイリーヤマザキが割りと好きなのでそこに行った時とか。

 閑話休題

 うわなんだよ、ダ・ゾーンはカープの主催ゲームも配信しないんだ。スワローズといい、ほんとセリーグってダメだよなあ。セリーグがダメなのか、それともフジテレビや広島のテレビ局がダメなのか知らないけど、なにやってんだかなあ。二十一世紀が始まってからもうじき二十年になるし、平成だってもう終わっちゃうのになあ。

 閑話休題

 四月というのはその時期にしか見られない風景が見られるから面白い。
 たといばこの時期、規模が大きめの郵便局に行くと、窓口カウンターの奥に「研修中」と書かれた名札を胸に下げた新人ちゃんが真剣な表情で先輩局員の仕事ぶりを、メモを取りつつ観察していたりして、見ていてなんとも微笑ましいような気持ちになる。
 この時期にしか見られない風物詩として僕はこれを桜の花と同じように捉えていて、だからできたら花見ならぬ新人局員見を開催、郵便局の待合に毛氈という名の茣蓙を敷いてそこに車座になって座り、新人局員が明らかに場慣れしていないとわかるウブな行動をするたびに春ですなあ、なんて楽しげに喜び、お茶けを飲んでお茶か盛り、卵焼きの尻尾ンところをポリポリかじったりとかしたいと痛切に思っている。
 なんて人に話したりしたら基地外と思われるのが関の山なのでなるべく人に話したりしないようにして、通常の人みたくして郵便局の待合で順番を待っている。

 閑話休題

 もちろんそうして大人しく待合にいても頭ン中では新人局員見をやってるわけだけれど、そんなもん頭ン中でやるだけなら誰にも怒られないし警察にも逮捕されないしネ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ああそういえば談志家元の最後の高座、新百合ヶ丘での落語会、トリで『長屋の花見』をやったんだよなあ。一席演ってこれで今日は終わり……と思ったらそのまま『蜘蛛駕籠』を続けて演ったんだ。胸にピンマイクがついた状態で咳き込みながら、云えば息も絶え絶えの高座だったけど、やっぱり面白くって、こうして続けて二席も演るんだからまだまだ家元の落語を聴く機会はあるはずだよなあ、と思いながら帰ったのを憶えてる。あれが最後になるとは夢にも思わなかった。あれからもう八年が経っちゃったよ。


2019年4月7日日曜日

老兵は死なず、ただ消え去るのみだよねー。

 うららかな春の日曜日だがそんなことは知ったことか。私はプロ野球を観なければならない。野球場に行けないのであれば配信や放送で観なければならない。観ないと死ぬ。そういう呪いにかかっているから今日も今日とて私は日本プロ野球を、今日は珍しく地上波民放で放送していたからそのチャンネルで視聴したのであった。
 そうしていま、ファンを自認してから三十七年目となった我がベイスターズの完璧なゲーム運びによる勝利、その余韻に浸っているのだが、いやー、しかし、これまでに幾度も思っていることだけども、改めて、地上波民放でのプロ野球中継はもう完全に無理だと思った。
 とにかくコマーシャルがウザいことこの上ない。昔とはその分量自体は変わらないのかもしれないが、有料放送CSでの完全中継が始まってからおよそ二十年、インターネット配信による完全中継が始まって三、四年、コマーシャルが全く入らない又は極めて少ない分量のコマーシャルしか入らないスタイルでの観戦視聴が身についてしまった為に、隙あらばコマーシャルを入れようとする地上波民放での放送を観ていると腹立たしいことこの上ない。
 かてて加えて、ここ十年ほどのプロ野球は全体的なスピードアップが図られ、球場内での音楽やチアダンスなどの演出がふんだんに取り入れられるようになったから、嘗ては球場の空気が止まり途切れていた、イニングチェンジや選手交代の場面でも空気が途切れることがなくなっている。だのに地上波民放の放送ではその途切れない空気をぶった切るようにして大量のコマーシャルが挿入される(しかも次のイニングの一球目が投じられる直前まで挿入されるのだから!)。しかもそれはYouTubeのようにスキップすることができない。とにかくテレビの前で不必要に待たされてイライラが募るだけの時間になっている。
 ほんとうに、いま、テレビを一所懸命に観ている人って、どういう人たちなんだろうなあ。インターネットが当たり前の時代に育った若者ならば、もうテレビをまともに観ることはないんじゃないかなあ。テレビっ子の最後の世代としてテレビばかり観て育った私ですら、いま、テレビを観る必要をほとんど感じてないんだから。

 閑話休題

 正確を記すれば地上波民放のキーステーションでの放送がもう無理ってことになるのかな。ローカルのtvkはコマーシャルが入っても全然ひどく感じないものね。

 閑話休題

 石野卓球氏のツイートを取り上げた『バイキング』なんてもう完全にダメだったものね。すっかり時代に遅れてしまったテレビの論理で事態を伝えようとするから、なんともトン吉チン平カン太な空間になってたものね。

 閑話休題

 まあ、SNS時代を生きるあなた方がそこへ繋がらずには居られないのと同じように、テレビを見ずには居られない時代があったということですな。そうしてその時代は疾うに終わってしまっているということですな。

 閑話休題

 話は変わるけど、でも、そんなに世の中の人ってピエール瀧氏がコカインを常用していたことに憤っているのかしらん。法を犯したことについては裁きを受けて刑に服するべきとは思うけど、そこさえクリアすれば別になんの問題もないことだと思うんだけど違うのかなあ。

 閑話休題

 そういえばビートたけし師が講談社に殴り込んだ事件、その直後の会見で「子供達への影響についてはどう考えるか」みたいな質問を記者から受けた時に「それは親が”あれは悪いことだ”と説明すればいい。それでわかんないようなガキはバカだからしょうがない」みたいな答えをしていたと記憶するけれども、要はそういうことだよなあ。

 閑話休題

 ほんとにもう、うるさかったですね、選挙カー。地方選挙だからなんかもう、とんでもない細い道まで這入り込んできてわあわあがなり立てていて。静かにしてたら票を入れてやるから黙れ、と怒鳴りたくなったよまじで。そうかといって、選挙カーを使わず自転車に幟を立てて選挙運動をしているのも、これも見ていて、選挙カーが煩瑣いという市民の気持ちを見透かしてやってます感が強く横溢していて腹が立つ。どいつもこいつも耳障りのいいことばっかり云ってやがって。せっかく無闇にでかい音を出して怒られない二週間なんだからなんか面白いこと云えっつーんだよ。永六輔のラジオみたいなこと云えっつーの。

 閑話休題

 こういう選挙の日に『いだてん』を放送したら逆に視聴率上がるんじゃないのかしらん。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。どなたかのツイートで気づいたのだけれど今年の四月五日って拙作『十億アクセスの彼方に』のラストシーンの日付だったんだね。あの作品の主人公は「みずき」というのだけれど、公開直前までは「かえで」にしてたんだよね。ところが公開直前になって、そのお名前の女児が被害者になったひどい事件が起こって慌てて変えたんだ。それと作中に出てくる父親の友達の「TOMOYO」さんが最後に死んじゃうのは、あの頃、ネットユーザーの中心層って大学生をはじめとする二十歳そこそこの人たちだったから、あの頃のネットからは死や病の存在がほとんど感じられなかったんだよね。でもあと十五年もしたらこいつらだってそういう話題を取り上げるようになるんだろうと思って入れたんだった。あと、本当は最後にドーンと笑えるような落ちをつけようと思って、あそこまで笑いと逆方向に引っ張ったんだけど、引っ張りすぎて何にも思いつかなくて、もう面倒臭くなっていいやっ、と思ってアップしちゃったんだ。やっぱり笑いの方が作るの難しいよ。いずれにせよもうあの作品は名実ともに現役ではなくなったんだろうね。まあ、あれが望外にウケたことで、まあ少しは胸を張ってもいいのかな、という気持ちになれたから有り難いっちゃあ有り難い。しかし、みずき、今頃どうしてんのかね。あのまま相当痛いアラサーになってるかな。それともささやかなりとも幸せを掴んでるかな。
 (追記)ああ間違えた。作品が終わる時点で中学生なんだった。さて彼女はこれからどんな人生を歩むのかねぇ。


2019年4月5日金曜日

グローイング・ダウン

 荒んだ心を抱えたまま生きていくのがやはり大人なのだと僕は思う。それでも人の前ではにっこり笑って機嫌よく過ごすのが大人なのだと僕は思う。だから僕は今日も人の前ではにっこり笑ってジョークの一つも云い、荒んだ心をひた隠しにして暮らす。
 だから、たといグーグルから「貴様のブログの、ようなもの、など数多のユーザーにとってなんらの利益ももたらすものではないから、我らがグーグルアドセンスの広告を表示すること、罷りならん」と一刀両断にされたとて、あるいは、プロ野球をぐんぐんに観るために契約しているダ・ゾーンの挙動が、この四月に入った途端におかしくなり、登録したメールアドレスが「そんなメールアドレス知らんもんねー」と撥ねられ、だからマイアカウントの確認ができず、さらには勝手にログアウトしてしまったFireTVのダ・ゾーンアプリにログインすることもできずテレビ画面でプロ野球をぐんぐんに観ることが叶わなくなり、その旨を問い合わせるメールをダ・ゾーンのサイトから送ったところ、もう四日も音沙汰がなくて困り果てていたとしても、僕は、僕は僕は僕は大人だから、怒りに荒んだ心をひた隠しにして、人前ではにっこり笑って機嫌よく過ごしている。だって僕は大人だから。そうするのが大人だから。
 だから、今月に入ってから僕は、憂歌団が歌唱するところの名曲『嫌んなった』を繰り返し聴きながら、その歌詞が語るように腐るのはやめて、いつか陽の目を見るはずだこの俺だって、と思いながら日を暮らしているが本当は暴れ出したいほどマジ頭にきている。心がマジで荒んでいる。
 どいつもこいつも馬鹿にしやがって。俺をかろく取り扱いやがって。俺が大人だと思ったら大間違いだぞこの馬鹿野郎どもが。いまに目に物見せてやる。俺は小供だぞ。未だにお子様ランチ食って旗集めてンだぞ。覚えてやがれこんちくしょう。

 閑話休題

 さっきラジオを聴いていたら高田文夫先生が「ゴーンが入るとピエールが出てくるんだろ」と云っているのを聴いて大笑いした。こういういい加減なことを云って大いに人を楽しませるそんな人になりたいと小学生の時分からずっと念願しているがまだ果たせない。

 閑話休題

 3.11の直後も、永六輔大人と高田文夫先生が一番初めに「笑っていいんだよ」って放送で示してくれたんだよな。高田文夫先生など自分の番組に出てきたサンドウィッチマンをさんざ笑わせて、伊達みきお師をして「この一週間で一番笑った」と云わせたものね。あれは聴いていて笑いながらジーンと来た。

 閑話休題

 筒香嘉智選手が高校野球をはじめとするアマチュア野球の問題点を指摘する会見をしてから随分な時間が経つけれども、今のところなにひとつ変わることなくアマチュア野球界は動いていき、春のセンバツも終わってしまった。ほんと、既得権益ってすごいですね。そら、活躍する選手たちに一切の賃金・ギャランティを支払うことなくあれだけの視聴率、ニュースバリューを獲得できるのだから、それに関係する人々は誰だって高校野球を改革しようなんて思いませんわね。汗と泥にまみれた高校球児の姿が減ずるようなことを進んでするわけがありませんわね。

 閑話休題

 高校生だから高校野球は純粋、とか云う人が未だにあって頭が痛くなる。プロの方が、それを生業として飯を喰ってるんだからそっちの方が野球に対して純粋に決まってるじゃんか。高校野球なんて所詮やってるの高校生じゃん。あいつら勉強の片手間に野球やってるんだろうよ。というか、高校生の部活動なんだから勉強の片手間でやらなくちゃダメだろう本来は。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。どうすか、ここまで読んでみて、やっぱり多くのユーザーにとって価値のないコンテンツっすかねここは。まあ、強がりでいうのじゃないけれど、多くの人にとって価値なんかない方がうんといいけどね。馬鹿な百万人が集まるより、物が分かる二十人に集まってもらう方がよっぽど嬉しいからね。それではまたよろしくどうぞ。



2019年4月3日水曜日

三十年のご無沙汰でした。



 閑話休題

 思い出してみれば昭和六三年の晩秋から昭和天皇のご容態について、テレビのニュースなどで毎日報道されていたのを見ていた記憶がある。体温が何度で体調はどんな塩梅で、といったことが連日宮内庁から発表され、各メディアがそれを逐一報道していたのを見聞きしていた記憶がある。
 年が明けて昭和六四年が始まり一週間が経った一月七日に昭和天皇は御隠れになった。その日からだったかあくる日からだったか、テレビ放送は通常の放送を取りやめ、各局横並びで昭和と昭和天皇の歴史みたいな映像を四十八時間くらいぶっ通しで放送していた。その特別編成が終わるとき、フジテレビを見ていたら露木茂アナウンサーが、昭和天皇の崩御から特別編成の放送をした旨を伝えていたのを憶えている。
 テレビがそんな塩梅だから各地のレンタルビデオショップは大繁盛で、やはりテレビのニュースで、レンタルビデオショップの店長というおっさんが「忙しいのにアルバイトはみんなスキーに行っちゃっていない」と嘆き節を云っていたのを憶えている。あの頃まだ蔦屋はそれほど世の中で伸していなかった。だからレコードを借りるのは断然、友&愛。あゝ懐かしきバブルの風景。
 御隠れになった日から三日間、ほとんどの興行が自粛の意味から中止になり(映画館がどうだったかは憶えていない)、後楽園ホールの入り口で黒のスーツを着たアントニオ猪木が、そうとは知らずに来場したファンに中止を詫びていたのを週刊プロレスで読んだ記憶がある。そういう私は一月十日、日本武道館へやはりプロレスのUWFの試合を観に行ったのだがこの日から興行の中止は解除されたから普通に開催された。前田日明対高田延彦がメイン・イヴェントで、山崎一夫がトレバー・パワー・クラークと異種格闘技戦を闘った。
 当時の小渕官房長官が「新しい元号は、平成、であります」と云って例の額装された書を披露したのを見たときにはなんとも座りの悪い感じを抱いた。いまよりも遙かに元号で年を数える習慣が染み付いていたから尚のこと違和感を覚えた。
 『ビートたけしのオールナイトニッポン』を聴いていたら「ニュース見てたら小学生のガキが、テレビのレポーターに新しい元号を聞かれて”三学期”って答えてやんの。もう飛んでって殴ってやろうかと思った」とたけし師が云っていて夜中に笑った。
 それから大喪の礼だとか色々あったが日常の暮らしは割と平気に進んでいった。すぐに高校二年の三学期も始まってしまったし。高校三年生に進級する頃には「平成」に一切の違和感を抱かなくなっていた。その頃から元号よりも西暦で年を表す人がぐんと増えた。
 当時から、新しい天皇陛下はそんなに若くないから平成は昭和ほど長く続かないだろうね、なんてなことを皆よく云っていた。実際、昭和の半分以下の期間で終わることになった。それでも当時を思えば平成が三十年も続くとは微塵も想像していなかった。
 ついこの間のことだと思っていた昭和の終わり・平成の始まりから三十年も経ってしまっていたことに結構愕然としている。変わったこともあれば変わらないこともある。

 閑話休題

 昭和が平成になったときよりも平成が令和になった今回の方が万事明るい調子でことが運んでいるように思う。平成に元号が変わるときには昭和天皇の崩御により出来した負の事態の締め括りという印象があったからね。あんまり明るい感じはしなかったし、今回のようなイヴェント感覚はほとんどなかったと思う。どっちがいいかといったら断然今回の方がいいよね。

 閑話休題

 発表の瞬間を報じるNHKの放送を見ていたのだけれど、発表を待ちわびて街に集まる人々の様子が、あれはワイプというのか、画面の隅の小さい枠内に表示されていたのだけれど、そこに、ずーっと、群衆の中にいた、中学生くらいのショートカットの可愛らしいひとりの女の子が、明らかに他とバランスを失した分量で映され続けていたんだが、なんであんなおかしなことをやったんだろうかNHKは。カメラマン変態なんじゃないかと思ったよ。あれ、どう見てもただの一般人の女の子で仕込みじゃなかったよなあ。NHKはこの十年ほど、ニュース報道でも取材現場にいる一番綺麗と思われる女性に必ずインタビューをしているけれども、でもいくらなんでも今回のは変だったよなあ。

 閑話休題

 NHKといえばこの年度替わりのタイミングでアナウンサーの担当番組が適当に入れ替わるのが常だけれど、あれ、如何にも「人事異動」の感じがしてなんかいいよね。上の人の意向が反映されている感じが強くしてていいよね。民放だとそういう感じがないんだよな。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ダ・ゾーンの問い合わせ窓口は問い合わせの送信から丸二日が経ってもなんらの返事も寄越さない為体。しかし視聴するにあたりこの為体に頼らなくちゃいけない令和を生きるプロ野球ファンの辛きこと。平成が始まった頃と比べるとプロ野球が世の中に占める割合は掛け値無しに十分の一に減じたね。まあそのぶん、本当に好きな人だけが集まる空間にはなったけど。牧野真莉愛ちゃんみたいなマニアックな野球ファンのアイドルなんていなかったもんねぇ。

2019年3月31日日曜日

十年一日千秋

 どうもこんにちは。おはようございます。こんばんは。そういうわけで三月も到頭晦日を迎えてしまい、桜もいろんなところで満開を迎え、愈愈平成三十年度も終わりを迎えるのであります。そういや平成も終わるんだってね。
 そんな良き日、平穏なる春の只中である日曜日、だというのに朝から僕はウェブ日記を書いています。そうです僕はいまも、あの頃のあなた方がそうだったように、未だに自分のホームページを運営しています。あの頃から何も進歩していません。十年一日とはこのこと、あの頃から変わったことといえば歳をとり、うんと体力がなくなったことと、日本語の入力方法がローマ字入力から親指シフトに変わったことくらいでしょうか。あとは何にも変わりません。あの頃から既に頭は禿げてしまっていましたしネ。
 そうなのです。僕は平成がまだ十年代だった頃から、ずっとホームページを作っているのです。人間関係を脇に置いてホームページ作りにうつつを抜かしていましたから、人間関係も極めて薄くなってしまいました。お金にはちっともなりません。そうして振り返ってみると人生を随分浪費してしまったような気がして、我が事ながら愕然となります。が、まあこれもひとつの人生ということなのでしょう。電気グルーヴの前身なのでしょう。諦めと思考停止が上手に出来れば人生は随分楽になります。それがうまく出来ないので困っているんですがね。でもまあそこそこ面白いからいいや。

 閑話休題

 イチローが引退会見で妻たる弓子氏について「ホームゲームの時には毎朝おにぎりを握ってくれていた。その数が総計で二千六百個ぐらいのところで引退になってしまい、三千個まで到達したかったと云っていた。実現させてあげたかった」みたようなことを云っていたのだが、それに対してネット上で「妻に対するモラハラである」みたいな意見を表明しているトン吉チン平カン太な人がいて、しかもその発言にいいね!ボタンを押すようなくるくるぱぁみたいな人がたくさんいるということで、なんかもう、こういう連中はどこか、我々一般の人間の目に触れないところに隔離した方がいいと強く思う。
 ネットの辺境というか、特別なSNSを作ってそこにこういう手合いを全員集めて、好き放題なことを云わせて過ごさせればいいんだと強く思った。そうして我々の目には触れさせないようにした方がいいと思った。ネット上の阿片窟みたいなところに押し込めてしまった方がいいと激しく思った。
 ほんと、こういう手合いが伸び伸びと物を云っている姿を見るにつけ、こんな世界ができあがるために何十年も前からパソコンやネットに付き合ってきたんじゃねぇぞこんちくしょう。という気分になる。

 閑話休題

 someone to watch over me.

