2018年12月30日日曜日

我が人生最悪のとき、それはいま。

 お世話になっております。そういうわけで我が新作であるところの『<a href="http://garbage-coll2.sakura.ne.jp/v2/works.html" target="_blank">グランドール城にて 第一話・前編</a>』を正式に公開いたしました。まだ海のものとも山のものともつかない感じですが、作った当人は非常に楽しんで作りました。独りよがりかどうかはやはり自分ではよくわかりませんので、よろしければご覧いただければと存じます。よろしくお願いいたします。

 閑話休題

 よくわからないままにニコニコ動画のRPGアツマールにも投稿をいたしました。

<iframe src="https://game.nicovideo.jp/atsumaru/externals/thumb/gm9542" scrolling="no" style="border:0;width:312px;height:176px" frameborder="0"><a target="_blank" rel="noopener" href="https://game.nicovideo.jp/atsumaru/games/gm9542">RPG COMEDY SHOW グランドール城にて 第一話・前編</a></iframe>

 こちらでもご覧いただけるのでよろしくお願いいたします。ニコニコ動画の文化がよくわかっていないので、なんか浮いている感じもしますが、まあひとつよろしくお願いします。

 閑話休題

 しかし作品を発表した後というのはまじ心がブルーになります。面白いと思って作り、こんなものが作れる自分は天才なんじゃないかと思って浮かれ気分でアップロード、するけれども気分はそれから一時間も経たぬうちに急降下、いったい自分は何をやっているのか。こんなことをやっていて喜ぶ誰かなんて本当にいるのか。つーかいるわけはない。誰が見るんだこんなもの。という思いがふつふつと胸に沸き起こり、自分は相当なばかものなんだろうと、自分で自分の心を痛めつけてずんと落ち込む塩梅となるのです。
 しかしながらそれも落ち込んでから二日も経てば、まあこんなもんだよな。俺のできることなんてこんなもんだよなあ。と、少し思って、やがてプルーな気分もなんとなく消えていき、そうなると、あ。そうだ。あのアイデアを作品に仕上げたらどうだろう、なんて思っていて、馬鹿は死ななきゃ治らない、という広沢虎造節の正しさを思い知るのであります。

 閑話休題

 明日は大晦日。たぶん明日はブログを書くこともないと思うので、本年の更新はこれで最後となります。すこしでもページを動かそうと思ってこのウェブ日記を始めたわけですが、うーん、まあ、楽しかったからいいや。この数年は色々と低調で作品もあまり作れませんでしたが、今年の後半ぐらいからは、色々なことがちょっとずつ上向いてきたので、来年はもうちょっとたくさんの作品を作れるのではないかと考えております。

 改めて本年はお世話になりました。気にして観てくださる方がいるというのは本当に嬉しいものです。果たしてこれからも皆様に楽しんでいただけるものを作れるかどうか、自信は全くありませんが、一所懸命にここで遊んでいきたいと思っています。よろしければ、時折で結構ですので、また来年も覗いてみてください。退屈しのぎぐらいにはなると思いますので。

 それでは皆様どうぞ良いお年をお迎えください。




2018年12月28日金曜日

これでもくらえ

 お世話様です。年の瀬ですね。しかし旧暦に直すといまはまだ十一月下旬ということです。そう考えますと、いやあ、江戸より以前の師走というのはまじ寒かったんでしょうね。それへさして節季払いの掛取りが来るんですから、そら鎖国していた頃の日本人というのはこの時期、なんとかしてその支払いを誤魔化そうと躍起になっておったのでしょう。だって寒い上に金まで持って行かれた日にゃあ堪りませんものね。しかしこれが日本の師走が本来持っていた風情という気もいたします。クリスマスや紅白歌合戦なんて江戸の頃にはあんまりなかっただろうし。だから僕もこれから物品購入をする際にはVISA/MASTERカードをさっと差し出しレジー担当の人に「節季払いで」とにこやか且つ洒落乙に指定、そうしてその年の師走、大晦日にやって来るVISA/MASTERカードの掛取りから逃げ回る(押入れに隠れて頭から布団を被ったりとかネ)ということをして日本の師走の風情を存分に味わいたいものと思います。ではまた来年の師走にお会いしましょう。

 閑話休題

 普段は占いなどまず気にしないのだが、暮れも押し迫ったこの時期になると面白半分にネットの占いサイトなどを見て、来年はいい年になると書いてあるところだけを幾たびも読み込んでは気分を上げる、なんてことをやっているのだが、そんな中で見つけたカバラ数秘術(誕生日から割り出す僕の運命数は5)によれば来年はサイクル8に当たる年で絶好調なのだそうですよ、僕は!
 仕事運から金運から恋愛運に至るまで全てにおいてチャンスが訪れるのだそうです。これまでのサイクル1から7までの間に蒔いてきた種が見事花開くのだそうですよ。これを知った僕は、いやあよかったよかった来年はいい年になるんだ、と喜びサイトを閉じてから不図気がついた。
 僕はこの七年間、ぜんたいなんの種を蒔いてきたのだ! いや、なんの種も蒔いてこなかった! 人間自然に生きるのが一番さ。などと嘯いては毎日を漫然と過ごしていた! なにも蒔かない畑に果たして作物が出来るだろうか! 出来ようはずがない!
 と、そんなことに気づいてやはり来年もこのまんまなんにも起こらずただただ日々が過ぎてゆくばかりなんだろう。と思って暗澹たる気分になった。撒くべき種すら持ってないしね。まあいいや。来年も成る可く死なずに生きて行こう。生きていれば希望がある、って『まんぷく』で橋爪功氏演ずる三田村会長も云ってたしネ。

 閑話休題

 そうそう。『まんぷく』で何度かみられた橋爪功氏と安藤サクラ氏の二人きりの場面、いずれも世代の違う名優同士のぶつかり合いという感じで見応えがありましたな。しかし『まんぷく』とても面白いんだけど、この面白さは役者さんたちの達者によるところも多いですね。そう考えると、当節の朝ドラにも辛うじて残っていた「新人女優の登竜門」的な機能は早晩完全になくなるんだろう。ましてこれだけ観る側が根掘り葉掘りネットに感想を、それもリアルタイムに近い形で書き散らす時代になると、ヒロインを演ずる新人女優の経験不足を、視聴者の好意的評価によってカバーしてもらおうというある意味、脆弱な作りのテレビドラマは通用しませんわな。

 閑話休題

 あれは前の世紀が終わる頃だっただろうか、当時仲良くしていた沖縄出身の女の子と師走の晴海通りを一緒に歩いていたら彼女、往来を行き交う人々を見て「みんな格好良くて気後れする。自分が浮いてる気がする」みたいなことを盛んに云うから「この連中だって、一皮剥けば盆暮れには帰省する先があるような山出しばかりだから恐れることはない」と答えたことがあった。自分としたら結構面白い、それでいて本質に近いところを云ったという自負もあったのだが彼女からはなんの反応もなかった。

 閑話休題

 そうなんだよなあ、青山ったって、でかい墓地も斎場もあるんだから、児童相談所が出来るくらい、どうってことないよなあ。そういえば今年前期の朝ドラの中でやたらと「港区」に住んでいることを強調するセリフが出てきたけれども、そういうことを鼻にかける下卑た山出しの馬鹿がそれなりにいるってことなんだろう。光あるところに影が出来るってことだ。光あるところに影がある まこと栄光の影に数知れぬ忍者の影があった。なんつってな。

 閑話休題

 つい今し方ですがさんざこちらで予告させていただいていたRPGツクールMVを使って作ったシットコムを我がホームページにアップいたしました。タイトルは『~RPG COMEDY SHOW~グランドール城にて』。ドラゴンクエストを始めとする典型的なJ-RPGの設定を使ったコメディです。ツールの特性上、ゲームの体裁を取ってはいますが、セリフと人の出入りを観るのみの動画に近い作品となっています。だいたい三十分くらいの長さです。ツイッターでの告知は明後日からしますので、今回は一応、プレピュー公開としてご覧いただければと存じております。なお、途中、再生が止まってしまったり、明らかにひどい誤字脱字があったりした場合には、どうぞツイッターの方で教えてくださいませ。
 それではよろしくお願いいたします。僅かなりともお楽しみいただければこれに勝る幸せはございません。

 <a href="http://garbage-coll2.sakura.ne.jp/" target="_blank">http://garbage-coll2.sakura.ne.jp/</a>

 ※トップページの「WORKS」から「最新作」でご覧いただけます。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ああ、近江アナウンサーはいつ見ても可愛いねぇ。テレビに出てくる女がみんな騒々しい、出しゃばりみたいなのばっかりになる中であの自然な感じはとてもいいネ。やっぱり”可愛い”っていうのは生まれ持ったアビリティ。

2018年12月26日水曜日

百鬼夜行でゴー

 どうもお疲れ様でございます。おはようございます。お元気ですか。風邪などお召しではありませんでしょうか。僕は平気です。自分で平気という奴ほどよほど駄目というのは世の習いです(狂人は自分はまともだと決まって云いますからね)が、僕の場合はマジ平気です。さて懸案だったRPGツクールMVで作ったシットコムもどうにか大晦日までにはアップが出来そうです。直しては確認、直しては確認、を繰り返していたら面白いんだか面白くないんださっぱりかわかんなくなりました。まあいいや。別にお金もらってやってるわけじゃないし。お金もらってたとしても誰がみても面白いものなんて作れないしね。いまはちまちまと導入のページを作ったりしています。そうして今日のお昼ご飯はスーパーで売っていた五百円のサービス海鮮丼でした。ありがとうございます。ありがとうございます。僕は平気です。

 閑話休題

 来年の話をすると鬼が笑う、というのは巷間よく云われるところですが、この暮れも押し迫った頃合いに来年の話をしても、やはり鬼は笑うんでしょうかね。まあ確かにこの暮れへ来て「来年は今年できなかった○○をがんばろう」なんてな思い決意は大抵、大晦日を過ぎた辺り、お餅旨いなあ、とか思っている辺りで霧消するのであって、そう考えるとやはりこの時期であっても来年の話なんかしないほうが良さそうですね。本当にやりたきゃあ直ぐにやるものね。そういや心理学だか脳科学的にも「決意を新たにする」というのはもっとも効果がないことで、やはり行動を変えることが、目標の実現には一番いいと云いますしね。さすれば鬼にも笑われずに済みますんでしょう。まあ別に鬼に笑われてもいいけどね。むしろ鬼を笑わせてみたい気もするし。

 閑話休題

 そういや最近外国人のスポーツ選手を指して「赤鬼」と呼称することもなくなりましたな。かつては柔道のウィリアム・ルスカやプロ野球のチャーリー・マニエルなど、白人でごつい選手が現れると直ぐに「赤鬼」と呼んで物珍しがったものです。
 思い返すにあれは昭和六十二年だったか、プロ野球のヤクルトスワローズにボブ・ホーナーなる当時現役バリバリのメジャーリーガーが来日した際にそう呼ばれたのが「赤鬼」の最後だったかもしれないなあ。以来「赤鬼」と呼ばれる白人はいなくなったね。それだけ外国人の存在が珍しく、畢竟、我が国の鎖国の程度も高かったんだろう。ごつい白人を指して「赤鬼」と呼ぶのは、ペリーをあんな感じの肖像画に描いた幕末の人らと大して変わらん感覚だものね。

 閑話休題

 私があまり都心へ出ないということ、また齢を重ねたということもあろうけれども、この五、六年で街に漂うクリスマスの空気が随分薄くなったように感ずる。バブルだった頃は云うに及ばず、ミレニアムからしばらくの間も、十二月ともなれば街はクリスマス一色となり、イヴの晩などはスーパーはもちろんコンビニですら店外にクリスマスケーキ売り場を設営、可愛らしいアルバイトの女の子がサンタのコスプレをさせられ寒そうにケーキの売り声を上げていた。しかしこの五、六年、そのような光景を目にすることが随分減った。街を歩くカップルの浮かれ気分も随分落ち着いたもので、とても過ごしやすくなったと個人的には思う。なんだろう、やっぱりそれを楽しみたい人はディズニーランドとかに行くのかな。まあどうでもいいや。

 閑話休題

 なんつーか、そうして街からクリスマスのイヴェント感が薄らいでくるのと軌を一にするように、ハロウィンが伸して来たような気もするなあ。パリピとそうではない人の乖離がどんどん進んでいくような気もするね。こないだも書いたように、街にはお一人様がグングンに増えているし。これも格差社会だ。違うけど。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。『スマブラ』は挑戦者を全員解放しましたよ。初めてシリーズをあすぶ僕でもできたから皆さんにもできるはず。キャラクターはこどもリンクかパックマンをよく使いますよ。しかしフレーム単位でボタンを正確に押さないといけないのが難しいですね。防御なんかまず満足にできません。とはいえ、正確な操作ができない状態で、だいたいでボタンを押してもそれなりに楽しく闘えてしまうのが面白い。この精密性と粗雑性が同居しているために、幅広い層が遊べるゲームに仕上がっているというのは全くもってさすが任天堂と思うばかり。『ストリートファイターII』や『バーチャファイター』『鉄拳』なんかだと、きっちり技が出せないとてんで面白くなかったものね。でもRPG的なパートである『灯火の星』はストーリー性があった方が良かったかな。


2018年12月16日日曜日

今日は明日の神話也

 こちらをご覧の平均十人くらいのみなさまおはようございます。いつもありがとうございます。すっかり季節は冬となり寒い日が続いておりますが体調など崩されてはおりませんでしょうか。私はいつもみなさまのことを気にかけております。本当です。その代わりここをご覧ではないみなさまのことなどいっかな気にかけたこともございません。ここをご覧でないみなさまが人生においてどんな苦境に陥ろうが知ったこっちゃありません。勝手に生きればいいと思っています。そんな連中は週に二回くらいのペースでタンスの角に足の小指をぶつけて悶絶したらいいとすら思っています。どうせ知らない人のことだし。と、こんなことを云うと「あいつは冷たい人間だ」との謗りを受けるかもしれませんが知ったことではございません。私は私を大事にしてくれる人だけを大事にしたい。そう思ってこれからも頑張っていこうと思います。来年は亥年です。牡丹肉は口にすると硬くてどうも好みませんが私は亥年の生まれです。ですから私の肉もきっと硬くて口に合わないのでしょう。ではそんなことでよろしくどうぞ御願上げ奉り候。

 閑話休題

 この十年ほどの間、すっかり病院と縁づいておるのですが、そうして病院にお世話になるたびに感ずるのは「どう見ても女性の方に優れた医師が多い」ということ。当節話題の、医大入試において慣例的に男女差別が行われていたという報道を閲するに、なるほどそうだろうなあ、それだけの狭き門を潜り抜けてきたのだからやはり女性医師の方が優秀な人が多いのも当然だよなあ。なんて思ったりなんかしたりしています。もちろん女性医師でもなんだこいつ。みたいなのは居るし男性医師でも立派な人は居るけれども、総体として女性医師の方が話がすっぱりした人、気の良く回る人、ちゃんと聞いてくれる人、優しい人が多いように感ずる。
 かつて、永六輔氏がパーキンソン病に罹患した際、氏がパーソナリティを務めたラジオ番組『土曜ワイド ラジオTOKYO』で「医者は文学を学ぶべき」と云っておられたが、それに通ずるような感覚を持っているのは明らかに女性医師に多い。

 閑話休題

 RPGツクールMVを使って作っているシットコム、できたと思ってテストプレイすると操作のタイミングで止まっちゃう部分が出てきたりしてなかなか大変です。手慰みみたいな感じで作ったものでもこうも手数がかかるんだから、本当のゲームを作るって大変だろうなと改めて思っているところでありんす。

 閑話休題

 しかしこのところ繁華街に出て驚くのはいわゆる「おひとり様」の増えたことで、特に三十歳前後の妙齢の女性が一人で街を歩いている姿を目撃することが、そうさなあ、二年前と比べても随分と多くなった。当節のおひとり様は、その言葉が生まれた頃の、おやじギャルの進化種としてのそれ(一人で焼肉を食べに行けちゃう自分、みたいな、自分を極度に愛する感覚)ではなく、真に一人で行動することを好む人たちに見える。先日もとある日曜日、不図、新宿に出掛けぶらぶら歩いていたら、やはり妙齢の女性が一人でそぞろ歩いている姿をたくさん見かけ、やっばり時代ってのは知らん顔してどんどん変わって行ってしまうなあ。と思った。

 閑話休題

 そんなことを思いながら新宿西口のヨドバシカメラの前を歩いたら黒山の人だかりで、すわ何事、と思ったらどうやらポケモンGOをプレイする人たちのようであった。
 それに気づいた刹那、うーん、そうかあ。これだけSNSで半ば強制的に人と繋がることを要求される時代になると、むしろリアル世界ではそうした繋がりとは離れ、一人で過ごしたいと思う人が増えているのかも知らんなあ、なんて思った。ネットがリアルを侵食するのが完全に当たり前の時代状況。知らないうちに結構な未来に暮らしていたんだな僕らは。

 閑話休題

 そうして僕も御多分に洩れずスマブラであすんでいるのであった。何しろスマブラシリーズ自体、プレイをするのが初めてだからゲーム開始直後はもう何が何だかわからない。画面の中で何が起こっているのか、自分が操作するキャラクターがどれかもよくわからない。果たして自分はいま攻撃しているのかそれとも打っ叩かれているのかそれが把握できない。そうしてなんだかわからないうちに画面の外に吹っ飛ばされて敗亡している。
 しかしそうして敗亡を繰り返す中でも次第に画面の把握ができるようになり、ボタン操作によって自らの意思を画面内のキャラクターに伝えることができるようになり、どうかすれば相手の攻撃を躱して必殺の一撃を加え勝利することができるようになってきた。とはいえまだ結構負けるけどね。要は面白いんだよすっげー。
 そうしてまた、昨今のスマブラ的な対戦ゲームのすごいところは、一人であすんでも十分に面白いということだ。僕が子供の頃はといえば、コンピュータの性能がまだまだ低かったから、CPUと対戦をすると割と簡単に勝てることが多かった。それはまあ理不尽な強さを誇る対戦型ゲームもあったけれども、それはあくまで強いというだけのことで、当節のゲームのように恰も人間と対戦をしているかのような感覚までCPUが表現をすることはなかった。
 いやほんと、ぼーっとしているうちに時代ってどんどん進んでいってしまうよ。

