2018年11月25日日曜日

記憶は巡るよどこまでも

 お寒うございます。と挨拶をしたいところですが台風の発生によりしばらく暖かい日が続くとの由。異常気象という言葉が使われなくなって久しい昨今ですが、どう考えても今年は異常気象だよねぇ。吾輩が幼少の砌など、テレビでもラジオでも、ちょっと季節外れの陽気が続くと「異常気象ですねぇ」なんて云っていたものだけど、ひょっとしたら、異常気象という言葉が放送禁止になったのかもしれません。まあ、そんなこたあどうでもいいんですがね。どうでもいいことならいちいち云ったり書いたりしなければいいんですが、人間なんてそんな簡単に割り切れるもんじゃないでからね。まあ、意味のないことをやって一生を終えてゆく。これが人間ということなんでしょう。

 閑話休題

 そういえば先日、NHKBSプレミアムで<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%B9_(%E3%83%9B%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%A7%E3%82%AF%E3%82%B0%E3%83%9E)" target="_blank">しろくまピース</a>のドキュメント番組が再放送され、あの番組が大好きな僕はそれを録画して視聴したのだった。しかしね、あの番組、僕が初見した時には、一歳を超えて大きくなったピース、親と認識している飼育員の方と離れ檻の中で暮らしていたピースがストレスからなのか、プールの中で引き付けのような状態を起こし、飼育員の方々が大慌てで引き上げる場面が放送されていたと思うのだが、今般もやはりその場面はカット、ナレーションでそういうことがあった、という具合に放送されていた。カットされたことに関しては別段良いとも悪いとも思わないのだが、こうした事例を目にするたびに、番組を作る人たちも色々大変なのだろうなあ、と思う。ましてこれだけ一般人とネットニュースが喧しい時代にあっては、まじ大変なんだろうと思う。

 閑話休題

 近頃はテレビのバラエティ番組を腰を据えてまで観ることがほとんどなくなったのだが、昨日放送された『細かすぎて伝わらないモノマネ選手権』は久々にぶっ通して観た。面白いことは面白かったのだが、うーん、でもこの内容だともうyoutubeでよくね? とも思った。もちろん、テレビ番組として仕上げる為のパッケージングというのか、選別され調理され器に盛られた状態で放送されているわけだから、ネット動画とは比較にならないほど当該番組の方が内容は高等。しかしながらネット動画における、視聴する側が見るものを取捨選択するという形式がすでに定着している以上、やはりこういうゴングショー的な内容は、もうネットにはかなわないのじゃないかと思いながら見た。
 そうしてまた、いまの時代の空気を吸い込んで育ちつつあるいまの小学生たちには、もうテレビの面白さは届かないと思う。相手にすらされないと思う。動画を視聴するための一形態として認識されるのが精々だと思う。

 閑話休題

 上の考えが極論であることは承知なんだけど、時代ってのあ、変わり始めたらもう行くところまで行かないと止まらないんだと思う。あとはそこから揺り戻しがあって、なんてのかな、そうして螺旋状に登っていくんじゃないかね。

 閑話休題

 あのう、詳しいことはよくわからんのですが、ゴーン前会長って要は追い出されたんじゃないの。クーデター的なことなんじゃないの。でもゴーン会長のあの顔は何遍見てもすごいよね。猛禽類の顔してるもの。日産の社員の人たちは絶対、ゴーンさんの顔真似をしたことあるよね。

 閑話休題

 久しぶりに『王様のレストラン』をぶっ通して観たのだけれど、いやあ、やっぱり面白いなあ。脚本と演出と演技の三竦みによる相乗効果がすごいね。出来上がりすぎてて不満が出てくるくらい。ただあれだね、ラストの『あなただけ今晩は』のパロディのキャラクター、あれがテレビドラマにおける三谷幸喜氏と一般視聴者との乖離のはじまり、という感じがどうしてもしちゃうけどね。2000年ごろに放送された『合言葉は勇気』なんてすごく面白かったけど、やっぱりもう、そのころの日本のテレビドラマが必要としている時代の空気に合わなくなってたものね。まあその後に脚本を担当された大河ドラマでは素晴らしいのを作ったけれど。