 閑話休題

 なんというか、ネットサーフィンをしていると、時たま、未だにフォントいじりをやっているブログを見つけることがあって、その度に、いやあ、面白いなあ。すごいなあ。『侍魂』が流行ったのって何時のことだよ。みたいなことを思って心嬉しくなる。ファッションみたいにリバイバルの面白さとは全然違うしね。

 閑話休題

 思えばあの頃からフォントいじりが嫌いだったよ。面白いことを云うときに声が大きくなる人の無残な感じ、いま私は面白いことを云ってるんですよー! と全身から発信するあの無残な感じ、ダメなテレビ番組の五月蝿すぎるテロップの感じ、などと同様の気がしてほんと嫌いだった。あの頃、そうしたフォントいじりが読み手にウケていると知ったときには本当にイライラしたものだったよ。

 閑話休題

 森繁や渥美清の捨て台詞みたいに面白いことほど普通の感じで云うのがいいと思うけどね。

 閑話休題

 同じリズム、テンポで続けるというのはとてもすごいことで、先般最終回を迎えた朝ドラ『まんぷく』などはまさにそうで、私はここで以前、朝ドラの枠を超える突き抜ける瞬間がなかったことに少し不満を感じる、なんてなことを書いたのだけれど、件の最終回を視聴して、いや、そうではない。これはすごいことなのだ。予定調和を完璧にやり遂げるとそれは横綱相撲になるのだ。と思って大いに感心したのだった。

 閑話休題

 で、私は『まんぷく』は通常BSで朝の七時半から視聴していたのだけれど、BSの時間割ではその直前である朝七時十五分から以前の朝ドラを再放送している。今期はそれが『ぺっぴんさん』であり、本放送の時には観ていなかったからいい機会だと思って観ていた。
 埼玉県出身の菅野美穂が関西弁のイントネーションでナレーションを務めている時点で、このドラマ結構やばいんじゃないかと思って観ていたのだが、後半になるにつれ、そのやばさは倍加していって、最終的にはものすごく面白いものになった。というか、なってしまっていた。
 このドラマは戦前から高度経済成長時代が終わるまでの長い時代を描いているのだが、役者の入れ替わりが基本的にない。メインキャストのほとんどは二十代前半から半ばの皆さんで、その皆さんが十代から七十代まで演じるから、ドラマの中で時代が進むにつれて画面の中がとんでもないことになってくる。
 結果として見るからの若者が安っぽい老けメイクと老け芝居で老人役を演ずることになり、画面の絵柄だけを見るとほとんどコントになってしまうんである。画面の中に三世代が同居する場面など、画面の中に小供ばかりが集まって家族の問題を話し合っているようにしか見えず、結果的にすごく面白い画面になる。
 こういう意図しない面白さっていうのは何者にも代えがたいネ。

 閑話休題

 『カーネーション』で主役が尾野真千子嬢から夏木マリに変わったのもこれを避けるためだったんだろうなと改めて思った。ただ、オノマチの巧さならたとい百歳の役でも説得力を持たせられただろうけどネ。

 閑話休題

 四月一日からBSで『おしん』の再放送ですってよ奥さん!

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。愛用のグーグルプレイミュージックにチャラン・ポ・ランタンの新アルバム『ドロン・ド・ロンド』が入ったのでそればかり聴いていますよ。チャラン・ポ・ランタンはほんと聴いていると愉快な気分になるン。








2019年3月29日金曜日

Think Different.は遠くになりにけり

 しかし今年はなんという年なんだろうか。まだ今年が始まってから三月しか経たぬというのにピエール瀧氏は逮捕されるしショーケンは死んでしまうし森昌子氏は辞めると云い出すしイチロー選手は引退してしまうし獣神サンダー・ライガー選手も来年には辞めるというし市原悦子氏も死んでしまうしザ・デストロイヤー選手も死んでしまうし和久田麻由子アナは結婚してしまっていたというし『荒川強啓デイ・キャッチ』も終わってしまうというしAppleはこの数年のあいだ新しいイノベーションを全く起こせていないのに動画サービスだとか定額制のゲームコンテンツだとかそんなことにうつつを抜かしているしああなんかもういろんなことが起こりすぎてわけがわからない。これが時代が変わるということなんだろうか。時代の変わり目ということなんだろうか。元号が変わるなんてことは、まあそれはそれで大変なことだけれども、人の生き死ににそれが直接関わりがあるとは思えない、が、これだけ重なるとやはりどこかに連携連帯があるように思われてならん。時代の空気を感じ、それに合わせる形で人々が行動を変えてしまうような機能が社会や人間の深層にあるような気がしてならない。いやあ、にしても時代が変わるってすごいことだよまじで。それまであったこと、それまでいた人々、それまであった価値観をずずずと、過去のものとして一気に押し流してしまうんだから。

 閑話休題

 なるほどそう考えると、昔の日本人が「この度は飢饉とかあったから、いっちょ元号を変じて世の中の気分を変えてこましたろ」的な感じで元号を変えていたというのもわからんでもないね。

 閑話休題

 上の上の項でちらと書いたけど、ほんと最近のAppleってまじつまらないですね。iPadを出したのを最後に、Appleが新しいイノベーションを起こしたってほとんどないんじゃないよね。強いて云えばAirPodsぐらいじゃないかしらん、これがあることで人々の生活の一部が変わってしまう、と云える製品は。Apple Watchったってなあ、あれはちょっと大仰すぎるし、スマホの機能を腕時計に納めているだけで、あれを持つことで生活の一部が変わってしまい、それまでの価値観を時代遅れのものとして押し流してしまうというものではないよね。Apple Watchが真に新機軸だとしたら、それによってスマホがある程度駆逐されていなくてはならんはず。ところがApple Watchは腕時計にスマホの機能みたようなものを追加しただけで、スマホは疎か既存の腕時計を駆逐することすらできていない。

 閑話休題

 Macが本質的に世に現れたことでコマンド打ち込み型のPCインタフェイスが、時間はかかったが駆逐された。最初のiMacが現れたことでベージュ色のPCが家庭から駆逐され、ケーブルの接続もUSB中心となりそれ以前のSCSIなどが駆逐された。iTunesが登場したことにより音楽はデータとして取り扱うようになりCDなど録音メディアが駆逐された。iPodが現れたことで何枚ものCDを持ち歩く行為が駆逐された。Mac OS Xが現れたことでPCのオフはスリープが前提となり頻繁な主電源の操作が駆逐された。iPhoneが現れたことで人間がインターネットに常時接続するようになった。iTunes Storeが現れたことで、CDを購入するという行為が駆逐された。App Storeが現れたことでソフトウェアに対価を支払うことから”勿体ない”という感覚が駆逐された。Appleが成し遂げたイノベーションは此処まで。おそらく、それまでの生活を変えてしまうような革新・新機軸はAppleからは生まれないだろうと思う。理由はないけどそんな気がする。革新的だったAppleはもう歴史の中のことになった気がする。革新を生み出す存在としての役割を終えたということなんだろうと思う。

 閑話休題

 iPhoneがあるのはもう生活の中では当たり前のことで、いまそれを手にすることで、高級感は得られるだろうが生活の一部分が革新されることはない。だがアマゾンエコーを導入することによって生活の一部が確実に変わった。Netflixに加入することでテレビ放送を視聴するという行為の大半が駆逐された。こういう革新はもうAppleからは生まれないだろうと思う。これからAppleが生み出せるのは既存の製品・サービスをAppleの文脈に合わせて作り直し「この製品・サービスはAppleの手によって完成された」との印象を与えることだけ。そうして、その製品・サービスに於けるスタンダードの地位を他所から奪い取るだけ。そこに革新はない。

 閑話休題

 いまみんなiPhoneを持ってるけど、みんなが持ってるってことは、どんな馬鹿でも持っているってことだからね。

 閑話休題

 同様にみんなが観てるものってのも、どんな馬鹿でも理解できるっていうことだからね。

 閑話休題

 つまりあれなんだよな、私にとってのAppleっていうのは、iPhone・iPadを出すまでのApple以外の何物でもないんだよな。いま、Apple Storeに大挙してやってくるような洒落乙な人々が絶対に興味を抱かなかった頃のマニアックでファナティックだったApple。ところがいまや、かつてのAppleには絶対に興味を抱かなかったような人々ばかりが、いまAppleを唯一無二の存在として有難がり、各地のApple Storeに日々参集している。

 閑話休題

 てなことを、極めて洒落乙な人たちが極めて洒落乙な感じで集っている極めて洒落乙な表参道の極めて洒落乙なApple Storeの店内で思いましたとさ。

 閑話休題

 お。ほほほ。今日は結構真面目な感じで書いてるねぇ。まあ、面白くはないのかもしれないけど。つーかいつも面白くないのか私の書くものなんて。まあいいや。そういえば昔、立川談志家元が「客から面白くないといわれたときに”プログラムのどこに面白いと書いてある”と云い返した」とまくらでよく云っていたけど、そんな感じで当意即妙な言葉を云い返せるようになりたいもんですな。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ベイスターズ優勝しねぇかなあ。三位からの下剋上じゃなくてリーグ優勝してくんないかなあ。まだそれを実現するだけの揺るぎないものがチームに出来上がってない感じはするけど、なんかの間違いでもいいから優勝してくんねぇかなあ。前に優勝してからもう二十一年だよ。八十五年にタイガースが優勝したときに二十一年ぶり! って大騒ぎになったけど、あのとき中学生だった自分は、二十一年という年月をリアルに想像することができなくて、なんか長そうだなあ。ぐらいにしか思わなかったけど、この歳になってみると二十一年なんてあっという間、だけどもその間、自分がなにをやってきたかを振り返ってみると、かなりの長さであることもわかって、って、うーんと、とにかく優勝しろやいい加減そろそろ。確率からいえば六年に一遍はリーグ優勝できるはずなのになにやってんだまったく。






2019年3月25日月曜日

センチメンタル・ジャーニーマン(実験その3)

 今年の二月上旬に神田明神に行き、滅多に引かないおみくじを引いたら大吉が出て欣喜雀躍した、てなことは以前このWeb日記で書いたことなのだけれども、あれからひと月半以上が経過したが、いまのところ特に良いことは起こっていない。

 閑話休題
 
 改めておみくじの宣託を読むと、あらゆることに良い言葉が並んでいて、逆に信じられないような心持ちになってきた。願望は必ず叶い失物は必ず出るし、待ち人は意外と早く来るし縁談は男子は引く手あまた迷うべからず、と書いてある。しかし昨年から抱き続けてきたささやかな願望は破れ、失くしたPASMO(三千円くらい入っていた)はいまだに出てこない。仕事でもミスばかりしていて周りの人々から呆れられてばかりいる。待ち人は意外に早く来るというから、街を歩いたり電車に乗っていたりするとき、少しいい感じの女性を見かけると「あれが待ち人なんじゃねぇかな」なんて熱視線を送ってしまうから、目が合った見知らぬ女性から変態を見る目で見られ、このぶんでは早晩警察に通報されるだろう。縁談についても迚も迚も……というレヴェルで一本の引く手すら目の前に現れない。

 閑話休題

 こらまったどういうわけだ、世の中間違っとるぅよ、と植木等大人の声音で思ったりしている弥生三月ももう終わりだ。ふと世間を見渡せばすでにちらほらと桜の花が開き始めていて、ああ、春がやってくる。そうして、これまでがそうだったようになにも起こらないままに春が過ぎてゆく。春は辛い。理由と根拠の無い期待感が季節が春になったというだけで煽られ、そうして煽られるぶんだけ、なにも起こらぬ我が身が余計に辛くなる。

 閑話休題

 辛いついでに思い出す、卒業式の日に誰からも第二ボタンを所望されず辛かった十五歳のあの日。なかなか美形だったTさんから第二ボタンを請求された私と仲良しのRくん、なんだかスカした感じで「ずっと憧れてたんだって」と私に云い放った卒業式のあの日。
 しかしその半年後の秋の日、私の家の近所に住まっていたTさん、見るからのヤンキーが運転する原チャリの後ろに所謂ニケツの状態で乗車するような不良となり果て、ついには下校途中の私の目の前でおまわりさんにヤンキーの彼氏共々補導されておった。思い出すだに心嬉しくなって笑顔になる懐かしきあの日。昭和も終わりに近づいていたあの日。

 閑話休題

 って、なんで私はそんな三十年以上も前の話をしているのだ。これもおみくじのご利益がとんと現れぬせいだ。
 しかしとて、如何なおみくじとて万能ではないのだろう。神の御宣託というのは、けして予言の言葉ではないのだろう。かつてイチロー選手が云ったように「毎日コツコツと同じことを繰り返すこと。それこそがとんでもない高みに到達する唯一の方法」なのだろう。

 閑話休題

 ようし、ならば私だってやってやる。コツコツと同じことを繰り返してとんでもない高みにたどり着いてやろう。果たしてなにをコツコツとやり、どこの高みを目指すのかなんにも決めてないけど、なんでもいいからとにかくやろう。おみくじで大吉を引いたことを後ろ盾に、これを自分に対する応援と解釈してなにかをやろう。
 しかしその前になにをやるのか決めなければならん。果たして、これまで無為・無目的に生きてきた私に、そんな目標めいたものが持てるのだろうか。できるかな。うーん……できねぇだろうなあ。こうしてなにをやろうかと思っているうちに人生が終わってしまうのだろうなあ。

 閑話休題

 振り返ってみれば、幼少の砌から将来の夢とか持ったことがなかったもんなあ。周りの皆がやれプロ野球選手だF1レーサーだ電車の運転手だ大きな会社の社長さんだと云っているのに、私ときたら、早いうちに死ななければそれでいいです。どうせそんなすごいことなんか僕できないし。とか云って幼稚園のにじ組担任・原先生に大層心配されたあの日。もうあの頃からなにも為さない人間として世を暮らすことは決まっていたのかもしれない。おみくじで大吉を引いたご利益を受けられぬことは決まっていたのかもしれない。

 閑話休題

 ああ。本当に春は嫌だ。暖かくなって人々が心嬉しそうに振る舞い始めるのを見るのが本当に嫌だ。希望を信じているような顔で過ごしている充実した人たちを見るのが本当に嫌だ。おみくじを信用できなくなってしまうくらいに春は嫌だ。早く春なんか終わってくれればいい。早く五月病とかで苦しむ人々が現れればいい。浮き立っている世の中に身を置くのがまじ辛い。

 閑話休題

 桜の散り際にいつも思う。散るだけの花を咲かせることができる幸運を思えこのくそったれが、と。こちとら散らすべき花も咲かぬままにただただ枯れていくばかりだ。なんだかわからないままに木の幹が腐っていくばかりだ。なにも出来ぬままにどんどん腐っていく自分を、手を拱いて見ているばかりだ。

 閑話休題

 そんなことを思いながら改めて大吉のおみくじを眺める。「見てのみや人に語らん桜花 手ごとに折りて家づとにせん」そこに書いてある文言を繰り返し読み直す。全く意味がわからない。
 併記された解説文には「花見の話をするのみならず、一枝折って家族の人に土産とすれば家庭円満、その心持ちを忘れなければ幸福な生涯疑い無し」みたいなことが書いてある。
 斯くてようやくこの句の意味を、朧げながらとはいえ諒解したが、しかし生憎私には桜の枝を持って帰るべき家庭がない。桜の枝を見せても喜んでくれる相手がいない。くそう。やっぱり春は嫌いだ。なんにもない我が身を余計に意識させられるからまじ嫌だ。

 閑話休題

 はい、実験はここまで。ご退屈様でした。ああ、自分で読んでも変な文章だねぇ。別に普段の暮らしの中で嫌なことがあるわけじゃないんだけど、というかむしろ、いいこともあったりしてるんだけど、それでもどうも春は好かんのですなあ。

 閑話休題

 あれは青島幸男氏が著した『わかっちゃいるけど ーシャボン玉の頃ー』て本の中に書いてあったと記憶するけど、クレージーキャッツの谷啓大人、春になって人々が浮かれてくるとなぜか気が沈んで、その度にクレージーを辞めると云い出す、というエピソードを読んだ時、自分は高校生だったけど、我が意を得たりというのか、大いなるシンパシーを感じて、以来、クレージーの中で誰が好きって谷啓大人が大好きになった。ま、そのエピソードを抜きにしても、あの屈折しまくった感じは放っておいてもファンになったと思うけどね。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。いつものようになんの推敲もしてませんので読み難くってどうもすみません。あ、あと去年末に発表した『グランドール城にて』の後編はくんくんな感じで作っています。来月の半ばには出せるようにやってますので、完成・発表の暁にはまたよろしくお願いしますね。






2019年3月22日金曜日

おセンチ野郎のお通りだ

 まあそりゃあ科学的にいえば偶然ということになるなんだろうが、やはり時代の変わり目というのはあると思う。そしてそれはまさにいまこの時なんだと思う。元号が変わりピエール瀧が逮捕され来年には東京でオリンピックが開催され横浜スタジアムは改修されて客席の数が増えイチローは引退した。
 繰り返すがこれらが同じようなタイミングで訪れたというのは単なる偶然が積み重なっただけで、そこに、時代の変わり目、なんてことを感じてしまうのは人間のセンチメンタルがそうさせるだけであって、本来そこには何の意味もない。でも、それでもやっぱりこれは時代の変わり目だと思ってしまうのであり、というか思いたい、と、いま私は思っている。だってイチローが引退したんだぜ。
 あのイチローだよ。イチローがプロ野球選手であることをやめちゃったんだぜ。これを時代の変わり目と思わずしてどうするんだよ。イチローが引退するのに、それを単なる一プロ野球選手がいなくなっただけだなんて思って恬然としているなんてできないじゃん。イチローだよ。イチローが辞めたんだよ。イチローがプロ野球の世界からいなくなっちゃったんだよ。もうイチローのプレーが観られないんだよ。イチローだよ。イチローが引退しちゃったんだよ。一つの時代が終わったんだよ。ただの出来事じゃねぇんだよ。イチローが引退しちゃったんだ。

