2019年6月12日水曜日

ありがとうございました。これからもよろしく。

 とりあえずこのWeb日記と云い張っていたブログは今日でおしまいにします。

 閑話休題

 昨年の五月、置かれた状況・環境に翻弄されてすっかり減退してしまった創作意欲に再び火をつけて、みやかけおを再起動するのを目的に、ブレインストーム的にブログを始めたのですが、あれから一年が過ぎ、まあ、再起動のプロセスも完了したかな、という実感を得るに至りましたので、ひとまずここでブログ終了ということにいたします。向後は、ふと思い浮かんだことはツイッターで呟き、140文字に収まらないものはTumblrに紛れ込ませるというスタイルでやっていきたいと存じております。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。なにはともあれ、今後とも『ザ・ガーベージ・コレクション』をよろしくお願いいたします。では引き続きまたよろしくどうぞ。

2019年6月7日金曜日

のるかそるか

 久しぶりにツイッターでツイートを再開してから早一ヶ月が過ぎたわけだけれどもまあなんですよ、ツイートやるとブログを書くのが面倒になるね。まあ自分の場合「閑話休題」つって短文の連続でブログを構成しているのがほとんどだから、形式的には変わらんのだけれども、やっぱりこう、頭の使い方がちょっと違う気がするね。どう違うか聞かれてもよくわかんないから具体的には答えられないけど、ツイッターの方が、アップした後にやっちまった感が強くなる気がする。虚飾が少なくなると云うのか、むき出しに近いと云うのか。パッと上げられるだけに後から後悔することが多いような気がする。まあ自分が好きでやってることだから別にいいけどね。

 閑話休題

 キモチップの人っていまどんな気分なんだろうね。

 閑話休題

 どうせ年金が破綻するんであればいっそのことあれだよ、いまの老人たちに若い人たちを養ってもらうようにしたらいいと僕は思うよ。老人の皆さんがもらう年金から、それこそ年金とか健康保険みたいに天引きで幾らかとってそのぶんを若者にやっちゃえばいいんじゃないの。老人の貯金なんか片っ端から国が取り上げちゃえばいいと思うよ。

 閑話休題

 こういうことをツイッターで書くと、私のことを本当に馬鹿扱いをして怒ったみたいなリプライや呆れたようなエアリプライを送ってくる人が現れるから嫌になって、かつて私はつぶやくのをやめたのだった。世の中のことなんか真剣に考えてるわけねぇじゃんか。面白い何かが見つかるといいと思って眺めてるだけ、笑いにつながる要素を見つけようとしてるだけだっつーのに。

 閑話休題

 ツイッターにもちらと書いたのだが、31日間無料だというから、お試しで雑誌読み放題サービスの楽天マガジンに登録をしたのだった。自分はもうおっさんだからおっさんが読むようなエッチな記事が載っている週刊誌を何冊か読んでみた。するとほとんどの週刊誌においてエッチなグラビア記事がカットされている。縦しんばカットされていなかったとしても、水着姿や下着姿の綺麗な女性のグラビア記事、その胸元や股間の部分が悉く灰色の四角で覆い隠されていてまるで昭和の頃のエロ本さながら。昭和の頃のエロ本が隠していたのは法律で掲載することが罷り成らない性器の部分だけだったから、むしろ昭和の時代よりも隠す範囲が余計に広がっていて、これは世の中の進歩なのだろうか退歩なのだろうかと暫し考えていたのだがそのうちに馬鹿馬鹿しくなって考えるのをやめた。こっちの灰色のはバター塗ったって取れそうにないしね。

 閑話休題

 だってそりゃあ山ちゃんはツッコミの天才だからなあ。水道橋博士師がやり始めたボケの解説を含めたツッコミを、バラエティ番組・トーク番組に合うように改変した形で持ち込んで来ちゃったんだからなあ。あんなの出来ないよ普通。知識と臨機応変の物凄さ、使う言葉の的確さとしたら、これはボケになるけど玉袋筋太郎師のそれと双璧だと思うなあ。

 閑話休題

 でも芸能人の結婚の話題とかほんと興味がないや。住む世界の違う人たちのことだしね。

 閑話休題

 WWDCでAppleのから新規なものが色々発表されたけど、うーん、もうテクノロジーそのものが面白い時代じゃあなくなったなあ、という思いを改めて強く感じたね。iPadOSぐらいかなあ、なんか新しい感じがするのは。これからはテクノロジーを使うことで人間が変化していくことが一番面白くなるんじゃないかなあ。たといばSNSが登場してくる以前と以後では人間の生活が変わったような気がするんだよね。意見だったり生活だったりを表明するのが生活の一部に完全に加わったよね。そういう変化がいかに起きてくるかが見所のような気がするね。

 閑話休題

 ほんと、これからはテクノロジーを使いこなす人と、テクノロジーに使われるだけの人との差がどんどん開いてくると思う。SNSだって使わないといけない時代にどんどんなって来てる。自分などもSNSにすっかり出遅れてしまったからツイッターをやっていてもなんだかツイッターに使われている気がして仕方がない。うまく生活に取り込むことができる人とそれができない人との差がどんどん出てくると思う。