 閑話休題

 それにしても最近の任天堂のゲーム、スマブラもそうだしゼルダの伝説BoWやマリオカートなんかもそうだけど、エンディングに表示されるスタッフロールの長さがマジ物凄い。あの長大なスタッフロールを目にするたびに、一本のゲームが世の中に出るまでに必要となる人間の数の多さ、掛かっているお金の物凄さを感じ、世の中におけるゲームの立ち位置が如何に高いところにあるのか、を感じる。
 そうしてまた、初代ファミコンの頃と現在を比べてみるに、あの頃はもはや神話の時代、歴史上かつてあった時代、になっているんだろうなあとも思う。

 閑話休題

 そう、神話の時代は確かにあった。だって俺はそれを全部見て、いまここにいるんだもの。ほんと全部見た。マジ全部見てきたよ。『PONG』ですら近所にあったパッティングセンターで友達とあすんでるし。

 閑話休題

 あとあれだよね「高輪ゲートウェイ」なんて何年かしたらしれっと「高輪」に改称されてるよねたぶん。
 しかしああいう名称のような、新しぶりっ子が好きな人っているんだよなあ。じゃあゲートウェイの発想と対極にある感じの「芝浜」が良いかと云われるとまたこれも困るけどね。まあ迷ったらシンプルにするのが一番良いよな何事も。

 閑話休題

 駅といえばほれ、近頃電車に乗ると英語で駅名のアナウンスが入るでしょう。英語訛りっつーか、カタコトみたいな感じで駅名を読むでしょう。あれ、英語圏の方には耳馴染みがいいのかしらん。あのイントネーションの方が記憶に残りやすいのかしらん。英語を介さない私の耳にはふざけているようにしか聞こえないんだよなあ。あのカタコトのイントネーションで「フネノカガクカン」なんて発声されると、名状し難い可笑しみが湧いてくるんだがなあ。

 閑話休題

 あの駅名を読むのって、いまから二十年以上前に、クロード・チアリの娘がアナウンスしてるって本人が云ってるのをラジオで聞いたけど、いまもそうなのかな。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。『JOY』て映画をAmazonビデオで借りて観たけどいやあ、やっぱりデヴィッド・O・ラッセル監督の映画は僕ぁ好きだ。人間ってダメだよね,でもそこがいいんだよね、的な優しさがあってすごく良い。優しくない人はなに作っても駄目。



2018年12月9日日曜日

記憶ばかりが華やいで

 あれは昭和六十年一月二日、後楽園ホールでのこと。当時中学一年生だった私は級友と連れだって全日本プロレスの試合を観戦に行ったのだった。
 現地に到着したのが試合開始の四十分ほど前。じゃあ俺売店でパンフレットと飲み物を買ってくるわ。なんつってホール入場口から少し脇に入ったところにある売店に赴いた。買い求めたパンフレット二冊を小脇に抱え、飲み物軽食の売り場で紙コップに入れられたコーラ二杯を両手に持ったら文字通り手一杯。真冬のことで分厚い上着を着ているから脇に挟んだパンフレットが滑り落ちそうになるのを堪え、しかしそうしていると手に持ったコーラが危うくなる。あれ、これはこうしてこう持って、おっとっとこっちを落としたら大変、などと、中学一年生の足らない頭脳をフル回転させつつ、売店の側で立ち往生していたら、いきなり誰かにこめかみの辺りを小突かれた。
 なんぞ、と思って振り返ったらそこにいたのはダイナマイト・キッド。苛立たしげな表情で私を見やるキッド、その後ろには当時のタッグ・パートナーだったデイビーボーイ・スミスをはじめとする外国人選手たちが居並んでいる。私がすぐさま道を譲ると、その前をキッド以下、外国人選手たちは控室に向かって悠然と歩いて行く。その後ろ姿を、人前で小突かれたというみっともない自分の状況も忘れて惚けたように眺めていた。
 やがて試合が始まり、キッドはスミスとタッグを組んで中盤の試合に出場した。私はその日、リングサイド最前列に座っていた。テーマ曲に乗って入場しリングに上がったキッド、リングサイド最前列に座っていた私を見つけたらしく、レフェリーのタイガー服部となにやらヒソヒソと話をしつつ、私に視線を送ってきて面白そうにニヤリと笑った。

 閑話休題

 ああいやだ。ダイナマイト・キッドがこの世からいなくなるなんて嫌だ。しかしながらキッドの、この二十年ほど続いた苦しい境遇をを思うとようやく楽になれたのかもしれないという気もする。
 なんだかみんな想い出の中だけの存在になっていく。でも沢山観た。タイガーマスクとの試合も、コブラとスミスと三つ巴でタイトルを争った試合も、三沢タイガーとの試合も、大怪我から復帰した後のカリカリに痩せちゃった姿も、全日本の最強タッグの最終戦の武道館で急に引退を発表したことも、みちのくプロレスでタイガーマスクやドス・カラスや小林邦昭と試合をしたことも、沢山沢山観た。
 結局は、観ることと忘れないでいることしかできないんだよなファンって。だからちゃんと観ないといけないんだ。

 閑話休題

 しかしあのあおり運転の若者は如何にも反省がないというか、正確を記すれば、反省の仕方が判らない/知らないみたいな風に見える。どうやら自分はとてつもなく悪いことをしたみたいだけれども、果たしてその後処理としてどうしていいか判らない、どう感じてどう受け止めてどう行動したらいいか全然判らない。みたいな言動に見える。
 それにしても近頃改めて思うのは、なんというかこの世の中には、人から舐められるということを極度に嫌い、それをされた(と、感じたら)ら、たとい相手を身体的に痛めつけたとて構わない、と頭から思い込んでいる困った人が殊の外多くいるということで、こういう人々が齎す危険から身を遠ざけるには、やはりなるべく近寄らないようにするしかないなあ、と考える次第。あれは関わったらダメな奴だというのを見定める目を養い、そこからなるべく身を遠ざけるようにするしかない。なにしろ相手はまともな会話が成立しないような連中なんだから。
 そう考えると、ほんと最近の接客業は大変だろうね、ああいうの増えちゃったし。またSNSに上げるのを目的として因縁を吹っ掛けてくるのも増えたみたいだし。

 閑話休題

 昔は面白がって観ていたけれど、一旦休止する前の最後の方から、笑いって点数をつけて優劣を競うようなものじゃないよなあ、と思い始めたからM-1系のグランプリものを観たいと思わなくなった。笑いなんて基準があるようで無いし、無いようである、みたいなものだから、審査して優劣を決するなんていうのは無理。同じ人が同じネタをやったところで場所と客が違えば笑いの量が違ってくるのは当然のことで、そういうものを審査して点数を与えて優劣を競うなんて無理だと思う。まあその審査すらもM-1を構成するエンタテインメントになっているというのは理解するけれども、なんというか、笑いの持つ魅力と審査の勝ち抜きのという要素は、根源的にそりが合わないような気がする。

 閑話休題

 僕自身は後からビデオで観たクチだけれども、海原千里・万里の漫才は面白かったなあ。上手くて面白くて華があって若いに似ず妙な貫禄があって。もしもあのコンビが80年代初頭の漫才ブームまで現役でいたら、やすきよの次が千里・万里、ぐらいの感じになったんじゃないかしらん。その後の笑いの勢力図も変わっていただろうね。

 閑話休題

 ほんと、繰り返しになるけど笑いなんて勝ち負けで見るもんじゃないよ。ただただ面白がって見ればいいだけ。これは面白いから好き、これはあんまり、とか思って観ればいいだけ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ベイスターズ四位に終わってるのに主力の年俸がぐんぐん上がってて正直大丈夫かなと思う。昔みたいに変に金銭闘争されると企業イメージが悪くなるのかな。思い起こせば私が小供の頃なんて必ず斉藤明夫と高木豊が年俸で揉めてたっけね。斉藤明夫は年明けまで交渉がもつれて自主トレやキャンプに自費参加したこともあったし、高木豊は年俸調停にまで持ち込んでた。やっぱりFAがなかった時代だから、選手側の権利が小さかったんだろう。いまはそれが増大したぶん逆に、すぐに球団から大減俸をされたりクビを切られるようになったけどね。



2018年12月2日日曜日

すこし愛して、なが〜く愛して

 ありがとうございます。おはようございます。鶴光でおま。っていやいやもちろん私は笑福亭鶴光師ではないのだがどうしたことか私は必ず年に一度か二度、鶴光でおま。と口に出したり文字に書いたりしないと哀しい気分になるという奇病に罹患しているからついつい、ついつい、ついついついつい書いてしまうのであります。気がつけば西暦二〇一八年も十二月に突入し、ああなんたること。私は今年一度も鶴光でおま。と云ったり文字に起こしたりしていなかった。その事実に愕然とした私は今こうして高らかに鶴光でおま、と云った。書いた。ぶっ書いた。これでようやく私も年を越せる。やり残したことがないような気分で越年が可能となる。まあこの暮れへ来てやり残したことがある、なんて云ってる時点でもう間に合わないんだけどね。まあなんでもいいや。そうそう、この「まあなんでもいいや」というのも私の口癖だ。齢を重ねてから人生で大事なのは思考停止だと思うようになった。考えを止めてしまうことは実は重要なのではないかと思うようになった。わかる? わかんなーい。まあなんでもいいや。どうせ大して云いたいことなんかないんだし。鶴光でおま。

 閑話休題

 一生のうちに一度でいいから、新垣結衣みたいなとんでもない美人に向かって「乳頭の色は」「ええかーええかーえーのんかー」とか口走ってみたいものです。きっと叶えられぬまま生涯を終えるのでしょう。

 閑話休題

 現在私はmoto G6 plusというスマートフォーンを使っているのだけれど、つい先日から、この機種に標準搭載されているカメラアプリに内包される形で<a href="http://juggly.cn/archives/232452.html" target="_blank">グーグルレンズ</a>が使用可能になった。いやはやこれは面白い。
 たといば、いつも通る道に咲く花にグーグルレンズを起動してカメラを向けると、たちどころにそれがなんの花であるかを教えてくれる。私は花の種類や名前に全く疎いものだから、これまではその大輪の花を見ても、綺麗に咲いてるなあ。よく世話がなされているなあ。なんて、なあなあな感じの印象しか持たなかったのだが、グーグルレンズをかざした途端、この花がマーガレットであることがたちどころに知れた。
 ほんのわずかな目新しいことだが、こういうちょっとした目新しいことが生活の中に齎されるというのは、実は偉大なことなのだと私は思う。テクノロジーによって生活がほんのちょっとだけ豊かに面白くなる感じ、ほんのちょっとだけ革新される感じ、こういうことがテクノロジーの面白さ・意義だと僕は思う。

 閑話休題

 ラジオ番組『伊集院光とらじおと』を傾聴していたら、パーソナリティの伊集院光氏が、パートナーの伊藤楓アナウンサーに対して「あなたみたいな若い人たちは、わからないことがあるとすぐにスマホで検索をする。自分たち中年はそういう若者をスマホ依存などと云って批判しがちだけれども、じゃあ中年がわからない言葉にぶち当たった時にどうするかというと、何もしない。知らないままでやり過ごす。それを考えたらよほどあなた方若い人たちの方が立派」的なことを云っていて、全くその通りと、番組を再生していたAmazon Echoの前で深々首肯した。
 もう若くはない私とて、Kindleで本を読むようになってから、解らない又は意味をはっきり捉えていない言葉にぶつかると、すぐにKindle内蔵の国語辞典にアクセスして意味を調べるようになった。単語を選択して辞書で調べる、ですぐにわかるからね。そらまあ紙の本であっても辞書を引きつつ読めばいいことなんだけど面倒と思ってこれをせず、長文読解の利点を都合よく使って文脈からなんとなくの意味を推定して恬然としていた。
 テクノロジーが進歩する時に生ずる面白さって、やっぱりこういう細かい部分なんだろう。生活がほんのちょっとだけ便利になる部分なんだろう。

 閑話休題

 しかしグーグルというのはどうも移り気でいかん。過日、音楽をかけようと愛用のGoogle Play Musicを起動したら見慣れぬメッセージ。なんでもYouTubeミュージック、なるサーヴィスが開始され、GPMの有料ユーザーはフル機能が使えるからぜひどうぞ。みたいなメッセージが表示された。早速使ってみたが、まだサーヴィスとしては未完成でGPMの最大の利点と思っているロッカー機能(手持ちの楽曲を五万曲までだったかな、アップロードできる)が使えないし、ちゃんとした楽曲とユーザー投稿の動画とが渾然一体となっていて区別しにくい、みたいな使いにくさがあるのだが、グーグルさんのいうことにゃ、さのいうことにゃ、いずれ両者は統合されYouTubeミュージックに一本化されるという。
 嗚呼、いつか見たグーグルのサーヴィスの混乱。嘗てこうしてGoogle+もInBoxもサービスアウトした。ハングアウトもじきそうなると聞いた。まあYouTubeの看板を背負っているから今度は大丈夫だろうけど、あんまり移り気なのは困るよほんと。

 閑話休題

 どうしてそう思うのか自分でもよくわからないのだけれど、吉澤ひとみが未だ酒を絶っていないという報道を見聞きすると、なんとなく嬉しいような楽しいような気分になる。人間なんてそんなもんよね。という気分になる。

 閑話休題

 大病をするか刑務所に入ると人間は良い方に変わる。てなことを聞いたことがあるけど、どうなんだろうね。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。やっぱりあれかねぇ、森友哉をレギュラーにしたのは炭谷はどうせ出て行くから、みたいなことだったのかなあ。しかし昨今のプロ野球のチーム作りはFAを視野に入れないといけないからなおのこと大変だろうね。昔は移籍の自由がなかったし、看板選手はそのチームを背負って立つのが普通だったからなあ。でもあの頃の看板選手の方が、たとい不人気チーム・弱小チームであっても、そこに入団した以上、選手生命の全てをそのチームを背負うことに捧げねばならないという宿命、制限、枷があったぶんだけ、悲哀というか哀愁というか、そういうロマンチックな要素が色濃くあったね。




2018年11月25日日曜日

記憶は巡るよどこまでも

 お寒うございます。と挨拶をしたいところですが台風の発生によりしばらく暖かい日が続くとの由。異常気象という言葉が使われなくなって久しい昨今ですが、どう考えても今年は異常気象だよねぇ。吾輩が幼少の砌など、テレビでもラジオでも、ちょっと季節外れの陽気が続くと「異常気象ですねぇ」なんて云っていたものだけど、ひょっとしたら、異常気象という言葉が放送禁止になったのかもしれません。まあ、そんなこたあどうでもいいんですがね。どうでもいいことならいちいち云ったり書いたりしなければいいんですが、人間なんてそんな簡単に割り切れるもんじゃないでからね。まあ、意味のないことをやって一生を終えてゆく。これが人間ということなんでしょう。

 閑話休題

 そういえば先日、NHKBSプレミアムで<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%B9_(%E3%83%9B%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%A7%E3%82%AF%E3%82%B0%E3%83%9E)" target="_blank">しろくまピース</a>のドキュメント番組が再放送され、あの番組が大好きな僕はそれを録画して視聴したのだった。しかしね、あの番組、僕が初見した時には、一歳を超えて大きくなったピース、親と認識している飼育員の方と離れ檻の中で暮らしていたピースがストレスからなのか、プールの中で引き付けのような状態を起こし、飼育員の方々が大慌てで引き上げる場面が放送されていたと思うのだが、今般もやはりその場面はカット、ナレーションでそういうことがあった、という具合に放送されていた。カットされたことに関しては別段良いとも悪いとも思わないのだが、こうした事例を目にするたびに、番組を作る人たちも色々大変なのだろうなあ、と思う。ましてこれだけ一般人とネットニュースが喧しい時代にあっては、まじ大変なんだろうと思う。

 閑話休題

 近頃はテレビのバラエティ番組を腰を据えてまで観ることがほとんどなくなったのだが、昨日放送された『細かすぎて伝わらないモノマネ選手権』は久々にぶっ通して観た。面白いことは面白かったのだが、うーん、でもこの内容だともうyoutubeでよくね? とも思った。もちろん、テレビ番組として仕上げる為のパッケージングというのか、選別され調理され器に盛られた状態で放送されているわけだから、ネット動画とは比較にならないほど当該番組の方が内容は高等。しかしながらネット動画における、視聴する側が見るものを取捨選択するという形式がすでに定着している以上、やはりこういうゴングショー的な内容は、もうネットにはかなわないのじゃないかと思いながら見た。
 そうしてまた、いまの時代の空気を吸い込んで育ちつつあるいまの小学生たちには、もうテレビの面白さは届かないと思う。相手にすらされないと思う。動画を視聴するための一形態として認識されるのが精々だと思う。

 閑話休題

 上の考えが極論であることは承知なんだけど、時代ってのあ、変わり始めたらもう行くところまで行かないと止まらないんだと思う。あとはそこから揺り戻しがあって、なんてのかな、そうして螺旋状に登っていくんじゃないかね。

 閑話休題

 あのう、詳しいことはよくわからんのですが、ゴーン前会長って要は追い出されたんじゃないの。クーデター的なことなんじゃないの。でもゴーン会長のあの顔は何遍見てもすごいよね。猛禽類の顔してるもの。日産の社員の人たちは絶対、ゴーンさんの顔真似をしたことあるよね。

 閑話休題

 久しぶりに『王様のレストラン』をぶっ通して観たのだけれど、いやあ、やっぱり面白いなあ。脚本と演出と演技の三竦みによる相乗効果がすごいね。出来上がりすぎてて不満が出てくるくらい。ただあれだね、ラストの『あなただけ今晩は』のパロディのキャラクター、あれがテレビドラマにおける三谷幸喜氏と一般視聴者との乖離のはじまり、という感じがどうしてもしちゃうけどね。2000年ごろに放送された『合言葉は勇気』なんてすごく面白かったけど、やっぱりもう、そのころの日本のテレビドラマが必要としている時代の空気に合わなくなってたものね。まあその後に脚本を担当された大河ドラマでは素晴らしいのを作ったけれど。

 閑話休題

 このところ自分の記憶を辿るようなものばかり観ています。先日も大好きな映画の一本である『ワンダとダイヤと優しい奴ら』の廉価版ブルーレイが発売されたから早速入手しましたしね。面白いから是非ともご覧になってくださいな。千円で買えるし。『モンティ・パイソン・フライング・サーカス』的な常軌を逸したギャグと『フォルティ・タワーズ』のロジカルな笑いが渾然一体となった奇跡みたいなコメディ映画だから。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。なんか久々にジャイアンツがFA選手をたくさん掻っ攫っていて、いいねぇ、やっぱり金にモノを云わせてこそのジャイアンツだよ。でも落合から清原から広沢から江藤から小笠原から村田からみんなみんな最後は石もて追われるように退団するんだ。ジャイアンツのFAはそこまでがセットだからね。

