2019年3月25日月曜日

センチメンタル・ジャーニーマン(実験その3)

 今年の二月上旬に神田明神に行き、滅多に引かないおみくじを引いたら大吉が出て欣喜雀躍した、てなことは以前このWeb日記で書いたことなのだけれども、あれからひと月半以上が経過したが、いまのところ特に良いことは起こっていない。

 閑話休題
 
 改めておみくじの宣託を読むと、あらゆることに良い言葉が並んでいて、逆に信じられないような心持ちになってきた。願望は必ず叶い失物は必ず出るし、待ち人は意外と早く来るし縁談は男子は引く手あまた迷うべからず、と書いてある。しかし昨年から抱き続けてきたささやかな願望は破れ、失くしたPASMO(三千円くらい入っていた)はいまだに出てこない。仕事でもミスばかりしていて周りの人々から呆れられてばかりいる。待ち人は意外に早く来るというから、街を歩いたり電車に乗っていたりするとき、少しいい感じの女性を見かけると「あれが待ち人なんじゃねぇかな」なんて熱視線を送ってしまうから、目が合った見知らぬ女性から変態を見る目で見られ、このぶんでは早晩警察に通報されるだろう。縁談についても迚も迚も……というレヴェルで一本の引く手すら目の前に現れない。

 閑話休題

 こらまったどういうわけだ、世の中間違っとるぅよ、と植木等大人の声音で思ったりしている弥生三月ももう終わりだ。ふと世間を見渡せばすでにちらほらと桜の花が開き始めていて、ああ、春がやってくる。そうして、これまでがそうだったようになにも起こらないままに春が過ぎてゆく。春は辛い。理由と根拠の無い期待感が季節が春になったというだけで煽られ、そうして煽られるぶんだけ、なにも起こらぬ我が身が余計に辛くなる。

 閑話休題

 辛いついでに思い出す、卒業式の日に誰からも第二ボタンを所望されず辛かった十五歳のあの日。なかなか美形だったTさんから第二ボタンを請求された私と仲良しのRくん、なんだかスカした感じで「ずっと憧れてたんだって」と私に云い放った卒業式のあの日。
 しかしその半年後の秋の日、私の家の近所に住まっていたTさん、見るからのヤンキーが運転する原チャリの後ろに所謂ニケツの状態で乗車するような不良となり果て、ついには下校途中の私の目の前でおまわりさんにヤンキーの彼氏共々補導されておった。思い出すだに心嬉しくなって笑顔になる懐かしきあの日。昭和も終わりに近づいていたあの日。

 閑話休題

 って、なんで私はそんな三十年以上も前の話をしているのだ。これもおみくじのご利益がとんと現れぬせいだ。
 しかしとて、如何なおみくじとて万能ではないのだろう。神の御宣託というのは、けして予言の言葉ではないのだろう。かつてイチロー選手が云ったように「毎日コツコツと同じことを繰り返すこと。それこそがとんでもない高みに到達する唯一の方法」なのだろう。

 閑話休題

 ようし、ならば私だってやってやる。コツコツと同じことを繰り返してとんでもない高みにたどり着いてやろう。果たしてなにをコツコツとやり、どこの高みを目指すのかなんにも決めてないけど、なんでもいいからとにかくやろう。おみくじで大吉を引いたことを後ろ盾に、これを自分に対する応援と解釈してなにかをやろう。
 しかしその前になにをやるのか決めなければならん。果たして、これまで無為・無目的に生きてきた私に、そんな目標めいたものが持てるのだろうか。できるかな。うーん……できねぇだろうなあ。こうしてなにをやろうかと思っているうちに人生が終わってしまうのだろうなあ。

 閑話休題

 振り返ってみれば、幼少の砌から将来の夢とか持ったことがなかったもんなあ。周りの皆がやれプロ野球選手だF1レーサーだ電車の運転手だ大きな会社の社長さんだと云っているのに、私ときたら、早いうちに死ななければそれでいいです。どうせそんなすごいことなんか僕できないし。とか云って幼稚園のにじ組担任・原先生に大層心配されたあの日。もうあの頃からなにも為さない人間として世を暮らすことは決まっていたのかもしれない。おみくじで大吉を引いたご利益を受けられぬことは決まっていたのかもしれない。

 閑話休題

 ああ。本当に春は嫌だ。暖かくなって人々が心嬉しそうに振る舞い始めるのを見るのが本当に嫌だ。希望を信じているような顔で過ごしている充実した人たちを見るのが本当に嫌だ。おみくじを信用できなくなってしまうくらいに春は嫌だ。早く春なんか終わってくれればいい。早く五月病とかで苦しむ人々が現れればいい。浮き立っている世の中に身を置くのがまじ辛い。

 閑話休題

 桜の散り際にいつも思う。散るだけの花を咲かせることができる幸運を思えこのくそったれが、と。こちとら散らすべき花も咲かぬままにただただ枯れていくばかりだ。なんだかわからないままに木の幹が腐っていくばかりだ。なにも出来ぬままにどんどん腐っていく自分を、手を拱いて見ているばかりだ。

 閑話休題

 そんなことを思いながら改めて大吉のおみくじを眺める。「見てのみや人に語らん桜花 手ごとに折りて家づとにせん」そこに書いてある文言を繰り返し読み直す。全く意味がわからない。
 併記された解説文には「花見の話をするのみならず、一枝折って家族の人に土産とすれば家庭円満、その心持ちを忘れなければ幸福な生涯疑い無し」みたいなことが書いてある。
 斯くてようやくこの句の意味を、朧げながらとはいえ諒解したが、しかし生憎私には桜の枝を持って帰るべき家庭がない。桜の枝を見せても喜んでくれる相手がいない。くそう。やっぱり春は嫌いだ。なんにもない我が身を余計に意識させられるからまじ嫌だ。

 閑話休題

 はい、実験はここまで。ご退屈様でした。ああ、自分で読んでも変な文章だねぇ。別に普段の暮らしの中で嫌なことがあるわけじゃないんだけど、というかむしろ、いいこともあったりしてるんだけど、それでもどうも春は好かんのですなあ。

 閑話休題

 あれは青島幸男氏が著した『わかっちゃいるけど ーシャボン玉の頃ー』て本の中に書いてあったと記憶するけど、クレージーキャッツの谷啓大人、春になって人々が浮かれてくるとなぜか気が沈んで、その度にクレージーを辞めると云い出す、というエピソードを読んだ時、自分は高校生だったけど、我が意を得たりというのか、大いなるシンパシーを感じて、以来、クレージーの中で誰が好きって谷啓大人が大好きになった。ま、そのエピソードを抜きにしても、あの屈折しまくった感じは放っておいてもファンになったと思うけどね。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。いつものようになんの推敲もしてませんので読み難くってどうもすみません。あ、あと去年末に発表した『グランドール城にて』の後編はくんくんな感じで作っています。来月の半ばには出せるようにやってますので、完成・発表の暁にはまたよろしくお願いしますね。






ありがとうございました。これからもよろしく。

 とりあえずこのWeb日記と云い張っていたブログは今日でおしまいにします。  閑話休題  昨年の五月、置かれた状況・環境に翻弄されてすっかり減退してしまった創作意欲に再び火をつけて、みやかけおを再起動するのを目的に、ブレインストーム的にブログを始めたのですが、あれから一年...