 閑話休題

 ちょいと用向きがあって神田に出たから神保町に回って三省堂書店に足を運んだのだがやっぱり店内の活気は大いに失われていて、あゝ、栄華を誇った大型書店が時代の波に飲み込まれていくのを見るような気分になった。書店で無数の本の中から面白そうなものを探すという行為、ブックハンティングと呼ばれた行為はいまでも至極楽しいものだけど、それももう時代とともになくなっていくんだろうなあと思った。

 閑話休題

 いずれ電子書籍をサブスクリプションで利用するのが当たり前になれば、またブックハンティングの楽しさは復活してくるだろうけど、そこまではしばらくの間、世の中で話題になった本ばかりが売れていく状況が続くんだろうね。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。愛用のGooglePlayミュージックに入ったから椎名林檎氏のニューアルバム『三毒史』をこのところずっと聴いている。だからいま僕の脳内ではアルバムに収録されている『神様、仏様』という楽曲で椎名林檎氏とデュェットしている向井秀徳氏が云う「繰り返される諸行無常、よみがへる性的衝動」というフレーズが繰り返されて困っています。

2019年5月27日月曜日

私は告白する。

 あれは自分が二十歳の頃だったと記憶するけれども、朝の通勤ラッシュで身動きの取れぬ千代田線の車内で、自分の股間が誰かにぎゅうと握りしめられるという結構な事態に遭遇したことがあった。
 股間を握りしめられている時には、そのようなことが起こっているとはすぐに感知ができず、うわー、股間がなんか痛い。ぐらいにしか思わなかったのだけれど、霞が関の駅で吐き出されるようにして電車から降りたら、見るからに変態の小男の爺いが好色な目でこちらをみていたから、あの生き物が自分の股間を握りしめていたのだと気付いて途端に怖くなった。翌日から電車に乗る時刻と車両をちょっとずつ変えるなどの対策を講じたりして、次回が訪れないようにと気をつけた。
 そんな目に遭ったことは流石に人には云えず、だからそこから二、三週間の間は心のうちでひとり煩悶するばかりで、だからどこか心ここに在らずの夢遊な感じで生活をしていた。
 無論、そんな自分の経験と軽々しく一緒にすることは出来ないが、今般、女性の皆さんが安全ピンの話題と共に痴漢被害を訴える気持ち・恐怖というのはわかるような気がする。見知らぬ誰か(しかもそれは多くの女性にとって自分よりも明らかに屈強に見える生き物だ)の排泄を無理矢理に請け負わされたような陰々滅々たる気分はちょっと他に例えようがない。

 閑話休題

 すっかり毎朝の愉しみとなった『おしん』もいよいよおしんが東京に出てくる展開となった。座敷女中という名の飯炊き女郎にされるのを忌避するべく、生まれ故郷の山形を捨ててやって来たおしんが行き着いた先は、女工哀史そのままにして肺病で死んだおしんの姉が奉公をする約束になっていた髪結いの店。
 で、そこの女主人を演じているのがかつての名女優・渡辺美佐子なのだが、いやあ、氏が使うその歯切れの良い東京言葉に朝からすっかり聴き入ってしまった。
 そうして聴き入りながら、あゝ、現在、もうこうした東京言葉を完全に使いこなせる女優・俳優はいないと云っても過言ではないよなあと思った。男優の方はまだ歌舞伎役者や落語家など伝統芸能の担い手がいるからなんとかなるけれども、女優となったらほぼ皆無。だいぶん標準語に寄ってはいるけれども天海祐希がいるくらい。
 いまから約三十年前に『極道の妻たち』で岩下志麻が珍妙な関西言葉を使ってから以降、方言が使われるドラマや映画では決まってその方言の出来不出来が話題になるけれども、これが東京言葉となるといったいに話題となることがない。東京言葉を使えない当節の女優がこれをやると東京言葉を字面の通りに発音するから(語尾を〜じゃねぇよ、みたいにするだけ、みたいな)、単に乱暴粗雑な言葉遣いになってしまう。
 いまや東京言葉は完全にドラマや映画から消失していて、他の地域の方言に比べたらその悲惨なことは遙かに甚大なのだが誰も話題にしない。落語や講談や浪曲や歌舞伎があるからなんだろうかね。

 閑話休題

 『ザ・ガーベージ・コレクション文芸部恒例(嘘)映画紹介コーナー』今回は僕が大好き、名匠・ビリー・ワイルダー特集。

 てなわけで、ワイルダーの映画と云われていまパッと頭に浮かんだものをいくつか。

お熱いのがお好き』(1959)
 話としたら至極くだらない、無理ばかりの話なんだけど、映画全体に品があるんだよなあ。大口ジョー・E・ブラウンとジャック・レモンがタンゴを踊る馬鹿馬鹿しい場面のまあ素晴らしいこと。

アパートの鍵貸します』(1960)
 割れたコンパクトで全てを説明してしまう物凄さ。この頃のシャーリー・マクレーンの溌剌たる可愛らしさと云ったらない。全てのセリフが気が利いてる。

情婦』(1957)
 文句なーし。チャールズ・ロートンからグレタ・ガルボからタイロン・パワーからエルザ・ランチェスターから、映画の発端から仕舞いまでもうみんなみんな素晴らしい。

サンセット大通り』(1950)
 キートンなんかのかつての大スターが集まってトランプをする場面がすごく怖い。グロリア・スワンソンの物凄いこと。夢に出てきそう。

あなただけ今晩は』(1963)
 この頃のジャック・レモンとシャーリー・マクレーンのコンビはもう鉄壁で、またサゲがなんとも落語っぽくて……それはまた、別の話。

昼下がりの情事』(1957)
 背伸びをして自分が悪い娘だと云い募るオードリー・ヘップバーンの純情可憐なこと。『魅惑のワルツ』のルーティーンギャグもいい。

地獄の英雄』(1952)
 カーク・ダグラスが生き埋めになっているというのにマスコミや野次馬の酷さと云ったら!