2018年11月18日日曜日

体は硬いが頭も固い

 歳をとって何がいけないって体力がなくなるのが何よりいけない。体力がないから気力が続かなくなる。気力がなくなるからいろんなことがどうでもよくなる。若い時分であればいちいち癇に障っていたようなことも、まあいいじゃない。なんつって安易に流してしまうから何も頭に残らない。何も頭に残らないからじねん、ものをどんどん考えなくなる。そうしてどんどん頭を使わなくなる。自分にとって必要なことだけを考えるようになる。面白いことというのは得てして自分とは関係のないところから出てくるから、畢竟、面白いことが浮かばなくなってくる。けれども面白いことを浮かべて生きてきたこれまでがあるから、頑張って面白いことを思い浮かべようとする。しかしその時にはもう頭は働いていない。そこに無理が生ずる。無理をして思い浮かべたり考えたしたことは往往にしてつまらない。つまらないから考えるのを止してしまう。気がつくと今日の昼飯は何を食べようとかそんなことばかりを考えているようになる。こうして人はだんだんつまらなくなっていくんだろう。全ては体力の問題だ。

 閑話休題

 しかしそういう体力を失ったダメなおっさんが、一生懸命に無理をして面白いことを考えたり作ったりしているということろに、こんだ違った面白みが出でくるから面白いということはまことにもって厄介且つ面妖だ。

 閑話休題

 そうして無理な感じで作っていた次の作品もどうにか来月には公開できそうだ。死ぬまでに一度は連続ものを完結させるという経験をしてみたいのでね。

 閑話休題

 一昨年までは年に一度くらい、決まって拙作『十億アクセスの彼方に』のアクセス数がトーンと跳ね上がる時期があったのだけれど、去年今年とそれがない。十四年も前に作った作品だからここまでたくさんの人に見てもらえただけでもう充分なんだけど、うーん、ネットリテラシーの基底が数年前とは何か変わったのかも知らんなあ、という気もしている。プライバシーの一部を公開することが人々の生活の中に完全に組み込まれたような気がする。またそのプライバシーを上手に切り売りすることを生業としている人も既にたくさんいるわけでね。

 閑話休題

 結局自分なぞはインターネットを特別なものと思いすぎている。だから今の状況についていけなくなっている。若い連中はインターネットなんて我々のテレビ以上に当たり前のものとして付き合っているのだから全然敵わない。自分なぞは八〇年代中頃、初めてパソコンを手に入れたあの日の感激、その延長線上にインターネットがあるからどうにもならない。何れにせよあの頃から二〇〇〇年代の中頃までの、新しいメディアというか時代が出来上がっていく時間、生活の一部にコンピュータやインターネットが入り込んでゆくまでの時間はあまりにも楽しすぎた。ITなんて言葉すらないような頃、時代そのものが若くて未熟だったし、同じように自分も若かった。面白い時代に長く居過ぎたよ。

 閑話休題

 どうだ。いいおっさんがここまでネガティヴだと読んでて嫌になるだろう。参ったか。参ったって云え。云わないとこっちが参っちゃうぞ。まいっちんぐ。

 閑話休題

 如此くおっさんというのは、中年というのはネガティヴになりやすいんである。だからこそせめて世の中での振る舞いは機嫌よくしていなくてはならんと思う。おっさんがネガティヴで不愉快にしているというのは、その人が存する環境にとって、まことにもって迷惑千万。中年こそ頑張って上機嫌でいなくてはならんと僕は思う。楽しそうに振舞っていなくてはならんと思う。

 閑話休題

 あのー、路線バスなんかに乗っていると、中学生の部活の集団に嬉しそうに話しかけるお年寄り、という図を頻繁に目撃するのだけれども、あれなんで話しかけるんだろうね。中学生が年寄りと話したがってるわけないのにねぇ。ああいう年寄りには絶対にならんと改めて思った。

 閑話休題

 東京は町田市にまで足を運び、久方ぶりに立川志らく師の独演会を聴きに行ったのだった。『親子酒』と『芝浜』の二席を存分に聴かせてもらい大いに愉しんだのだった。『親子酒』の方は師が若い頃から積み上げてきた現代的なギャグがふんだんに詰まった”志らく落語”のそれで大いに笑った。改めて現在の落語、そのギャグの部分を切り拓いたのは師の落語だったと思った。『芝浜』の方は談志家元のそれを不図思い起こさせるような立川流正調とも云いたくなるようなものであった。そう云えば志らく師は家元が亡くなった後「自分の体を借りて師匠が何か云えばいい」みたいなことを云っていたっけ、と思ったりもした。それはまあ家元の『芝浜』は最終的に古典落語の域を遥かに超えてしまう物凄い作品になっていた。しかしあと十年くらいしたら志らく師の『芝浜』も、家元のそれとは全く違う形で古典落語の域を超えるものになるのじゃないかと思った。

 閑話休題

 その独演会で私の座った席のすぐ前に、お一人でいらしたらしい、総白髪のお婆さんが座られていた。後ろからだからお顔は拝見できなかったのだが、頭や体の動く様子から、大変に笑いの感度の高い方のようで、志らく師の時事ネタを含んだひどく現代的なギャグに的確な反応で笑っていて、嗚呼、自分もこういう年寄りになりたいと思った。

 閑話休題

 しかしこうして志らく師世代の落語家を見るたびに感じるのだけれど、八十年代から九十年代初めにかけてというのは、若者の視界に落語が入る時代ではなかったように思う。世の中を席巻した漫才ブームの影響がひどく強かった頃で(というか強かったどころじゃない。あの頃できた笑いが今の笑いのベースになっている)、漫才を中心とした「お笑い」は世の中の中心にあったが、落語はその隅に追いやられていたように思う。そういう時代状況にも関わらず、昇太志の輔談春志らくたい平喬太郎彦いち白酒白鳥三三などといった現在の落語界を支える人材が続々入門してきた(落語家は辞めてしまったが伊集院光氏もそうだ)というのは、一体どういう塩梅なんだろうと、いつも不思議に思うんである。やはりこうした人たちというのは、あの時代に落語家を選択するという時点で端からセンスが違ったんだろうなと思う。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。はは。BGMで流しっぱなしにしていたグーグルプレイミュージックがクレージーキャッツの『実年行進曲』を再生し始めたよ。がーんがん いこーぜ まーだこーれーかーらーさー。




2018年11月12日月曜日

襤褸は着てても心の高等遊民

 お元気ですか。僕はそこそこ元気ですが根本的に元気ではありません。無理をしています。嘘です。僕が無理をしているとすればそれは生きることそのものについて無理をしていると云えましょう。「言」という文字が僕は嫌いだ。ゲジゲジみたいでなんか嫌だ。上から二番目の横棒がちょっと長いのもこの文字を考えた奴の「意匠に凝ってみました」みたいな感じがしてなんかむかつく。たった一文字がところ使うだけでゲシュタルト崩壊を起こすような気がする。だから成る可く「云」という文字を使うことにしている。人はそれをこだわりと呼ぶのだろうがいやいや、こんなものはこだわりでもなんでもない。生理的に無理。という、若い女性がキモいメンズを一刀両断する時の便利な言葉と同じことで生理的に無理。まじキモい。しかし僕とて現代に生きる人間だから「言」と言う文字が世の中で平気に使われていることに対しては生理的に無理な感じは何らない。全然平気。書籍でもネット記事でも、たとい「言」が使われていても平気にガンガンに読む。だからなんだと言われるとやはり困る。困る。って、うわあああああああああっ。「言」を使ってしまった。もう生理的に無理。無理。生理が無理。生理も無理。生理だから今日は無理と云われ残念に思った若かったあの日。生理生理と繰り返し書くうちに精神がゲシュタルト崩壊を起こす。言言言言言言言言言言言言言言言言言言言言言。起こした。ゲシュタルト崩壊を起こした。俺を殺すにゃ刃物は要らぬ「言」を並べりゃそれでいい。なーんてなことを思っているうちに今日も日が暮れていく。なにもしないままに一日が暮れていく。「言」「云」のことばかり思って日が暮れる。秋の日は釣瓶落とし。秋の日は岩石落とし。釣瓶取られて貰い水。お水をください。僕にお水をください。この文章のゴールと同じくらい今の僕にはお水が必要なのです。お水。お水と云ってもそれは水原弘ではありません。はー。くっさめ。精神がゲシュタルト崩壊したからもう何も考えられない。生理的に無理。

 閑話休題

 相変わらずRPGツクールをいじっている。シナリオの打ち込みは終わったがBGMの付け方、タイミングでどうしたものかと困っている。なにしろゲームを作るツールで舞台劇みたいなのを拵えているからどうも収まりが悪い。まあ何とかなるだろうけど。まあのんびりやろう。皆さんものんびり生きてよ。

 閑話休題

 彼の国の人々のみならず我が国の人々の中にも、一度こちらが謝るとそれに味を占めて同じ事柄についていつまでも謝れと云い募る、乃至は他の件についても譲ることを要求してくる人というのはやはりあって、そういう手合いとは成る可く付き合わないのがいいと思うのだが、残念なことにそういう手合いというのは、物心両面に関わらずこいつぁたかれる相手だ、と思うと際限なくたかろうとして寄ってくるからまじ迷惑ですね。付き合うのやめちゃえばいいんだけど浮世の義理というのがあってなかなかそうもいかない。

 閑話休題

 しかしあの侍ジャパンっていうのはなんとかならんのかね。MLBのオールスターの方がどう見たって格好いいじゃん自由な感じ、エンターテインメントの感じがして。オリンピックに向けて印象を強くしたいんだろうけど、どう考えてもNPBオールスターで対戦した方が断然格好いいよ。侍ジャパンってアマチュアリズムの感じが色濃く横溢してして観ていて全然面白くない。というかMLBのオールスターを呼んで侍ジャパンで対戦してるなんて観ていて恥ずかしくなる。
 プロこそ遊びの要素、エンターテインメントの要素、芸の要素がなくっちゃあ全然つまらない。それがなかったらプロとしての存在価値がないとすら思うよ。

 閑話休題

 だいたい今の日本人の大半は野球なんか相手にしてないだろうよ。

 閑話休題

 あとあれ、日米野球になると決まってグラウンドレベルに近い良席にダークなスーツを着込んだ人たち、如何にも何某かの関係性から良席に座っている人たちが陣取るのも凄く嫌だ。実際に日米野球を観に行くと方々で名刺交換をしている姿が見られて凄く嫌だ。観客席が野球のことが好きな人で満たされないのが凄く嫌だ。

 閑話休題

 そういやアジアシリーズってやめちゃったのかね。台湾あたり、いっそNPBのリーグ戦に入れちゃえばいいのにね。ずーっと最下位でも入れてるうちに強くなるよきっと。橋渡しをするには最適な王選手が元気なうちになんとかしないかね。

 閑話休題

 観るのはもう四度目くらいになるのだが嘗ての名作テレビドラマ『<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%8B%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%81%8A%E5%89%8D%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84" target="_blank">淋しいのはお前だけじゃない</a>』を全話観た。素晴らしいドラマに共通する要素だが、何度観ても初めて観たときと同じように感情が揺すぶられる。そうして観るたびに新しい発見がある。
 このドラマ、数ある西田敏行主演のものの中では最高と思う。この時の西田敏行氏が僕は一番好きだ。森繁的な変幻自在が存分に楽しめる。そうしてまた、西田敏行氏の妻を演じる泉ピン子氏にまで泣かされるのだからもう困ってしまう。
 それはまあ今の目で見れば物語の展開に、強引に過ぎるところ、完全に解決した感じがしないところなど感じられるのだが、それははっきり云って些細なこと。それよりもこのドラマを範として三谷幸喜氏やクドカン氏がその上に積み重ねることで今のテレビドラマが形作られてきた、ぐらいな、現代のテレビドラマの礎となるような名作であり、ここからテレビドラマの新たな歴史が始まった、ぐらいの大袈裟を云いたくなるほどの素晴らしいドラマ。機会があったらぜひ観るといいと僕は思う。

 閑話休題

 しかしあれだねぇ、随分前に芸能界を引退した橋本奈々未なんて、今頃は一般人として普通に誰かと付き合ったりしてるんだろうねぇ。これだけアイドルが増えてくると、彼女のように自らの意思で芸能界を引退してゆく女性も増えてゆくわけで、そうした人たちのその後の人生を思うとどうにも変な心持ちになる。これが昔の売れないアイドルみたいに夢破れて芸能界を去って行くのであれば、その後、一般人として生活して行くことになんらの違和感も覚えないのだけど、まだまだ芸能人として活躍する余地があるのに自らの意思で辞め、一般人の中に入って生活していることにすごく違和感を覚える。普通に生活していて周囲から浮いちゃわないのかな、と思う。
 まあそんな風に考えるのも、僕が芸能界を特別な世界、堅気・世方が住まう世界とは一線を画した場所であると認識しているからなんだろう。売れているのに自らの意思で辞めて一般人として生きていくアイドルというのは、芸能界をそれほど特別な世界だと思っていないんだろう。又、観る側にしてもいまの若い人などは芸能人もTikTokの人気者も同じようなものだと思って見ているんだろう。

 閑話休題

 そういう感じで辞めていった一番最初はやっぱりおニャン子の<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E7%BE%8E%E6%98%A5" target="_blank">なかじ</a>になるのかな。『じゃあね』っていい曲だと思うよ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。いや僕はむしろAIに支配されたいね。

2018年11月7日水曜日

裏が表か表が裏か。

 RPGツクールMVの使い方がなんとなくわかってきた。しかしながらゲームを作るツールでゲームではないものを作っているからどうも収まりが悪いような気もする。まあなんでもいいか。面白いのができるといいな。絵も描けないし音楽も作れないし文才もないからまあこういうことをやるしかない。ネットを題材にした作品はこれがひと段落したらやるつもりだが根が怠け者だからどうなるかわからない。まあ好きでやってることだからまあのんびりやるよ。皆さんも是非のんびり生きてください。

 閑話休題。

 なんですか来年の今頃には消費税がぐんぐんに上がるということで今から慄然としている。さらに聞けば我が国のお上の皆さんは消費税を上げることによる景気の冷え込みを避けるために、なんのポイントだかよくわからないポイントをくれたり、商品券を配ったりしたらどうか。なんてなことを発案し喧々諤々の議論をしているという。
 私は思う。あのさあ、ポイントを余計にくれるとか商品券をくれるとかって、感覚が近所の商店街のレベルだよなあ。この人たち、本当に国家百年の計とかを考えて政に当たっているのか知らん。と、割と真剣に思ってしまうのでありますよ。真面目にやれ真面目に。

 閑話休題

 あのほれ、子供みたいな顔をした青森の市会議員だかなんかが、いわゆる裏垢で人非人めいた発言をしていた廉で世の中から鋒鋩打たれていたけど、私みたいなインターネット敬老会の人間からすると、ネット上の人格や存在そのものが、リアル世界での自分とは異なる裏面なんじゃねぇかな。と思うのだけれども、今や世の中はブロガーが職業として認められライバーが専業で喰っていけるような時代なのであって、ネット上の人格や存在そのものが裏面、なんて云っているのはやはり相当な時代遅れなんだろうなあ、とも思う。まあ私なぞはもう人間がレガシーになってしまっていますがね。はは。

 閑話休題

 そういや野村克也が「時代と年齢には絶対勝てない」と云っていたけど、いやほんと、その通り。

 閑話休題

 Netflixで観た『殺人者への道』シーズン2、本当に面白いからみんな観たほうがいいと思う。これを観るためだけにNetflixに入ってもいいくらいだよ。

 閑話休題

 やっぱりMacはminiに限るなあ。iMacやMacBookはもう向こう側に行ってしまった感じ。

 閑話休題

 いまから十五年くらい前はApple製品を選ぶ人というのはとりあえず人と同じなのは嫌だ、という人が選んでいたと思うけれども、いまではとりあえずみんなが持ってるものを選ぶ、という人がApple製品を選択しているような気がする。いまiPhone以外のスマホを選ぼうとしたら相当に調べないといけないし、パソコンにしても同様だ。まあもう「Think different」のコマーシャルから二十年以上が経ってるし、しょうがねぇね。

 閑話休題

 でもはっきり云っていまのiPhoneはファーウェイなど中華スマホが提示したものをAppleの文脈に合わせて高級なものに仕立て直してるだけだよなあ。時代をひっくり返すというか、生活の一部を確実に変えてしまうような存在ではもうないよなあ。Apple IIやMacやiPodや最初のiPhoneはそうだった。
 現状、グーグルやアマゾンの方が断然、違う世界を見せてくれそうな感じがして面白い。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。だんだんキャラクターに愛着が湧いてきた。面白いセリフもちょっと出てくるようになった。キャラクターが勝手に喋る感覚まではまだ到達しない。



2018年10月29日月曜日

ビハインド・ザ・ビート

 まあなんていうかあれですよ、どんなジャンルに於いても、ハロウィンの晩に渋谷の街頭に集まり軽トラをひっくり返して喜んでいるような連中が分け入り、はしゃぎ始めた瞬間に、そのジャンルというかムーヴメントはあっという間につまらなくなるね。あの種類の人間どもの跋扈は、そのジャンル、ムーヴメントのほんとうに面白い時期が終焉を迎えたことの象徴。

 閑話休題

 たといば気温気候のみから判断すれば冬本番というのは、私が住まう関東圏に於いていえば、十二月の末ごろから二月いっぱいと云ったところになりましょうが、太陽のムーヴからすると冬至と云って一番日が短くなるのは十二月の二十三日前後で、これ以降は日に日に日が長くなってゆく。気候からすれば冬はこれから本番を迎えるというのに、太陽のムーヴは既に冬の終焉に向かって動き始めている。これは夏に於いても同様で夏本番といえば七月以降ということになろうけれども、やはり太陽のムーヴから見ればそのピークである夏至は六月二十日前後。夏もこれからピークを迎えるというのに太陽のムーヴはもはや冬に向けて動き始めている。
 僕はここに物事の盛衰・流行の実際・本質というものがあると思っている。ある流行が人々の目にピークと映る時、その時にはもう退潮が始まっているのだと僕は思う。その流行となった事象が一番面白いのは冬至や夏至に相当する時期、つまりは多くの人々がこれは面白いと完全には気づかない時期にあるのだと僕は思う。だから流行に乗っている人、話題となり既に大勢の人が集まっているようなところへやって来る人というのは、基本的に遅れている人、感性が少しく鈍い人なのだと僕は思っている。
 いま渋谷に集まりハロウィンを楽しむパリピの人々というのはみんな感性が鈍く本質的には遅れている人なのだと思っている。そうして大概、遅れてくる連中のというのは一番でかい顔をして騒ぎ立てる。