 閑話休題

 このところ自分の記憶を辿るようなものばかり観ています。先日も大好きな映画の一本である『ワンダとダイヤと優しい奴ら』の廉価版ブルーレイが発売されたから早速入手しましたしね。面白いから是非ともご覧になってくださいな。千円で買えるし。『モンティ・パイソン・フライング・サーカス』的な常軌を逸したギャグと『フォルティ・タワーズ』のロジカルな笑いが渾然一体となった奇跡みたいなコメディ映画だから。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。なんか久々にジャイアンツがFA選手をたくさん掻っ攫っていて、いいねぇ、やっぱり金にモノを云わせてこそのジャイアンツだよ。でも落合から清原から広沢から江藤から小笠原から村田からみんなみんな最後は石もて追われるように退団するんだ。ジャイアンツのFAはそこまでがセットだからね。

2018年11月18日日曜日

体は硬いが頭も固い

 歳をとって何がいけないって体力がなくなるのが何よりいけない。体力がないから気力が続かなくなる。気力がなくなるからいろんなことがどうでもよくなる。若い時分であればいちいち癇に障っていたようなことも、まあいいじゃない。なんつって安易に流してしまうから何も頭に残らない。何も頭に残らないからじねん、ものをどんどん考えなくなる。そうしてどんどん頭を使わなくなる。自分にとって必要なことだけを考えるようになる。面白いことというのは得てして自分とは関係のないところから出てくるから、畢竟、面白いことが浮かばなくなってくる。けれども面白いことを浮かべて生きてきたこれまでがあるから、頑張って面白いことを思い浮かべようとする。しかしその時にはもう頭は働いていない。そこに無理が生ずる。無理をして思い浮かべたり考えたしたことは往往にしてつまらない。つまらないから考えるのを止してしまう。気がつくと今日の昼飯は何を食べようとかそんなことばかりを考えているようになる。こうして人はだんだんつまらなくなっていくんだろう。全ては体力の問題だ。

 閑話休題

 しかしそういう体力を失ったダメなおっさんが、一生懸命に無理をして面白いことを考えたり作ったりしているということろに、こんだ違った面白みが出でくるから面白いということはまことにもって厄介且つ面妖だ。

 閑話休題

 そうして無理な感じで作っていた次の作品もどうにか来月には公開できそうだ。死ぬまでに一度は連続ものを完結させるという経験をしてみたいのでね。

 閑話休題

 一昨年までは年に一度くらい、決まって拙作『十億アクセスの彼方に』のアクセス数がトーンと跳ね上がる時期があったのだけれど、去年今年とそれがない。十四年も前に作った作品だからここまでたくさんの人に見てもらえただけでもう充分なんだけど、うーん、ネットリテラシーの基底が数年前とは何か変わったのかも知らんなあ、という気もしている。プライバシーの一部を公開することが人々の生活の中に完全に組み込まれたような気がする。またそのプライバシーを上手に切り売りすることを生業としている人も既にたくさんいるわけでね。

 閑話休題

 結局自分なぞはインターネットを特別なものと思いすぎている。だから今の状況についていけなくなっている。若い連中はインターネットなんて我々のテレビ以上に当たり前のものとして付き合っているのだから全然敵わない。自分なぞは八〇年代中頃、初めてパソコンを手に入れたあの日の感激、その延長線上にインターネットがあるからどうにもならない。何れにせよあの頃から二〇〇〇年代の中頃までの、新しいメディアというか時代が出来上がっていく時間、生活の一部にコンピュータやインターネットが入り込んでゆくまでの時間はあまりにも楽しすぎた。ITなんて言葉すらないような頃、時代そのものが若くて未熟だったし、同じように自分も若かった。面白い時代に長く居過ぎたよ。

 閑話休題

 どうだ。いいおっさんがここまでネガティヴだと読んでて嫌になるだろう。参ったか。参ったって云え。云わないとこっちが参っちゃうぞ。まいっちんぐ。

 閑話休題

 如此くおっさんというのは、中年というのはネガティヴになりやすいんである。だからこそせめて世の中での振る舞いは機嫌よくしていなくてはならんと思う。おっさんがネガティヴで不愉快にしているというのは、その人が存する環境にとって、まことにもって迷惑千万。中年こそ頑張って上機嫌でいなくてはならんと僕は思う。楽しそうに振舞っていなくてはならんと思う。

 閑話休題

 あのー、路線バスなんかに乗っていると、中学生の部活の集団に嬉しそうに話しかけるお年寄り、という図を頻繁に目撃するのだけれども、あれなんで話しかけるんだろうね。中学生が年寄りと話したがってるわけないのにねぇ。ああいう年寄りには絶対にならんと改めて思った。