 閑話休題

 という六本をご紹介しましたよ。ビリー・ワイルダーの映画はとにかく好きで、数十に上る監督作品のほぼすべてを観ているのだけれども、どれもこれもよく出来ていてほんと、何度も繰り返し観たくなるような映画ばっかり。誰か一人映画監督を選べと云われたらやっぱりワイルダーになるよね僕の場合。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。映画の紹介をこういう形ですると、すごく自分が頭の悪い人みたいに思えてくるね。やっぱり「僕はこれが好きなんです!」って、映画の紹介じゃなくて、それを観ている自分、それが好きな自分の説明に堕しているから頭悪そうな感じになるんだろうね。そう考えると、やっぱり本物の評論家ってすごいよな。淀長さんとか。解説を聴いてるだけで、その映画を観てみたいと思わせるものね。

2019年5月22日水曜日

また自分語りをしちまったよ。病んでんのかな。

 こんにちは! こんにちは! こんにちは!

 閑話休題

 元気に挨拶をしてみたんである。元気ですかー。元気があればなんでもできる、って、赤いマフラーを巻いて知らない人の横っ面を叩くばかりの猪木しか知らない世代の皆さんはやっぱりちょっと可哀想だと思うな僕ぁ。しかしどうなのかねぇ、昨今のプロレスブームに乗ってプロレスを観出した人に全盛期の猪木の試合を観せたらどんな反応をするんだろうかね。想像するに、全く違うなにかに見えるだろうね。陰湿・陰惨な印象を受けるだろうねやっぱり。猪木とタイガー・ジェット・シンの試合なんてもう、この人たち一体なにをやってるんだろう、どうしてこんな殺し合いみたいなことをやってるんだろう……って思うんじゃないかな。それとも「これも結局はプロレスだから」という観点に基づいて笑いながら観るのかな。うーん、そう観られちゃうかもしれないなあ……。

 閑話休題

 こんにちは! と、打ち込んだ時には猪木の話をするつもりなど全然なかった。

 閑話休題

 そういうわけだから僕はこの数日間、筒井康隆大人著したところの『不良老人の文学論』を読んでいたのであった。筒井氏が物した(その多くは21世紀になってからのもの)、他の作家が書いた小説本の解説文や帯の推薦文や音楽CDのライナーノーツ、谷崎賞や山田風太郎賞の選評、さらには多様な雑誌・書籍に掲載された随筆などが一挙にまとめられている。どの文章もその話題とする幅の広いこと、凄まじいばかりの知識量から弾き出される論評の見事に、その意見の高等にああ面白い。ああ面白い。ほんと面白いまじ面白い。筒井氏が引き合いに出す本をみんな読みたい。各賞の選評において筒井氏が絶賛している小説をみんな読みたい。と、阿呆のように思いながらぐんぐんに読んだ。

 閑話休題

 餓鬼の時分、本を読む大人が周りにいなかったから読書の習慣が身につくまで時間がかかった。十代の頃は読むものといえば『マカロニほうれん荘』『ドカベン』などの漫画、或いは野球やプロレス、パソコンやコンピュータゲーム関連の雑誌・書籍くらいのもの。それらについては相応の分量を読んでいて、従って本屋に赴くこと、本を読むこと自体はけして嫌いではなかった。だが小説本の類は読むに至らなかった。

 閑話休題

 それでも長ずるに従い知識欲が高まってくると小説本に対する興味が次第に湧いてきた。すでに、面白い・これが好きだと自認した上で落語を聴きはじめていた高校三年生の頃、俄然、小説本を読んでみたいと思うようになった。読まねばならぬとすら思い始めていた。しかしそれについて善導してくれる人が周りにいない。学友には今更、小説を読みたいんだけとどうしたらいいかなあ、なんて話をするのも、それまでがそれまでだっただけに気恥ずかしい。

 閑話休題
 
 小説本に対する興味は日を追うごとに増してくる。本屋に行くたびに小説本の売り場をうろつく。だがどこから手をつけていいのかわからない。そんな中で目に留まったのが筒井大人の文庫本『農協月へ行く』。
 当時、小説本というのは皆、国語の教科書に載るようなものばかりだと思い込んでいたから、このタイトルは一体なんだ、ふざけまくっているじゃないか。と思って記憶に留まった。本屋に行くたびにこの本は一体なんなんだろうとその背表紙を見ながら思いを巡らせた。
 