 閑話休題

 ははは。最初に投稿した際、冬至を十一月と書いていて間抜けでした。さっき読み直して気が付いて十二月に直しましたよ。粗忽粗忽。

 閑話休題

 小林信彦大人が著した植木等氏の評伝の中にあったものと記憶するが「大衆は一拍遅れてやってくるが、見放す時は実に冷たい」という一文、それを読んで以来、そうなのかなあと思って世の中の流行や盛衰を眺めてきたが、全くもってその通り、というのが今のところの実感。

 閑話休題

 しかしどうだろうか、いま渋谷の街頭に集まり乱痴気騒ぎをしている行き過ぎた感じでハロウィンを楽しむパリピの皆さんと、かつて学生運動と称して安田講堂に立てこもり、ゲバ棒片手に神田駿河台にバリケードを築いたりして革命を気取って楽しんでいたかつての若者の皆さんたちとは、本質的に異なるものなんだろうか。祝祭というか非日常の空気に酔っているという点では変わりがないようにも見える。正義という錦の御旗がある分だけかつての若者たちの方がタチが悪いような気もする。あー、でもハロウィンのパリピ種も、ハロウィンだからマスコミがそう報じているからみんなやってるから、という錦の御旗を掲げているのか。

 閑話休題

 まあ比較するもんでもないか。いずれにせよ、どっちも一般ピーポーにとっては迷惑極まりない連中だ。

 閑話休題

 しかし当節の年寄りには碌なのがいない。
 過日、僕は近傍にある安物の回転寿しの店にランチをしに行った。開店早々の時刻だったから客はまばら。楽しいぼっち飯を後半生のテーマに掲げている僕は当然一人きり、お店の人に案内されるままカウンター席に着席した。まずは景気付け、タッチパネルでふた皿の寿しを発注し、箸を取ったり冷水を汲みにゆくなどして寿しを喰う態勢を整えた。待つこと数分、ピーピーとビープ音が鳴り、僕の頼んだ寿しがベルトコンベアーに乗ってやってくることが知れた。
 私の右手方向その遥か先に、私の注文した間八といくらの軍艦巻きがレーンに乗りその姿を表すのが見えた。待望してそれを眺めていたらどうだ、僕の三つ空けた右隣に座っていた老夫婦の夫の方が、僕の発注した寿しを平気で取り上げているではないか。奥方の方は夫の誤りに気付いたようで何事か声を掛けていたが夫の方は知らぬ存ぜぬを決め込み平気で食ってしまう。
 僕は覚えず「人の寿司食ってんじゃねぇよ」とひとりごちるように、それでいて聞えよがしと取れる声量で呟いたのだが老夫婦はあからさまに聞こえぬふりをする。仕方がないので僕はタッチパネルでお店の人を呼び出し「あそこの方が僕の注文した寿しを間違った取ってしまったようなので、間八といくらの軍艦をお願いします」と申し伝えた。老夫婦は相変わらず知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。その様子はあからさまな軽犯罪を黙秘する駄目人間のそれ。
 無駄に歳ばかり食いやがってこのくそったれが。という苛立ちを抑えつつ僕は、店員が手持ちですぐさま運んできたふた皿の寿司を受け取りうまうまと食した。ひたすらに恐縮し幾たびも頭を下げるお店の人に、あなたの責任ではないから恐縮しなくて良い、という意味のことを満面の笑顔で云い、その後、気を取り直し平気な顔をして幾皿かの寿司を食い、金を払って店を後にしたのだった。老夫婦は最後まで私の方を見ようとはせず、どころか私に気付いていないふりを懸命に続けるという馬鹿丸出しの感じでカウンターに張り付いていた。しかし当節の年寄りには碌なのがいない。

 閑話休題

 やはりこれも連中、団塊の世代とかなんとかいって、人間の数が無闇に多いからこういう碌でもない年寄りが多くなるんだろう。比率の問題なんだろう。
 しかしそうして考えると、団塊の世代に次いで無闇に人数が多い団塊ジュニアと呼ばれる我々にも多分碌でもないのが多いんだろう。願わくば僕自身がその碌でもない連中の中に入っていないといいんだけど。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。まあ早ければ再来年にはベイスターズ三浦大輔監督の誕生ですよ。オバQが代理監督をやったのを覗くと、生え抜きが監督になるのは2004年までの山下大ちゃん以来になるのかな。この間に大魔神も谷繁も石井琢朗も、我がチームの監督・コーチになっていない事実が、いかにゼロ年代の球団運営がひどかったかの証左のひとつ。

2018年10月22日月曜日

吉凶は糾える縄の如し。

 そうして僕は生まれてこの方初めて、ブロック後に即ブロック解除をして相互フォローを無かったことにするという随分なことを、よく知らない人からされたのだった。

 閑話休題

 なんだか知らないうちに世の中は動いてしまっていて、ボクシングの人やアマレスの人やアメフットの人が揃ってパワハラを働いた廉で世間から鋒鋩打たれたことなど世の中的にはすっかり過去のことになっているが、その早々に過去のこととなってしまった事実が僕には恐ろしく思える。話題の消費が激し過ぎる気がする。
 インターネットの世界では人が最上のコンテンツになるとテキストサイト全盛の頃からずっと思っていて、それを主題とした作品をいくつか作っていたりする僕ですが、愈々、世の中全体が人を最上のコンテンツとする時代に完全に入ってしまったのだろうなあという気がします。

 閑話休題

 聞けばジュリーはさいたまスーパーアリーナでの公演について当初から動員に不安を覚えていたというではないか。その話は又聞きだから本当かどうかはわからないままに発言するんだが、だとしたらさいたまスーパーアリーナでイケると判断した関係者が一番悪いんじゃないの。

 閑話休題

 ただ、ファン心理としたらあの日のさいたまスーパーアリーナに行っていたジュリーのファンは、ある種の勲章的にその日のことを記憶するだろうね。
 私だって独演会なのに立川談志家元が来ずに、志らく師なんかが繋いでいたあの日の中央会館(現在の銀座ブロッサム)のことはとても良い体験として記憶に残っている。終わる間際になって家元現れたよ。
 こういうことがあったときに本質的に意見を云えるのは木戸銭を払って現場に足を運んだ観客だけ。ニュースで知っただけなのに怪しからんとか偉そうに云ってる連中はみんなくるくるパーだ。
 あとジュリーの由来はジュリー・アンドリュースのファンだから氏のことをジュリーと渾名したんだよな確か。

 閑話休題

 RPGツクールはようやくシナリオを打ち込む段階まで来た。ゲームを作っているわけではなくて、ただただ自動実行されるばかりのシットコムを作っているので、果たしてちゃんと動作するかどうかよくわからない(ブラウザ上で実行するとメモリ不足なんかの不具合が出るケースがあると聞いているし)。それにシナリオ形式で何かを作るのが久しぶりだからシナリオの書き方も全然駄目になってて、ツクールに入力する段階でどんどん直しながら作っている。思えば昔はコメディタッチの刑事ドラマ動画とか作ってたんだけどな、声優の卵の皆さんに協力してもらってさ。まあなんにしても作るという行為はとても楽しいから、たといのんびりとでもやって行こう。どこかで私の作るものを楽しみにしてくれている人もいるだろうし。なにより私は私の作品のファンなのでね。

 閑話休題

 過日、電車に乗っていたら大塚家具の社長さんにそっくりな妙齢の女性が乗車してきたから僕はちょっと面白い気分になった。やっぱりこの人も大塚家具のお家騒動の時には”家具屋姫”とか云われて知り人からかわれたんだろうなあ、なんて思って。

 閑話休題

 しかしいまなにより嬉しいのはオバQ田代富雄が打撃コーチとして我がベイスターズに復帰するということを報道により知ったことで、いやほんと、あの頃オバQに酷い扱いをして出て行かざるを得ないようにしたTBSの連中は今からでも遅くないからまじ土下座しろばかやろう。俺の少年の日のヒーローをさんざっぱらコケにしやがって。

 閑話休題

 不図思う。金足農業の吉田君がプロ野球界に入り、前評判に違わぬ活躍を十五年も二十年も見せ続けたとして、果たして僕は彼の野球人生を全て見続けることができるのだろうかなあ、ということなんでありんす。
 あれは一年ほど前だったか『ヤングタウン土曜日』のラジオを聞いていたら明石家さんま師が、当時番組にレギュラー出演していたその頃十七歳の工藤遥嬢に対して「工藤の四十代は、まあ見れんやろなあ」と云っていたのを聞いて以来、どうもそういう考え方を僕もするようになってしまった。実際棺桶に片足突っ込んでるような現在でもあるしね。

 閑話休題

 という感じで自分が病に臥せっているみたいなことを匂わせて人の関心を呼ぼうとする人間ってほんと迷惑ですよね。風邪引いただけでもそういうこと云うのいるでしょう。病を世の中を渡る武器に使ってる不逞の輩って確実にいるからね。

 閑話休題

 僕はこのところ空いた時間には決まってニンテンドースイッチ『進め! キノピオ隊長』で遊んでいたのだが、いやほんとこれは面白いゲーム。年端の行かない子供でも遊べるパズルゲームだから難易度がそれほど高くはないのだけれど、それでいてしっかり頭を使わなければクリアできないように出来ていて本当にちょうどいい面白さ。かてて加えて任天堂のキャラクターの中では断然トップの感じでキノピオが好きだしね僕ぁ。
 それでも約七十面ほどある本編をクリアしておまけの面に入るとしっかり難しくなって、もう僕などの力では完全クリアをするのは到底不可能となるのだけれど、本編部分だけでも本当に面白いしよく出来ている。さすが任天堂。もっと高く評価されていいゲーム。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。グーグルアドセンスから八千円もらえるまで二年半くらいかかるよ僕の場合。いっそ俺もライバーになるかねって絶対ならねぇあんなもの。つーか人前に出られるような人間だと思ったことなど一度もないしね。成り行きで出たことは何度かあるけど、その度に後から落ち込んでばかりだったもの。




2018年10月5日金曜日

こっちの水は甘いかね

 しかしまあ芸能人というのはそこが日の当たる場所だと認めるや何処へでも平気で出張ってくるよなあ。そら本田翼がYouTuberとしてゲーム実況をするというのならば、彼女のこれまでを思ってなんの違和感もない。けれども、そうした核となるものを持たない芸能人が、ただただ自らの知名度のみを頼りにYouTuberの世界に続々参入してきている、なんてな報道が耳目に触れるたんび、ほんとこいつら恥も外聞もなにもないんだな、世間の光が差し込んでくるところであれば何処へでも出てくるようなみっともない連中なんだなと強く思う。

 閑話休題

 そら私自身はYouTuberの存在というのは素人の変なノリを見ているときの気恥ずかしさを感じてしまってあんまり好きではないけれども、それでも今までにはないムーブメントが起こっているのだからそれはそれで面白い、こういうムーブメントが次々に現れることで時代は動き変わっていくんだろうと思って見ていた。けれども、そこへすでにテレビなど既存のマスコミで大変な知名度を誇る芸能人の人たちが入ってきた瞬間、それはムーブメントではなくなりテレビの再発明にしかならなくなる。時代の動きにブレーキがかかるから凄く嫌だ。

 閑話休題

 いまから十年ほど前だったか、真鍋かをりが”ブログの女王”などと云って持て囃された時も凄く嫌だった。お前ら芸能人は向こうの世界でちゃんと食えてるんだからわざわざこっちくんな、と強く思った。手前らが来たが最後、インターネットという我々の楽しい遊び場・空き地に作った秘密基地はあっという間に取り壊されてただの都会になっちまうじゃねぇか。そう危惧していたら案の定、その後すぐに雪崩を打つように芸能人がブログに参入してきて、それまでのインターネットに充満していた”ここにしかない空気”は、憐れあっという間に霧消した。ほんとまじふざけんな。こっちくんな馬鹿野郎。

 閑話休題

 と、そんなことを思ったり云ったりしたところで現実は事実であり正解なのだから、それが嫌ならそこから退場するしかないのもまた事実。嫌だけど仕方がない。粛々と時代を受け容れつつこうしてジジイの繰り言をするしか手がない。情けないがこれが現実だ。秘密基地であすんだ楽しい時間・時代があって、そこを生きたという記憶を大切にするしかないね。

 閑話休題

 さて話は本当に変わるが、いやあ面白いねぇ『まんぷく』。朝ドラにありがちな変に歯の浮くような”やさしいだけ”の空間がなくて、なんだか見ていて知らぬうちににこにこしてしまうようなドラマになっている。ストーリーの緩急のつけ方も見事。そうしてなにより安藤サクラの演技上手なこと、これはまじで化け物レベル。『カーネーション』とはまた違うタイプの傑作ができるのじゃないかという予感がくんくんに漂っている。

 閑話休題

 しかしその『まんぷく』の第一回が放送される前の晩、我が住処のテレビアンテナが台風の風によって顛倒したのであった。仕方がないから第一回の放送を見るためにNHKオンデマンドに加入、無料で配信されていたその放送を見たのだった。
 しかしこの顛倒事件によってもうテレビアンテナおよびテレビ放送がなくても平気かも知らんなあ、と強く思ったのだった。だってそんなに困らなかったから。でも本当に時代がそうなってテレビを必要としなくなったら、NHKはネットユーザーから受信料を取ろうとあらゆる手段を駆使してくるだろうね。どんな搦め手を使ってくるか寧ろ楽しみだ。

 閑話休題

 松坂世代が続々引退する、 と聞くとなんだか九十年代が暮れていくような感慨に浸りがちだがそれは謝り、実際には、ゼロ年代を形作ったプロ野球選手たちが去って行くんである。気がつけば二十一世紀が歴史になりつつあるんである。気がつけば振り返って感慨に浸りたくなるような長い時間が経ったんである、世紀が改まってから。弱っちゃうよなあ時代の進みが早くなって。

 閑話休題

 しかしこれからは自転車で日本一周をすると間違いなく方々で職務質問をされることになるだろうね。

 閑話休題

 貴乃花が馳浩の元を訪れたという報道を聞き及んでまず思ったのは、いまのプロレスを相撲出身の人がやるのは無理だろうなあ、ということでありんす。オカダ・カズチカやら飯伏幸太やらケニー・オメガたちが展開する九十年代ジュニアを祖とする急峻な展開の試合を相撲出身がやるのは無理だろう、というか他の格闘技を経験していると逆に難しいのじゃないかとすら思う。そのくらいいまのプロレスは進化をしてしまっているように思う。我が国のプロレスの歴史は力道山から始まってるから、かつては相撲からくるレスラーばかりだったんだけどね。吾輩がガキの時分に見ていた頃の全日本プロレスなんて半分くらい相撲出身者だったよ。プリンス・トンガとか。ってまあ貴乃花は別にプロレス入りの相談をしに行ったわけではないだろうけど、相撲取り廃業→プロレスへ、が当たり前だった時代をずっと過ごしてしまったんでね。

 閑話休題

 嗚呼、いま気づいたけど、輪島が全日本プロレスに入った時ってまだ三九歳だったんだよなあ。すげえオッサンに見えたけどいまの貴乃花よりよほど若かったんだ。うーん、久しぶりに枕を相手にゴールデン・アーム・ボンバーの練習でもしようかね。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。スポーツ冒険家って憶えてますか。元横綱双羽黒が廃業後に名乗った職業だったんですがね。



2018年9月28日金曜日

時代を見ながら背を向ける

 人から褒められるというのはやはり嬉しいもので、先日、僕は比較的新しい知り人にこのサイトのことを教えた。これまでサイトをやっていることを、ネット以外で知り合った人に話したことはなかった。なぜならいい思いをしたことが殆どなかったから(多くの場合は理解されず軽侮の空気が漂う)だ。しかしこの比較的新しい知り人は創作活動に勤しんでいると知れたから喜び勇んで教えた。
 その知り人は僕のサイトを見て「言葉でいろんな感情を表現する著述家ですね」と感心したように評してくれた。人から褒められるのはやはり嬉しいもので僕はとても嬉しくなったが同時に恥ずかしくもあったから気の利いた返事ができずにぼう、としてしまった。
 しかし褒められるのは、お釣りが来るほどのおっさんと成り果てた僕でもこんなに嬉しいんだら、みんなもっと人を褒めたらいいと思う。特に小供とかはぐんぐんに褒めたらいいと思う。褒められりゃみんな嬉しくなってどんどんやるよ。

 閑話休題

 「著述家」ってのは褒めてるよね。あんまり罵倒の時に使う言葉じゃないものね。「やーい、お前の母ちゃん著述家ぁー」とは言わないものね。

 閑話休題

 その比較的新しい知り人の創作ジャンルは音楽のそれなのだが、その作品は玄人はだしというかまじ玄人のレベルだったので大にびびった。

 閑話休題

 話はまじで変わるが先日公開されたMac OSの最新バージョンであるMojave。早速愛用のMac mini2014にアップデートをかけようと、App Storeからダウンロードをしてインストールを開始したら残り五十三分のところですっかり止まってしまった。不安いっぱいの心境で祈るようにして画面を見つめていたのだが、三十分以上そのまま何らの動きもない。
 普段は万事鈍間なのに変なところで気が短い私は、遠く亜墨利加はクパチーノに向かって呪詛の言葉を吐きつつ立てた中指でそのまま電源ボタンを長押し、強制再起動を試みた。するとどうだ、程なく黒の画面にエラーが起きたことを示す文言が表示されるいわゆるカーネルパニックの状態になってしまった。
 負けるもんかと再度強制再起動を試みるが状況は同じ。「同じことを繰り返して違う結果を期待することを狂気という」という、えーと誰が云ったんだっけかこの言葉は、タイガー・ジェット・シンだったかな、ってあれは狂気じゃなくてインドの狂虎か。まあ誰でもいいや、とにかく私はそういう真理を言葉で知っているからすぐに強制再起動を諦めて、リカバリーモードで起動した。
 よかった。リカバリーモードはちゃんと起動したからそこで起動ディスクを検査したところ問題は見つからず、そうだこうなったらバックアップから復元するよりもクリーンインストールをしようと思ってそうした。
 果たせるかな、クリーンインストールは無事に終了し見事私のMac mini2014は最新のOSを纏うこととなったのだった。