 閑話休題

 プロ野球を真剣に観初めてかれこれもうじき四十年になるから、それなりに記憶に残る瞬間をたくさん記憶しているけれども、いまだにその瞬間を映像としてはっきり記憶している数少ない場面の一つにイチローの打撃練習がある。
 九八年の九月、東京ドームでのファイターズ対ブルーウェーブ戦。イチローが所属していたブルーウェーブはビジターチームだから、早く球場に入ればその打撃練習が観られる、そう思って開場早々にスタンドに着席した。すると果たせるかな、程なくイチローの打撃練習が始まった。
 初めは、稀代の安打製造機たる印象そのままに、フィールドの全方向に、測ったようなライナー性の打球を次々に放つ。さすがはイチローと感心しながら観ていたのだが、圧巻だったのはその後。
 練習の締めくくりという意味合いなのだろう、少しばかり力を入れたスイングをすると、打球はかあん、という乾いた打球音と共に、綺麗な放物線を描いてライトスタンドの一角に吸い込まれていく。それから立て続けに五、六球、全く同じスイングから全く同じ打球音が聞こえ、全く同じ放物線を描いてライトスタンドの全く同じ一角に打球が吸い込まれていく。
 観ていて恐ろしくなった。有り得ないはずの光景をいま目の当たりにしていると思った。いくらプロの頂点にある選手とはいえ、あんなに正確な打球を放てるものかと観ていて震えがきた。これは人間業ではないと思ってまじ怖かった。あの以前もあれ以後も数限りない選手の打撃練習を観たが、あれほど正確無比な打撃を観た記憶はない。
 イチローがメジャーに行って数年が経った頃のこと。何処かのインタビューで「だってバットの芯でボールの下半分を叩けば勝手に飛んでいくでしょう」と事も無げに答えていてまた怖くなった。人間ってどこまでの高みに到達できるんだ。みたいな根源的な疑問が浮かんできて怖くなった。

 閑話休題

 上に挙げたゲームを観に行こうと思った直接の動機は、当時まだ落合博満がファイターズに現役選手として所属していたから、それを観に行こうと思ったんだよな。まだ正式に発表されてはいなかったけれども、落合がそのシーズンを最後に辞めることはみんな解っていたから、スタンドからお別れを云うつもりで観に行った。矢尽き、刀折れた満身創痍の落合と、今を盛りのイチローを並べて見ながら、嘗て落合が座っていたプロ野球最高のバッター、その玉座に現在座っているイチロー、そのコントラストに得も云われぬ感慨を覚えたのを記憶している。あの時も時代が変わるってこういうことなんだろうな、と思ったものだったっけね。あれからもう二十一年、月並みだけど、早いな。すべては一瞬のことだ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。イチローがマリナーズに移籍して一年目に首位打者最多安打盗塁王新人王を取った時には大騒ぎになったものだけれど、正直なところ、なんだよお前らイチローがブルーウェーブにいた頃、最後の何年間かなんてほとんど騒いでなかったじゃんか、球場はいつもガラガラだったじゃないか、評価する言葉すら聞かれなかったじゃんか、当たり前みたいにしてただけじゃんか、と思って腹立たしさを覚えたものだったっけね。あと、パンチョ伊東がイチローがマリナーズに移籍した次の年に亡くなった時、ああパンチョ、イチローがメジャーで大活躍をしたのを最期に見られて良かったな、と思ったなあ。NHK-BSの開局とともにメジャー中継が始まるそれ以前、我々日本のファンはみんなパンチョを介してメジャーを知ったものだったからね。

2019年3月20日水曜日

陽の目を見るかもこの俺だって

 そういうわけでブログの体裁を借りた我がWeb日記をお引越ししたのだった。僕は実生活において引越しの体験が断然少ないのだが、そのぶんインターネット上での引き越しを複数回しているからまあ人並みに引き越しの経験はある方だと思う。なんてなことを仮初にも知り人に向かって言葉として真面目に発したとしたら、そりゃあ気狂と思われるのが関の山だということはモチのロンな感じでわかっている。だって僕は気狂じゃないから。
 現代のように、ネットとリアル社会が完全なる陸続きになり、ネットの動向が世の中を動かすのが当たり前となったとしても「いやあ、僕ちんはネットでサイトやブログを複数回にわたって引き越したことがあるから、実際の引き越しについても結構いけると思うんスよね。引き越しの使える知識を持ってると思うんスよね」なんて云っている輩がいたら、それは誰からも相手にされないだろうと思う。
 そらあその人の周囲にいる人々が大変に優しい人ばかりだったら、柔らかな微笑みを浮かべ(こういう時の笑いを”愛想笑い”というのだそうだ。なんという冷然とした言葉だろう!)仕舞いまで話を聞いてくれるだろうが、話し終わった当人が満足の体ですぃ、と、どこかへ消えていった瞬間から、聞いていた人々は互いの顔を見合わせつつ「やっぱりあの人は気狂ですね」なんて、優しい口調で陰口を云い合うに決まっている。それが人間というものだ。
 つまりはあれだ、経験というのはやはり実際に体験しなければなんにもならないということだ。実際にその場に身を投じ、額に汗して実地に体験をしなければダメだということだ。それは例えるならばあの頃、人の三倍もせんずりをかいていた二十歳且つ未だ童貞だった僕よりも、興味本位でたった一回セックスをしてしまった近所の中学一年生カップルの方が大人としての経験が上等、というのと同じことだ。思えばあの中一カップルもいまではもういいおっさんとおばはんになっているはずだ。元気にしているだろうか。ちゃんと胃カメラとか呑んでいるだろうか。
 そういうわけだから僕がいま持っている引き越しに関する経験はネット上のそれが大半を占めている。故に実際の引き越しに関しては大変に経験が少なく、云ってみればセカンド童貞みたようなものだ。いや、引き越しの業者さんを使った引き越ししかしたことがないという経験からすると引き越し素人童貞か。いったい何を云っているのだ私は。誰か止めてはくれまいか。

閑話休題

 このWeb日記の本体たる『ザ・ガーベージ・コレクション』も、初めは、えーと、あそこなんつったかな、もう名前は忘れてしまった(なにせ十六年も前の話だからねぇ)が、とある有料レンタルサーバを借りて2003年4月29日に公開した。同じ年の6月になったら『相田みつおの世界』てコンテンツが急に評判になって、借りていたとあるレンタルサーバに設定されていたダウンロード容量の制限を超えてしまい、運営会社から「この状況が続くのであればもっと上級なサーヴィスを契約しなさい」的な警告を受けた。周章てて、当時ホームページスペースのレンタルサーヴィスとしてぶいぶい云わせていたinfoseek webのそれを借りたのだった。たしか無料だった。本体サイトの方で「classics」のメニューにあるコンテンツはほぼこの時代に作ったもの。
 それから色々と結構なことがあって作品づくりを一旦休んでいるうちに時代がどんどん変わって行き、個人ホームページはすっかり世の中的に下火、その頃すでに楽天に買収されていたinfoseek webもそのサーヴィスをやめると云い出したものだから、その少し前から作品づくりを再開していた僕は周章狼狽しつつ「ホームページスペース レンタル 無料」でググったら上の方に出てきたFC2のそれを借りてサイトを引き越した。2011年春のことだ。
 世間知らずとは恐ろしいもので、当時僕はこのFC2がアダルト方面でぶいぶい云わせているところだとは露知らなかった。うーん、アダルトを差別するわけではないけれども、アダルティな要素が全くない僕のホームページがそこにあるのは、僕のホームページに僕が込めるものとは違う色がついてしまうやもしれんなあ。加えて無料だけに意図しない広告が入るし。と思ったから、こんだ”無料”のところを”有料”に変えてググったら割と上の方に出てきた、現在使っているさくらインターネットのサーバに引き越したのだった。あれからもうじき丸八年ですか。

 閑話休題

 あれっ。こうしてネット上での引き越し回数をカウントしてみたら三回しかしてないや。ここまでの話が根底からひっくり返っちゃったよ。まあいいか。まあいいやな。せっかく綴ったこの文章だからこのままアップしちゃおう。廃品利用だ。俺はそういうエコなお哥ィさんだ。

 閑話休題

 ああ、いま、作業BGMとして再生させていたグーグルプレイミュージックが野口五郎の名曲『私鉄沿線』を再生したのだけれど、この曲の二番の歌詞に「僕の部屋を訪ねてきては いつも掃除をしていた君よ 僕もわかりません 君はどうしているのでしょう」という箇所があるのだけれど、うーん、これ、現代だったら、いつも部屋の掃除をしてくれていた君の現在も、facebookとかで割と平気に見つかっちゃったりするんだろうねぇ。
 とすると、これからの失恋ソングは、別れた相手がSNS上でで新しい恋人と楽しそうに振舞っているのを複雑な気分で眺めるわたし、みたいな内容になっていくのかなあと思う。ああ、でもそれだとダ・カーポの『結婚するって本当ですか』とかシュガーの『ウェディング・ベル』と同じか。いや、でもその所在を探そうとして探し出せる現代のSNSの方が業が深い印象になるね。

 閑話休題

 うーん、でもあの人の現在は見つけられないんだよなあ。どこでどうしているんだろうなあ。もいっぺんだけでいいから会いたいなあ。

 閑話休題

 facebookの恐ろしいところは実名が基本だというところで、なぜなら私のまこと本名は、おそらく同姓同名がいないだろうと思われるようなものなのであって、だから、実名を出したが最後、すぐに特定されちゃうから、実名主義はいやんばかーんうふふんそこはおめめなのははん、なのでありんす。だっていくらネット上とはいえセカンド童貞とか喜んで活字で書いてたら結構やばい奴じゃん。恥ずかしい奴じゃん。親が見たら泣くよ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。リダイレクトとかよくわかりませんから前のブログには設定しておりませんです。お手数ですが、向後はこちらにアクセスしていただきたく存じます。今後ともよろしくお願いいたします。

 本体サイトも重ねてよろしく。『ザ・ガーベージ・コレクション








2019年3月18日月曜日

その時、歴史が動いたのかもしれない。

 やはりそれは世の中を相手に広く活躍をしていたわけで、そういう人が法を犯したのだから相応の社会的制裁を受くるべきと思う。しかしながら、だからと云ってピエール瀧氏がこれまでその制作にたずさわった音楽、映像、その他あらゆる作品が即座に封印され、市場/史上において未来永劫なかったことになってしまう、というのはやはりどうも行き過ぎのような気がしてならん。
 そうしてまた、これが行き過ぎだと感じる一つの原因として、氏の作品の提供元が、氏が逮捕された途端、それら作品を一目散に、それこそヒステリックと映るほどの周章てぶりで、光速に作品を引き上げてしまうことにもあるように思う。
 そこからは、法を犯したものとの関係を即座に絶ちたいという意識しか感じられず、そこに犯罪とは何か、芸能とは何か、文化とは何かといった本質的な問いが全くないのもよろしくないと思う。ただただ硬直した発想で作品を一目散に引き上げてしまうのがよろしくないと思う。
 ピエール瀧氏という大物が挙がった機会だから、これを好機と捉えて芸能・文化の本質を見据えた議論が必要と思う。

 閑話休題

 しかしあれですかね、こうした我が朝の対応が海の向こうで適用になった場合、名うてのヤク中だったキャリー・フィッシャーを擁する『スター・ウォーズ』シリーズもあかんようになるんスかね。

 閑話休題

 ニュージーランドの事件を見ていて感ずるのは、うーん、こんなにまで承認欲求という奴をこじらせた連中が、それこそ洋の東西を問わずにいるということで、うーん、いや、承認欲求とは違うのか。でも、動画で世界中に自分の思想信条を発信できるという事実に酔っている部分は否定できないと思うんだがなあ。まあ、我が国で育ち海外に渡ったことのない僕などからすると、これに宗教が絡んでくるともう理解の範疇を超えてしまうのだけれど、ただ、この十年の間にわが国においても爆発的に増えた移民の皆さんの存在を思うにつけ、あと二十年もしたら我が国でも同様のことが……という考えがふと浮かんできてならんね。その時は逆に我が同胞がやられているような気もするけど。

 閑話休題

 人間動物園。

 閑話休題

 やっばりあれですかねぇ、同じ警察に就職をした人たちでも、マトリの第一線で活躍し、ピエール瀧氏のような大物を挙げるような警察の人と、小学生の上履きを何足も盗んだ名も無き犯人を逮捕、その押収した上履きを、報道の人に見せるために警察の道場に並べる仕事をなさっている警察の人とでは、やっぱり随分と差があるのかしらねぇ。警察内で差別されたりするのかしらねぇ。

 閑話休題

 人なんて放っておけばすぐに人を差別するものだし、またそれがSNSの時代になって著しく顕在化したよね。自分の了見の範疇にないことをやっている人を見ると、とにかく批判的に、悪し様に云う人ってたーくさんいるものね。SNS以前には、そういう類の人がこーんなにいるとは思いもよらなんだよ。

 閑話休題

 次の元号はまた昭和でいいんじゃないかしらん。いかにも過去に生きている国みたいでいいじゃん。あるいは「又昭和」にするとかね。

 閑話休題

 ああ、獣神サンダー・ライガーもとうとう引退するんだなあ。そらそうだよなあ。ライガーって全身タイツで見た目ソフビ人形みたいだから年齢が消えちゃうけど、闘魂三銃士より先輩なんだよなあ。いま、四度目の年男を生きている僕ちゃんが小学六年生の時には山田恵一としてもう新日本プロレスに居たんだもんなあ。でもいろんな試合を見たなあ。まだ素顔だったのはもちろん、一介の若手だった頃、一回目のヤングライオン杯の優勝戦、両国で小杉に負けた試合を観たなあ。まだ獣神ライガーだった頃、やはり両国で佐野直喜と闘ったダブルノックアウトの試合も観たなあ。ペガサス・キッドとのタイトルマッチも観たなあ。あの頃、ライガー、佐野、野上、ペガサス・キッドなんかが、当時の常識を超えた激しい試合をやり始めたんだよな。あの頃のジュニアの試合がいまの新日の原点という気がするね。その後もたくさん観た。青柳政司との喧嘩みたいな異種格闘技戦は興奮したっけなあ。スーパーJカップは本当に面白かったよなあ。他の団体を巻き込んでジュニア王座8冠統一の実現もしたし。橋本との階級を超えたシングルマッチもあったなあ、対ヘビー級用のコスチュームで登場してなあ。Uインターとの対抗戦で佐野と再び相まみえた試合では、当時Uスタイルだった佐野にトペを飛ばせたんだ。ムタとの異次元対決ではマスクを破られたんだけど、その下に恐ろしいペイントをしてたんだよなな。パンクラスに上がって鈴木みのると闘って、既にプロレスの範疇には居なかったパンクラスに議論を巻き起こしたんだ。いや、ほんと、思い出は尽きないねぇ。
 いつもここで書いていることだけど、ファンっていうのは、観ることと忘れずにいることしかできないんだよなあ。だから一所懸命に観なくちゃいけないんだ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。我がベイスターズのドラ1ルーキー、上茶谷の投球フォームってなんとなく盛田幸妃のフォームに似てるなあ。いずれにしても上茶谷はいいピッチャーになりそうだ。そのマウンド捌きからはバッターと対決するんだという意識が芬芬と漂ってくるしね。バットをへし折るのに快感を感じてそうな投手。伝統的に大人しい我がチームの投手にあって異彩を放つかもしれん。


2019年3月13日水曜日

魔が差すこともあるよ

 ラジオはいろんなマスメディアの中ではかなりリスナー、受け手との距離が近いものだと思う。特にAMラジオの平日昼のワイド番組となると、それをいつも聴いている人にとってはすっかり生活習慣の一つとなってしまう。だから、そういう暮らし向きをしている僕にとって、TBSラジオ『たまむすび』を聴くのは生活習慣の一つ。メイン・パーソナリティの赤江珠緒女史の、テレビ出演時にはけして見られぬ桁違いのポンコツぶりに笑い、そうして女史が繰り出すエッジの効きすぎたポンコツに対して、暖かくも鋭く突っ込み、その笑いを倍加させる各曜日毎のパートナーの見事を、まったく以って日常の風景として、気楽な感じで、自分もそこに加わり至極楽しい雑談をしているようなつもりで楽しんでいた。それだけに、ピエール瀧氏の逮捕はまことに残念で、送り手と受け手の距離が近いラジオの人だと認識しているからこそ、テレビその他で報道されるニュースソースとしての取り扱い以上の衝撃を受けている。今日放送の『たまむすび』で、水曜パートナーの博多大吉師が発した「たまむすびはこのメンバーで永久に続くものだと思っていた」という発言と同じようなことをリスナーとしても思っていたわけで、そういう、当たり前にあるものだと思っていた、日常を構成する一片が突然なくなってしまったことに落胆、というか困っている。この事実に対してどう反応していいのかわからずに心が困っている。

 閑話休題

 歴史的に見てもこれだけ薬物の使用による逮捕者が出ているのに、未だ、芸能界から薬物の使用が消えないというのは、やはり、相当に根強いネットワークというのか、それを供給する巧妙な手段があるのだろうと想像できるのだがどうなんだろうか。でもピエール瀧氏ならば、そういう悪い波を器用に躱して行ける人だと思っていた。もちろん、メディア上で見た印象だけだから、本質的な、生活者としての素性の面まではわからないのだけれど。それでも、本業の電気グルーヴを始めとするアーティスト/演技/タレント活躍からも、また、主にラジオで表現される生活者としての姿からも、我々一般市民が理想とする仕事ぶり、暮らし向きを軽々と、易々と、サンダル履きの感じで実践している印象を受けていた。そこから、薬物との繋がりを想起させる悪辣な要素は一切見受けられず、故に報道を見るにつけ、またこれまでの活躍を思い出すにつけ、何故、と不思議に思うばかり。やはり、魔が差した、ということなんだろう。

 閑話休題

 ではそんなことでまた。珠ちゃんも、広瀬麻知子アナウンサーも辛かろうになあ……明るくって笑ってばっかりの人が悲しんで泣いている姿は、普段が楽しいぶんだけ余計に辛くなる。

2019年3月11日月曜日

若いという字は苦しい字に似てるわー

 本当に毎日毎日嫌なことばかりで嫌になってしまいます。ウディ・アレンの映画を観ていると、特に氏が若い頃に作った映画に出てくる主人公(そのほとんどは氏自身が演じている)は、押し並べて「人生は辛いことばかりだ」と云っていて、それを観ていた若い頃の私は「そうかなあ。結構楽しいこともあるような気がするけどなあ」と思っていたものだけれども、成る程、それなりに齢を重ねてみると、平均して辛いことの方が多いような気がする。
 なんというか、物事の裏面みたいなこと、人間の裏面みたいなことといった、若い頃には絶対に見えていなかった部分が見えてくるようになると、うーん、成る程ウディ・アレンの云う通り、辛いことの方が多いな。という気になる。
 そういえば音楽家の細野晴臣氏が還暦を迎えた頃、どこかに掲載されたそのインタビュー記事に「歳をとって老眼になると、余計なものを見なくて済むようになる。耳が弱くなると余計なことを聞かなくて済むようになる。集中力がなくなってくると、細かいことにこだわらなくなってくる。これはいいな、と思った」というようなことを述べておられたと記憶するけど、できたら自分も早くその域に達したいものだと思う今日この頃のラッコの毛。
 そこそこものが見えてきたのにまだ感受性はそこそこ生きているから畢竟いろんなことが辛くなって仕方がない。おまけに立ち直る力は若い頃と比べて精神・肉体両面共にぐんと落ちているからなおのこと辛い。やーねぇ。