 閑話休題

 平成の始まりから十ヶ月が過ぎた高校三年生の秋の夜、勇気を出して『農協月へ行く』を手に取り立ち読みをしてみる。しかしそれまでに小説本を読んだ経験がないから読み方がわからない。書かれている内容を日本語としては理解ができるものの、小説として理解・把握をすることができない。冒頭の数頁を読んでみたがなんの情景も頭に浮かんでこない。
 やはりダメだ。小説は難しい。そう思って落胆し、結局その日は結城昌治著『志ん生一代』上下巻を買って帰った。この本は古今亭志ん生の評伝で、だからノンフィクションだと思って面白く読んだのだが、今にして思えば"小説・古今亭志ん生"とでもいうべき内容だった。

 閑話休題

 十九歳になって働きはじめた。あまり真面目な働き手ではなかったから、昼休みに職場の近傍にある小さい本屋に赴くのが、息抜きの域を超えた楽しみになった。当時、都会の真ん中にもまだ当たり前のようにあった個人経営の本屋。雑誌の類を立ち読みするのが主たる目的だった。

 閑話休題

 その本屋にあった、けして大きくはない文庫本売り場の書棚。そこにずらりと並ぶ筒井康隆大人の文庫本。赤い背表紙の新潮文庫、薄黄色の背表紙の角川文庫、グレーががった茶色の背表紙の中公文庫、赤紫色の背表紙の文春文庫。いやでも目に飛び込んでくる。当時はまだ筒井大人の世代が小説界の先頭集団だったから、どの本屋の売り場にも大量に並んでいた。だが自分としては『農協月へ行く』の経験から小説本は自分にはハードルが高すぎると思って、読もうという気すら起こらなくなっていた。

 閑話休題

 そうこうしているうちに二年が過ぎて二十一歳になった。仕事はいつまで経ってもしくじってばかりで、剰え恋い焦がれた女の子は夜毎ビリヤードやダーツで遊んでいるような洒落乙な野郎に掠め取られてしまう。小供の時分にイメージしていた二十一歳とはかけ離れた暗澹たる日常。
 そんな鬱積を抱えながら過ごしていたある春の日の昼休み。いつもそうしているように例の小さな本屋に赴き、いつもだったらそうしなかっただろう、筒井康隆大人の文庫本をさしたる決然も無いまま手に取り購入した。よほど鬱積が溜まっていたんだろう。

 閑話休題

 入手したのは『笑うな』というショートショート集。『農協月へ行く』は以前読めなかったという恐怖が残っていたから敢えて避けた。
 退勤の電車の中で早速読み始める。なんてことだ。面白い。ページを手繰る手が止まらない。電車の中だということを忘れて読み耽る。家に帰っても読み続ける。寝る時間を削ってまで読み進め、到頭その日のうちに読み了えてしまった。なんたる面白さ。世の中にこんなに面白いものがあるのかとすら思った。

 閑話休題

 ショートショートは筒井大人の本道ではない。だが小説本を読んだことがなかった自分にはこれが全くもって塩梅がよかった。一つの話が短いからトントンと読み進めることができる。

 閑話休題

 そこからはもう字義の通りに読み漁った。字義の通りに読み捲った。字義の通りに読み耽った。通勤退勤の時間を中心に空いた時間のほぼ全てを費やして、一週間の間に二、三冊のペースで読んだ。筒井康隆なかりせば夜も日も明けぬ、とばかりに読み捲くった。本屋に行くたびに「まだ読んでいない筒井の本はないか」と餓鬼道に堕ちた人のようになって書棚を漁る日々が続いた。

 閑話休題

 小説本を読んでみたいという気持ちを抱いてから、また『農協月へ行く』を近所の本屋で手に取りながらも読み方がわからず落胆してから、数年間にわたって蓄積されていた小説本への思いが爆発したんだろう。そこから向こう二年ほど、二十三歳までの間に、当時書店に流通していた、優に百を超えていただろう筒井大人の小説本を粗方読んでしまった。
 筒井ファンの間で「七瀬三部作」として名高い『家族八景』『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』の三冊など、とある土日の二日間で読み了えてしまった(しかも一冊読み了えては近所の本屋に買いに行き、を二度繰り返した)。三年前まで小説の読み方からしてわからなかったというのに!

 閑話休題

 筒井康隆大人の小説本を熱狂して読んだことで自分のなかに読書の習慣ができた。ここを起点にしばらくの間、乱読に近い形で色々な小説家の小説本を読んだ。もちろん真に読書家たる人に比べれば大した量ではない。読むものも偏っている。剰え、小供の時分に形作られた習慣ではないから、ちょっと気が逸れると数ヶ月もの間、一切本を読まなくても平気になってしまう。それでも小説本を読む楽しさを知ることができた。筒井康隆大人の小説に出会っていなければ、きっと小説本に親しむことが無いままに齢を重ねていたことだろう。そう考えるとちょっと恐ろしくなってくる。

 閑話休題

 それにしても筒井康隆大人の小説本を読み捲った三年間は今思い返してもどうかしていたとしか思えない。あれだけ熱狂して本を読み続けたのは後にも先にもあの時期しかない。一体、なんだったのだろうと今でも不思議に思う。