 閑話休題

 東京は町田市にまで足を運び、久方ぶりに立川志らく師の独演会を聴きに行ったのだった。『親子酒』と『芝浜』の二席を存分に聴かせてもらい大いに愉しんだのだった。『親子酒』の方は師が若い頃から積み上げてきた現代的なギャグがふんだんに詰まった”志らく落語”のそれで大いに笑った。改めて現在の落語、そのギャグの部分を切り拓いたのは師の落語だったと思った。『芝浜』の方は談志家元のそれを不図思い起こさせるような立川流正調とも云いたくなるようなものであった。そう云えば志らく師は家元が亡くなった後「自分の体を借りて師匠が何か云えばいい」みたいなことを云っていたっけ、と思ったりもした。それはまあ家元の『芝浜』は最終的に古典落語の域を遥かに超えてしまう物凄い作品になっていた。しかしあと十年くらいしたら志らく師の『芝浜』も、家元のそれとは全く違う形で古典落語の域を超えるものになるのじゃないかと思った。

 閑話休題

 その独演会で私の座った席のすぐ前に、お一人でいらしたらしい、総白髪のお婆さんが座られていた。後ろからだからお顔は拝見できなかったのだが、頭や体の動く様子から、大変に笑いの感度の高い方のようで、志らく師の時事ネタを含んだひどく現代的なギャグに的確な反応で笑っていて、嗚呼、自分もこういう年寄りになりたいと思った。

 閑話休題

 しかしこうして志らく師世代の落語家を見るたびに感じるのだけれど、八十年代から九十年代初めにかけてというのは、若者の視界に落語が入る時代ではなかったように思う。世の中を席巻した漫才ブームの影響がひどく強かった頃で(というか強かったどころじゃない。あの頃できた笑いが今の笑いのベースになっている)、漫才を中心とした「お笑い」は世の中の中心にあったが、落語はその隅に追いやられていたように思う。そういう時代状況にも関わらず、昇太志の輔談春志らくたい平喬太郎彦いち白酒白鳥三三などといった現在の落語界を支える人材が続々入門してきた(落語家は辞めてしまったが伊集院光氏もそうだ)というのは、一体どういう塩梅なんだろうと、いつも不思議に思うんである。やはりこうした人たちというのは、あの時代に落語家を選択するという時点で端からセンスが違ったんだろうなと思う。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。はは。BGMで流しっぱなしにしていたグーグルプレイミュージックがクレージーキャッツの『実年行進曲』を再生し始めたよ。がーんがん いこーぜ まーだこーれーかーらーさー。




2018年11月12日月曜日

襤褸は着てても心の高等遊民

 お元気ですか。僕はそこそこ元気ですが根本的に元気ではありません。無理をしています。嘘です。僕が無理をしているとすればそれは生きることそのものについて無理をしていると云えましょう。「言」という文字が僕は嫌いだ。ゲジゲジみたいでなんか嫌だ。上から二番目の横棒がちょっと長いのもこの文字を考えた奴の「意匠に凝ってみました」みたいな感じがしてなんかむかつく。たった一文字がところ使うだけでゲシュタルト崩壊を起こすような気がする。だから成る可く「云」という文字を使うことにしている。人はそれをこだわりと呼ぶのだろうがいやいや、こんなものはこだわりでもなんでもない。生理的に無理。という、若い女性がキモいメンズを一刀両断する時の便利な言葉と同じことで生理的に無理。まじキモい。しかし僕とて現代に生きる人間だから「言」と言う文字が世の中で平気に使われていることに対しては生理的に無理な感じは何らない。全然平気。書籍でもネット記事でも、たとい「言」が使われていても平気にガンガンに読む。だからなんだと言われるとやはり困る。困る。って、うわあああああああああっ。「言」を使ってしまった。もう生理的に無理。無理。生理が無理。生理も無理。生理だから今日は無理と云われ残念に思った若かったあの日。生理生理と繰り返し書くうちに精神がゲシュタルト崩壊を起こす。言言言言言言言言言言言言言言言言言言言言言。起こした。ゲシュタルト崩壊を起こした。俺を殺すにゃ刃物は要らぬ「言」を並べりゃそれでいい。なーんてなことを思っているうちに今日も日が暮れていく。なにもしないままに一日が暮れていく。「言」「云」のことばかり思って日が暮れる。秋の日は釣瓶落とし。秋の日は岩石落とし。釣瓶取られて貰い水。お水をください。僕にお水をください。この文章のゴールと同じくらい今の僕にはお水が必要なのです。お水。お水と云ってもそれは水原弘ではありません。はー。くっさめ。精神がゲシュタルト崩壊したからもう何も考えられない。生理的に無理。