 閑話休題

 OSをアップデートする際はクリーンインストールの方が断然いいというのは、頭ではわかっていてもその後、環境を再現するのが面倒でつい上書きアップデートを選んでしまう。パソコンを使い始めて三十余年、思い返せば環境を再現するための苦労をどれほどしてきただろう。アプリケーションのインストールとアクティベート、ブラウザのブックマークの再現、環境設定の再現などなど膨大な作業が待っていてどうかすれば一日がところ平気でかかってしまう。そうしてまた、パッケージで購入したアプリケーションに封入されている登録コードを紛失していてそのアプリケーションが使えなくなったりする。
 と、思っていた。そういうものだと思い込んでいた。思い込むことで思考停止していた。
 それがどうだ、いまや気がつけばアプリケーションはApp Storeをはじめとしてネットからダウンロードするのが当たり前。アクティベートはApp Storeのアプリケーションならダウンロードのみでそのまま使え、外部から購入したアプリケーションも全てネットで購入したものだから、再度ダウンロードしたのち、購入時にメールにて送信され保管された登録コードなどを入力すれば簡単に使える。ブラウザのブックマークはクラウド上に保管されたものを参照し自動で復元される。環境設定も昔ほど複雑なものはなくinitやcdevを弄っていたのは遠い昔、バックアップの設定すらTime Machine用のディスクを接続すれば勝手にやってくれる。
 結果として三時間もかからずに以前とほぼ変わらぬ環境を再構築することができた。おまけにクリーンインストールをしたから永らく使っていなかったアプリケーションやゴミ箱に入れっぱなしのデータ、不要なダウンロードしたデータなどが綺麗さっぱり消えたからMac自体の動作がキビキビするという嬉しい結果となった。
 失敗は成功のマザー。といえば長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督にして嘗てミスターサンヨーだった人が云った有名な言葉だが、その通り、今回私は失敗から大いに学んだ。かつてあれほど苦しめられたクリーンインストールと環境の再構築も、いまや鼻歌交じりで出来るようになっていた。如此く時代は知らぬ間に進んでいる。進んで行ってしまっている。そうしているうちにやがて時代についてゆけなくなるのだろう。まあその時はまた失敗という成功のマザーを頼ればいいか。いいやな。それでいいや。

 閑話休題

 ああそうそう、いま上のトピックで「思考停止」と書いて思い出したけど、あのー、ネット発祥の言葉、いわゆるネットスラングってのはさあ、気を付けないと思考停止のための言葉になっちゃうよね。なんてのかな、定義づけがやがて決めつけになりついには思考停止に至るというか。たといば誰かが「あの連中は要するに”アンチ”なんだよ」と定義づける。するとそれを読んだ少し足らない人が「そうか批判者をアンチと呼べばいいんだ」と思って批判する人を見つけると”アンチ”と決めつける。するとそれを読んださらに足らない人が「そうかあいつらはアンチなんだからそう思って無視すればいいんだ」とついに批判の中身に思いを巡らすことなく思考停止してしまう。そういう効能を強く持つのがネットスラングと思う。

 閑話休題

 まあそういうわけでお後がよろしいようで。時代は進んでいますが私は何も進んでいません。相も変わらずホームページを運営しています。十年一日とはこのことでしょうかね。まあいいか。まあいいやね。好きでやってることだ、時代のことなんか知ったことか。



2018年9月23日日曜日

おもしろいことをまじめに

 そういうわけで今日は朝から少しばかり自分のサイトをいじっていた。なに新しい作品をアップしたということではなくて、過去の作品の中でムービー形式で作ったものをyoutubeにアップしたとか、そういう他愛のないことだ。本来ならば嘗てFLASHで作った作品をHTML5形式かなんかに作り変えるのがやるべきことなんだろうが、なにぶん作ったのがもう五〜十五年も前で作り変えるには遅すぎる。旧ガベコレで作った作品などはもう.flaファイルすら散逸してしまったし仮にそれがあったとしても、AdobeのAnimateに課金をしてまで直そうという気力は失われてしまっている。それでもAction Scriptを使っていない作品などでムービー形式に作り変えてあったものも見つかったからそれらのリンクを貼り直すなどした。尻切れとんぼだけどジェントルマンなんかいま観ても結構面白いよ。

 閑話休題

 旧ガベコレで作ったような古い作品については、今となってはどんな素材を使ったのか不明なものがほとんどだ。BGMなどは当時から留意して著作権フリーのものを使用していたのだが、時間が経ったことによりそれら楽曲の著作権管理も変わったのだろうか、youtubeにアップしたとたん、著作権侵害の申し立てが続々寄せられていて少しくびびった。が、youtubeからの通知によれば、楽曲の著作権を持っている皆さんが私の作品の勝手に広告を入れ、その収益を独り占めするからそう思え、ということらしいので、まあそのままにしてある。まあなんとかなるでしょう。今更大層なアクセス数があるとも思えないし。

 <a href="http://garbage-coll2.sakura.ne.jp/classics/classics.html" target="_blank">http://garbage-coll2.sakura.ne.jp/classics/classics.html</a>

 FLASH形式のものもありますが、わざわざ危険なFLASH再生のプラグインを入れるような無理をしてまで観ないでくださいね。そこまでしてわざわざ観るほどの面白さはありませんから。

 閑話休題

 それにしても今年はいろんな人が亡くなり過ぎだ。『ラジオビバリー昼ズ』を聴いていたら高田文夫先生が「どんな偉い政治家や野球選手が亡くなるより、面白い人が亡くなるのが寂しい。十、笑わせてくれたぶん、十、余計に寂しくなる」と云っていて全くその通りだと思った。面白いのが一番えらい。そう思ってなんとか死ぬまで生きていたいね。

 閑話休題

 まあ月に三百円ぐらいなら払えるだろうと思って任天堂スイッチオンラインに加入したのだが、やはり加入前に想像した通りファミコンのソフトばかりであすんでいてしょうがない。しかし久しぶりに遊んだどのゲームもすっかり下手になっていて我がことながらびっくりする。ベースボールは全然打てないしテニスはサーブもままならない。グラディウスは一面クリアすらおぼつかないし魔界村をあすべばすぐにパンツ一丁だ。それでも楽しくあすんでいる。往時を思い出したりは特にしないが、やっぱりあの頃のゲームはおもしれーや、ひとつの時代が出来上がっていく登り坂にあった頃だからおもしれーや。と思ってくんくんになってあすんでいる。

 閑話休題

 本当に面白いってなんなんだろうなあ。ファミコンのゲームなんて当節のそれに比べたらグラフィックもサウンドも操作性もボリュームも、どれを取ってもショッパイのにつまらないというわけではないんだよなあ。勿論、それらレトロゲームには自分の小供時代の記憶とリンクしているというアドバンテージはあるにせよ、それを割り引いたとしても存分に面白い。
 いまから十年ちょっと前の話だが、当時隣家に住んでいた小学校二年生の男の子にWiiのバーチャルコンソールで初代の『スーパーマリオブラザース』をあすばせたら、他のWiiのゲームよりも熱中してしまいあすびに来るたびにスーマリをせがまれるようになったことがあった。
 ほんと、面白いってなんなんだろうなあ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ここんところニュースの類を見ていないので世の中のことがよくわかりません。総理大臣が留任したのは知ってます。新潮社の偉い人がなんか云ってたのも知ってますが何を云ってたのかはよく知りません。まあそんな体たらくですがなんとか笑いながら生きてますよ。結構愉快な暮らしぶりですよ。

2018年9月7日金曜日

物情騒然vs泰然自若

 ぼうとしている間にいろんなことが起きています。軽々しく触れていいことやそうでないこと、様々なことが起きています。思うところは色々あれども、いま自分がなすべきことは普段の通りの生活を営むこと、それ以外にありません。そうして自分のできる範囲で自分のできる事ができたらいいと思っています。

 閑話休題

 私の身内にもいるのだけれども大きな自然災害が起こるたび、それを報じるテレビを熱心に見ながら「大変だ」「気の毒だ」と繰り返し言っているだけの人がいる。じゃあその人、百円でも寄付をするのかといったらそんなことは一切しないでテレビの前で寝転がって屁をこいている。そうして毎日テレビを見て新聞記事を読んで大変だ大変だとあほうのように繰り返している。きっとこの人の脳の中では災害のニュースもテレビドラマも同じテレビの画面の中の出来事でしかないんだろう。ゲーム脳よりもテレビ脳の方が深刻の度合いは深いんじゃないか。

 閑話休題

 ああ気がつけばもう九月。あれほど暑くて嫌だった夏が終わると思うとなぜだか心が寂寞する。もうおっさんなのに。秋になるとどうしたことか僕は決まって中学二年の時のこの頃を思い出す。放課後教室に残りうだうだしていたときの気分を思い出す。けれどもその気分は本当にそのとき感じていた気分なのかどうか、もうお釣りがくるほどのおっさんと成り果てた僕には判断がつかない。いやにはっきりとした夢を見た後の寝覚めの気分のようにも思える。『台風クラブ』でも観直そうか。

 閑話休題

 ってほら、こんな感じでなんかおセンチになっているセプテンバーの僕。すみれセプテンバーラブ。それは一風堂。あああのゴーフルの美味しい。それは風月堂。

 閑話休題

 なんかさあ「吉澤ひとみ容疑者」って表記をいろんなニュースサイトや新聞社が使ってるけど、なんかどの報道メディアも、数ヶ月前に「山口メンバー」としか表記できなかったフラストレーションをここにぶつけてる感じがするなあ。連中、大喜びで「吉澤ひとみ容疑者」って書いてる感じがする。総体的に下品だよどのマスコミも。

 閑話休題

 訳あってGoogle Homeを手に入れたのだけど、うーん、言葉に対する反応や動作のキビキビした感じはGoogle Homeに軍配が上がるんだけど、Amazon Echoの方が反応に人間味が感じられるんだよなあ。Google Homeはお手伝いさんとして有能、Amazon Echoは話し相手になってくれる顔見知り、みたいな感じ。一長一短だけど、時流に乗ってるのは明らかにAmazon Echoの方だわな。Googleはこういうプロダクトというのか、商品を発展させるのあんまり上手じゃないしね。Google+だとかNexusだとか、作ってはほったらかしの数々のメッセンジャー系アプリとかみんな駄目だし。あとSiriはこれだけ遅れちゃうともうスマートスピーカーに行くのは難しいんじゃないのかな。クローバーとコルタナは触ったことがないからわからない。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。Mac miniに27インチのWQHDのディスプレイをつなぐとどうなるんだろうなあ。やっぱり文字とか小さくなっちゃうのかなあ。


2018年8月29日水曜日

一期一会でゴー

 『ちびまる子ちゃん』と云われて思い出すのは、あれはいまから三十年ぐらい前だったか、景山民夫氏が深夜にやっていた対談番組のゲストに来たいとうせいこう氏が、まだアニメになっていない時点でこの漫画を激賞していたことで「ここに描いてあるように子供って色々計算してるんだよね」みたいなことを云っていたのを、そうなんだあ、でも少女漫画の雑誌に連載されているんじゃ手が出ないなあ俺高校生だし、というか、いとうせいこうみたいな人になると少女漫画も読むんだなあ、と思ったのを憶えている。
 人の運命だから死ぬのは悲しいし残念だけど、さくらももこ氏という類稀なる才能を見られたことを良しとするしかないよね。客というのは結局観ることしかできない。だから一生懸命観なくちゃいけないんだと思うよ。

 閑話休題

 それにしても今年は色々な有名人が亡くなる。図抜けて暑いからだろうか。それぞれの人にそれぞれの思い出があるけれど、思うのは、いまの若い人にとってはほとんど意味を為さないことなんだろうなあということ。いくら私が左とん平やマサ斎藤が亡くなったことに衝撃を受けいろんな事を思っていても、それら人々の事をよく知らぬ若い人にとっては、なんか有名だった人が死んだみたいだけど。ぐらいの感情しか起こらんのだろう。
 これは私自身にしてもかつてはそうだったのであり、具体的には、私が小学六年生の時にわが国を代表する名優・志村喬が亡くなったのだがまったくピンとこなかった。なんらの感情も起こらなかった。志村けんのことを連想しただけだった。『男はつらいよ』を観ていなかったし増して小津映画など観ていようはずがない。
 解剖学者の養老孟司氏が「死とは身近な人、自分が知っている人についてのみ死としての意味を為す」みたいなことを云っていたと記憶するけど、ほんと、そんな感じだよなあ。私の知らない人が私の知らないところで死んだところで、そら周囲の人々は大変に悲しいだろうと想像はするけれども、それを思って泣くようなことはないものね。

 閑話休題

 ニンテンドースイッチで『ウルフェンシュタイン2』なるFPSゲームをあすび始めた。恥ずかしながらFPSをあすぶのが産まれて初めてだからまだ要領がよくわからず、とりあえず頭のおかしいナチの連中をマシンガンで撃ち殺せばいいのだろうと思ってじゃんじゃんバリバリ撃ち殺しまくっている。私はゲームが下手だから難易度を最高に易しくしているからいやもうマジでジャンジャンばりばり撃ち殺しまくっている。つってもまだ三時間くらいしかあすんでいないから云うほどでもないんだけど。
 しかしゲームそのものが残虐であることは否めず、やっぱり年端の行かない小供にはあすばさない方がいいよなあ、とは思う。しかしながらあすばせていい年齢というか判断力がついた人であれば別段問題はないとも思う。すべてはユーザーなり買い与える人間なりの責任だ。

 閑話休題

 でもこれ「第二次大戦に勝利してアメリカを占領した」なんていう架空のナチが相手だから平気で撃ち殺すけど、リアルな時代考証がされた中での殺し合いを要求されたとしたら流石にちょっと無理だな。

 閑話休題

 どういう風の吹き回しか知らないが、ニンテンドースイッチは、これまでの任天堂のゲーム機ではあり得なかったようなCEROレートのゲームが発売されていて驚くネ。

 閑話休題

 町田康氏が著した小説『ギケイキ②』読了。いやあ相変わらず面白いねぇ。義経は死なずにジンギスカンになった的な伝説を取り入れて、現代まで生きている義経、みたいな設定で物語を語らせているんだろうけど、なんてのかなあ、氏の小説を読んでいていつも感ずる言葉の選択の見事さが、このシリーズではいつも以上に炸裂していてそのリズムに身を委ねるのがとにかく心地よい。義経が都落ちするところまで来たから多分これからますます面白くなるんだろうなあ。

 閑話休題

 Amazonビデオでレンタルした『リメンバーミー』を観た。ピクサー&ディズニーのやり口になど乗るものか、連中の掌の上で踊らされてたまるか、と思って歯を食いしばって観ていたのだが、くそう。結局感激して大泣きして観てしまったじゃないか。すべてを観ているわけではないから迂闊を承知で云うんだけど、ピクサー製のアニメの中で一番いい映画じゃないだろうか。エル・サントってやっぱりメキシコだと説明不要の英雄扱いなのな。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。うーん、やっぱり我がベイスターズにあってラミちゃんの役割はそろそろ終わりのところに来た感じだなあ。もう一年やらせてみたい気もするけど、違う風を入れる頃合いだろうなあ。伸び盛りのはずの選手が一様に頭打ちになっちゃってるし。あるいはコーチ陣の入れ替えかなあ。いまのベイスターズだったら監督コーチをやりたいと思う関係者も多いだろうね。




2018年8月26日日曜日

過去を見ることは未来を見ることと変わりがないって勝海舟が云ってなかったっけ

 もちろんそれをする人を否定するつもりはないし、好きにやっていただいて一向に構わないのだけれども、やっぱりこうなんていうか、アップルストアー新規開店時やアイフォーン新規発売時に見られる、ストアー店員さんとハイタッチして店内に入って行くあの状況にはちょっと耐えられない。見ているだけで恥ずかしくなってくる。あれだけでアップルストアーへ足が遠のく気がする。そんなことを云っている私はやはり時代に取り残されし旧石器時代人なのでしょうかね。とりあえず残りの夏を費やして打製石器でも作りましょうか。そういや縄文展を見に行きたいけど暑いしなあ。

 閑話休題

 高校時代の三年間、通学の際に登戸駅でJRと小田急線の乗り換えをしていたのだが、いまは上空階で行われている乗り換えが当時は地上階で行われていた。JR側の改札の真ん前にパチンコ屋があり、じねん、通学の際に常から目に入っていた。そのパチンコ屋、新装開店のたんびにチンドン屋さんが登場して楽しく舞踊演奏を披露しつつ、新装開店なったことをアッピールしていた。帰宅の際などにそれにぶつかると、寸刻立ち止まりぼうと眺めたものだった。アップルストアーのハイタッチも要はチンドン屋さんのそれと同じ新装のアッピールなのだが極めて洒落乙極めて現代だからそう感じない。

 閑話休題

 我が国における観測史上最大の台風は<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C54%E5%B9%B4%E5%8F%B0%E9%A2%A8%E7%AC%AC20%E5%8F%B7" target="_blank">一九七九年の二十号</a>だという。この台風が来た時小学二年生だった自分はやはりこれをよく憶えている。当時のことだから台風が来るといって学校がお休みになったり始業時刻が繰り下がったりといったことはなく普通に登校したように記憶している。ただ、帰宅時に我が家のそばまで来たら猛烈なるアゲンストが吹きつけ十メートルほど体が押し戻された挙句、寿司屋の脇にあったブロック塀に体が押し付けられたのをはっきり憶えている。
 その明くる日の午後だったか、急に風雨が収まり晴れ間がのぞいたからなんぞ? と思っていたら父親が「台風の目の中に入った」と云っていて、果たしてその一時間ほど後には再び風雨が復活してなるほどなあ、と思ったのを今でもよく憶えている。
 しかしながら振り返ってみて隔世の感を抱くのは、この台風が襲来したのが十月だったということで、そうなんである、二十個目の台風が八月に来るなんてこと、かつては考えられなかったんである。それだけ気象の様子が変わったということなんだろうと思う。それもこの十年の間に激変したという気がする。ちゃんとデータを調べたわけじゃないからあくまで気がするだけだけど。

 閑話休題

 ああそうそう。昔は気象衛星がなかったから(あっても機能が低かったから)いまみたいに台風の様子がはっきりとわからなかったんだよな。テレビのニュースなんかでも、手書きの気象図を使って予報官の人や気象の専門家が解説していたっけね。そうしてまた、当時は夜の八時五四分から各テレビ局横並びで短いニュースを放送していたから、各局同じタイミングで同じ気象庁の一角から台風のニュースを放送することとなり結果、四チャンの画面に六チャンの音声が小さく入り込んだりしてたんだよな。チャンネルをガチャガチャ回してそれを確かめて喜んでたっけ。懐かしいネ。

 閑話休題

 金足農の快進撃を見るにつけ、やっぱり野球って図抜けた投手が一人いればあそこまで勝てちゃうものなんだなあという気がする。アマチュアだったらなおのことだ。しかしみんなあのエース君の力投を単純に喜んじゃってるけど本当にいいのかねぇ。所詮は高校生の部活動ですよ。まるで一生を擲っても構わないだけの価値がそこにはある、みたいなことになっちゃってるけど、高校生の部活動ですよあれ。

 閑話休題

 しかしこの最早なんだか優勝したのが金足農みたいな空気に世の中がなっていて、どこかでこれに似た状況を見た気がするなあと頭の中を検索したところ、いつぞやのM-1で、優勝したのはNON STYLEだったにも関わらず、2位に終わったオードリーの方が遥かに強い印象を残してしまい、結果、オードリーが優勝したような感じになっちゃった、っけことがあったっけね。実際、M-1後の活躍も断然オードリーの方がすごかったし。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。この「お後がよろしいようで」というのは、落語が終わるときに云う台詞ではなくて、寄席興行で次の出番の人の準備ができたという意味だってのを、うーん、なんで知ったのかなあ、『寄席芸人伝』って漫画だったかなあ、とにかくそれで知ったんだよね。まあある種の符牒だわな。


2018年8月17日金曜日

meaning of life.