 閑話休題

 って、だからこんな感じで自分語りをするつもりなんかなかったのになんでこんなことを書いてるんだ俺はぁぁぁぁぁぁぁぁっ。

 閑話休題

 今般読んだ『不良老人の文学論』で、表現の自由について触れている随筆があるのだが、そこに、

「表現が一部の人の特権であった時代は昔のことであり、今や誰でもネットで自分の考えを述べることができる世界なのである。それらを許容できるかどうかは読む人の知識、教養、知性にかかっている」

 とあって、全くその通りと、首の骨がどうかなるくらいに激しく首肯した。情報のフィルタリングを自分でちゃんとやらないと、ネット見てても腹立たしくなったりするばかりだよね。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ようやく再び投打がかみ合い出したよペイスターズ。今永に加えて濱口がポテンシャル通りの投球をしたら途端にチーム全体に流れというかこうすれば勝てる、みたいなムードが出来上がってきた感じだね。加えて東も今日で二連勝。これでうまく先発三本柱で勝ちを計算できるようになればチームが安定してくるだろうね。やっぱり野球はまず投手だよな。







2019年5月17日金曜日

あなたならどうする

 それにしても老人が運転する車が暴走をする事故が後を絶たない。報道を閲するたびに嫌だなあと思う。私の身近にいる老人どもも口々に「自分は運転に自信があるからあんな無残な事故は起こさない」と息巻いている。もうこんなことを云っている時点で完全なる加害者予備軍だ。なにしろこれら老人ときたら、自らが朝に云ったことを夜には忘れているような塩梅なのだから、ブレーキとアクセルを踏み間違えるなどお茶の子さいさいだろうと思う。
 まあ考えてみればこれだけの大量の老人が世の中に存在するという事態の発生は、我が国有史以来初めてのことなんだろうから、いままでにないようなことがどんどん起こってくるとは思う。
 かかる加害者予備軍の老人たちから、自動車や運転免許を取り上げるのが一番いいんだろうが、世の中からリタイアし、為した子供達もその手元を離れるなどして、それが為に誰からも頼られることがなくなり、誰からも認められることがなくなった老人たちにとって、自分の存在を確認する手段、まだまだ自分だって世の中に参画できるんだという自信を得る唯一の手段が自動車の運転をして車列に加わることなんだろうと思う。
 とすれば、これを取り上げるのはほぼ無理なことで、まあ精々この、我々老人予備軍の中年をはじめとするそれ以下の年代の人々が、当節の老人の無残さを目に心に焼き付けて、きっと自分はああはならんぞと心に誓って、未来を変えて行くしか手がないんだろうと思う。「明日は我が身」ってのはマジ真理。

 閑話休題

 しかしなあ、我々、つーか、斯く云う私とて、じゃあ歳をとってインターネットを止めることができるかと云われると、これはうーん、難しいだろうなあと思う。まあ私なぞは性格的にあまり人と関わり合いにならない方だから、人々が蠢いているのを眺めているばかりになるだろうけど、それにしたってインターネットに接続するのをやめることはないだろうなあと思う。

 閑話休題

 それにしても最近、我が身を振り返ってふと空恐ろしくなるのは、たといば、店などで物品を購入する際に、店員の人と交わす短いの会話の中に、つい、この商品を買おうとするに至った自分の経験や来歴を少し話してしまうことがある(どこそこへ行った時に使っている人がいて、それを見たときにすごくいいなあと思ってねぇ。なんて話してしまっている! それも結構嬉しい気分で!)。って、ひぃーっ、これがエスカレートすると、コンビニやなんかの学生バイトに延々と自分の日常のことを嬉しそうに話している老人になってしまうじゃんか! と思って僕は自分が恐ろしくなる。だからなるべく、店員の人などに、個人的な話をしないようにしようと改めて思っているところでありんす。でも老人になって寂しくなってくると、そんな風になるんだろうなあ。いやだなあ。いやなことだなあ。

 閑話休題

 老人の身の上話をいつまでも楽しそうに聞いてくれる優れたAIロボットの登場が待たれるネ。LINEのりんなをはじめいまのAIキャラは喋りすぎだ。必要なのは聞き役だ。

 閑話休題

 十歳のYouTuberねぇ。変に思想的なことを云うあたりがあの餓鬼の限界だね。自分を正当化する為に他の人を貶めるのは年齢に関係なく足らない奴のやることだから。学校に通っている他の子供をロボットとか云った時点で面白くもなんともないもの。これが、十歳はこんなに素晴らしい、ってことをアピールして人気になったら凄かったと思うけど。大人がみんな「うはあ。自分も十歳に戻りたいなあ」って思っちゃうようなそういうトークをして受けたんなら偉かったと思うけど。アハ体験のもじゃもじゃと会ったからってなんなんだよ。そんなしょっぱい体験、ちっとも羨ましくないよ。朝から晩まで河童を探して歩いてた、とかそんな話をされる方がよっぽど羨ましいよねぇ。あるいはなかなかちんこに毛が生えてこなくて心配になってるとかそういう話をしろって。

 閑話休題

 そのうち二歳のYouTuberとか出てくるんじゃねぇの。ニコニコ笑いながらカッパえびせんとか食ってるだけの配信とかでみんながすげー喜ぶ感じの。そうして最終的には胎児のYouTuberだ。

 閑話休題

 でももう子供YouTuberを企画している大人の連中はいるんだろうなあ。そうしてそこで人気が出た餓鬼は齢を重ねていくうちにみんなマコーレー・カルキン(ハリウッド史上最年少のアル中患者)みたいになっちゃうんだ。