 閑話休題

 相変わらずRPGツクールをいじっている。シナリオの打ち込みは終わったがBGMの付け方、タイミングでどうしたものかと困っている。なにしろゲームを作るツールで舞台劇みたいなのを拵えているからどうも収まりが悪い。まあ何とかなるだろうけど。まあのんびりやろう。皆さんものんびり生きてよ。

 閑話休題

 彼の国の人々のみならず我が国の人々の中にも、一度こちらが謝るとそれに味を占めて同じ事柄についていつまでも謝れと云い募る、乃至は他の件についても譲ることを要求してくる人というのはやはりあって、そういう手合いとは成る可く付き合わないのがいいと思うのだが、残念なことにそういう手合いというのは、物心両面に関わらずこいつぁたかれる相手だ、と思うと際限なくたかろうとして寄ってくるからまじ迷惑ですね。付き合うのやめちゃえばいいんだけど浮世の義理というのがあってなかなかそうもいかない。

 閑話休題

 しかしあの侍ジャパンっていうのはなんとかならんのかね。MLBのオールスターの方がどう見たって格好いいじゃん自由な感じ、エンターテインメントの感じがして。オリンピックに向けて印象を強くしたいんだろうけど、どう考えてもNPBオールスターで対戦した方が断然格好いいよ。侍ジャパンってアマチュアリズムの感じが色濃く横溢してして観ていて全然面白くない。というかMLBのオールスターを呼んで侍ジャパンで対戦してるなんて観ていて恥ずかしくなる。
 プロこそ遊びの要素、エンターテインメントの要素、芸の要素がなくっちゃあ全然つまらない。それがなかったらプロとしての存在価値がないとすら思うよ。

 閑話休題

 だいたい今の日本人の大半は野球なんか相手にしてないだろうよ。

 閑話休題

 あとあれ、日米野球になると決まってグラウンドレベルに近い良席にダークなスーツを着込んだ人たち、如何にも何某かの関係性から良席に座っている人たちが陣取るのも凄く嫌だ。実際に日米野球を観に行くと方々で名刺交換をしている姿が見られて凄く嫌だ。観客席が野球のことが好きな人で満たされないのが凄く嫌だ。

 閑話休題

 そういやアジアシリーズってやめちゃったのかね。台湾あたり、いっそNPBのリーグ戦に入れちゃえばいいのにね。ずーっと最下位でも入れてるうちに強くなるよきっと。橋渡しをするには最適な王選手が元気なうちになんとかしないかね。

 閑話休題

 観るのはもう四度目くらいになるのだが嘗ての名作テレビドラマ『<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%8B%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%81%8A%E5%89%8D%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84" target="_blank">淋しいのはお前だけじゃない</a>』を全話観た。素晴らしいドラマに共通する要素だが、何度観ても初めて観たときと同じように感情が揺すぶられる。そうして観るたびに新しい発見がある。
 このドラマ、数ある西田敏行主演のものの中では最高と思う。この時の西田敏行氏が僕は一番好きだ。森繁的な変幻自在が存分に楽しめる。そうしてまた、西田敏行氏の妻を演じる泉ピン子氏にまで泣かされるのだからもう困ってしまう。
 それはまあ今の目で見れば物語の展開に、強引に過ぎるところ、完全に解決した感じがしないところなど感じられるのだが、それははっきり云って些細なこと。それよりもこのドラマを範として三谷幸喜氏やクドカン氏がその上に積み重ねることで今のテレビドラマが形作られてきた、ぐらいな、現代のテレビドラマの礎となるような名作であり、ここからテレビドラマの新たな歴史が始まった、ぐらいの大袈裟を云いたくなるほどの素晴らしいドラマ。機会があったらぜひ観るといいと僕は思う。

 閑話休題

 しかしあれだねぇ、随分前に芸能界を引退した橋本奈々未なんて、今頃は一般人として普通に誰かと付き合ったりしてるんだろうねぇ。これだけアイドルが増えてくると、彼女のように自らの意思で芸能界を引退してゆく女性も増えてゆくわけで、そうした人たちのその後の人生を思うとどうにも変な心持ちになる。これが昔の売れないアイドルみたいに夢破れて芸能界を去って行くのであれば、その後、一般人として生活して行くことになんらの違和感も覚えないのだけど、まだまだ芸能人として活躍する余地があるのに自らの意思で辞め、一般人の中に入って生活していることにすごく違和感を覚える。普通に生活していて周囲から浮いちゃわないのかな、と思う。
 まあそんな風に考えるのも、僕が芸能界を特別な世界、堅気・世方が住まう世界とは一線を画した場所であると認識しているからなんだろう。売れているのに自らの意思で辞めて一般人として生きていくアイドルというのは、芸能界をそれほど特別な世界だと思っていないんだろう。又、観る側にしてもいまの若い人などは芸能人もTikTokの人気者も同じようなものだと思って見ているんだろう。