 閑話休題

 でもウディ・アレン映画の名作の一つ『ハンナとその姉妹』のラストでは、ウディ・アレン演ずるキャラクターに「ハートって弾力性のある筋肉だね」てな台詞を云わせることで、心は意外と持ち直す、ってことも云ってるから、まあ、色々大変だけど頑張ろうやお互いに。

 閑話休題

 あれはやっぱり透析患者の方は医師に誘導されて殺されたんだよなあ。透析は開始されるまで通常、自覚症状がない状態で悪化してゆくというから、してみると、基本的に体が平気な状態であるにも関わらず、辛いとされる透析を開始するわけで、となると、なぜ透析をする必要があるのか理解できない患者さんがいても不思議じゃないんだろう。そうした類の患者さんの考えとしたら、苦痛なしでここまで来たのに、透析をすることでこんなにも辛い思いをするんなら、いっそやめちゃった方がいいかも、みたいな気持ちになるのかもしれない。そこを医師から言葉巧みに誘導されたら、透析の中止を選んじゃう人が出てきてもおかしくないだろうと思う。でも、ほとんどの透析患者の皆さんは、透析をしていれば普通に近い形で生活ができているように見えるけど。

 閑話休題

 こういう問題が起こると、決まって長谷川豊のように「自堕落な患者は殺せ」といった、想像力の完全に欠落したことを胸ェ張って云い募るバカがたくさん現れるからほんと嫌。昔はこういう話は井戸端会議でしか聞かれなかったからまだ良かったけど、いまはネットという天下の往来でもって平気で云って退ける真のバカが現れて、こっちの目に飛び込んでくるからほんと嫌。馬鹿は隣の火事より怖い。

 閑話休題

 話は変わるが、そんなに詳しく見たわけじゃないけど、あの東京新聞の記者さんって、いつも官房長官に質問をする際に、一人で時間を長く取って、自分の納得する答えが出るまでしつこくしつこく同じ話を繰り返す、ような印象を受けてたんだけど違うのかな。あんまり記者が自分の信条に凝り固まるのはどうなのかなあ、って、あの記者さんの姿勢にそこはかとない疑問を感じてるんだけど。

 閑話休題

 十四歳の女の子がSNSで東京新聞の記者さんを応援する、みたいな話題があったけれども、やっぱりあれかねぇ、みんなジャンヌ・ダルクを欲してるのかねぇ。

 閑話休題

 ジャンヌ・ダルクと八百屋お七を比べると、同じ火あぶりでも西洋と日本との違いがわかるような気がするン。っていま思いついて適当に云っただけだから本当にそうかどうかはわかりまちぇーん。

 閑話休題

 相変わらず『いだてん』が好きなので、グーグルストアで販売されていたテーマ曲をダウンロード購入、そうして繰り返し聴いているために、いまや、それを聴いていないときでも頭の中でテーマ曲が再生されるようになってしまっている。あの曲は本当にいいよなあ。陽気な感じで元気が出て前向きな気分になるのに加えて、志ん生の滑稽話のような軽妙さが同居しているから聴いてて飽きがこない。

 閑話休題

 しかしもういちいち「ダウンロード購入」とか断りをいれなくてもいいよね。ダウンロードで購入しない方がイレギュラーな状況になっちゃってるんだから。いまンなって考えると、シングルCDなんか二曲しか入ってないのに税別八百円とかしてたんだよなあ。

 閑話休題

 週刊プロレスが通巻二千号を達成したというから久しぶりに週プロを買った。キンドル版だけど。巻頭インタビューにあったターザン山本の言葉「昔のプロレスは”俺のプロレス”だった。いまは”みんなのプロレス”になった」とあって、流石は腐ってもターザン、と思って唸った。そうなんだよな、当節のプロスポーツを含めたエンターテインメントは基本的に”みんなのもの”なんだよな。シェアするのが当たり前なんだよな。一対一で対象と向き合って観戦する、なんて時代遅れもいいところ。それを未だにやっているおいら、シェアなんて糞食らえ、とか思っているおいらはもう随分と時代に取り残されているんだ。

 閑話休題

 週プロを初めて買ったのは通巻二十四号で、それから千三百号ぐらいまで毎週買ってたんじゃないかな。中学一年生が三十半ばのおっさんになってたよ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ああ。石田が左肘の張りで開幕絶望とな。ほんとになにやってんだ我がベイスターズの有望先発投手たちは。去年は今永濱口が揃って開幕に間に合わず、今年は東と石田が揃って開幕に間に合わずって、なにやってんだ本当に。もうすぐ筒香いなくなっちゃうんだぞ。いい加減にしろよまじで。




2019年3月10日日曜日

忘れていた物語(実験2)

 昔々あるところに、一堂のお寺がありました。

 そのお寺には、厳しくも優しい和尚さんと、その元で修行をする三人の小僧さんたちがおりました。
 それはどこにでもある、ありふれたお寺の風景でした。

 ただ一つだけ、大きく違っていたのは、小僧さんのうちの一人が、のっぺら坊主だったことです。
 目も鼻も口も耳もなんにもありません。首の上に、ただただ顔のようなものが載っているばかりでした。

 その小僧さんがいつからそのお寺にいるのか、どうしてそこにいるのか、誰もわかりませんでした。
 それでも、他の小僧さんと同じように、毎日修行に励んでいました。

 和尚さんはもちろん、他の小僧さんたちも、このお寺にのっぺら小僧がいることを、当たり前のことと思っていました。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 ある日のことです。和尚さんが一昼夜、お寺を留守にすることになりました。

 「わしがいなくとも、普段と同じように生活をするのだぞ。努努、羽目を外すようなことがあってはならんぞ」

 そう云って和尚さんは山を降りて行きました。

 その日、小僧さんたちは和尚さんの云い付けをよく守り、普段通りに修行をしました。

 でもそこは遊びたい盛りの小僧さんたちです。すべて云い付け通りに過ごすはずはありません。
 一日の修行が終わり、本当ならば、床に就いていなければならない刻限を迎えました。
 けれども、うるさい和尚さんがいないのですから、素直に寝られるはずがありません。
 小僧さんたちは、本堂に敷いたせんべい布団の上で車座になって、いつ果てるともしれないおしゃべりに興じていました。

 そんな中、三人の中でいちばん年嵩の小僧さんが、こんなことを云い出しました。

 「のっぺらちゃんの顔に、顔の絵を描いてみよう」

 のっぺら小僧はなんにも云いません。でも、彼が嫌がっていないことは、他の二人によく伝わっていました。

 年嵩の小僧さんにそう云われて、年若の小僧さんが筆と墨汁を用意してきました。

 年嵩の小僧さんは、筆を取り上げると、その筆先にたっぷりと墨汁を染み込ませ、大きく「へのへのもへじ」を書き入れました。

 のっぺら小僧の顔に大きく書き入れられた「へのへのもへじ」。それを見て、二人の小僧さんは大笑いをしました。
 のっぺら小僧も、笑いこそしませんでしたが、一緒になって楽しんでいることは、他の二人によく伝わってきます。

 「今度は僕の番」そう云って、年若の小僧さんがおぼつかない手つきで、顔のようなものを書き入れました。まだ幼いとその小僧さんは満足な顔を書くことができません。出来上がった顔は、まるで失敗した福笑いのようになってしまいました。
 それを見て、また二人の小僧さんは大笑いをし、のっぺら小僧も一緒になって楽しんでいました。
 それからしばらく二人の小僧さんは、のっぺら小僧の顔にいろんなものを書き入れては、大笑いをしていました。

 どのくらいの時間が経った頃でしょうか。どれほどたくさんの顔をのっぺら小僧に書き込んだ頃でしょうか。年嵩の小僧さんが、ふと、まじめな顔つきになって、のっぺら小僧の顔に筆を走らせました。

 そこには、険しい顔をした大人の男の人の顔が書かれていました。

 「これは誰なの」年若の小僧さんが尋ねます。
 「俺のおとうだ。俺が小さい頃に死んでしまったのさ」年嵩の小僧さんは、少し悲しそうな、それでいて少し嬉しいような顔をしながら、そう答えました。

 三人の小僧さんたちの間に、さっきまでの楽しい雰囲気と打って変わった、神妙な空気が流れました。

 その時でした。

 小僧さんたちの周りを、まばゆいばかりの光が包み込んだのです。

 「うわあ」
 「なにこれ」

 光はどんどんと強くなり、小僧さんたちはもう目を開けていることすらできません。どこからか、きぃん、という、金物をこすり合わせるような音も聞こえてきました。

 やがて、金物をこすり合わせるような音が聞こえなくなり、小僧さんたちは恐る恐る目を開けました。

 「うわっ」
 「誰ですか」

 それまで、のっぺら小僧が座っていたところに、厳しい顔つきをした大人の男の人が座っていました。

 男の人は、しばらく押し黙ったまま年嵩の小僧さんの目を見つめていました。それからふっと小さく笑い、こう云いました。

 「久しぶりだな、坊」

 年嵩の小僧さんは、もう目に涙をいっぱい溜めていました。「おとう! おとう! おとう!」

 年嵩の小僧さんは、おとう、おとう、と繰り返しながら、男の人に、むしゃぶりつくようにして抱きつきました。そうして、その胸で、わあわあと泣きました。

 「おとう。会いたかったよ」
 「大きくなったな、坊よ」
 「もう、どこへも行ってくれるな」
 「坊よ、これからも強く生きるんだぞ。おとうはいつでもお前のそばにいるのだからな」
 「おとう! おとう! おとう……」

 また、小僧さんたちの耳に、きぃん、という音が聞こえてきました。その音が大きくなるにつれて、また、まばゆい光が当たりを包み込みます。小僧さんたちは、また目を開けていられなくなりました。

 音と光がおさまりました。小僧さんたちが目を開けると、もう、大人の男の人はいなくなり、そこにはのっぺら小僧がいるばかりでした。

 「こらっ! あれほど普段通りにせよと云っておいたのに!」

 予定を早く終えた和尚さんが帰ってきました。和尚さんは、小僧さんたちが、こんな夜更けまで起きていたことに、とても怒っていました。

 「違うのです。いま、この子のおとうがやってきたのです。それで、泣いて喜んでいたのです」
 「ばかを云うな。のっぺら小僧に抱きついて泣いているばかりではないか」

 和尚さんにそう云われて、年嵩の小僧さんはようやく、自分がのっぺら小僧に抱きついて泣いていることに気づきました。「あれ? おとう?」

 和尚さんは、なにを寝ぼけているのだ、と呆れ顔です。
 
 それでも年嵩と年若、二人の小僧さんは一所懸命に和尚さんに説明をします。

 「本当なのです。のっぺらちゃんの顔に、おとうの顔を描いたら、おとうが現れたのです」
 「なにを寝ぼけたことを云っておるのだ。嘘をついてはいかんと常日頃から云っておるだろうに」

 和尚さんはまるで取り合ってくれません。

 その時でした。のっぺら小僧が、和尚さんに向かって、そっと、筆を差し出しました。他の二人の小僧さんも真剣な顔つきで和尚さんを見つめています。

 「そこまで云うのなら……相わかった」和尚さんは、さらさらさらと、見事な筆さばきで、のっぺら小僧の顔に絵を書き入れました。「どうだ」

 「和尚さま、それはずるいです」
 「それは人の顔ではありません」

 小僧さんたちは口々に不満を云いました。のっぺら小僧の顔には、かわいらしい猫の顔が描かれていました。

 「お主らの云うことが本当ならば、これも現れるはずだ」

 和尚さんがそう云い終わったときです。また、きぃん、という音が聞こえてきて、辺りを、まばゆい光が包み込みました。

 「……みぃ子ちゃん。ごめんね。あのとき、助けてあげられなくてごめんね」

 和尚さんは、そこに現れた一匹の子猫を抱き上げると、頬ずりをして涙を流しました。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 どこで聞き及んだのか、のっぺら小僧の不思議な力は、いつしか多くの人の知るところとなりました。

 朝日が昇る頃には、山門の前には黒山の人だかりができるほどでした。
 小僧さんたちが、山門を開けると、待ちかねていた人々の波が、我れ先にとのっぺら小僧の元へ向かいます。
 
 お寺は、すっかりと、目の回るような忙しさになっていました。

 数え切れないほど多くの人々が、のっぺら小僧の不思議な力を借りて、いまはもう逢えなくなった誰かに再び逢い、いまはもう手にすることができなくなった何かを手にしました。

 どの人々も、逢えないと思っていた人や物との再会を大変に喜び、大いに懐かしみ、涙を流して喜びました。そうしてその時間が終わると、こんどはそれらと別れ難いと云って涙を流しました。

 そんな日々が、いつ終わるともしれず、続きました。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 ある春の日のことです。

 朝はまだ早く、山門を開けて人々を招き入れる前のこと。小僧さんたちは、いつもそうしているように、境内の掃除をしていました。

 のっぺら小僧も、他の二人と同じように境内を掃除しています。その傍らには桜の樹があり、頭の上には、満開の桜の花が咲き誇っていました。

 境内を、さっ、と爽やかな春の風が吹き抜けます。

 その風に誘われて、のっぺら小僧は掃除の手を止めて、ふと、顔を上げ、桜の花をじっと見つめました。
 春の風に吹かれた桜の樹が、はらはらと、その花を散らせます。その様を、のっぺら小僧は、じっと、まるで時が止まったかのように眺めていました。

 その時です。

 境内の陰から、一人の男が、のっぺら小僧の前に飛び出してきました。

 男は、一目で浪人ものとわかるあやしい風体をしていました。着物は薄汚れ、髪の毛はざんばらにみだれ、いやな匂いが漂っています。それはまるで、生きながらにして死んでいる人のようでした。

 男は、のっぺら小僧の前に立ち、その顔を正面から見据えました。

 男は、腰に差した刀の柄に手をかけてから、低く、くぐもった声で云いました。

 「なぜ、思い出させるのだ……なぜ、ふたたび別れの悲しみを与えるのだ……」

 のっぺら小僧は、男の方に顔を向け、小首をかしげました。

 その刹那、男の刀が一閃し、のっぺら小僧を袈裟斬りにしました。

 どう、と倒れ込んだのっぺら小僧を、男は憐れむような目で見つめていました。やがて、男は、我に返ったようにはっとなり、どこやらへ駆け出し、その姿を消しました。

 あっけにとられてこの光景を見ていた小僧さんたちが、のっぺら小僧の元に駆けよります。

 でも、その時にはもう、のっぺら小僧は息絶えていました。

 本堂からその様子を見ていた和尚さんはなにも云わず、天を見上げました。


 その時、境内に、またもやさっと、春の風が吹き抜けました。

 その風に誘われるように、桜の花びらが、のっぺら小僧のなきがらと、その傍らでひざまずいて泣いている小僧さんたちの上に一輪、また一輪と降りそそぎました。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 小僧さんたちは、桜の樹の下に、のっぺら小僧のなきがらを埋め、小さなお墓を建ててあげました。

 やがて、お墓の脇から小さな樹が生えて、見たこともない綺麗な花を咲かせました。



 『のっぺら小僧譚』 おわり




 

2019年3月6日水曜日

おもしろうてやがてかなしき浮世かな

 うすら花粉症なのでいま頭がぼうとしている。この時期に決まって思うのは、戦後すぐに杉の植林を進めたお役人の連中の責任のことで、できればそいつらを見つけ出して一発殴ってやりたいと思うのだが、戦後すぐにお役人だった人がいま健在だとしたらもうその人はかなりの老人になっているわけで、そんな人をうっかりぶん殴ってしまったら、たといこちらに完全に理があったとしても、傍目にはこちらの方が悪者と映るのであって、それが見つかれば、どうかすれば逮捕・投獄ということになりかねない。逮捕・投獄されないまでも、その辺の人にスマホで動画を撮影されてツイッターとかインスタのストーリーとかにアップされて世間から魴鮄たる批判を浴びるのは必定。そういうわけだから僕は嚔を連発し洟を垂らし目をゴシゴシこすりながら殴らずに我慢している。
 しかし考えてみればもはや廿一世紀も廿年に垂んとしているこの節にあって、いまだにたかだか花粉症ひとつ満足に解決できないのだから、いくら人間が万物の霊長である、などとそっくり返ってみたところで、所詮はこんなものだ。ふん。なんだよ。こんなもんじゃねぇか人間なんて。てな心持ちになる。人間なんてららーらーららららーらー。

 閑話休題

 しかしあれなのかなあ、大戸屋の厨房でプリンを吐き出してるような若者って、世の中でバイトテロなるものが話題となっていることを知らないのかしらん。面白半分にアップした反社会的行為の動画が誰かに見つかり拡散・炎上、それがためにバイトをクビになり、どころかバイト先の本社から賠償請求がなされたりしていることを知らないのかしらん。しらないんだろうなあ。そういう程度のばか者だから、あんな動画を平気でアップするんだろうし、だとしたら、そういうばか者たちは基本、バイトテロが問題になり賠償請求されるまでのことになっているということを知らないわけで、そうなると、知らないからまた面白半分にバイトテロを平気でやる、その動画を見た他のばか者が、バイトテロの行く末を知らないからまた面白半分にバイトテロをやり、その動画を見たばか者がまた……という負のスパイラルに陥るような気がして、うーん、まあもうどうにもなりませんやね。
 まあいずれ、ホリエモン氏がいうように、安い店の給仕や支度はみんなロボットがやるようにやるようになるんであって、そうなればいずれバイトテロもなくなるだろうけどね。
 ああ、でも『ブレードランナー』的なヒューマノイドが跋扈するようになったら、そいつらがまたやるようになるのかな。世にばか者の種は尽きまじ。

 閑話休題

 しかしあのバイトテロの動画を見るたびに、可哀想だなあこの子たちは。これが面白いと思うような感性に育っちゃってまじ可哀想。と思うんであります。

 閑話休題

 そういや女子ハンドボール世界大会の宣伝惹句が「エロを想像させてけしからん」なんて問題視されて宣伝そのものが取り下げられていたけど、なんてのかなあ、SNSが流行る前からこういう動きをしたがる人っていたよなあ。掲示板だとかそういうところでやたら文句をつけて、企業なりなんなりの、本来であれば個人では太刀打ちができるはずのない相手を、意のままに動かそうとする輩っていうのがいたよなあ。こないだのLoftの広告もそうだったしなあ。企業なり団体もあんまり相手にしないほうがいいのにな。まあそのうちに、その手の批判に簡単に屈するほうが企業・団体としてはダメ、っていう風潮になってくるとは思うけど。