 閑話休題

 面白いなあ幻冬社の人。あの言動って、バイトテロがやってることとほとんど変わらないもんなあ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。Netflixにはモンティ・パイソン関連の作品が続々入り、Amazonプライム・ビデオには権利が切れたクラシック映画が続々入り始め、いやー、いい時代になったねぇ。これであとは私が大好きなビリー・ワイルダーやエルンスト・ルビッチの映画がどんどん入ってくるといいんだけどまだ権利が切れないのかな。ルビッチの映画なんか随分切れてそうだけど。ヒッチコックだってイギリス時代の古いのは切れてるみたいだし。こないだもルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』をもう十何回目かで再見したけどやっぱり面白かったもんなあ。How would Lubitsch have done it?

2019年5月10日金曜日

夜空にYOU KISS!

 脳は案外簡単に騙せるのだそうで、たといば、現在の感情とは関係なしに口角を上げるだけで脳は「あ、いま自分、なんか幸せな気分楽しい気分っス。だって口角を上げるというのはそういう気分の時にする行動っスから」なんつって、そういう風に働いてしまうのだそうですよ。するとあら不思議、仮にその時の感情がいやーんな気分であったとしても、いまは楽しい気分幸せな気分嬉しい気分なんだよねー、なんて騙されてしまうのだそうですよ。でもさー、その口角を上げるというのも、その命令を出しているのは脳なわけだよね。だとしたら脳は自分で自分を騙してるの? うーん、ここまで考えてくるといつも軽いパニックに陥る。口角を上げろと命令している脳は確かに俺の脳だけど、口角を上げることで気分がいいと勘違いしている脳は誰の脳なんだろう。なんて『粗忽長屋』のサゲみたいなことになるからみんなもっと古典落語を聴いたらいいと思う。

 閑話休題

 しかし脳が簡単に騙されるというのはなるほどそうかもしれんと僕も思う。たといば僕はもう二十五年以上にわたって内田有紀嬢のことが大好きなんですよ。
 お若い皆さんにとっては内田有紀嬢といえばドラマなどで脇を固める演技者アンパサンド落ち着いた大人の女性(しかも四十代にはとても見えない!)という印象になりましょうけれども、えーと、あれは西暦でいえば1993年ごろ、世の中に勇躍登場した時の彼女といえばこんな感じのショートカットがよく似合う中性的な魅力に溢れたおにゃのこだったわけで、そういう感じの女性を見ると頭の回線が、不良品の良心回路がショートしたときのキカイダーみたいに壊れてしまう僕は、当時、もう明けても暮れても内田有紀嬢だったわけであります。
 なにしろ、芸能人の写真集を買ったのは後にも先にも内田有紀ファースト写真集『YUKISS』ただ一冊のみだったりするわけですよ。いやほんとあの写真集は繰り返し読んだし繰り返し使……いや、あの、ねぇ。

 閑話休題

 そうして内田有紀嬢のことを二十五年もずっと応援しているものだから、いつしかその状況が常態となり、いまでは僕の人間を構成する一要素になっているわけなんですな。
 こういう状態に陥ったとき、自分の脳内でどんなことが起こるかというと、内田有紀嬢を見ると、なんだか古い友人のような、或いは近しい親戚が活躍しているのを見るような気分になってしまうのですな。
 これはやはり脳が騙されているのだと僕は思う。知り人でもなんでもなく、ただただ一方的に見ているだけの彼女のことを、友人知己どころか親戚とすら思ってしまっている(もちろん薄っすらと思うだけだけどね)のだからもうこれは完全に脳が自分で自分を騙してしまっているのだと思う。
 とはいえまあ世の中を騒がせる数多のストーカーの皆さんや、実際に迷惑行為に及ぶような行き過ぎたファンのようにはなってないからまあいいかと思って、今日も今日とて、ああ、有紀ちゃん頑張ってるなあ。とか思っているくらいが関の山なのでまあたぶんセーフ。

 閑話休題

 そういうわけだから僕はこれからもどんどん自分の脳を騙していこうと思う。とりあえずは、自分は面白いことを考えられる・作れる人間なんだと思って、積極的に脳を騙していこうと思う。でも、そうして俺の脳を騙している脳はいったい誰の脳なんだろう。って、また『粗忽長屋』に戻っちゃう。

 閑話休題

 でもあれですよ、内田有紀嬢が吉岡秀隆氏と結婚したときには特になんとも思わなかったけど、氏と離婚をしたときには部屋でひとり、拳を突き上げ「俺にもチャンス到来」とかわけのわかんないことを思っていたからあの頃の俺の脳は相当にやばかったんだと思う。

 閑話休題

 話は変わるがまじ面白いなあ『おしん』。本放送がされた1983年には自分はもう小学六年生だったけど流石にちゃんと、YouTuberにもなることなく小学校に通っていたから朝ドラは観ていなかったし、その後、数回あった再放送も特段見逃していた。加えて橋田壽賀子の書く脚本なんて所詮井戸端会議をそのまんま書いてるみたいな脚本なんでしょう……と、見もしないで決めつけていたしね。ところがどうですか『おしん』はまじスタートからフルスロットルみたいな展開で、おしんに降りかかる人生の出来事にもう惹きつけられっぱなし。いやいや、ほんと、なんでも決めつけちゃダメだね。