 閑話休題

 そういう感じで辞めていった一番最初はやっぱりおニャン子の<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E7%BE%8E%E6%98%A5" target="_blank">なかじ</a>になるのかな。『じゃあね』っていい曲だと思うよ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。いや僕はむしろAIに支配されたいね。

2018年11月7日水曜日

裏が表か表が裏か。

 RPGツクールMVの使い方がなんとなくわかってきた。しかしながらゲームを作るツールでゲームではないものを作っているからどうも収まりが悪いような気もする。まあなんでもいいか。面白いのができるといいな。絵も描けないし音楽も作れないし文才もないからまあこういうことをやるしかない。ネットを題材にした作品はこれがひと段落したらやるつもりだが根が怠け者だからどうなるかわからない。まあ好きでやってることだからまあのんびりやるよ。皆さんも是非のんびり生きてください。

 閑話休題。

 なんですか来年の今頃には消費税がぐんぐんに上がるということで今から慄然としている。さらに聞けば我が国のお上の皆さんは消費税を上げることによる景気の冷え込みを避けるために、なんのポイントだかよくわからないポイントをくれたり、商品券を配ったりしたらどうか。なんてなことを発案し喧々諤々の議論をしているという。
 私は思う。あのさあ、ポイントを余計にくれるとか商品券をくれるとかって、感覚が近所の商店街のレベルだよなあ。この人たち、本当に国家百年の計とかを考えて政に当たっているのか知らん。と、割と真剣に思ってしまうのでありますよ。真面目にやれ真面目に。

 閑話休題

 あのほれ、子供みたいな顔をした青森の市会議員だかなんかが、いわゆる裏垢で人非人めいた発言をしていた廉で世の中から鋒鋩打たれていたけど、私みたいなインターネット敬老会の人間からすると、ネット上の人格や存在そのものが、リアル世界での自分とは異なる裏面なんじゃねぇかな。と思うのだけれども、今や世の中はブロガーが職業として認められライバーが専業で喰っていけるような時代なのであって、ネット上の人格や存在そのものが裏面、なんて云っているのはやはり相当な時代遅れなんだろうなあ、とも思う。まあ私なぞはもう人間がレガシーになってしまっていますがね。はは。

 閑話休題

 そういや野村克也が「時代と年齢には絶対勝てない」と云っていたけど、いやほんと、その通り。

 閑話休題

 Netflixで観た『殺人者への道』シーズン2、本当に面白いからみんな観たほうがいいと思う。これを観るためだけにNetflixに入ってもいいくらいだよ。

 閑話休題

 やっぱりMacはminiに限るなあ。iMacやMacBookはもう向こう側に行ってしまった感じ。

 閑話休題

 いまから十五年くらい前はApple製品を選ぶ人というのはとりあえず人と同じなのは嫌だ、という人が選んでいたと思うけれども、いまではとりあえずみんなが持ってるものを選ぶ、という人がApple製品を選択しているような気がする。いまiPhone以外のスマホを選ぼうとしたら相当に調べないといけないし、パソコンにしても同様だ。まあもう「Think different」のコマーシャルから二十年以上が経ってるし、しょうがねぇね。

 閑話休題

 でもはっきり云っていまのiPhoneはファーウェイなど中華スマホが提示したものをAppleの文脈に合わせて高級なものに仕立て直してるだけだよなあ。時代をひっくり返すというか、生活の一部を確実に変えてしまうような存在ではもうないよなあ。Apple IIやMacやiPodや最初のiPhoneはそうだった。
 現状、グーグルやアマゾンの方が断然、違う世界を見せてくれそうな感じがして面白い。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。だんだんキャラクターに愛着が湧いてきた。面白いセリフもちょっと出てくるようになった。キャラクターが勝手に喋る感覚まではまだ到達しない。



ありがとうございました。これからもよろしく。

 とりあえずこのWeb日記と云い張っていたブログは今日でおしまいにします。  閑話休題  昨年の五月、置かれた状況・環境に翻弄されてすっかり減退してしまった創作意欲に再び火をつけて、みやかけおを再起動するのを目的に、ブレインストーム的にブログを始めたのですが、あれから一年...