 閑話休題

 ツイッターなんかで芸能人にやたらと批判的なリプライを飛ばすような人も同じことなんだろうな。本来であれば相手にされるはずのない相手から何某かの反応が来るんだから、そらあ面白いんだろうと思うよ。まあ、そんなことをするのは人間として下の下の下だとは思うがね。

 閑話休題

 しかしあれだ、ZOZOTOWNの人やPayPayがやった現金ばら撒き作戦とその成果を見るにつけ、もう真摯に、頭を使って宣伝やピーアールをすることなんて無駄な時代になっちゃったのかもしれないなあ、という気になる。所詮、金ぇばら撒いたほうが勝ち。みたいなになっちゃった気がするね。嫌な時代だよぅ。

 閑話休題

 昨秋から半年の間に渡って楽しんで観てきた『まんぷく』も愈々カップヌードルの開発段階にまできてしまって、ああ、本当にもう直ぐ終わるんだなあ、という気がしておるわけですが、振り返ってみると、ドラマ全体を通して至極話がわかりやすかった分、グンと突き抜けるような瞬間はなかったなあ、ということを思いますです。しかしそれは取りも直さず、朝ドラらしい、毎日同じ歩幅で進んでいくドラマ進行、それがもたらす安定感にも繋がっているわけで、一概に悪いわけではないのですが、うーん、出来たらその朝ドラ感をぶち破るような感じがどこかにあったら、なお良かったかなあ、という気がしているのも事実。

 閑話休題

 そう考えると私めがドラマ史上に残る傑作と思う『カーネーション』なんかは完全に朝ドラの感じではなかった。前向きではあったけど明るいだけの話ではないし、人間の醜い部分もたくさん描いていた。説明的でもないし事実セリフも少ない。でもその朝ドラらしさの不足が、却ってグンと突き抜ける感じに繋がったんだろうと思う。しかしながらそういうのはきっと狙っては出来ないんだろう。ほんと「面白い」ってなんなんだろうなあ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。『いだてん』でもそうだけど、クドカン氏の脚本って”握手”と”拍手”がよく出てくるよね。


2019年3月1日金曜日

東風吹かば匂いおこせよ梅の花

 ついこないだ年が明けたと思ったらあっという間に弥生三月。とはいえまあ別に本当に「あっ」と云っていた訳ではないから、実際には正月が明けてから風邪をひいたり治ったり色々あった訳ですが、そうはいっても暦が弥生三月ともなってくると、うはあ。どうしよう年が明けてからの二ヶ月間、自分は何も為さなかった。なんらの成長も果たさなかった。ただただ日々を無為に過ごしてしまった。と、ちょっと焦りが出てくるのだがそれは誤謬、だって僕ときたら年が明けてからの二ヶ月間だけではなく、生まれて此の方、日々を有意義に過ごしたことなどなかったのであり、そう考えると、別にたかが二ヶ月を無駄にしたからと云って恐るに足らずといった気分になってきて、俄然、焦りも薄れて大丈夫な感じになってくる。しかしこれも誤謬。こうして呑気に、のんべんだらりと日々を暮らしている間に、僕と同年輩の連中などはどんどんと出世を果たし、大きな商談を成立させて巨額の資金を動かしたり、女房子を持ち共に素敵な家庭を築いたり、不倫の泥沼にはまって苦しんだりと、何れ劣らぬ立派な生活者として君臨しているのであり、そう考えるとやはり何も為さぬままにここまできた自分に対する焦りはぐんぐんに出てくるのだが、まあ、焦ったところですでに大幅に手遅れなので焦るだけ無駄、ということに思考は落ち着き、今日も明日も明後日も明々後日も弥明後日も、ずっと呑気に、のんべんだらりと過ごしていこうと心を決めるのが大抵弥生三月に入った今頃。

 閑話休題

 しかしなんつーか、トランプと金正恩の首脳会談の図を見ていると、なんつーか、この世の終わりってこういうことなんじゃないかなあ。という気になってくるね。ものの解らない者同士が何も解らないままに話を決裂に導いている感じがして。まあ、絵柄としては面白いけどね。

 閑話休題

 たといばSNSを閲していると、全く知らない人が結婚の報告をしている投稿を目にすることがあるのだけれど、その度に僕は心の中で「別れればいいのに」と思います。投稿をしたお二人がキラキラしていればしているほどそんな気分になります。結婚した投稿をするお二人ですから、きっと別れた時も投稿をするでしょうから、その落差を想像して楽しくなったりしています。だって所詮は知らない人のことだもの。

 閑話休題

 たといば横浜スタジアムでプロ野球を観ていて、僕の応援するベイスターズが九回の表を終わってリード、球場はクローザー山崎康晃の登場を迎える”ヤスアキジャンプ”で大盛り上がりをしている……そんな中に身を置いている時でも不図、ヤスアキ打たれていまはしゃいでいる観客の連中が落胆すれば面白いのに。と思ってしまう僕はちょっと精神がどうかしているんでしょうね。ま、実際に打たれちゃうとやっぱり嫌なんですけどね。

 閑話休題

 つまるところ僕は、あれだけ嬉しがっていた人たちが一斉にシュンとなったその落差、こういう状況、光景がとっても好きなんでしょうな。そういう意味ではバブル期にぶいぶい云わせて万札振り回してタクシー止めてたような人が、いまやコンビニで百円のおにぎりを買うのも考えている、みたいな状況もちょっと面白く感じる。ま、考えてみりゃあ我が国自体がそんな感じですぁね。アメリカとの戦争が終わってからしばらくの間は随分とぶいぶい云わせていたのに、バブルが弾けてからずっとシュンとしちゃってる感じで。

 閑話休題

 なんつーかあれですよ、ダウンロード違法化の議論などを見ていると、インターネットはとにかく悪。インターネットを世の中から無くしたい。と思ってる人たちがまだまだたくさんいるってことがよくわかるねぇ。こういう人たちが我が国の進歩というか時代に適応した変化を止めてきて、その結果、GAFAMに一切歯が立たないような国にしてしまったんじゃないかしらん。という気になるね。いまや日本なんて世界から相手にされてない感じがするものね。

 閑話休題

 たといばハリウッド製の映画を観ていても、昔だったらここで日本や日本企業の存在が出てくるだろうな、という場面が悉く中国に肩代わりされてるものね。『ダイ・ハード』だっていま作られてたら舞台は日本の企業が持つナカトミ・プラザじゃなくて、中国の企業が持ってるビルってことになってるだろうね。

 閑話休題

 なんていうかグリコのサイトに掲示された内容がネット上でクレームを受けて削除。てな話があったようだけれど、なんつーか、名の知れた企業がちょっと変わったようなことは最早やらないほうが吉、やるだけクレームがついて損、みたいなことに世の中の流れがなっていて、なんつーか、つまらん世の中になってきたなあ、という気がする。ウェブはバカと暇人のもの、という事態がまじ訪れたなあ、という気になる。バカと暇人が世の中の面白い角というか尖ををどんどん削っている感じがすンね。面白そうなネジ山を次々に潰して回ってる、っつーか。

 閑話休題

 ネット上とはいえ卑しくも広告を打とうとするんであれば、その広告のバナーを「ぱくたそ」の無料画像で済ませるのはどうかと思うぜよ。「ぱくたそ」の画像はどれも使い勝手の良い、レベルの高い面白いものだからおいらも作品中にずいぶん使わせてもらってるけど、本当の広告に使っちゃダメだよなあ。かけるべきところにはちゃんとコストをかけろよ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。梅の花も綺麗だけれど桜みたいに浮かれ気分にならないのはどういうわけなんだろうね。桜を見ると浮かれ気分になるというのも、所詮は花見があるからという学習が為なのかね。梅の木の下で花見をやることが当たり前だったとしたら梅の花を見ても浮かれ気分になるのかもしらんね。まあ僕は友達もいないし酒も飲めないから花見など行ったことがほとんどないのでよくわかりませんや。


2019年2月25日月曜日

馬鹿って云った奴が馬鹿

 一週間のごぶさたでした。と、玉置宏の口調で思ってみて書いてみたのだが、いまの若い人に、このフレーズが一体なんなのかを説明するのは実に大変なことで、なにしろ玉置宏のなんたるかを説明するところからしなくちゃいけないからとにかく面倒だ。知らない若い人にはまるで玉木宏のバッタ物みたいな感じに受け取られるのが精々で、というかいやいや、どうかすれば昨今の小・中学生にあっては、もはや玉木宏のなんたるかすらわからないかもしれない。
 それでも頑張って玉置宏というのは元文化放送のアナウンサーでその後、三橋美智也の歌謡ショーの専属司会者となり、そこから歌謡番組の司会に転じてついには知らぬものはないくらいの有名人となり、キャリアの後半はラジオ番組『玉置宏の笑顔でこんにちは!』を中心に、横浜にぎわい座の初代館長に就任するなど、その一生をエンターテインメントに捧げた立派な偉大な人で、更に云えば熱狂的大洋ホエールズのファンとしても名高く……なんてことを、口角泡を飛ばして説明したところで、若者ときたらスマホをちょねちょね操作して「あー、いまウィキペディアで検索したら出てきたっす」とかごく単簡に云ってのけて、探してのけて、見つけてのけて、私ら中年の玉置宏に対する熱い思いなど全く顧みることなく、ネットに漂流する情報の一つとして玉置宏を認識・処理をする。
 私がアイティーについて不案内な人間であれば、ここで怒り心頭に発し「やいこら。そうして人の話を半分に聞いて何かを知った気になるんじゃない! これだから最近の若いものは」なんつって激昂、説教を垂れて嫌われるのだろうが、あいにくと私は1986年からパソコンを弄っているようなアイティー中年なので、まあそうだよね。探すよね。見つけるよね。知るよね。と思って若者の行動を、ちょっと違和感を覚えつつも認めてしまう。
 怒るのと認めるのと、果たしてどちらがいいのかはわからない。こうした問題に正解はない。時代に沿っているかがあるのみ。
 でもなあ、そうしてなんでも探して見つける若者の姿を見て不図思うのは、君ら、自分の生活とは関係のない人や物に思い入れを持つことはあるのかい。忘れずに胸に抱いたまま持ち続けるものがあるのかい。それについて考えたり語ったりする楽しみはあるのかい。とはちょっと思う。次から次へと知って、次から次へと忘れているように見える時があるよん。

 閑話休題

 語尾を「よん」にすると可愛くなるかと思ったが頭が悪そうになっただけであった。まあでも「一週間のごぶさたでした」と書いた時にはなんの結論も見えていなかったんだから、そういうアド・リブの文章としたらまあいいんと自分で思うよん。るんるん。

 閑話休題

 ルンルンを買っておうちに帰ろう、ってありましたな。

 閑話休題

 Netflixに入っていたから今頃になってようやく『ダンガル きっと、つよくなる』を観たけど、いやあ、面白かったねぇ。アーミル・カーンってまじ名優。話としたら凄くわかりやすい、どうかすれば有り体とも思える話なんだけど、いやあ、全編を通して迫力があったねぇ。二時間二十分があっという間。

 閑話休題

 Amazonプライムビデオでタダで見られたから『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』を観たけど、うーん、当時のイギリスについてよく知らないからピンとこない部分も多く、更にはちょっとチャーチルを英雄に描きすぎじゃね? とも思ったのだけれど、それでもチャーチルを演じたゲイリー・オールドマンの達者な演技をはじめ、面白く見ることができた。以前に観た『ダンケルク』て映画のエピソードが出てきたから余計に面白く思った。

 閑話休題

 でもさあ、上にあげた二作品に限らず、最近の洋画のタイトルにはほぼ決まってダサい感じの副題がつくけど、あれ、そろそろやめたほうがいいよなあ。「きっと、つよくなる」なんて同じアーミル・カーンが主演した大傑作映画『きっと、うまくいく』の下手な捩りでしかないし「ヒトラーから世界を救った男」なんて、観客を、チャーチルのことを一切知らぬ阿呆と決めつけて説明している文言だもの。ほんと、ここ数年の洋画のタイトルってみんなこんな感じで不必要な説明的な副題がついていて、ばかみたい。いや、正確に云うと、馬鹿にされているみたい。

 閑話休題

 あとNetflixオリジナルの映画『ROMA』も観たけど、これは傑作だなあ。映像で語るというのか、映画でなければ表現できない空間という気がしたよ。映画に関する知識が少ないし、頭もあんまり良くないから正しくわかりやすく説明するのはできないんだけど、うーん、観終わった後に全てが違って見えてくるというのかなあ、なんかこう、物の見方というか、人間の見方というか、観た人の人生に影響を与えてくる感じの映画と思った。

 閑話休題

 Netflixのオリジナル映画がこのところ俄然面白くなってきた。二年くらい前まではチャレンジ精神しかなかったような、無理に面白くしようとしているような不出来な作品が多かったけど、このところ、どれを観ても面白いという感じになってきた。『バスターのバラード』『意表をつくアホらしい作戦』『BIRD BOX』どれも面白かった。劇場で公開される映画に対して全くといっいていいほど遜色がなく、なんかもう、すごい勢いで映画という枠組みが変わり始めている気がする。Netflixじゃないけど、Amazonが製作したウディ・アレン監督の『男と女の観覧車』も面白かったしね。

 閑話休題

 変わり始めている、ってことは、もう既に変わっている、と思っていなくちゃいけないんだよね。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。くそう、バタバタしていて何にもできないままに今年も早、二ヶ月が過ぎていってしまうじゃないか。まあこれからこれから。なにせおみくじで大吉を引いた今年だもの。






2019年2月18日月曜日

同じ川に二度入るのだぜ

 過日、初めて降り立った都内を走る地下鉄の某駅、その出入り口からほど近いところを、目的の場所を探しながら歩いていたところ、突如としておっさんの怒声が聞こえてきた。すわ何事、と思って声のする方に目をやると、ごま塩頭の初老と見える勤め人の人が、その部下と思しき、三十歳そこそこと見えるやはり勤め人の男児に怒声を浴びせている。
 怒声に至るまでの経緯はわからなかったが「遅刻をしてきて云々」と聞こえてきたから、若人が遅刻をしたのだろう。そら遅刻をする方がどう考えたって悪いのだけれど、それにしたって天下の往来でもって、私を含めた周囲の市民が何事と一斉に注目をするほどの怒声を浴びせかけるのはやはり間違っている。
 怒鳴られた若人は「人がいるところでそんなに怒鳴らなくてもいいじゃないですか」と通常の声量で不服そうに云っている。しかし初老のごま塩頭の方はその若人の言葉にさらに激昂して「そんな態度なら帰れ」とまた怒鳴っている。
 それを聞いた私は、うわあ。面と向かって若い奴に「嫌なら帰れ」って云う、そんなステレオタイプなおっさんって実在するんだ。と思って少しく面白くなってしまった。そうしてまた、あのごま塩頭のおじさん、基本的に部下の皆さんから信奉されてないだろうなぁ。とも思った。
 年恰好から判断してたぶんあのおっさんはバブル期かその少し前に社会人になったと想像するけど、いま思い返してもあの頃の日本は何かが大きく狂っていたから、その時代状況の中で社会人としての礎を築いた連中というのは、基本的にどこか狂っているのが多いんだろうと思った。かてて加えて歳を取り、自分よりも若い人を動かすようになると、とかく心地が良くなって、その力を無限のものと思いがちだからね。歳をとればとるほどメタ認知を意識せんければならんと思うね。

 閑話休題

 自分が年端もいかない小供だったというのを割り引いても、ファミレスが世の中に登場してきた頃というのは、いまとは異なり店内の雰囲気がとても落ち着いていたように記憶している。ウェイトレスもウェイターも、高級とまではいかないものの、それなりのレストランのそれを思わせる雰囲気で振舞っていた。客にしてもそうで、落ち着いて食事を楽しんでいたような気がする。そこにゆったりとした贅沢な時間が流れていたような気がする。
 記憶は美化されるものだし、まして幼児の頃の記憶だから色々と間違ってはいるのだろうけど、それを割り引いたとしても、静謐につながる雰囲気は確かにあったと思う。レストランが提供するべきサーヴィス、その最低ラインからは絶対に下がらないという矜持があったように思う。一九七〇年代末頃の話。
 爾来四十年、時を経るに連れて外食産業の敷居は低くなり、同時に店内の雰囲気は雑然を通り越していまや騒然たるものとなった。それが時代の必然だし、そこそこの料理を安価に頂けるのだから別段文句はないのだが、そろそろ昔の良いところを取り戻す時期に来ているように思う。しっかりとした人間を雇いしっかりとした教育を施ししっかりとした給金を払う。無論、そのぶんが料理の価格に反映されてしまうだろうが、それをしないことには、昨今またぞろ増えてきた間抜けなバイトの間抜けな炎上動画はなくならないように思う。まあ時代は店側が、不埒な動画をアップしたバイトを訴訟する方に向かっていくんだろうけど。
 世界で一番高いのは人件費、って言葉、私が餓鬼の時分には随分聞かれたものだけど、最近はすっかり聞かなくなったものね。高いには高いなりの理由とメリットがあるわけだよな。

 閑話休題

 まあ最終的にはファミレスとか開店寿司とかコンビニなんて全部が自動販売あるいはロボットになっちゃうんだろうけどね。

 閑話休題

 たといば昨今、小田急線の売店がどんどん、オダキューSHOPからセブンイレブンに入れ替わっているわけだけれども、そうした、見慣れた風景が失われていくことに寂しさを感じるのは大人だけなのであって、そうさな、二十五歳くらいまでの若人にとってはなんらの感慨も与えないんだろうと思う。事実、自分も若い時分はそうだったしね。変わっていくことをなるべく受け容れて行きたいものでござんす。世の中の変遷を楽しみたいものでござんすね。

 閑話休題

 そんならインターネットの変遷も楽しめっつうんだよな俺。SNSがいやとか云ってないで受け容れろっつうんだよな俺。つーか要はあれなんだ、自分がそこに入っていけない状況ができたことに対して、批判という形で文句を云うんだろうね、人ってのは。スマホを弄っている若者に苦言を呈するご老人だって、要は自分がスマホを扱えないためにそこに入っていけないから怒っているだけで、スマホを使いこなしているご老人は別段、スマホを弄る若者を悪く云ったりしないものね。人間ってつまりはそういうことだよね。だって俺らなんて餓鬼の時分、テレビ観てるだけでそんなものばかり観てるな、って怒られたのだぜ。その頃の大人がいま老人になって朝から晩までテレビを見て、スマホを弄る若者を批判してるのだぜ。

 閑話休題

 かの二宮金次郎とて若くて無名だった時分には、本を読むなんてそんな非生産的なことばかりして、って批判されていたというから、まあ、人なんて誰かを批判しないと生きていけないものなのかもしれませんやね。ピース。