 閑話休題

 『なつぞら』はもう観るのやめちゃった。『半分、青い』とは違う感じで「いったいいま自分はなにを見せられているのだ」感がすごくなってきちゃったからね。

 閑話休題

 それではそんなことでお後がよろしいようで。まだいろいろ書こうと思ったんだけど眠くなってきちゃった。じゃあ一足お先におやすみなさい。寝る前に枕を三回叩いてから寝ると好きな人が夢に出てくるというからそうして内田有紀嬢が出てくるのを待望して寝よう。おやすみー、と枕をトントントン。








2019年5月5日日曜日

ザ・総括(赤軍的な意味じゃないからねッ☆)

 自分語りをしたい日もあるさ。

 閑話休題

 2002年の秋、それまで運営していたウェブサイトに行き詰まりを感じて一旦閉鎖した。当時の流行だったテキストサイト(日記形式のサイト。ブログの前身みたいなもの)の形式で運営していたのだが、もっと作品の要素が強いものをたくさん作りたくなった。しかしそれまでのサイトのスタイルでは、それをするのにそぐわない。そうしてリニューアルを前提とした閉鎖だったから、その時点で再開後のサイトはイメージしてあった。

 閑話休題

 リニューアル後のサイトの名称は閉鎖をする時点で、現在のものにすると既に決めてあった。正しい表記を期するのであれば「ガベージコレクション」ということになる。元々の言葉の由来はプログラミングの技法のことだが、この言葉にインスピレーションを受ける直接のきっかけになったのは八〇年代の中頃、中学三年生の時に読んだパソコンゲーム情報誌『ログイン』に連載されていたコラムのタイトルだ。当時、その言葉の意味するところはわからず、さらにインターネットもない時分だから調べることもできなかったが、なんか響きの格好いい言葉だなとずっと頭に残っていた。だからこれを新しいサイトのタイトルにしようと速断に決めた。

 閑話休題

 しかし実際に文字に起こしてみるといまひとつピンとこない。ロゴを拵えてみるが、私のデザイン能力の不足とも相俟って、どうにもパッとしない。苦心惨憺の末、ガベージをガーベージにしたら少しましになった。もう一声、という感じがしたから頭にザ、をつけたらピタリとはまった感じがした。斯くしてサイトのタイトルは『ザ・ガーベージ・コレクション』に決まった。サイトの評判が上がったときに「ガベージコレクションだろ」とコメントされているのを幾たびも目にした。

 閑話休題

 閉鎖したサイトを運営している頃は、ハンドルネームを本名に近いものにしていた。せっかくサイトを一新するのだから名前も変えるのは当然だと思った。加えてこれは今でもそうだが、可能な限りネットとリアルを分ける姿勢を貫いているから、その観点からもハンドルネームは是非とも変えなければならないと思った。かてて加えて私の本名はどちらかといえば珍名さんに属する方だから個人が特定されやすい。その観点からも変えなければならないと思った。

 閑話休題

 しかしハンドルネームがなかなか決まらない。数百という候補を考え、紙に書いてみるなどしたのだがどれもピンとこない。その中の一つに「森旬(もり・じゅん)」というのがあって、これが森繁みたいでいいかもなあ、と思ったのだが、人間の名前っぽさが残っているのが気恥ずかしく、結果気に入らずどうにも決めきれない。そうして決めあぐねているうちに頭の中が破裂しそうになって、これはたまらんと部屋のベッドにごろりと寝転んだ。2002年冬、小春日和の土曜午後。

 閑話休題

 気分を変えようとベッドの傍に置いてあった当時愛用のiPod(第二世代)でシャッフル再生をした。かかったのは三代目三遊亭金馬が演ずる古典落語『居酒屋』。縄暖簾に醤油樽、そんな江戸風情な居酒屋に入ってきた酔っ払いを迎えた店の小僧、大神宮を祀ってある神棚の下の席に座れとの意味で「宮下へお掛けねがーい」と頑是ない調子で云う。楷書のような芸と評された三代目金馬の芸に乗せられ私の頭の中でぴかりと電灯が点いた。

 閑話休題

 「みやしたかけお」という名前が閃いた。なんとなく語呂がいい気がして頭の中で繰り返し名乗ってみて更には紙に書きつけてみる。かなりいい感じだがやはりみやしたの部分が平常の人間の名前みたいで気に入らない。更には私の高校時代の同級生に宮下某というのがいて、これがクラス全員から嫌われている了見の悪い男児であったから縁起が悪い気もした。だからみやしたは駄目だと思った。

 閑話休題

 みやしたかけおの字面を頭の中でアナグラム的に動かしてみる。「みやかけお」という字面になったところでこれだと思った。「みやした」から「した」をとっただけなのに人間っぽさが随分消えた。紙に書き付けるまでもなくハンドルネームはこれに決まった。それから十五年以上もこのハンドルネームを使っているから、いまでは自分のアイデンティティの結構な部分を占めるようになった。自分でもいい名前だと思う。曰くがありそうな印象を与える名前だと思う。実際はこういう塩梅で曰くなどなにもないのだけどね。