 残暑お見舞い申し上げます。お盆も無事に終わりまして、七年前の九月に亡くなった我が愛犬たる芝犬のコロちゃんを無事に迎えたり送り出したりしたところで御座います。私の住まっております関東南部では、今日あたりから急激に秋の空気が漂い始め、朝などは結構涼しかったんですが、正午を過ぎるあたりからはぐんと残暑厳しき暑さに見舞われまして、横断歩道などでは信号待ちをする皆さんが我先にと日陰の取り合いを繰り広げ、その争いは時を経るごとに高じて行き、ついには腕力に頼りがちな屈強な男たちが互いの胸ぐら掴んで殴り合いを始めるといった始末で、気がつけば横断歩道の白線は血の色に染まり、顔面その他を血塗れにした男どもの死体がそこいら中に累々と転がり、恐怖に満ちた女性の悲鳴が聞こえ、救急車のサイレンがけたたましたく鳴り響き、それに反応する犬の吠え声が聞こえ、猫は無視を決め込み木陰で涼み、虚ろな目をした痴呆症の老人が徘徊をし、車はぶつかりバイクは転倒し自転車のチェーンは外れ、プール帰りの子供は日焼けをし、野菜の値段は高騰し、雷は落ち、井戸は干上がり、靴下には穴が開くといった塩梅でまさに阿鼻叫喚の地獄絵図。そんな中で私はひとりこうしてブログを書いています。私は元気です。おちこんだりおちんこだしたりしたけど私は元気です。誰がなんと云おうと元気です。元気だっつってんだろ信用しろよ。元気一杯! ファイトいっぱい! ファイト!オー! ファイト!ファイト!新栄! ファイト!ファイト!新栄! 安いわよーん。

 閑話休題

 全く意味のない文章って書いている当人は楽しいけど読む方はたまらないよね。

 閑話休題

 真剣に有名人になりたいとは一度たりとも思ったことがないのだけれど、もしも有名になったとしたら、ラジオショッピングというのをやってみたい気がする。普段は色々な事象に毒の効いたツッコミを入れているラジオ・パーソナリティの人が、そこで販売する商品をやたらに褒め出すなど、とてもいい人に豹変するあの感じがとても好き。人間って結構楽しいよね、食っていくのは楽じゃないよね、という気にいつもなる。

 閑話休題

 やはり『<a href="https://www.netflix.com/title/70242311" target="_blank">オレンジ・イズ・ニュー・ブラック</a>』は大変に面白くて、最新作のシーズン6も一週間で観てしまった。群像劇としての出来がとにかく素晴らしい。序盤は細かいエピソードが散りばめられていてともすれば散漫にも感じるのだが、中盤を迎える頃にはそれが一つにまとまり始め、ついにはパズルのピースがぴたりと嵌るように大きな結末へと結ばれて行くその見事な手際。ちょっとこれだけのドラマはそうないだろうと思う。

 閑話休題

 ドラマといえば朝ドラ史上最低を争うとの呼び声も高い『半分、青い』をまるで歯を食い縛るようにして見続けていたのだけれど、その内容の低劣なこと、加えて脚本家のツイッターもまた輪をかけて低劣なことに嫌気が差してとうとう離脱した。いやしかし本当にどうしようもないレベルのドラマで、まあ一度怖いもの見たさで見てみるのはいいかもしれない。何しろ必要なはずの描写を何もしないまま話を進めて行くんだからものすごい。序でに北川悦吏子のツイッターも覗いてみるといいと思う。どう見てもあの人は本物。本物のあれな人。本来世の中に出ちゃいけない類の人。

 閑話休題

 RPGツクールMVが思い通りに動かせずに困っています。なにしろマニュアルがないからなあ。今年中になんとかなるかなあ。ゲームじゃなくてシットコムを作ろうとしているから余計に面倒なのかなあ。まあ仕事でやってるわけじゃないからのんびりやろう。

 閑話休題

 最近はテレビ放送をあまり見ない所為なのか世の中のことがだんだんわからなくなってきている。ニュース系のアプリなどで一応、一通りの大きなニュースは見ているつもりなのだがどうも確と頭に入ってこない。しかし考えようによっては、確と頭に入ってこないことは自分にとって重要なことではないのかもしれない。
 私のような団塊ジュニアというのはテレビっ子の最後の世代だから、どうしてもテレビから情報を得ることが当然と思い、且つ亦、テレビの中の人が云うことを自動的に信用しようとする妙な心の働きがあるような気がしてならない。
 ところが一方ではポストテレビ時代、つまりはインターネットの黎明期を知る世代でもあるから畢竟、テレビを疑う気持ちも強く持っている。結果どうしたらいいのかわからない。明らかにベクトルの異なる二つのメディアの間で常に揺れている。
 これが私らの親の世代であればテレビだけを信用してインターネットを知らずとも平気で生きていける。将又、私らの子供の世代であれば躊躇なくテレビを捨ててインターネットだけで平気で生きていける。私らはテレビもネットもどちらも面白く体験してきたが、それだけに中途半場になっているような気がしてならん。

 閑話休題

 あのー、ananのセックス特集の号は、コンビニの雑誌売り場ではちゃんとエロ本コーナーに置くべきだと僕なんかは思うよね。お洒落な女性誌だというだけで、多くの女性が平気にエロ本を買えるというのはなんか気にくわないよね。『デラべっぴん』ですら買うのに辺りを伺ったりしていた思春期を過ごしてきた20世紀ボーイとしては絶対にこれは不公平だと思うよね。ちゃんと疚しい気持ちを抱えてエロ本を買う状況に陥って欲しいよね。なんかずるいよ。なんか女のほうだけエロが隠さなくていいもの、ファッションのひとつみたいになってるのはまじずるいよ。やってることは同じなのに。こっちは同じ情報を得るのに週刊大衆を読んでんのに。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。まあどう考えても先発投手陣の建て直しが我がベイスターズに課された喫緊の課題だよなあ。ここまで酷くなるとは思わなかったものなあ。伊藤光という実績のある捕手が入ってきて、おそらく来年以降は彼を中心にバッテリーは回っていくだろうから、そこでどう変わっていくかだなあ。なにしろTBSが親会社だったことにより生じた失われた十年の為に、選手の年齢層が異様なことになっていて、実績のあるキャッチャーが一人もいないという状態が何年も続いていたからね。














2018年8月5日日曜日

その時歴史は動いた。かもしれない。

 お暑うございます。世界はすでに八月に入り五日が過ぎようとしていますが、僕の部屋のカレンダーはまだ七月のままなので、僕的にはまだ平成三十年七月を生きています。だからどうだと云われるとと困るのですが、そうして困るのは嫌なので、できたら「だからどうだ」とかそういうことは云わないでください。人の生活を批判する暇があったらもっと自分のこと考えて生きてください。いい加減にしてくださいまじで。馬鹿じゃないのあんた。あんまりそういうこと云うと警察に云いますよ。

 閑話休題

 でもやっぱりあのボクシング協会の会長というのは昭和の遺物というか、絶滅危惧種に相当するキャラクターだから、世代を問わずちゃんと見て記憶しておくといいと思う。昭和という時代、それが間違いなくあったという悠久の記憶が、あの色つきメガネや白髪のオールバックなどからなる氏の存在に詰まっているのだと僕は思う。

 閑話休題

 悠久の記憶って変な言葉だな。まあいいや。エモーショナルな感じの言葉だったら意味なんか通じなくてもいいんだこういう場合。今の朝ドラなんかこういう聞こえのいい言葉が並ぶばかりでなんの内容もないんだから、あれに比べりゃ随分マシだ。

 閑話休題

 全く世の中というのは面倒なもので、たといば、ニンテンドースイッチなんかも、私が購入した昨年暮れの頃はまだまだ発売されているゲームの数が少なかった。しかしながらそのラインナップには『ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』『スーパーマリオオデッセイ』『マリオカート8デラックス』など、任天堂が再び波に乗り始めたとわかるソフトが取り揃えられていて、これさえ買っておけばオーケー、な状況があったように思う。しかしながらスイッチが爆発的に売れた所為だろう、その後、急速に玉石混交になってしまい、もはや何を買ったらいいのかわからなくなってしまった。小さなアタリショックはここでも起こっている。

 閑話休題

 というのも僕は、結構期待をしてファミスタの新しい奴を発売日にワクワクして購入したのだが、うーん、もうファミスタは無理だなあと思ったんである。パワプロが野球というスポーツを、素晴らしいレベルでシミュレートしている為に、野球の面白さを追うことはすなわちパワプロの後を追うことになるからだろう、結果的にファミスタの面白さを追い求める形になっている。しかしながらファミスタの面白さというのは初代ファミコンの機能的な制限があったが為に産まれた省略の面白さであり、それを、省略とはほぼ無縁のスイッチの時代に持ってくるのは無理がある。結果として「野球の、ようなもの」に堕することとなり、野球ゲームと銘を打つには無理がある内容になってしまっている。故に、プレイヤーとしては「スイッチが売れてるからとりあえず出したんだろう」と思わざるを得ず、うーん、アタリショック。と思ってしまうんである。

 閑話休題

 寡聞にしてPS4やXboxの事情はわからんのだが、スイッチの時代というか、コンシューマゲーム機がネットと不可分になったお陰で、インディーズゲーム界にとっては素晴らしい時代になったのではないか。スイッチで『ゴルフストーリー』というインディーズゲームを遊んだが、これなどは大変に面白かった。メジャータイトルでは絶対にあり得ないような設定・内容が見事にゲームの面白さに消化・昇華されていて熱中して遊んだ。インディーズが故にゲームのボリュームが少ないのも、集中力と時間の不足しているおっさんには好都合だった。スイッチ登場以前から、すでにSteamというインディーズゲームを流通させる場所が出来上がっていたことと併せて考えても、インディーズゲームの潮流は大きくなる一方だと思う。その潮流はけしてメジャータイトルと肩を並べるものではないだろうが、それでも一つの世界として、ゲーマー以外のライト層にも当然のものとして受け入れられるだろうね。

 閑話休題

 アイドルなんかもそうだよね。松田聖子の頃は云うに及ばず、モー娘。全盛の頃でも地下アイドルが存在することなどとても無理だった。それがいまでは当たり前のようになっている。そういうものだ。
 あとプロレスもそう。馬場猪木の力が落ちてきた途端にUWFは出来るジャパンプロレスは出来るFMWは出来る、そうしているうちにインディーズの存在が当たり前になり、そうしているうちにインディーズの闘龍門出身のオカダ・カズチカが、いまや我が国で唯一のメジャー団体となった新日本でトップを取るようになってるんだから、やっぱりそういうものだと思うよ僕ぁ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。やっぱり今のセリーグで強いチームの野球をやってるのはカープだけだなあ。勝負所と見るや、チームが束になって相手にかかっていって、そうして流れを自分の方に持ってくる。優勝した時のベイスターズもそうだったものな。我がベイスターズを含めた他の五球団は、自軍の方に流れが来れば勝てるけどそれが来なければそれっきり、みたいなゲーム運びばかりしている。これじゃ長丁場のリーグ戦には勝てないよ。これはクライマックスシリーズの弊害。3位までに入ればまあいいや、みたいな意識がカープ以外のチームには充満してるもの。

2018年7月31日火曜日

天才に勝る努力なし

 お暑うございます。それにしても今年の夏は殊の外長いですね。晦日とはいえ本日はまだ七月ですよ。これから八月が来るんですよ。夏を感じさせる気象状況はすでに全て体験しちゃいましたよ今年は。

 閑話休題

 剛力彩芽嬢がインスタグラムにおいて炎上している、てな記事をちらと見たのだが、この件に関しては僕は小島瑠璃子嬢の意見がもっともだという気がする。あのゾゾタウンのおっさん、IT長者でありながらSNSの洒脱な使い方を全く心得ておらぬと見える。ただでさえおっさんがネット上で無闇に張り切るのは、若者のそれに比べて五割増しでみっともなく映るというのに、ゾゾタウンのおっさんときたら、芸能人の彼女以上に無闇矢鱈に張り切っていてみっともないったらありゃしない。
 しかしあれかねぇ、ホリエモン氏の、新幹線の椅子を倒す際の声かけや乗車拒否タクシーにぶちぎれるつぶやきといい、IT長者っていうのは、芯のところが野暮天な連中しかいないのかね。まあ、あんまり関わり合いになりたくない連中ばかりだというのは見ていてよくわかるわいな。彼らを見ていると「人品骨柄」ってやっぱり大事なんだって思わされるね。

 閑話休題

 ゾゾタウン、と本来アルファベット表記のところをカタカナ表記にすると、途端に「時代に取り残されし中年臭」が芬芬としてくるから面白いですね。ディーエヌエーとかね。

 閑話休題

 やがてはディーをデーと発音する日本人も絶滅するのだろうね。思えば私らの親の世代などはディズニーランドを必ずデズニーランド、と発声していたものだった。しかし私ら以下の年代でそんな発音をしている人はもういない。いま、ディーをデーと発音しているのはリポビタンDのコマーシャルくらいのものだ。
 聞くところによればかつての日本人はチャップリンと発音することができず、チャンプラン、と呼称していたそうだ。気がつけばきゃりーぱみゅぱみゅもそんなに苦労せず発音できるようになっている。意外と人間は短期間で進化するものだ。

 閑話休題

 そういうわけで僕は『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』を読み了えたのだった。
 僕がプロレスを見始めるきっかけとなったのはやはり初代タイガーマスクの存在で、それ以降、世紀が変わって数年間が過ぎるまでずっとプロレスを見続けたから、当該書籍にある内容の八割方はリアルタイムで見たものだ。
 それだけに読みながら、あの頃に戻りたいという気持ちを強く感じた。裏側で何が起こっているのかを知った状態で体験し直したいと思った。

 閑話休題

 改めて佐山サトルの人生というのはすごいものだなあと思う。誰もが認める天才であり、おそらくは世界中のプロレスラーが欲しくて欲しくて堪らない才能を完璧に備えているにも関わらず、あっさりとその状況を手放し(つまりは間違いなく得られたはずの巨万の富も捨てたということだ)、その当時、誰も具体的に描くことが出来なかった総合格闘技の立ち上げに私財を抛ち奔走し、十年以上をかけてようやくそれが形になったところで、今度はその総合格闘技の世界から石もて終われるのだからあまりに凄い。そうした自らの才気に自らが振り回される姿が本書にはよく活写されていると思う。

 閑話休題

 佐山サトルのプロレス時代の映像を観ていて驚くのは世界各地、どこで試合をしても観客が同じように熱狂していることだ。タイガーマスク全盛の日本の観客は云うに及ばず、サミー・リーと名乗り素顔でファイトしていた頃のイギリスの観客も、タイガーマスク後期に遠征したWWF(現在のWWE)の観客も、皆、同じようなテンションで佐山サトルの試合に熱狂している。WWFに至ってはいまなお、業界に軽量級を定着させたのは日本から来たタイガーマスクだ、という評価があるようだ(因みにWWFではわずかな試合数しか行っていない)。これはやはり天才の仕事だったのだろうと改めて思う。イチローが日米の差を問わず大活躍をしたのと同じことだ。

 閑話休題

 さらに凄いのはタイガーマスクを終わらせてからも、タイガーマスクとは全くイメージの異なる格闘家としての天才ぶりを見せ続けたことだ。格闘技風味なプロレスであるUWFではスーパータイガーを名乗り、キックと関節技を中心としたスタイルでのちの総合格闘技につながる源流を表現した。プロレス界と別れてからはシューティング、現在の修斗を作り上げ、ヒクソン・グレイシーを呼び、日本に総合格闘技が根付くきっかけを作った。仮に日本に佐山サトルがいなかったら、プロレスや格闘技界は全く異なる歴史を歩み、全く異なる姿となっていただろう。
 ああホント、いま一度、当該書籍に描かれた時代を体験したいよ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ちょっとずつですけど作品づくりもやってます。去年ちらと云っていたRPGツクールをなんとかしたいと思って奮励努力しています。って、自分で自分のやっていることをして「努力」なんて表現する奴のことは努努信用してはなりませんよ。



2018年7月23日月曜日

生きてるだけで丸儲け

 お暑うございます。こうなると夏と秋の間に「猛夏」みたいな、新しい季節の呼称が必要になるかもしれませんな。

 閑話休題

<a href="http://garbage-coll2.sakura.ne.jp/sblo_files/garbage-coll3/image/hot.png" target="_blank"><img border="0" alt="hot.png" src="http://garbage-coll2.sakura.ne.jp/sblo_files/garbage-coll3/image/hot-thumbnail2.png" width="320" height="183"></a>

 このテレビ画面を見て何かが大きく狂っていると思う私はやはり狂っているのか。みんな平気なのか。何にも思わんのか。

 閑話休題

 あのほれ、ZOZOの社長さんがプロ野球球団持ちてぇー、って云ってみたり、対して千葉ロッテが売らないよー、って云ってみたりするのを見るにつけ、嗚呼、なんだかんだ云ってもプロ野球球団っていうのは、それを保有していることが対世間に於いてはステータスなんだろうなあと思わされますな。してみると、楽天とかDeNAなんて随分世間的なイメージが変わったんだろうね。確かにDeNAが球団を持つことになった時には、どうせビジネスライクにやられて、我々ファンが抱くチームへの愛情など鑑みられなくなるんだろうなあ、と思っていたけれども、全然そんなことはなかったものね。ここまでやるんだ、と驚くぐらいよくやってくれてるものね。
 ただ、楽天の方は優勝した後にオーナーがスタメンを決めたりするようになって全然ダメになっちゃったけど。なんだか十年前の地獄だった頃の横浜を見るようだもの。代理監督に勝ち越せば来年もやらせてやる、なんて云っているところなんてまるっきり同じ。