 閑話休題

 伝聞だけれども、池江璃花子選手のツイッターアカウントに、白血病に良いとされる民間療法を紹介するリプライを送りつけるような馬鹿がそれなりにいるということで、うーん、かける言葉もありませんや。そんなことをする奴らに対してかける言葉を無理に絞り出すとすれば、ばーか。ぐらいしかないや。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。しかしあれかねぇ『いだてん』の視聴率が早くも一桁に陥落、ってなニュースがネット上を中心に駆け巡っているけれども、いまの日本のドラマの視聴者ってこのくらいのテンポで簡単に振り落とされちゃうのか知らん。そんなにまで嚙んで含めるような展開じゃないとダメなのかな。すごく面白いのになあ。あ、あとさ『いだてん』の話とはちょっと違うけど、最近ドラマや映画を観る人って、伏線伏線云いすぎだよな。伏線回収したとかしてねぇとか、ほんとうるさすぎるよ。

2019年2月13日水曜日

馬鹿野郎、まだ始まっちゃいねぇよ。

 小供の時分に親からそう云われてやっただけでとてもそれが好きだとか熱心にやったなどとは口が裂けても云えないのだけれど、仮令ほんのいっときであっても自分が体験したスポーツというのはそれをやらなくなった後でも興味を持って観るもので、そういうわけだから僕は池江璃花子選手が注目され始めたときから割に一所懸命に観てこりゃあすごいと驚嘆しながら応援していた。日本の女子スイマーであれほど豪快に、水面を叩いて砕くが如くに泳ぐ人は記憶になく、なんというか観ていて陶然となるような力強い泳ぎで、これでまだ高校生とは、果たしてこれからどこまでの高みに登るのだろうと期待を抱いて観ていただけに、余計に今度の病気の話には驚いた。しかし早期での発見だというから、病癒えていずれ復活をしてくれるものと期待をしている。彼女のスイマーとしてのキャリアはまだ始まってもいない。

 閑話休題

 大臣なんてほとんど馬鹿なんでしょう多分。もっというと政治家なんて基本的に人として破廉恥なものだと思いますよ僕ぁ。私を信用してください、私は真面目にやります、身命を賭して、とか人々に向かって広言して憚らないなんて、基本的に破廉恥な人じゃないとできないと思うもの。間抜けなコメントを発する大臣も、その間抜けなコメントを鬼の首でも取ったように論い、政局にしようとする野党の議員も破廉恥極まりない。同じ穴の狢たぁこのこった。

 閑話休題

 あれは野茂英雄氏が現役時代に云ったのだったかなあ。「アメリカの記者は一人で来て鋭い質問をしてくる。日本の記者は大勢でやってきて馬鹿な質問をする」ってのは、誰が云ったのだったかなあ。
 しかしそうして我が国の記者連中が馬鹿なのだとしたら、そういう記者連中の書いた記事や報道を見ている我々が馬鹿だということなんですよね多分。

 閑話休題

 話は変わるが、あまりに評判が高すぎて逆に忌避していたのだけれど、意を決してAmazonビデオで『カメラを止めるな!』をレンタルして観た。いやあ面白かった。多少ネタバレになってしまうが、冒頭のゾンビドラマの端々にあった違和感から、ああ、これはバックステージものだな、と察しがついた。さてどう展開させるのだろうと思ったら、見事なドタバタで、予想通りでありながらその予想を超えてくるという、良い喜劇のお手本みたいな内容で、観終わった後には部屋で一人画面に向かって拍手をした。観ながら、東京サンシャインボーイズが二十年以上前に上演した舞台『ショウ・マスト・ゴー・オン 〜幕を降ろすな〜』を思い出した。いやあほんと、面白かった。

 閑話休題

 しかしあのバイトテロの連中がはしゃいでいる動画を見るたびに、あいつら市中引き回しとかにできないのかな、と思う。顔に布を被せて一目見ただけでは判別できないようにして、あとは手鎖と足枷を嵌めて馬の背に乗せて、そいつが不埒を働いた店が存在する地域を引き回す。それを見ている市民の我々が、当たっても痛くはないけどなんか悔しい感じのする、モヤットボールみたいな球をそいつに投げてぶつけていい、みたいな、そういう新たな処罰の方法が必要だと僕は思う。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。いや、お後がよろしいと思っているのは僕ばかりなのか。そうなのか。これをお読みの皆さんは別段、お後がよろしいなんて思ってないのか。つーか、ここでのお後ってなんなんだ。これが寄席ならばお後とは次の演者のことだけど、ひとり寂しくインターネットの最果てみたいなところで愚図愚図やってるばかりの僕に、お後なんてないじゃないか。どうなってるのか。まあどうでもいいかそんなこたぁ。うん、いいな、どうでも。そういうことでこれからもよろしく。ぷっすん。

2019年2月10日日曜日

おもしろきこともなき世をおもしろく

 そうして僕は今年も旧暦の正月に合わせて神田明神へ初詣に行ったのだった。偉そうなことを云っているが僕は神田明神に足を踏み入れたのはこれが初めてだ。秋葉原には、御茶ノ水には、それこそ若い時分から数限りなく足を運んでいるというのにどういうわけか神田明神には入ったことがなかった。湯島聖堂ですら何度か入ったことがあったというのに神田明神には入ったことがなかった。なぜここまで神田明神に入らなかったのか理由はよくわからない。神田祭の喧騒が嫌だったのかもしれない。そうして今回、御茶ノ水の駅から聖橋を渡ってその鳥居を見た瞬間にうわ、俺ここ好き。と思った。境内その他があまり広くないのがいい。浅草寺のようにさあいらっしゃいと観光客を呼び込むような感覚がさほど感じられないのもいい。しかしそれらは後付けの理由で好きと思ったことに理由はない。一目惚れの如くただただ好いと思ったばかりだ。早速手水を使ってからお参りをし、珍しいIT守護のお守りを買い、ついでに、普段滅多に引かぬおみくじを引いたら大吉が出てますます僕はここが好きになった。そうして気分の高まりを感じつつ、嗚呼、江戸時代の人たちもいまこの時期、正月の空気を感じながらここに来たのかと、旧の正月に神社仏閣へ来ると必ず思うことを思ってから神田明神を後にした。

 閑話休題

 いやそりゃあ現代ということに合わせるならばインスタグラムに境内の写真をぽんぽん載せて、とどめに大吉のおみくじを写真に撮ってアップするのがいいんだろうけど、インターネット老人会の矜持としてそれは出来んのですよ。それをしないことで出てくる面白さもあるのじゃないかと思ってね。ないかそんなもん。でもほら、写真は基本的に嘘がつけないでしょう。誇張ができないでしょう。文章だとそれができるでしょう。写真を弄って嘘や誇張をやるとマジで駄目なやつになっちゃうでしょう。不自由だから自由になれることもあるのですよ。

 閑話休題

 このところすっかり鳴りを潜めていたバカッターが次々に現れているようで僕はちょっと心楽しい。面白い、ということに対して徹底的に、あるいはテッテ的にセンスの欠落した人が”面白いこと”をやろうとしたときの無残な感じが濃密な感じで横溢していて、ほんと見ていて心楽しくなる。

 閑話休題

 数年前のバカッター第一世代と当節のバカッターを比べてみると、おそらくだけど、当節のバカッターはYouTuberのノリを真似てやってるんじゃないかな。

 閑話休題

 しかしほんと、SNS以降のインターネットを閲していると、そんなに面白くしなくていいよ。もっと普通に何事もない感じで生きなよ。という気持ちになる。日々の暮らしなんてそんなに面白くないほうがいいと思うけどね。あんまり”面白い”ばかりを求めて生きていると、生活の中に遍在する生活や人間の可笑しみ、みたいな、本当に面白いこと(それはおそらく古典落語的ということなるんだろう)を悉く見落とすような気がするよ。

 閑話休題

 話は変わるが「いま一番チケットの取れない落語家」みたいなフレーズってなんか変だよなあ。落語は寄席で楽しむのが本来だから、落語家個人とチケットの売り上げそのものを直接的に結びつけることにちょっと違和感がある。もちろん当節はホール落語がメインの時代だから、時代感覚として間違ってはいないんだけど、なんかやっぱり釈然としない感じがする。いくら時代が変わっても、本来/本筋をまるで存在しないもののように取り扱ってはいけないと思う。
 ましてこれが神田松之丞氏に冠せられている「いま一番チケットの取れない講談師」となるともはや、頭の悪い人が無批判に使う駄目なフレーズに堕落してしまっている。講談師がホール形式の独演会で千人単位の動員を当たり前のように果たした例など過去にほぼなかったわけで、つまりは比較対象が無いのに「一番チケットが取れない」もクソも無いだろう、と思うんである。要は耳馴染みのあるフレーズに神田松之丞氏の存在を当てはめているだけで、なんつーか、センスがないってこういうことだよなあ、と思う。

 閑話休題

 神田松之丞氏を見ていてすごいと思わされるのは、氏のラジオなどを聴いていると、いま、キャリアを含め笑いのポジション的にトップグループに位置している爆笑問題や立川志らく師、伊集院光氏などの存在が古いものに見えてしまうこと。これら世代の人たちが古く見えるという経験は初めてのことで、いや、本当にすごいものだと思う。
 おそらく、談志家元が小ゑんとして、志ん朝師が朝太として世の中に現れた時には、他の落語家が古く見えただろうし、事実、ビートたけし師が現れた時も欽ちゃんやドリフが古いものに見えた。今の時代にあってその瞬間がまた見られるというのはすごいことだと本当に思う。
 
 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ほんと、日曜日の朝っぱらからこんなことを書いて一体なにをやってるんでしょうかね私は。おそらくは私と同じくらいの歳格好と思しき精神科医の人などふた回りも年若の有安杏果ちゃんと付き合っているというのに。

2019年2月6日水曜日

世の中の、善と悪とを比べれば、恥ずかしながら悪が勝つ

 気がつけば地球は二月。ぼうとしている間に地球は二月。一月往ぬる二月逃る三月去る。なんてなことが古くから云ってあるが、なるほど確かに年明けから三月くらいまではどどど、という感じで過ぎ去っていく。しかしこうして後世にまで語り継がれるうまい言葉を目に耳にするたびに思うのは、はて、こういううまい言葉を編み出したのは一体誰なんだろう、ということで、あー、いや、違うな。一番興味があるのは、こうした言葉を「これはうまい言葉だ。これは面白い言葉だ。日常会話の中で使ったらさぞやひねりが効いた感じになって面白い人と思われることだろう」と評価・発見をして二番目以降に使い始めた人のこと。
 2ちゃねんる全盛時代からこっち、ちょっと気の利いたフレーズはすぐに拡散・浸透するようになり、時が過ぎてSNS専横時代の当節となるとそれが行き過ぎ、いまやパクリツイートの横行になったりしているわけだけれども、そうした現代の風景から想像するに、こうしたうまい言葉というのは、それを編み出した人よりも、その言葉の面白さに気づいて使い始めた二番目以降の人の方が、より張り切って使用したのじゃないかという気がしてならんね。あらゆる流行というのは一拍遅れてそれに乗っかってくる連中ほど大騒ぎして、あっという間に消費し尽くしてしまうものだからね。伊集院光氏が編み出した「中二病」て言葉などそんな感じに見える。

 閑話休題

 って、あれ、話がなんか違うところに着地しちゃった。まあいいや。いつもアド・リブで書いてるだけだし。それに、かの井上ひさし大人が「文章を書く醍醐味は、書いている間に考えが変わっていくこと」ってなことを書いていたのを読んだ記憶があるし。

 閑話休題

 自分は小供を持ったことがないから感覚としてわからない部分が多いのだけれど、自分の小供を死ぬまで虐待することなんてできるのだろうかねぇ。まあ実際にいるんだから、そういう人がいるんだろうけど、うーん、ちょっと想像がつかない。まして年端も行かない小供だというのに。まあそういう鬼畜めいた人間もいるというのを肝に命じておかなければならんということだ。親は無条件で小供を可愛がるもの、ということで思考停止をしてはいかん時代なんだろう、そういう鬼畜めいた人間が親になることがあるという前提で行政というのか、小供を守るシステムを作らんければならんのだろうなあ、と思う。性善説はいったん脇に置かねばならんのだろうね。

 閑話休題

 報道で聞き及ぶ限り、亡くなった小供さんが書いた、暴力を受けていると訴えるアンケート用紙のコピーを、その父親は、役所の人を恫喝することで取得したという。どうもこの数年、恫喝という暴力的行為をもって相手を屈服させんとする輩が増えたように思う。
 この二十年ほどだろうか、役所や病院などを含めたサービス業全般が、客に対して異様なほど低姿勢で応接するようになったけれども、それと比例するように、サービスを受ける側が、提供する側に対して、恫喝という暴力を用いることで、ひときわ有利な対応をさせようとする困った人、丁寧にされるとすぐにつけ上がる安物の脳味噌を搭載した人が増えたように思う。
 色々と難しいことはあろうけれども、恫喝という暴力を用いる人をすぐに警察にしょっ引けるような決まりを作らないと最早駄目だと思う。恫喝ってのは暴力なんだから。

 閑話休題

 みたいなことをツイッターとかに書くと、いちいちうるせぇのがなんか云ってくるからほんと面倒な世の中。loftの宣伝にいちいちなんか云ってくるうるせぇ感じのめんどくせぇ感じの人の感じ。コミュニケーションを取りやすいツールを手にしたからって無闇矢鱈に使ってんじゃねぇよ。

 閑話休題

 新井浩文容疑者の報道を閲するにつけ、表沙汰にならない性犯罪というのはそれこそ星の数ほどあるのだろうなあ、という気になる。当該事件の容疑者にしても、これまでそれなりの成功体験があったから、同じようなことの一つとしてやったんだろうし。対抗手段としては、被害者のプライバシー等々を厳重に守りつつ、法的手段に楽々訴えられるような方策を作らんければならんのだろうなあ、と思う。モラルを高めることで男の性衝動を抑えるなんて土台無理だし。だからといって割礼的に男性の前頭葉をくりぬいちゃう訳にもいかないしねぇ。男は狼なのよ気をつけなさい、ってピンクレディーも歌ってるんだから、まあそういうものだと思って方策をこしらえるしかないと思う。いずれにしても性善説に基づいてルールを作るのはもう駄目。

 閑話休題

 今日は旧暦の正月二日。私は旧暦に初詣に行くことが多いのだけれど、別段中国の春節に与するわけでもなく、まあ云ってみれば半分洒落みたいなもので、この時期に初詣をすることで、ああ。江戸時代の人々はこのくらいの時期に初詣をしていたのだなあ。なんて思って一人悦に入っているだけのことなんでありんす。この時期になると暖かい日も散見されるようになって、なるほど”初春”という言葉が真に迫ってくる感じがしたりして面白い。我が国の気候状況には旧暦の方が色々とあっているような気がするけどね。

 閑話休題

 と、このくらいのことですらツイッターでなんか云ってくるような人があるからほんとマジ面倒な時代。旧暦というのは……気候というのは……とか、うるせぇっつんだよ。手前ぇで勝手になんか云ってる分にはいいけど、人に意見してくんな。恥を知れ、恥を。意見を述べるなんて基本的には恥知らずのやることなんだからそれを認識せずになんか云ってくんなばか。って云うとこんだ聞えよがしのエアリプでなんか云ってたりするんだ。馬鹿は隣の火事より怖いっていうがまったくだ。

 閑話休題

 つまり私は相当な恥知らずということですよ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ベイスターズのユニフォームを着たオバQがそこにいるというだけでもう僕は満足し切ってしまっていますよ。ファンとしての現住所はベイスターズだけど、本籍地はホエールズのままだから。


2019年1月30日水曜日

サヨナラダケガ人生ダ

 部屋を片付けようと思った。今の住処に弾き越してきてからもうずいぶんになるが、その時に持ってきたもの、使うかどうかわからないがとりあえず押入れに突き込んでおけ、そう思って突き込んでおいたものをみんな出そうと思った。大したものはない。せいぜいあったところで着なくなったスエーターとかそんなものばかりだ。
 こういうとき、ちょっと気の利いた人ならばメルカリなんかに売って小金を儲けるのだろうが、あいにくと僕は体が大きく身長が3メートル47センチ、体重が368キログラムもある(真実)からなかなか売り飛ばすことができない。
 しかし僕は思う。物を片付けるに際して小金を儲けることなど考えないほうがいいのではないか。どんどん捨てたほうがいいと思う。断捨離というほど大袈裟ではないが、過去との決別、新たなる自分に向かってゴーイングするという意味において捨てるべきだと思う。そらあこれはエコな行為ではない。しかし時と場合によってはエコよりもエゴを優先すべきことがあると僕は思う。
 と、急にそんなことを云い出したのはなんのことはない、片付けを始めた途端、押入れの中からいろんなガラクタを出した途端、果たしてどうかたをつけたらいいのかわからなくなり、結果、部屋がいわゆるところの汚部屋のようになってしまったんである。さてどうしたらいい。みんな捨てればいいというけれど。さて、どうしたものか。いっそここに住もうか。この乱雑極まる汚部屋に座机を置いてそこで原稿を書くマネでもしたら坂口安吾みたいになるかな。桜の森の満開の下はとっても恐ろしいぞよ。

 閑話休題

 不図思ったけど、あのほれ、別段こちらは何も聞いていないのに「俺、全然テレビって見ないんだよなあ」とか云ってくるなんかスカしたみたいなよくわかんない人があるけれども、あと何年かしたら、こういう人々と同様に「私、全然SNSとかやらないんだよねー」なんて、スカした感じで云ってくるよくわかんない人が出てくるんだろうかねぇ。

 閑話休題

 SMAPからジャニーズのアイドルは積極的に解散しなくなったけど、あれやっぱり無理があるんじゃないのかなあ。アイドルの醍醐味って一瞬しかない青春というか思春期のひとときを共に過ごす、ってところにあるんじゃないのかしらん。モー娘。みたいにメンバーが入れ替わっていくんならまだなんとかなると思うけど。
 青春時代というか、思春期の終わりを実感できないというのもなかなか辛いもんだと思うけど、そういうもんでもないのかな。本来いつまでもそれは続かないものだからなあ。そうしてまた続かないから価値が生まれるんだと思うんだけど、そういうもんでもないのかなあ。ずーっと仲がいいなんてありえないしねぇ。
 コント55号みたいに解散はしないけど別々の道を進んでいく、みたいにすればいいんだろうけど、それだとジャニヲタの皆さんが嫌がるのかな。グループが存在している以上、グループでの活動をしないと嫌なのかなあ。

 閑話休題

 山口百恵が引退したときなんか、自分はまだ小学三年生かなんかだったけど、さよならコンサートをテレビで観たときには、一つの時代が終わっていく感じがすごくしたもんなあ。そうしてその直後に松田聖子がばーんと売れて、アイドルがまた違う時代に入っていくんだ。そういう区切りって必要だと思うけどね。そういう区切りがないと、時代が動く感じもしないから、世界がひどくのっぺりしたものになっちゃう。テレビの笑いが全て吉本興業になってから、テレビの笑いに変化がなくなったもの。時代と呼吸している感じがしなくなったもの。