 閑話休題

 二〇〇三年四月二十九日にリニューアルしたサイトを公開した。なんだか逃げたくなって公開したその日は東京ドームに行って日ハム対近鉄のゲームを観に行った。近鉄の四番打者が中村紀洋だったのをはっきり憶えている。帰宅したら、閉鎖前のサイトから観てくださっていた幾人かの方からお祝いのメールが届いていた。同じ年の六月、当時当たり前にあったホームページ紹介のサイト、そのトップページに掲載されてアクセス数が急峻に増大、当時利用していたサーバーの転送容量を超えてしまい、周章てて転送容量に制限のないサーバーに移転した。

 閑話休題

 図らずも、自分のやっていることが時代に合致していた。YouTubeもなければSNSもない。スマートフォンが世の中に登場するのはまだ何年も先の話。そうした時代状況の中、持たざる人々が作品を他者に見せようとするならば、サイトを作ってそこで公開するのがスタンダードな状況だった。サイトを持つことが人々の注目を集めることに繋がる時代だった。さらにはFLASHというアニメ・動画作成のツールが登場して、当時の脆弱な通信環境でも動画やアニメを発表することができるようになり「FLASHアニメ」が大きな潮流となった。そんな時代にうまく立ち会うことができた。結果、その後の数年間で、サイトを作らなければけして見ることができなかっただろう風景をいくつも見せてもらうことができた。雑誌でサイトが紹介され、FLASHアニメの上映イベントで出品&登壇させてもらい、テレビに出させてもらい、動画作品の連載を持たせてもらった。

 閑話休題

 二〇〇五年ごろだったか、YouTubeが伸してきたのを知ったときには、時代が音を立てて急カーブに突入していくような感覚を覚えた。もうこれまでのやり方が通用しなくなると直覚的に思った。その後ニコニコ動画が現れたときには個人サイトで作品を発表するやり方はもう終わりだと思った。さらにはブログが一般的になり、mixiを嚆矢とするSNSが花開くにつれて個人サイトの文化は実際に廃れていって、スマートフォンが市民に行き渡る頃には完全になくなった。気づけばあれだけ流行したFLASHももうない。

 閑話休題

 そんな時代の変化の最中にあって私は大きく体調を崩した。それまでにいただいていたいくつかの引き合いは、本業ではなかった気安さを盾に、不義理を承知で割と簡単に諦めてしまった。しかし体調が落ち着いてくるとまたなにか作りたくなった。すでに個人サイトは歴史の中でその役割を終えていたが、私がやれるのはそれしかなかった。さんざ作ってきた動画を作るつもりはもうなかった。また、私が持っている程度の動画作成の技術では到底太刀打ちできないところまで時代は進化してしまっていた。また、私の興味自体も他のところに移っていた。

 閑話休題

 サイトを始めるにあたり、私がやりたかったことのひとつに、コンピュータでしか表現できない作品というものがあった。『十億アクセスの彼方に』など、既存のメディアには当てはまらない、ジャンルの鬼っ子みたいな作品だ。そもそも私は動画や小説といった、既存のジャンルの何かを作りたいと思っていたわけではなかった。コンピュータで表現できる面白い何かを作ることを希求していた。だからこれからはこうした、インターネットをパスティーシュするような作品を中心に作っていこうと思った。時代には乗れないだろうと思ったがもうそこはいいと思った。

 閑話休題

 その後は好きなことを好きなようにやっている。客としての自分を喜ばせるためにやっている側面が大きくなった。そうしているうちにさらに洒落にならないレベルで体調が悪くなったりもしたのだが、それもまあなんとか持ち直して平常に近い感じで暮らしている。サイトを辞めようと思ったことも幾たびかあったが、これまでの経験から人間案外なんとかなるもんだと思って辞めずに続けている。ここへ来てだんだんまた楽しくなってきた。

 閑話休題

 私が創作を始めた原点は八〇年代中頃、雷に打たれたようにパソコンが好きになったことにある。十五歳の頃だ。パソコンがあれば面白いことができる、他では体験できない面白い時間が過ごせる、そう感じて毎日を過ごしていた十五歳の自分に突き動かされて、いまだにサイトを辞めることができずにいる。なにかを作ることを辞めることができずにいる。きっと死ぬまで辞めないんだろうと思う。

 閑話休題

 自分語り乙。ってのも懐かしい言葉ですないまとなっては。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。有楽町のビックカメラって、元が歴史ある有楽町そごうの居抜きだから、建物の作りが結構古くて、トイレなど、現代の常識ではありえない感じで段差があって面食らうんだよね。こないだ足を運んだ時には、まあほんと、二十年ぶりぐらいに「段差がないと思って歩を進めたら段差があって空足を踏んでガクンとなる」経験をしたよ。危なかったけどなんか懐かしくって嬉しくなっちゃったもの。




ありがとうございました。これからもよろしく。

 とりあえずこのWeb日記と云い張っていたブログは今日でおしまいにします。  閑話休題  昨年の五月、置かれた状況・環境に翻弄されてすっかり減退してしまった創作意欲に再び火をつけて、みやかけおを再起動するのを目的に、ブレインストーム的にブログを始めたのですが、あれから一年...