 閑話休題

 しかしあれですかね、戦後すぐの頃、GHQがプロ野球を存続反映させるために、球団が出した赤字は一定額まで親会社の宣伝広告費として計上できるという措置があったと聞いたけど、まだそのルールってあるのかしらん。

 閑話休題

 うーん、ホリエモン氏が世の中に出てきた頃から感じていたけれども、ITの新興企業の社長さんたちって、どうしてあんなに人間がドライな感じがしちゃうんだろうねぇ。なんていうのかな、雑談がつまらなそうな人ばかり、というか、自分に直接関係する話以外には全く無駄として切り捨てちゃう、みたいな。ITの人じゃないけど、橋下氏が文楽への補助金を無駄としてカットした的な、文化とか芸術なんて所詮は生きる上で必要のない物だから無駄、みたいな感じなんだよな。

 閑話休題

 暑いし用事もないから家に籠ってNetflixで漸く配信なった『Jimmy アホみたいなホンマの話』を全話一気に視聴したのだけれども、いやはや、面白かったですよ。そらあ脚本的に説明不足なところ(場面が東京なのか大阪なのか混乱する)があったりするけれども、さんま師とジミーちゃん、さらにはそれを取り巻く人々との関係がよく描かれていて、涙なしには見られない内容に仕上がっていましたよ。また、ドラマ各話の前後にさんま師とジミーちゃんのトークが入るのも嬉しい。ご用とお急ぎ出ない方は是非ご覧になられるといいと思う。

 閑話休題

 さんま師とジミーちゃんといえば、<a href="https://youtu.be/5SZspex89F8?t=4153" target="_blank">このときの二人</a>は平成のバラエティ番組史に残る面白さくだらなさバカバカしさだったよなあ。

 閑話休題

 うお。いま、<a href="https://osha-kimi.com/memo/google-membership-reward-scam/" target="_blank">Googleメンバーシップ・リワードの詐欺画面</a>が私のMac上のChromeに表示されたよ。試しにクイズに正解するところまでクリックしたけど大丈夫かね。個人情報入れてないから大丈夫だろうけど。Googleをお使いの皆様、って当選通知みたいなのが出てきたらそれは詐欺ですからお気をつけくださいませ。しかしなんでこんなのが出るのかねぇ。こないだ見ていたエロサイトの所為かねぇ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。つーか、張本勲に喝とかあっぱれとか云わせて面白がってないで、ちゃんとバッティングのメカニズムを解説させなさいよ。



2018年7月22日日曜日

素晴らしき日曜日

 お暑うございます。

 閑話休題

 マサ斎藤のことを思うたびに感ずるのは、他のレスラーから大変なリスペクトを受けていたのだろうなあ、ということで、私も嘗ては重症のプロレスファンだったから相当数のインタビュー記事を読んできたが、マサ斎藤のことを悪く云っているレスラーというのはちょっと記憶にない。キャリアの全盛期に主戦場アメリカに置いていたから、私のようなファンからすると正直なところ、リング上での印象となると最高級の脇役というところに落ち着く。狼軍団ではヒロ・マツダのパートナー、維新軍団・ジャパンプロレスでは長州力以下が最敬礼でリスペクトする象徴的な存在、80年代後半に力が落ちてきた猪木が重用した対戦相手、という、常にサポートの立場にあったとの印象になる。然し乍ら、どこにいてもアンタッチャブルな領域にいるという印象を受けた。マサ斎藤にしか出来ない役割を任されているという印象があった。87年の年末だったか、両国国技館での猪木&ディック・マードック対マサ斎藤&藤原喜明のタッグマッチは、プロのレスリングの面白さが詰まっていて実に見事だったといま思い返しても陶然とする。

 閑話休題

 あとマサ斎藤といえば90年代の前半からはテレビ中継の解説者となったのだが、これがとんでもなく面白かった。覆面レスラーの正体は平気で言うわ、アメリカのレスラーをヤンキー呼ばわりするわ、同席した当時現役レスラーだった馳浩を平気で叱責するわ。それでいてプロレスの奥深さも一言で言い表す凄さもあって、いや本当に面白かった。
 本当にみんないなくなっていくなあ。ひねりを加えたバックドロップ。一度決まったらどちらかが死ぬまで外れない監獄固め。ルーチャですか? ゴー・フォー・ブロック。

 閑話休題

 話はマジ変わりますが、この数日、テレビの天気予報などを閲しておりますと、このところ予報士の方がさかんに「熱中症の危険がありますので、昼間の時間帯は原則運動禁止です」てなことを繰り返し述べておりますが、その数分後には別のニュースを読むキャスターが「熱戦続く高校野球の予選」みたいなことを述べていて、嗚呼、こんなことをやっているうちは、少年野球の人口は減る一方だろうなあ、と思いますです。
 加えて昨今のプロ野球は、客入りだけを見ればライヴ人気が高まったとも云えるけれども、そこに漂う空気は「観るもの」としてしか捉えられてないように感ずるよ。プロのプレーを観た少年が、それに憧れて僕も私も野球をやってみよう、となるような空気感は微塵もない。ライヴ感覚で応援歌を歌って勝敗結果のみに一喜一憂するのみ、という感じがするよ。野球の将来を鑑みると相当まずい状況だと思うけどね。街中や公園・広場でキャッチボールをしている友達や親子なんてまるで見かけなくなった。いまの三十代になると最早野球よりもサッカーを見てきた人の方が多いだろうから、親がとにかく野球が好きで、という家庭もいまでは少ないだろうし。

 閑話休題

 私らの親の世代、いまの後期高齢者の年代の皆さんを眺めていると、自分が取扱えぬテクノロジーをテッテ的に忌避するのに比例して、自分が取り扱えるテクノロジーについてはテッテ的に使い倒すように見受けられます。スマホやインターネットは気味わるがって使わぬのに、テレビや電子レンジは狂ったように使い倒します。
 エアコンにしても同様で、一旦使うとなると、やたらと温度設定を低くして、体が冷えきるような状態にして使います。そうして「エアコンは体が冷えるから嫌い」などと嘯いてはエアコンを忌避して暑い部屋で我慢大会のようなことをしています。
 テクノロジーに対して適度に距離を置いてほどよく使う、ということがどうも出来ないようです。エアコンの温度設定を、暑さを感じない程度にする、または窓を少し開けて使う、ということがどうも出来ないようです。あの世代の人々にとってそれは取りも直さず「無駄」ということになるようです。テッテ的に冷たくしないのならばエアコンを使うのは無駄、という理屈のようです。
 そうしているうちにエアコン=過度に冷える=体が冷えて調子が悪くなる=だから使わない、みたいな論法が成立しているようです。自分で自分を洗脳してしまっているのでしょう。
 まあもちろん、あの世代が若かりし頃のエアコンというのは無闇に冷やすものだったというのも事実なんですが、まずはそのイメージ・記憶を取り除かぬことにはいかんと思いますです。

 閑話休題

 話は本当に変わりますが、たといばこうして日曜日の朝っぱらからブログなるものを書いている自分のことを思うに、二十代の初め頃、週末となると夜っぴてパソコン通信にのめり込んでいた頃と何も変わらぬと思ってまじ情けなくなります。しかし若い頃と比べると、人生についてだいぶんどうでも良くなり始めているので、そんなに悶々としなくて済みますから今の方が断然気は楽です。思えば若い頃は金曜の夜ぐらいから週末の間、ずっと悶々としていたものね。
 さらに当時はまだ世の中にバブルの残り香が大いに漂っていたから、週末の夜にうかうか街に出れば浮かれ気分なカップルばかりでまじ癪に触る、きぃ。なんて思って街を歩くから余計にカップルに目がいくという負のスパイラルに陥っていたし。
 果たしてもっと歳をとればもっと楽になるんだろうか。それとも持たざる人間として人生が終わってゆく事実に愕然とする気持ちの方が強くなるのか。明日は、どっちだ。

 閑話休題

 でもあれだ。じゃあ彼女が出来て晴れてカップルになったらその悶々とした感覚が消えたのかというと、確かに消えたのは消えたんだけど、あの頃の悶々とした感覚とは繋がりがないような気がするんだよなあ。違う何かで上書きされたようなそんな感じ。裏を返せば、あの悶々とした感じというのは、いまでも心の何処かに蟠っているんだろう。それが一番必要とされた時に、それを持つことが出来なかったというのはきっと一生蟠ったままで残るんだろう。

 閑話休題

 あれは誰だったかなあ、映画監督かなんかが苦労の末に何かの賞を取った時に、その受賞スピーチで「(観客や評論家に対して)私が一番あなた方を必要としていた時、あなた方は一体どこにいたんですか?」と云った、というのをどこかで読んだような気がするんだけど誰がどの場面で云ったのか思い出せないし調べても出てこない。

 閑話休題

 まじで話は突然変わるが、ユーチューバーの何が困るって、あの人たち、ずーっとこっち見てくるでしょう。あれが困る。一対一、みたいな空気感出してくるでしょう。あれが耐えられん。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。常田富士男氏も亡くなっちゃったけど、そらあ『日本昔ばなし』の声も素晴らしかったけど『カリキュラマシーン』や『ゲバゲバ90分』で見せたコメディアンぶりも実に見事でした。機会があったら探してご覧になられるといいと思いますよ。




2018年7月17日火曜日

好きな時代を行ったり来たり

 もうその話題の旬は終わったようだけれども、えーと、あのほら『さよなら、おっさん社会』なんという、ばかみたいなフレーズが大書された電車の中吊り広告があったでしょう。あれを目にするたんび、僕は「ゼロ年代的だなあ。前時代的なあ。あっ。そうか。考えてみりゃゼロ年代って、もうずいぶん昔の話なんだよなあ」と思い、六本木ヒルズがITの総本山、みたいに思われていた頃を思い出してなんだかくらくらしておりました。
 あの頃の感覚を”巨人対DeNA”と表記されて微塵の違和感も抱かなくなった二〇一八年になって尚、大々的に広告展開する時代錯誤っぷりに僕はくらくらとしたのです。電車の中で。いやほんと倒れなくてよかった。
 その広告主はそれだけでは飽き足らなかったのか、件の広告の少し後にはホリエモン氏を、まるで『アプレンティス』の時のドナルド・トランプ氏のように取り扱うかのような広告も電車の中で展開していたりして、これまたゼロ年代だなあ、と、くらくらしました。ただでさえ暑い今年だってのに。
 然しまあ、いつの時代にもこういう「新しぶりっ子」をする古い奴ってのぁいるもんでさぁね。

 閑話休題

 やはりこの、僕なぞは「ぶりっ子」と見聞きするたんびにどうしても山田邦子氏のことが思い起こされるのですが今や若い人に山田邦子のなんたるかを説明するだけでも時間がかかるので大変です。かわい子ぶりっ子ぶるぶるぶりっ子。おもてなし、裏があってもおもてなし。右手をご覧ください一番高いのが中指でございます。

 閑話休題

 然しあれですよ、テレビのワイドショウなどでコメンテーターと称する電波芸者のみなさんが、あらゆる事象・話題について意見を述べているのを見るにつけ、うーむ、何だか全ての話題が同じ地平にあるように錯覚しそうになるなあ、と思うのであります。政治も芸能も兇悪犯罪も天変地異も、もう何もかもが同じ地平にある話題だと錯覚しそうになります。本来ならば、全ての話題には相応の見識を持った専門家がいるはずなのに、そうした人々の意見を聞くことはほとんどなく、同じ面子のコメンテーターの皆さんの意見をあらゆる話題において聞くばかりで、全ての話題が同じ地平にあるように思えてしまってなりません。
 そうしているうちに、ネットニュース全盛の時代となった昨今、到頭テレビに出ている人が全てフラットに取り扱われるようになったような気がしてなりません。政治評論家もジャーナリストも元スボーツ選手も役者もバラエティタレントも落語家もニュースキャスターも、全てコメンテーターとして同じ地平にいる、そんな取り扱いを受けるようになったように感じます。うーん、うまく伝わるかなあこの感覚。
 たといば立川志らく師がワイドショウで何某かの話題に関して発言をした場合、それは落語家としての見識からの発言であると捉えるべきと私なぞは思うのですが、数多のネット・メディアの取り上げ方は、志らく師の個性や専門などは脇に置かれ、テレビに出ている志らくなる者が、あの事件についてワイドショウでこんなことを云った、という視点でしか取り上げぬのですね。そうして、そのニュースを読んだ人々がSNSで志らくなる者はけしからん、みたいなことを云っていて、うーん、何だこれ。と、私なぞは思うのであります。テレビに出ている人はみんなテレビに出ている人以外の何物でもない、みたいな感覚がここにきて益々強くなってきたように感じますよ。

 閑話休題

 然しあれですよ、Yahoo!ニュースとかってさ、テレビ・ラジオで有名人がこんなことを云っていた、ていうのをニュースとしてたくさん流しているけれども、あんなのニュースでも何でもないよなあ。それってお前がテレビやラジオで見聞きしたことをそのまま書いてるだけじゃんか。放送の剽窃じゃんか。と思うんだよなあ。まあ、番組を作る側からしたら宣伝にもなってるんだろうけど、こんなものニュースでもなんでもねぇじゃねぇか。と思っちゃうン。

 閑話休題

 然しあれですかね、昨今の猛暑・酷暑ぶりからすると、小学校のプールの時間で、体が冷えてしまって唇が紫になって震えている生徒さんとかってもういないんでしょうかねやっぱり。プールの時間で熱中症、てな話題を聞くくらいだから、やっぱりいないんでしょうなあ。私がガキの頃なんて、曇りの日に遊園地の屋外プールに行くと、うわなんだ今日は外よりも水の中にいる方が暖かいじゃんか、みたいな日があったものね。三十数年前の関東南部の話でござんす。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。プライムデーって逆になに買っていいんだかわかんなくなりますね。やはり買い物の上手においては女性には全く敵いませんや。


2018年7月13日金曜日

人を呪わば穴二つ

 文芸家たらんとする中学生は、須らく数学を学ぶ事勤勉なるべし。然らずんばその頭脳常に理路を辿る事迂にして、到底一人前の文芸家にならざるものと覚悟せよ。

 閑話休題

 ということをかの芥川龍之介大人は仰っておるのですが、流石だなあ、なるほどそうだよなあ。作劇というのは論理以外の何物でもないよなあ、足し算引き算以外の何物でもないよなあ、と思いますです。
 しつこいようで恐縮ですが『半分、青い』のあらゆる面での論理破綻を見ているとそんな気にさせられます。ご都合主義で人を出し入れするというのは本当にダメですね。行動にはやはり理由と理屈がないとダメですね。メインキャストの性格が破綻しているのも本当にダメですね。主人公の成長が何もないのもダメですね。発言もめちゃくちゃだし。登場人物だって物語世界の中で実際に生きている人間だということが全然表現できていなくてダメですね。他人を揶揄する酷い言葉を早いテンポで云えばコメディ場面になると思っているところもダメですね。
 然し乍ら、まるで作劇の”べからず集”を見ているようで逆に勉強になります。

 閑話休題

 そうは云っても同作品に出ている滝藤賢一氏や斎藤工氏や嶋田久作氏やキムラ緑子氏など手練れの皆さんが出ている場面では、その演技に見るべき部分が沢山あって、成る程、巧い役者さんというのは凄いものだなあ、と思わされます。逆に云えば、主人公が経験を積んだ女優さんであったなればもう少し観られる内容になっていたかもしれません。然し乍ら、現時点では実力よりも将来性の方が優っている永野芽郁ちゃんにはちょっときついですよね。ましてこの内容で五十代まで演じさせるのは可哀想以外の何物でもないよね。

 閑話休題

 考えてみれば、九十年代を席巻したトレンディ・ドラマというのは内容よりもキャスティングが重要視されていたと聞きます(キャストが決まってから内容が検討されると聞いたことがあります)。してみると、ほぼそのジャンルのみで一家を成した今作品の脚本家さんが作りそうなドラマ、という気も致します。なにがミートゥだ。
 そらあリアリティ皆無みたいな浮ついたセリフでも、美男美女を極めたような見目麗しさ、更に相応の技術を持った役者さんが演じれば、それは脚本のポテンシャルを大きく超えて成立しますものね。それがトレンディ・ドラマだったということなんでしょう。

 閑話休題

 そういや先頃も同番組の中で「出た! アラビア語に聞こえる岐阜弁!」というナレーションが入ったから、私ァてっきり作品の中で度々使われてきたルーティーンのギャグなのかと思ったら、アラビア語云々というのは初めて出たフレーズなんだそうで、いやはやびっくらこきましたよ。
 まず岐阜弁がアラビア語に似てる、というイメージが世の中に浸透していませんし、またそうした方言を「アラビア語に似ている」というギャグとして使うための仕込みもしていないというのですからまじ驚きです。いやはや、勉強になるわあ。

 閑話休題
 
 いやいや、どうもすみませんでした。もう『半分、青い』については書きませんので平にご容赦を。何かに対する罵倒なんて、書いている・云っている当人は面白くっても、読む方・聞く方は、不愉快になるばかりで、てんで面白くありませんものね。重ねてどうもすみませんでした。でもあれですよ、御用とお急ぎでなければ、いちど、ご覧になられるといいと思いますよ。理論の欠落したドラマの進行というのはなんと歯がゆいものか、と思うこと請け合いですから。こないだのあれどうなったんだよ! 自分が働く店に客として来た弟を忙しいからってすぐにレジ打ちなんかやらせる阿呆がいるかよここは無法地帯か! みたいな苛立ちを、ネ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。人を呪わば穴二つ。肝に命じて生きてゆきたいですね。

2018年7月8日日曜日

笑えるうちが花

 あれは九十年代初頭だったか、新宿駅西口の、小田急百貨店と小田急ハルクをつなぐ陸橋の下、雨のかからないところで、オウム真理教の信者の人たちが踊っているのを見たことがあったっけ。踊っていた皆さんが揃って『宇宙戦艦ヤマト』の乗組員みたいな装束を身に纏ってくるくる舞っていたっけ。確かオウム真理教って書いてある立て看板みたいなのを脇に置いていたような記憶がある。まだあの頃は、変わった集団があるなあ、ぐらいの認識だったんだよなあ。