 閑話休題

 話は変わりますが、近頃、主にハラスメント方面ですが、男性目線で意見を述べると、男女平等の意識が足りないと鋒鋩打たれますが、その一方で、昨今頓に、女性目線で恋愛や性愛の記事やそれを執筆するライターが増えてきたように思うのは、僕が男性だからこその被害妄想ですかね。”OLの経験を生かした女性視点からの恋愛コラムを多数執筆”、みたいなプロフィールが附記されているライターの書く記事って、基本、女性の視点しかなくて、まあ、内容的にハラスメントなものではないにせよ、なんかちょっと引っかかる。ananのセックス特集はエロではない、的な、なんとなく承服しかねる感じの。

 閑話休題

 もうインターネットについて考えるのは無駄だし意味がないかもしらんなあ。フォーマットとして利用するしかないなあ。まあ、風車に戦いを挑み続けるのも、いいのかな。よくわかんねぇや。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ああそうそう『偽りの黒真珠』面白かったですよ。始まりは『オホーツクに消ゆ』で、途中から『ファミコン探偵倶楽部 消えた後継者』の感じになったね。当時のアドベンチャーゲームと比べるとメモリの制限がないから台詞の量が膨大で、ちょっと読むのに苦労した(ひらがなが90%だったからね)。逆説的にいえば、当時の、メモリ制限が厳しい中であれだけの印象的なストーリーを紡いでみせた堀井雄二の凄さを改めて知った感じもしたよ。



2019年1月27日日曜日

噓吐きは泥棒の始まり

 さあやるぞとやる気を出した途端にダメになると云うのはやはり良くあることで、年明け早々に風邪が治った。さあやるぞとやる気を出した途端にまた風邪をひいた。ある朝、目が覚めたらとにかく体が重くて動かない。まるで鉛を背負っているようだ。瞼を開けているのすら辛くてままならない。体温計で体温を測ったら三七度五分もある。
 これはきっとインフルエンザだ。この世に生を受けて早四十有余年、ついに僕も生まれて初めてインフルエンザに罹患した。流行に乗って。なんて思っていたがそんなことを思っている場合ではない。いかなければならない予定をキャンセルするべく、いかなければならない予定の先に連絡を入れたら、ならばむしろ来るなと云われてちょっと寂しかった。行きつけの医療機関に連絡をしたら、症状が出てから二十四時間が経過していないと、たといインフルエンザの検査をしても陽性とは出ないから今日は大人しく世間から隔離されて明日くればいい。と云われたからまたちょっと寂しくなった。もっとみんな僕を心配して周章ててほしい。
 しかしそうしてするべき連絡を済ませたらなんだか体調が良くなってきた。ご飯が嫌に美味しい。昼過ぎに熱を測ったらもう三十六度八分に下がっている。体の辛さも徐々に抜けてきた。しかし僕の気持ちはインフルエンザに罹患したと思っているから当然病人らしくうーうー云いながら寝ている。鼻が詰まる。なんだかよく眠れない。しかし体調はどんどん良くなってくる。熱もどんどん下がってくる。晩御飯が普段より美味しい。それでも部屋からなるべく出ずに自ら進んで隔離をされていた。病人だし。夜はやはり鼻が詰まってあんまり眠れない。病人だし。そうしているうちにとうとう明くる日になった。寝不足感はあるがそんなに体調は悪くない。熱を測ったら三十六度一分しかない。体は妙に軽い。病人なのに。
 約束の通り、行きつけの医療機関に、病人だからと思って大枚を使いタクシーを誂えていちばんで行き、早速インフルエンザの検査をしてもらったら陰性と出て僕はすっかり仮病の人になってしまった。
 体調はすっかり良くなったが気分は晴れない。なにやら自分で自分にトラップを仕掛けて自らのやる気を削いだような格好だ。一月からこの有様では今年一年の惨状が今から予測される。どうせ今年も僕は何もできないのだろう。そんなことを思いながら呆然と日を過ごしている。体調はそこそこいい。鼻も詰まっていない。気分だけが病人のそれで、気持ちは寂しく世間から隔離されている。寂しい。

 閑話休題

 こうして寂しい寂しいと云っていれば優しくて素敵な女性が急に現れて心配してくれて声をかけてくれたりデートしてくれたりするのじゃないかと中学生の頃から思ってたまに人前で寂しがってみせるのだがそんな優しい女性が現れてなんかしてくれたことなど一度もないのだった。寂しい。

 閑話休題

 大坂なおみ選手を見ているとメジャーに初めて行った頃の野茂英雄をちょっと思い出す。とんでもないことをやってのけたのに、当人は湯船に浸かっているみたいな平気な顔をしている。周りはわあわあ騒いでいるのに、その騒ぎを起こしている当人は、その騒ぎを遠巻きに眺めている、そんな印象を受ける。でもあの大坂選手のいつもはにかんでいるような感じはとても可愛いね。可愛げがない奴はどんなに能力が高くても駄目。

 閑話休題

 なんというかまあ、嫌いな教師を追い込むために「暴力を振るうように仕向けてそれを動画で撮影してTwitterにアップして炎上させてやろう」なんて発想になるんだから、まあなんというか、これが時代なのかねぇ。仮にかつての横浜銀蝿華やかなりし頃、不良の全盛時代にSNSがあったら、やっぱりこういうことになってたのかねぇ。学校の窓ガラスを金属バットでバンバン割るのや、卒業式後のお礼参りをライブ配信したりしたのかねぇ。
 金八先生の第二シーズンのクライマックス、加藤優が荒谷二中に乗り込んでいって、学生運動の団交めいた騒動を起こしたあのドラマ史に残る場面も、SNSが絡んだ内容になったりしてたのかねぇ。加藤優が荒谷二中の教師を土下座させて謝らせる場面も、傍にいる沖田浩之がスマホで撮影、配信してたりするような内容になったりしたのかねぇ。仮にそうなったとしてもやっぱりBGMは中島みゆきの『世情』だろうけど。

 閑話休題

 これはもう幾たびも書いていることなのだが、YouTuberだとかライバーだとかTikTokだとかが見せる、ああいう、クラスの人気者が楽しくやってまーす。的な空間が小供の頃から苦手で、あんな連中のやることのどこが面白いんだ馬鹿野郎。とずっと思っていて、そういう連中の蔓延る日常世界から逃亡するためにインターネットでなんかやり始めたのに、いつの間にかインターネットもあいつらに占拠されてしまっていて、まじ不愉快。今度はどこへ逃げたらいいんだよ。なんであいつらいつもあんなに楽しそうなんだよ。もっと屈託しろ馬鹿野郎。

 閑話休題

 ではまあそんなことでお後がよろしいようで。大坂なおみ選手を日本人として認めていいのか、なんて云っている人がまだいるようだけれど、我が横浜DeNAベイスターズのラミレス監督が日本国籍を取得しましたので今年からラミちゃん日本人監督ですよ。でもそうなるとあの有能な通訳の人はどうなるんだろう。



2019年1月18日金曜日

上手に目を閉じ耳を塞ごう

 「友達、親、過去の自分。この三つと比較しなければ生きるのが楽になる」とはみうらじゅん氏が云った言葉だと記憶するが、なるほどそうかと思って僕はこの数年この言葉を念頭に置いて日々を生きているのだけれど、それでも当節ネットをちょっとでも見れば、知ってる人や知らない人がいろんなこと、面白いことやすごいことを発言したり発表したりしていて、いかんいかん比べてはいかん。比べると自分が辛くなる。と懸命に思うのだけれど脳の方で自動的に我が身と比べてしまい、結果として彼我の差に愕然となる……そんな状態が続いていて本当に嫌になります。もうインターネットなんかなくなればいいのに。いや、正確にはツイッターとかSNSとかなくなればいいのに。いやいや、正確にはやっぱあれだ、人とすぐに比較をしてげんなりしてしまう自分の脳がいけないんだ。だったらもういっそ脳なんかなければいいのに。脳があるからいけないんだ。脳とかまじ絶滅すればいいのに。なんで脳なんかあるんだよ馬鹿野郎。くっすん。

 閑話休題

 やっぱり質を担保するのは量なんだよなあ。まあなんでもいいから作っちゃうか。アイデアはまだそこそこの数出てくるんだ。頭の中から出すことができなくなってるけど。

 閑話休題

 改めて思うけど、神田松之丞氏ってすごいよなあ。いまの時代にあれだけ真っ当な毒舌で人を惹きつけるのはすごいことと思う。ネットを中心に「愛のある毒だから聞いてて不愉快にならない」みたいなふざけたようなふやけたような事を云う輩が増えた昨今、みんなが心の奥底で気に入らないと思っている事を見事な言葉の選択で笑い飛ばしてくれるあの喋りのなんと愉快爽快なことか。悪口や毒舌すらキャラ付けの一つとして世の中に組み込まれてしまう昨今の芸能にあってまじ貴重であり本物の毒舌が聴けるのは本当に嬉しく楽しみ。
 しかしほんと、その時代にあった人がちゃんと出てくるんだなあ。談志家元の後にビートたけし師が出てきてその後に太田光師が出てきてそうして今度は松之丞氏が出てきて。そういう意味でも面白いよなあ。

 閑話休題

 毒舌の中に、対象に対する愛なんかないよなあ。気にくわないことをストレートに云うのは野暮の骨頂だから笑いに繋がる部分を見つけて切り出してるだけで、そこに愛なんかないよなあ。観察力・洞察力は必要だと思うけど。あとは若さ。歳をとると許しちゃったりどうでもよくなったりするからね。

 閑話休題

 いまから三十年近い昔、春風亭昇太師が真打ちに昇進するちょっと前『高田文夫杯争奪 OWARAIゴールドラッシュ』の決勝戦に進出した時のこと。漫才やコントが居並ぶ中で、新作とはいえ着物を着て座布団の上に座り落語を披露することで、それら他の演芸と互角に渡り合った昇太師を「落語家としてここへ出てくるというのは異種格闘技戦を闘うようなもの。着物を着ているというだけで客は引く。それでここまで笑わせるのは大変」と高く評価した、当該大会の審査委員長だった山藤章二氏の言葉をいまでも憶えている。その観点から見ても、神田松之丞氏、講談師でありながらこれだけテレビに出ているのはものすごいことと思う。すでに落語の存在が若い人の間で一般化していたという優位点はあったにせよ、張り扇を叩いているだけで見る側に「何者?」感が出るのが普通なのにちゃんと面白いと思わせる時間・空間を作ってる。ほんとすごいや。

 閑話休題

 話は本当に変わりますが、いま不図思ったんだけど、おいら、ツイッターを見ている時に、ひょっとすると画面に表示されるたくさんのツイートを、一つのコンテンツとしてみているのかもしれないなあ。一つ一つのツイートはそれぞれ別の人が書いているというのを理屈では理解しているんだけど、頭の深い部分で、表示されるタイムラインをツイッターという一つの人格としてみている気がする。そういうものが立ち上ってくる感じがする。わっかるかなあ、わっかんねぇだろうなあ。

 閑話休題

 人の一生もツイッターのタイムラインみたいなものか(文学的)。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。そうねぇ、やっぱり、頭の中にあったものが形になっていくあの瞬間というか時間がたまらなく楽しいし面白いんだよなあ。いままで世の中になかったものが現れるんだから。それを自分の手で呼び出せたんだから。そりゃあ面白いよなあ。


2019年1月16日水曜日

同じ時代を行ったり来たり

 こんにちは。今日も僕は元気です大丈夫ですと自分に嘘をついて生きています。嫌ですね。なるべくなら嘘をつかずに生きていたいと思いますが、しかし人はどうしたって嘘をつくものです。たといば回転寿しで寿しを食べ、お勘定をする際など、僕は決まって店員の人ににこやかな笑みと共に「ごちそうさまでしたー」というのですが、口でいうほどご馳走を食べたとは思っていません。この時の心持ちを正しく言葉にするならば「そこそこの寿司をこの値段でいただけましたから満足です。どうもどうもどもどもども」ぐらいが適当でしょう。こうして人は簡単に嘘をつきます。嘘も方便、などと嘯いて、嘘にまみれた日々を過ごしています。あなたも私も嘘つき。所詮は嘘つき、ってああ、昼寝から覚めたばかりで何を云っているのか自分でもよくわかりません。まあなんでもいいや。もうすぐ夜寝る時間になっちゃうし。そうなりゃまた寝ちゃうからどうでもいいや。寝て起きりゃあ大抵のことはどうでもよくなっちゃうしね。ああ寝よ寝よ寝るのが一番だ。

 閑話休題

 『週刊SPA!』誌上に於いて伝統芸的に続いてきた「ヤレる〜」系の記事が鋒鋩たる批判を浴びたり、ダウンタウンの松本人志師の「お得意の体を使った〜」発言が炎上したりするのを見るに、平成の終わりになってようやく昭和が本格的に終わるのかも知らんなあ。と思ったりしている今日この頃のラッコの毛。

 閑話休題

 今となっては、かつてそういう時代があってそういう時代を生きたという記憶が残るばかり。その記憶を持つ人がいなくなればいずれなくなってしまうもの。そういうものにあの頃のエロ本文化もなったということなんだろう。まあ、今後はひっそりと、表に出すことなく、あくまで自分の記憶の中だけで、たまに思い出すことにするくらいが適当なんだろう。でもそういう時代があって、そこで生きてきたという記憶は消えないからね。
 果たして今の子供たちってどういうエロに触れているんだろうなあ。夜になると中が見えてくるエロ本の自動販売機で、夜、あたりを伺いつつエロ本を買った時の気分みたいなものを味わう現代の装置があるんだろうか。あってほしいね。思春期男子がエロを前にして馬鹿を武器に立ち向かって行くあの時期っていうのは、男子の一生に不可欠な通過儀礼だからね。

 閑話休題

 さっそく『いだてん』の視聴率が第二話にして下落、みたいな記事がたくさん見られるようになったけれども、クドカン氏が脚本のドラマではいつものことなので視聴者としたらもう慣れっこの光景。そうして結果的には視聴率と反比例するように内容の評価が高まり賞を獲得する、というところまでクドカン氏脚本のドラマはセットになってるからね。
 それにしてもこれだけ世の中が進んでいるのに、いまだに視聴率を錦の御旗のごとくに報道するメディアが多い。というかネットニュースとやらが跋扈し始めてからより多くなったような気がする。もう時代の中心はNetflixなんかの方に移っちゃってるのに何をやってるんだろうかねぇ。

 閑話休題

 まあピンクレディーにしろクラッシュ・ギャルズにしろ古来より女性アイドルは仲が悪いというのが定説だからねぇ。しかし本当に、アイドルが知人男性を使って同じグループの別のメンバーを襲わせる、とか、まじシャレにならないレベルの話で恐ろしいねぇ。ほとんど映画『仁義なき戦い』の世界だものなあ。
 ほんと、時代ってなんなんだろう。時代の先端を行っているはずのAKBグループから、こんな陰々滅々たる昭和芸能界テイストな醜聞が出てくるんだものなあ。昭和のエキスが濃縮還元されてるみたいだよ。

 閑話休題

 で、なんであの秋元康氏って人は、AKBグループでコトが起こるといつも他人事みたいな態度を取るんですか。NGTとかとあんまり関係ない人なんですかあの人。つーか高井麻巳子を娶ったという過去を鑑みるに、アイドルプロデューサーとしてなんか信用できない気がしちゃうんだよな。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。十五年くらい前は頼まれて時事ネタのFLASH動画とか作ってたから、こういう話題があると舌舐めずりしてネタを考えたものでしたな。最近はもうなんもネタ的なアイデアは浮かびません。
 最近ではやはりナイツの時事ネタの作り方は実に見事と思う。深追いせずにささっと処理、しているようで実は相当に酷いことを云っているというあの手際の良さは本当に見事。



2019年1月13日日曜日

人品骨柄でゴー。

 おはようございます。早くからご苦労様です。こんばんは。遅くまでご苦労様です。お風邪などお召しではありませんでしょうか。私はといえば先日来より引き込んでいた風邪もほぼ良くなりまして、今はなんだかとっても眠いです。この文章も半分寝ながら書いています。ああ、そういえば僕がまだ若くてギンギラギンだった頃、そうさなあれはいまから二十八年くらい前だったか、二日間徹夜をしてパソコンを操作していたところ、あんまり眠いものだから、まじ半醒半睡の状態でキーボードを叩く仕儀となり、ハッと気づいたら、その時開いていたエディタの画面に意味不明な文字が羅列していて、一体これはなんだ。無意識で自分は何を打ち込んだのだしかもプログラムを打ち込んでいたはずなのに漢字が入ってるし、としばし考え込んだことがありましたな。当時のパソコンで漢字・日本語を入力しようとすれば、現在のように、カーソル位置そのままで日本語が入力できるということはなく、フロント・エンド・プロセッサと云って、日本語入力を命令するショートカットを入力、すると画面の一番下に一行だけ日本語入力の枠が登場、そこに日本語を打ち込んで変換・決定をすると、エディタ本体にその文字が転送される、という手間をかけなければ入力ができなかったのであり、てことは、その半醒半睡だった僕はわざわざ日本語入力のモードを起動、そうして意味不明な文字を打ち込んでいたのであり、ほんと、無意識ってわけわかりませんね。ということを急に思い出しましたが、別段、この話にオチはありません。つーか話にオチなんかいちいちつけるわけないだろうわたしゃ別にプロじゃないんだから。

 閑話休題

 ああそういえば昔は、フロントエンドプロセッサ略してFEPと呼ばれていた日本語変換エンジンは基本、ATOKみたいに別売りで用意するのが当たり前だった(OSが用意する日本語変換エンジンはみんな使い物にならなかったからネ)。そんな頃、九〇年代の中頃にMac版の変換エンジンを買いに、かつてあったパソコンショップ(うわ、この響きももはや懐かしい)J&Pへ行き店員に「エフイーピーはどこに売ってますか」と尋ねたら店員、寸刻考えてから「ああ、フェップですか」と、なんかこちらを「ものを知らぬやつ」みたいな感じで見下して云いやがったから腹が立って、売り場の案内だけさせて買わずに帰ってきたことがあったっけ。そうこうしているうちに時代が変わり、FEPはIM(インラインマネージャー)と呼ばれるようになり、OSに搭載された変換エンジンが高級になり、だーれもフェップなんて云わなくなりましたとさ。あの店員も今頃どうしているのやら。思えば道玄坂の真ん中にパソコンショップJ&Pがあったなんて、それも結構大きな店舗があったなんていまとなってはなんだか夢みたいだ。

 閑話休題

 ちなみに僕はEGBRIDGE派でしたよ。

 閑話休題

 なんていうか、金持って下品ですね。大金をやるからリツイートしろだなんて、ほんと品性が下劣ですね。金なんかたくさん持ってたって、人間が下品だったらしょうがねぇねほんと。あれを下品だと思わない人とは到底話が合わないだろうな。なんなんだあれほんと。いやだねぇああいうの。ほんといやだ。

 閑話休題

 あの百万やるからリツイートしろ、を見るだにつけ思い出すのは映画『キングスマン』でサミュエル・L・ジャクソンが演じた頭のおかしい悪役で、若作りのIT社長を演ずる彼は、本体から通話料からタダで使える携帯をみんなにあげるから使ってくれというのだけれど、やっぱりそれは世界を征服しようとする悪巧みなんだよな。
 ほんと、みんな百万もらえるかもと思って安易にリツイートしているといつの間にか服は全部ZOZO TOWNで買わされることになり、さらに気づいた時には身体中にZOZOスーツを作るための白い水玉が刺青されるようになってたりするぞあれきっと。

 閑話休題

 しかしほんと、ITバブル以降、世の中に登場してくるIT金持ち社長さんってみんな頭おかしいよな。いや頭おかしいというか、日本人の美徳につながる感性がまるで感じられないというのかな。無駄の排除が全てにおいて正しいと思い込んでいるというのか。それをいっちゃあおしまいよ。という寅さん的観点がまるで通用しないというのか。なんだかどいつもこいつも雑談のつまらなそうな奴ばかりだし。

 閑話休題

 いやあ『いだてん』まだ始まったばかりだけど面白くなりそうだなあ。まずもってクドカン氏を大河ドラマの脚本として起用するに当たって、それを実現するおそらくは唯一にして最適のタイミングだったと思うネ。この、オリンピックが来る直前という最大のタイミングを逃さなかった時点で、面白くなるのはもはや決まってる、ってな感じがするもの。何れにしても一年間、大いに楽しめそうだ。第一話の最後、顔面を朱に染めた勘九郎丈が走り込んできた時には観ていてぞくっとしたものなあ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。人的補償とか、どうして陰々滅々たる要素が発生するシステムを採用するんだろうなあ日本のプロ野球は。でもみんな完全に面白がってるよな、長野とか内海が人的補償になる残酷物語を。要は荒川尭や江川やKKのドラフトの頃から感覚が変わってないんだ。なんだか下品な連中が多いや。ドラフトのショーアップも人的補償の盛り上がりも詰まるところ人買い風景の物凄さだもの。もうプロ野球なんか、かつての半分も世の中に影響を与えてないのにいつまでこんなことやってんだ。



2019年1月11日金曜日

きのうの続きがきょうになる

 あけましておめでとうございました(過去形)。

 閑話休題

 今年はやるぞ。作品をたくさん作るぞ。そうだ今年こそ俺はやるんだ。いままで寡作だったぶんを取り戻して驀進するんだ。と、決意を新たにし、相応に行動も変え始めた二〇一九年正月、だったにも関わらず、その矢先である五日に風邪を引き込みダウン、その後、四日間もウンウン唸って寝込んでしまう為体。
 こうなるとせっかく新たにした決意も何処へやら、やはり今年も何も変わらないのかもしれない。今年も何もいいことはないのかもしれない。もう僕の人生はこんな調子で無残な感じで終わってゆくのかもしれない。と、悲しい気分になっているところであります。
 まあそれでもインフルエンザに罹患していなかったことは物怪の幸い、そう思って自分で自分を励まし鼓舞しているけれどもやっぱり僕はもうダメです。空元気すら出やしません。それが証拠にもう二十五年も好きなままでいる内田有紀嬢のことを思ってもいっかな元気が出ません。『夜空にYOU KISS!!』の録音を聴いても元気が出ません。ファースト写真集『YOUKISS』はもうずいぶん昔に売っちゃったんで手元にないし。
 これはもう非常事態です。僕的非常事態宣言です。トランプが作ると息巻いている国境の壁どころの騒ぎではありません。まじ誰か助けてください。助けてくれないのならばせめてお金をください。あるいは、これをご覧のあなたが若くて素敵な女性であるのならば是非おっぱいを触らせてください。もう僕はダメです。だから助けると思って金を寄越すかおっぱいを揉ませるかしてください。できたら金かおっぱいが絶対に必要なのです。

 閑話休題

 こんなことを書いたすぐ後くらいに、私が泥棒や痴漢を働いた廉で逮捕されて新聞種にでもなった日には、このブログが世間に出るのだろうなあ。一丁やるか。ってダメだやっちゃ。

 閑話休題

 このところテレビジョンの報道を閲していると、なにがしかの犯罪を犯した犯人・容疑者のFacebookやツイッターのアカウントがすぐさま発見、放送されるのが当たり前になりましたな。これを見るたびに『古畑任三郎』で云ってたように、人間誰しも犯罪者・殺人者になる可能性があるということなんだろう。別段、犯罪者や殺人者が我々とは種類の違う人間という訳ではないことの証左がFacebookのアカウントなんだろうと思って、自分だっていつそうなるやもしれないという想像力だけは失わないようにしたいものと思う。

 閑話休題

 ほんと、これからは犯罪者やノーベル賞受賞者の卒業アルバムを探すのに変わって、SNSのアカウント探しに躍起となるんだろうね我が朝のテレビ報道の人たちは。次の元号の世では、すごい犯罪を犯した人が高校時代にアップしていたTikTokの動画、みたいな間抜けな報道を目にすることが増えてくるんでしょうな。何年か後に自分がすごい犯罪を犯すなんてことをまるで想像だにしない感じで楽しそうにくりくり踊っている動画とかが世の中に流されたりするんだよこれから。くわばらくわばら。

 閑話休題

 そうはいっても昨日あたりからは体調も上向いてきたので田崎健太氏が著したkindle本『全身芸人』を読んだのであった。
 作家・演芸評論家の吉川潮氏が書かれた数々の芸人伝ものが、芸人の人生を物語化した、その芸人の内側に立ったものだとすると、こちらはずいぶんと対象となる芸人との距離感があるように感じた。しかしながらそれによって、ドキュメンタリーとして迫力のあるものに仕上がっていると感じた。冷静な目でその芸人のあり方と、時代との乖離を描いていると大いに感心して読んだ。トリを飾るこまどり姉妹の来歴など完全に芸人残酷物語として、当の芸人自身が練り上げてきたものに他ならないと思うのだが、それを物語化するとことなく、それを語る、八十歳を超えた子飼いの芸人の姿を描いているのが物凄い。そういうある種の冷ややかとも云える高所大所からの視点が貫かれているのがドキュメンターとしてとても良いと思って読んだ。

 閑話休題

 私が思う”芸人”というのはやはり当該書籍に紹介されているような、カタギの世界では到底暮らすことができない困った人たち、結界の向こう側に行ってしまった人たち、のことで、軽々しくそれになれるものではないという憧れと畏れが同居する存在。だから簡単に”芸人”という言葉を使うことができない。然るに当節のバラエティ・タレントが「僕ら芸人なんでー」なんて、結界の向こう側に行く覚悟もなく(というかそんな結界があることすら気づかない)軽々に口にするのを見るたびに、こんな風に言葉に対して鈍感な奴が真に面白いものを作れるはずがない。と思って嫌な気持ちになる。

 閑話休題

 芸人周りのエピソードで好きなのは、戦前の頃から浅草などの繁華街を浮浪児のごとくうろつき、大量の演芸、エンターテインメントを鑑賞してきた色川武大氏が、藝人という存在を、世間からドロップアウトした存在として世間の基準から見れば実にいい加減な人間であると描いたのに対し、戦後の浅草フランス座で座付き作家として内側からそこに参加していた井上ひさし氏が、藝人とて銀行員と同じように真面目に仕事に取り組んでいた、と真っ向から主張を異にしていたこと。聞けば、二人はその主張の違いからパーティなどで顔を合わせても誠にそっけない態度を取り合っていたという。しかし色川氏が逝去されたのち、井上氏が、色川氏の書斎を訪れた際、自分が血眼になって集めていたアメリカのコメディのビデオなどが書棚に並んでいるのを見つけ「内側と外側、見る方向が違っただけで同じものを見ていたのだ」と深い感動に包まれた。という話が私は好きでありんす。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。Netflixに入っていたから久しぶりに『めまい』を観たけど、いやあ、面白いのはもちろんすごく面白いんだけど、やっぱりヒッチコックって異常な変態だよなあ。と思った。





2019年1月4日金曜日

立って半畳寝て一畳天下取っても二合半(実験)

 夜になると寝てしまう。ひとり布団に入るとその中は体温で次第に暖かくなってくる。現実と夢の境が次第に曖昧となりふっと眠りに落ちる。数時間すると目が覚める。もういい歳だからそんなにたくさんは眠れない。すっかり目覚めてしまう。しかしまだ朝は早い。陽も昇っていない。布団の中は暖かい。冬だから外は寒い。だからできれば出たくない。
 僕は出なくもいい人だからずうっと布団の中にいる。でもいい歳だから二度寝もうまくできない。外は冬で気温が低いし世間の風は冷たく人の心はなお冷たい。しかし布団の中は暖かい。暖かいからずぅっといる。僕はずぅっといてもいい人だからそこにずぅっといる。でも中年も終わりかかっているから二度寝はできない。すると頭の中には妄想が広がってくる。現実にならない思いが具体性を伴い頭の中のスクリーンにビスタビジョンで上映される。
 僕は妄想の中では完璧な人間だ。勇者だ。英雄だ。天下人だ。全てが思いのままになる。かつてしくじった事柄もここでは全てがうまくゆく。かつてしくじった人たちもここではみな僕に良くしてくれる。現実ではいままさに失敗しつつある事柄だってすいすいと成功に向かって動き始める。水着姿の傳谷英里香ちゃんから好き。と急に真剣に告られたのにお前タイプじゃないからゴメンな。なんて簡単に断って彼女を泣かせたりもする!
 妄想は素晴らしい。妄想は素敵だ。現実よりはるかに素晴らしい。ここから出たくない。外は冬で寒いし世間の風は冷たいし人の心はなお冷たい。現実なんか嫌いだ。布団から出たくない。妄想だけをしていたい。妄想をしていればこうして寝ているだけで天下人になれるのだからよほど妄想の方が素晴らしい。
 妄想をする僕はいまや紛う事なき天下人。立って半畳寝て一畳天下取っても二合半。ここに二合半という言葉が入っていることからわかるように天下人とて腹が減る。寝ているだけでも腹が減る。生きているかぎり腹は減る。腹が減っては戦もできないし妄想も広がらなくなる。気づけば頭の中はものを食うことで満たされてしまう。泣いていた傳谷英里香ちゃんも大急ぎで消えていってしまう。代わってオムライスの画像が頭にばあんと効果音付きで浮かんでくる。その表面にはケチャップで「USB-C」と書いてあって食欲が大いに刺激される。頭の中がオムライスでいっぱいになってしまう。こうなるともう駄目だ。かくて泰平の夢は破られた。かくて妄想は現実の前に容易く敗れ去った。暖かい布団を出て冬の寒さと世間の風や人の冷たさに立ち向かわねばならん。
 ふん。と、裂帛の気合と共に掛け布団を蹴り上げる。寒い冷たい寒い冷たい。冬は寒く世間の風はやはり冷たい。人の心も冷たいに決まっている。暖房は嫌いだからつけないしストーブは火事が怖いからつけない。湯たんぼは間違ってお湯を飲んじゃうといけないから使わない。だから僕の周囲にあるなにもかもが冷え切っている。傳谷英里香ちゃんが冷たい人だったら嫌だな。
 現実は冷たく辛い。妄想はあんなに楽しいのに現実は辛い。しかしいつだって勝利するのは現実だ。冷たく辛い現実は妄想の上位自我だ。結局は現実の通りに僕も動かされてしまう。そうして僕は現実の奴隷となり、暖かく優しい布団を出て冷たく辛い現実に身を置いた。
 映画『レディ・プレイヤー1』では仮想世界に耽溺する主人公が艱難辛苦の末、そこに蔓延る悪を倒すことで彼が住まう現実を少し良いものにした。まさにスピルバーグの映画。ハッピーエンド。それがエンターテインメント。しかしその幸福な結末こそがエンターテインメントの限界。僕にはこの主人公が幸せを獲得したとはとても思えない。現実が良くなったところで所詮現実は冷たく辛い。人の心も冷たいままだ。いま抱き合っている女性が明日も抱きしめてくれるという保証はどこにもない。
 映画『未来世紀ブラジル』の主人公、サム・ラウリーは幸福な妄想の中に永遠に封じ込められた。二度と現実世界と関わることはない。しかし彼の方が僕の目にはよほど幸せと映る。絶望に満ちた現実を見ることなく自分が体験したいと念願する妄想の中に生き続けられる(あるいはその妄想の中で死んで行ける)彼のなんと幸福なことか! 冷たく辛い現実から完全に逃げ果せた彼のなんと幸福なことか! 艱難辛苦の果てに愛する女性を救い出し幸せな生活を獲得(しかもその女性は二度と彼を裏切らない!)した彼のなんと幸福なことか! 生暖かい布団の中から二度と出なくて良い彼のなんと幸福なことか!
 オムライスは旨かった。ちゃんとケチャップで「USB-C」と書いた。現実も捨てたものではないのかもしれないと少し思った瞬間にオムライスが載っていた皿を落として割った。
 いまは一月四日。正月早々僕はまたしても現実の冷たさと辛さを味わった。もういやだ。現実は嫌だ。どうせいつまでだって寝ていていい僕だ。また寝よう。暖かい布団に潜り素敵な妄想の中に暮らそう。水着姿の傳谷英里香ちゃんと南の海で泳いで過ごそう。布団はすっかり冷えてしまったが寝ているうちに僕の体温で生温くなるだろう。遠くから陽気なサンバのリズムが聴こえてきた。まだ現実は楽しいものだと思っていた頃になんども聴いたあのリズム。クレシェンドする「Brazil」のメロディに包まれ僕は妄想の中に完全な生を獲得する。布団の中はどこまでも生暖かくて生易しくて生優しい。

2019年1月2日水曜日

元日や今年もあるぞ大晦日

 あけましておめでとうございます。おはようございます。皆様におかれましては平穏無事なる新年を迎えられたのではないかと想像しては、へっ。つまんねーの。とか思っているというのは全くの嘘でして、私はいつだって皆様の平穏無事と幸福を願っております。もちろん嘘ですけど。
 さて私めの正月はと申しますれば、数年前より正月らしいことを一切しないと決め(というほど決然としたものではなくて自然にそれをしたいという欲求がなくなった)ました故、大晦日に天ぷらそばを手繰ったのを最後に紅白歌合戦も初詣爆笑ヒットパレードも見ずに、普段と変わらぬ暮らしを続けております。ですから朝にはトーストを食し、昼には日清食品の冷凍汁なし担々麺を食し、近所の百均に行ってノートを買い、道で出会った野良猫とだるまさん転んだをやってあすび、夜には藁人形に五寸釘を打ち込むなどしています。
 正月らしいことはほんとしにしていません。御節も雑煮も元より嫌いですし、餅を食うと奥歯の被せ物が取れますし、正月のテレビは『モヤさま』以外に見たいと思うものも特にありませんし、年賀状を書くのもやめてしまいましたし、もうなんにもいたしません。ただただ日常を日常として過ごしています。
 そうはいっても正月というのはやはり偉大なもので、そうして正月らしい行為を一切しなくとも、正月らしい気分というのは心に芽生えてくるもので、たといこんな私であっても、元日の晴れ渡った青空を眺めながら、関東の乾いた冬の空気を胸に吸い込みながら、今年も平穏無事に過ごせたらいいな。今年一年、死なずに生きていられたらいいな。なんて思ったりなんかしちゃったりしてこのぉ。と、文章の始末に困ると決まって用いる広川太一郎節を持ちまして年頭のご挨拶とさせていただきます。本日はおめでとうございました。お二人の未来に幸あれ。

 閑話休題

 正月の意気もなるほど良いものですが、年末のあの忙しない空気、日常がどんどん消失していくあの感じというのも僕は大好きで、だから僕は年末掉尾、官公庁の仕事納めが終わるときまって霞が関から虎ノ門や溜池山王、神谷町や議事堂周辺、さらには赤坂のあたりまでをひとり歩くのです。
 普段、勤め人や役人でごった返しているこれら日本の中心部も、この年末掉尾を迎え仕事納めが済むと、往来を行き交う人々や車の列がぱたりとなくなり、そこにいるのは議事堂や官邸を警備するお巡りさんばかりとなるんであります。あの感じ、まるで日本の中心部がゴーストタウンになってしまったかのような状況・空間がとても好きなんであります。
 昨年末も霞が関を出発して赤坂方面へ向かい、途中、勝海舟邸跡地を通り氷川神社で手を合わせ、官邸の脇を警備のお巡りさんから不審者と目をつけられぬよう「僕は安全な人間です」という空気を醸しつつ歩き、ふうふう云いながら山王坂を上り議事堂をぐるりと半周、正面前で記念撮影をするいやに元気な中国からの観光客の皆さんを眺め、年末で閉門されている国会前庭の前を通り江戸城の方に向かってターン、お堀に向かって坂を降りつつ井伊直弼のことを思い、やがて桜田門から江戸城に入り、やはりこれもいやに元気な中国からいらした皆さんが二重橋前で記念撮影をするのを眺め、このあたりでもう足腰が辛くなってきたからと日比谷の駅から地下鉄に乗ったときには随分みんなくたびれた。あたしもくたびれたよ。なんて、古今亭志ん生の口調で思ったりしながら、極私的年末恒例行事を滞りなく済ませたのでありました。

 閑話休題

 あとあれですよ、冬場の野球場ってのもいいよね。存在がすごく無駄じゃん。だから横浜スタジアムとか神宮球場とか冬になると意味なく見にいったりする。あんなにでかい建物がなんの役にも立たぬまま、ただただそこにある……このことがすごく僕の心を慰撫するン。こんな僕でも生きていていいんだ。という気分になる。

 閑話休題

 話はまじで変わりますが、いまから数年前、SNSが世の中に定着し始め芸能人がそれをすることが当たり前となった頃、それまで芸能マスコミによる虚偽の報道に悩まされてきた芸能人たちが、SNSを使って自ら発言・発信をすることで虚偽のマスコミ報道に苛まれずに済むようになるからSNSは芸能人にとって有用。みたいな意見をよく目にしたものだけれど、あれから数年が経ってみると、その間にネットニュースなる報道スタイル・メディアが台頭したために、芸能人自ら発信したSNSでの発言が、どこかスキャンダラスな雰囲気を纏う「ネットニュース」として逐一取り上げられることとなり、なんつーか、こりゃあ無間地獄。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。講談には詳しくないけれども真打昇進が決まった神田松之丞氏がすごく面白いことはよくわかる。こういう飛び抜けて面白い人が出てくることでそのジャンルが活性化されるのはとてもいいことと思う。惜しくも早逝されたけれども浪曲界に国本武春先生が出てきたときも若い観客が詰めかけた。ちなみに講談師や浪曲師の敬称は先生。と、こういう細かいことを他人に強要したり説教したりするのは野暮のすることだけれど、こういう部分を大切にしない奴・理解しない奴はすごく嫌だネ。
 






ありがとうございました。これからもよろしく。

 とりあえずこのWeb日記と云い張っていたブログは今日でおしまいにします。  閑話休題  昨年の五月、置かれた状況・環境に翻弄されてすっかり減退してしまった創作意欲に再び火をつけて、みやかけおを再起動するのを目的に、ブレインストーム的にブログを始めたのですが、あれから一年...