 閑話休題

 いま調べたらあれは平成四年、一九九二年、大川興業が当時得意にしていた時事ネタアカペラ『ウィーン伝道こけし合唱団』のライブを日本青年館に観に行った時にも、オウム真理教のネタをやっていたっけ。
 仮面ライダーのメロディーに乗せて”せまるー ショッコー オウムのぐーんだーん”、”ショーコー ジャンプ!(浮いたぞ!、の合いの手) ショーコー キーック! あーさはらしょーこー あーさはらしょーこー 義太夫ー 蛾次郎ー” なんてメンバーがアカペラで歌唱した後、麻原彰晃氏の扮装をしたグレート義太夫氏が舞台にせり上がってきたんだよなあ。笑ったなあ。そうしてその後、江頭2:50氏を始めとする大川興業のメンバーが、いわゆるところの空中浮遊をやりながら舞台の上で競馬さながらの競争をする、みたいなパートの構成だったと記憶している。
 ほんと、まだあの頃はみんな結構面白がっていたんだよなあ。

 閑話休題

 ごく私的に、九十年代を通して最高に面白かったバラエティ番組と思っている『浅草橋ヤング洋品店』の中で、一つの到達点となった企画『江頭グランブルー』も、いわゆるところの水中クンバカだものねぇ。
 しかしあの『江頭グランブルー』は素晴らしかったよなあ。コーナーの大団円では爆笑と感泣が同時に到来するという、あり得るはずのない状況が視聴者に訪れたんだよ。腹をよじって爆笑しながら深い感激に大泣きして観ていた。

 閑話休題

 そうそう、オウム真理教の兇悪が明らかとなった後、オウム真理教がそれ以前に起こした坂本弁護士一家殺害事件について、TBSが坂本弁護士に対して行ったインタビューを、放送前にオウム側に見せてしまったことが事件の引鉄となった、ということがあった。それが明らかになった時、看板番組の『ニュース23』で、アンカーマンだった筑紫哲也氏が「報道のTBSは死にました」てなことを同番組内で云い、それ以降、TBSはいわゆるワイドショウを全て廃止して『はなまるマーケット』なんかの生活情報番組を始めたんだよな。それから数年が経ち、TBSが再び昼間のワイドショウを始めた時には、おいおいいいのかよ、と思った憶えがある。というか、いまでもたまに、おいおいいいのかよ、って思う時がある。

 閑話休題

 まああれですよ、始まりはそんなに悪逆無道な集団に見えなかっただけに、あそこまで行っちゃうのか、って、余計に恐ろしい印象だったよね。しかしあの頃の上祐ギャルとかって今頃どうしてんのかねぇ。

 閑話休題

 話はまじで変わりますが、いやあ、あんまりすごかったんでつい『半分、青い』をBSで一週間分、続けて見たのですが、いやあ、これはまじすごい。キャラクターの造形からセリフからストーリーの運びから、いやもうとにかく何もかもいい加減で雑で上調子な感じがして、いやあ、すごい。人の配置や動きもいわゆる御都合主義を平気でやっているし。これはもう反面教師というレベルを遥かに超えていて、まじすごい。ドラマ全体に、脚本家さんの「こういうスイッチを押せば見る人は感動するんだよね?」的な、観る人を完全に舐めている感じが横溢していて、ほんとすごい。コメディチックな場面でもその感覚は遺憾無く発揮されていて「顔がでかいからモアイ像と呼ぶ」的な幼稚なレベルで全ての笑いが作られていて、いやあ、まじすごい。これを朝ドラの枠で放送しているのは一つの奇跡だと思う。いやあすごい。多分、脚本家さんは作っていてすごく楽しいんだろうと思う。

 閑話休題

 永野芽郁ちゃん、可愛らしくって無垢な感じがあっていずれ素敵な女優さんになりそうだから、今回の、ものすごい朝ドラに主演したことで、女優として不必要な遠回りをさせられなければいいよなあ、と思う。『純と愛』に主演した夏菜嬢が不必要な遠回りを未だにさせられているのと同じことにならなければいいと芯から思う。

 閑話休題

 お相撲だとか高校野球の為に『カーネーション』の再放送が今月三十日までないというから残念で、そういうわけだからKindle unlimitedで見つけた同作品のノベライズを読み始めた。ドラマの場面を忠実に追い、放送の中で印象的だった台詞を絶妙に配置してあるから、読んでいて場面が脳内で明瞭に再生されて面白い。
 そうして不図、ああ、そうか。江戸や明治の頃、歌舞伎の戯曲がよく売れていたというのはこういうことなのだろうなあ、と思った。ヴィデオもレコードもない時代、観劇した芝居を再度観劇する以外で、もう一度見直す方法がこれしかなかったんだろう、と思った。確かに、一度観た芝居や映画やドラマの戯曲やシナリオ本を読んでいると、その場面がパッと頭に再生されるものね。

 閑話休題

 話は再び変わりますが、借金がために馘首になった千葉ロッテマリーンズの大嶺翔太元選手や、やはり借金に困り、同僚の有名選手が使用する用具を多数盗んで売り飛ばしたことが発覚してこれまた馘首になった読売巨人軍の柿沢元選手などの話題を聞き及ぶにつけ、うーん、プロ野球というジャンル自体が下り坂にあるんだろうなあ、という思いがどうしてもしてしまいますな。なんというか、下り坂なところには下り坂に向かいやすい人が集まって来ちゃうんだよねぇ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。皆さん、どうかご無事で。



2018年7月4日水曜日

虎は死して皮を残し人は死して名を残す

 歌丸師が亡くなったという報せがワールドカップのそれにも負けないくらいの大きな話題になったのは落語ファンの一人としては安堵するところ。昭和の大名人の一人であった三遊亭圓生師が死んだ時には、同じ日に上野動物園のパンダが死に、それが為に「圓生も」といった塩梅で報道されるに至った、とまあこれは笑い話でもあるのだけれど。
 しかし数多の報道や人々の感想を閲するにつけ、あまりこれはよろしくないなあ、と思うのは、常に「笑点の」という枕詞やイメージがつくことで、自分なぞはつい『笑点』というか大喜利というのはあくまで落語家がやる余興であって落語とイコールではないのですよ、それのみを以って歌丸師のことを評価・判断してはダメなんじゃねぇんですかぃ。と思ってしまうのでありんす。だから『笑点』での姿は、あくまで師の持つ魅力面白さの一面でしかない、と思っておかないとダメなんでないの。ということなのでありんす。更に云えばあれらは基本的に『笑点』用のキャラクターであるしね。
 とにかく『笑点』を以って、落語とはこういうもの、落語家とはこういうもの、と単簡に思ってしまうのはひどく危険ですよ、と自分なぞは思うのでありんす。

 閑話休題

 しかし『笑点』の偉大は、世の中に落語という芸能があり、落語家という職業があるということを大衆に知らしめ続けていることにあるとも思う。もしもあの番組がなかったら、落語の大衆への浸透の度合いは随分と低くなっていたように思う。
 斯く申す自分とて、小供の時分に当たり前のように『笑点』を観ていたから、長ずるに従い落語を聴き込むようになる素地が、覚えず知れずのうちに出来上がっていたと思う。
 まああれですよ、歌丸師が亡くなったのは残念だけれど、これもいい機会だと思って落語を聴いてみるのもいいかも知れませんよ。当節、YouTubeでちょいと探せばいくらでも聴けるんだから。それもロハで。

 閑話休題

 しかしあれですよ、私らなんかの世代からすると歌丸師の喧嘩相手といえば真っ先に思い浮かぶのはやはり三遊亭小円遊師ですな。ハゲ対お化けの抗争でしたっけね。翻って当代円楽師は、小円遊師亡き後に現れた気鋭の若手落語家・楽太郎との印象が強く、歌丸師との抗争が始まった頃は、どこか世代闘争的に見ていたものですよ。プロレスで云えば鶴田対天龍と鶴田対三沢の違い的な、って、どうです、引き合いに出す話の方がポピュラリティがないというこの例え下手のほどは。

 閑話休題

 正直なところ、追いかけてまで聴いた落語家ではなかったから、語るに相応しいだけの思い入れや記憶はないのだけれど、それでも観るたびに聴くたびに、世の中を怜悧冷徹に観ている目を、軽妙洒脱でコーティングして隠しているような様子が感じられて、落語家らしい、ってこういうことだよなあ、と思って観ていたものです。餓鬼の時分『<a href="https://www.youtube.com/watch?v=eoeAHGViQzs" target="_blank">化粧術</a>』を『花王名人劇場』だったかな、観て随分笑ったっけね。なんとなく敬遠していた圓朝作品も聴いてみようか。いい機会だしネ。

 閑話休題

 しかしほんと、当たり前のように観ていた人たちがどんどんいなくなるなあ。そういや自分がぐんぐんに落語を聴き始めた餓鬼の頃、親世代の連中に「君は落語が好きなのか。俺は志ん生や文楽を生で見てるけど、君は間に合ってないから可哀相だね」と自慢されて大変に悔しかったものだけれど、いまや自分の方が「君、落語が好きなの。俺はね、談志や志ん朝、円鏡の円蔵を生で聴いてるよ」なんて自慢げに思ったり云ったりするようになってしまっていてまじ老害。

 閑話休題

 話はまじで変わるが、昨日、出来心で初めてまともに『半分、青い』を見てしまったのだが、うわあ、主人公が譫言で「本物の刀で切られてどくどくと血が出た」といったような心情の吐露を、ナレーションならまだしも、譫言とはいえ普通に台詞として云っていて、見ていて恥ずかしくて死にそうになった。私は悲しいです辛いです衝撃を受けました、って直裁に説明してどうすんだ。
 さらには中村雅俊氏演ずる主人公の祖父が、自分の未来に絶望している主人公と電話で話している際、主人公に請われてギターを抱えて『あの素晴らしい愛をもう一度』を電話口で歌唱するという、かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう、的な場面があって、こりはだみだ、と感情を余所に遣り、ドラマ世界から一目散に逃走した。
 あの祖父が中村雅俊氏じゃなくって泉谷しげる氏やなぎら健壱氏が演じてるっていうんならまだドラマにもなるだろうけど、かっこいい人がかっこいいことをやるなんて当たり前のことじゃんか。そもそも我輩ら団塊ジュニアの祖父母の年代の人間がギター掻き鳴らして「あの素晴らしい愛を思う一度」なんか歌わねぇよ。ドラマの嘘としても到底通用しない。

 閑話休題

 そうして夜になって録画した『カーネーション』を観て、今日も今日とて素晴らしい内容に大いに感心し、心を安寧させたのであった。浮気していた勝さんを終戦とともに許し、新時代の到来で知己の八重子さんにパーマ屋をやらせることで、糸子自らがパーマをあてて女っぷりが上がるようにもって行き、そこに新たな恋の対象となる周防を登場させるというプロットの妙。まったくもって自然な流れ。物語を運んでゆく手際の良さといったらない。そうしてまた、視聴者に状況を理解させるためだけにしかないリアリティの欠落した台詞なんて一切ないしね。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。うーん、今年は勝負所で投手が抑えられない展開が続くなあ。それとラミレス監督、采配の自家中毒に陥ってないといいんだけど。まあ井納を先発に戻した判断などを見るとそうでもないんだろうけど、ちょっと意固地になってるかな、と感じる時がある。

2018年6月30日土曜日

送り手と受け手の間には暗くて深い河がある

 いやはや。再放送している『カーネーション』を毎日録画して観ているが、こんなによくできたドラマってなかなかないよなあ、と日々感心するばかりでございますよ。本放送の時から数えてもう三度目の視聴になるけれども、どこまで張り巡らされたシナリオなんだ、と目眩がするくらい。勿論、作りながら思いつく部分も多いのだろうけれども、それにしたって、あの場面あの台詞がここで生きてくる、という連続物の醍醐味がこれでもかと詰まっていて、本当に奇跡のように面白いドラマ。

 閑話休題

 いま、再放送の進行状況としては、重苦しかった太平洋戦争中の部分が終わり、戦争の間、虐げられていた洋服とパーマネント、つまりはお洒落が全盛を迎えようとする大変に前向きな時代へと移り変わったところなのだが、登場人物が、皆明るく振舞っているのが、戦時中部分が辛かっただけに、余計に楽しく感じられる。
 このあたりを観ていて、いつも思い浮かべるのは、獅子文六氏が著した『大番』という大変に面白い娯楽小説に出てきた終戦直後の場面で、焼け野原の東京にあってバラック建ての喫茶店を始めた主人公の友人を描き、そこに、主人公の雑感として「厳しい状況の中、皆が不思議なほど明るい」みたいな一文があったことで、ああ、きっとそうだったんだろうなあ、と強く思う。人間ってそういうものなんだろうなあ、と思う。

 閑話休題

 話は変わるようであまり変わりませんが、まあなんてんですかね、作り手自身が「神回予告」なんてやっているようじゃあ、二進も三進も行きませんわぃね。「神回」なんてのあ観る側が使う言葉だもの。言葉に対してこういう感じで鈍い人が作るドラマが面白い筈ァないもの。

 閑話休題

 本当に話は変わりますが、しかしまあファンなんて勝手なもので、八十年代から九十年代にかけて最強を誇ったプロ野球の西武ライオンズも、仕舞いには当たり前のように勝つから客が入らない、みたいなことになり、当時の森祗晶監督が、リーグ優勝を果たしたにも関わらず哀れ退陣した、てなことがありましてね。面白く勝つ、というのはやはり二兎を追うもので相当に難しいことなのでしょうな。まあそれをやるからプロ、という気もしますがね。

 閑話休題

 しかしこの、ワールドカップの時に渋谷や心斎橋に大挙現れる日本風フーリガンの模様をニュースなどで見るにつけ、世の中にはこんなにもたくさんのウェーイ系の人々がいるのかと思わされ、かなり暗澹たる気分になる。彼ら彼女らの有する、表面的に楽しいことが唯一の正解、みたいなパワーは、同調圧力の中でも相当に強いものだからね。
 あの映像を見るたびに、ほんとあいつらまとめて二・二六事件で厳戒態勢だった頃の東京にタイムスリップしてすごく困ればいいのに。とか思います。

 閑話休題

 いま、東京メトロポリタンテレビジョンでは、大阪発の番組である『怪傑えみちゃんねる』が土曜日の朝七時から放送される、という暴力的な行為が行われているのだけれども、しかしあれですかねぇ、この番組で顕著な上沼恵美子師の”上からモノを云う感じ”というのは、当節、すごく嫌われるのだろうなあ、とやはり思ってしまいますな。
 斯く申す私なぞは、別段、師に対する嫌悪感もなく、どころか、海原千里・万里時代のビデオをわざわざ買い求めたりしていたクチですから別段不満もなく面白く視聴していますが、こういう高圧的と取れる芸風を、殊の外嫌う人というのがそれなりの数いるのだろうなあ、そうしてそういう人々はすぐに気にくわない! と、ツイッターなんかにあげるのだろうなあ、と思います。同時に、そういう人たちって、物事に対してそんなに不寛容で毎日辛くならないのかしらん、なんて思いますです。
 でもまあ、いくら大御所とはいえ、上沼師に対して突っ込める人がいた方がより面白くなるとは思いますがね。しかし現実的にそれができるのは、鶴瓶・さんま両師ぐらいのものでしょうか。返す返すも上岡龍太郎師がいまいればなあ、と思います。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ほんと、山崎康晃投手はもうちょっとスパッと抑えてくれないかしらん。ひょっとしたら「ランナーが出た方が自分にスイッチが入る」みたいな感覚を持っちゃってるのかしら、なんて勘ぐりをしたくなるくらいに簡単にランナーを出す。ハッキリ云って人気と実力にまだ開きがあるよ。大魔神の全盛期を10とするなら、現状はまだ5に届くかどうかというところだ。これで投手として完成だとは思いたくないんだよなあ。





2018年6月27日水曜日

花に嵐のたとえもあるさ

 うーん、やっぱりあれだろうなあ、ネットウォッチ、というものは早晩、その存在自体がなくなるのだろうなあ。ネットウォッチってのはネットでしか見られぬ無名ながらも面白い人々を観察するものだったと思うけれども、これだけネットが浸透してしまうと、もうそういう、ネットの特殊性に特化した面白い人が出てくるとは思えんのだよなあ(そらあ狭い範囲では出てくるだろうけど……)。
 それに、今やネットで有名になり確固たる地位を獲得するというのは普通の有名人と変わらぬ状況だし、そうなると最早ネットウォッチ的な面白さはなくなっちゃうン。
 なんというか、あの頃のネットにあったものが少しずつ消えてゆくね。

 閑話休題

 うーん、でもあれかあ、これだけSNSが発達すると、世の中全体がネットウォッチ的になっているとも云えなくも無いのか。SNSを少し閲するだけでも次から次へとばか者が炙り出されてくるものなあ。探していなくともどんどんばか者がバカみたいなことをやるんだものなあ。そうなると、娯楽というか面白いものとしてのネットウォッチっていうのは自然、なくなるわな。

 閑話休題

 しかしこういうことを考えていると、本当に時代が変わるのが早いなあ。なんて思ってしまいがちだけれども、私なんかが常々思ったり云ったりしている、ネットが桃源郷だった頃ってもう十五年以上も前の話なんだよな。ヤフーが街角でADSLのモデム配ってた頃の話だもの。不肖私めが『十億アクセスの彼方に』を作ったのだってもう十四年も前の話だもの。あの頃中坊だった連中がいまやアラサーだ。年間262本もヒットを打っていたイチローがいまや半引退状態だ。
 いま自分の肌感覚で捉えている時代の空気、それはもう何年も遅れているものだと思っていないと、どんどん時代に取り残される。

 閑話休題

 若いというか小供だった頃、大人ってどうしてアイドルの名前とか知らないんだろう、知らないことに対して不安になったりしないのかなあ。と不思議に思っていたものだけれど、いざ自分が大人になってみると、別段、知らなくっても困らないのね。AKBの選挙で上位をしめた人の名前や顔が全然わからなくっても全く不安なんか感じないのね。だってもっと面白いもの素晴らしいものをたくさん知ってるんだもの。大人っていいよね。

 閑話休題

 ああ。スーパー・ストロング・マシンも引退したし、ビッグバン・ベイダーも死んじゃったなあ。
 マシンがまだマシン1号だった頃、両国国技館での藤波辰巳との一騎打ちを観たよなあ。藤波が永年封印してきたドラゴン・スープレックスを解禁した日でなあ。ついこないだのことだと思っていたのにあれからもう三十三年も経っているじゃないか。あの頃生まれた赤ちゃんがもう綾瀬はるかになっているじゃないか。どうなってるんだ。お前は平田だろう。ゴー・マシン・ゴー。
 ベイダーがたけしブロレス軍団の刺客として両国国技館に登場、不透明な展開に国技館で暴動が起きたのだってもう三十一年も前の話だ。ベイダーとソ連(当時まだソビエト連邦があったんだよな……)のアマレスチャンピオンだったサルマン・ハシミコフとの一騎打ちを観に行ったなあ。負けたハシミコフが泣きそうになりながら花道を走って去って行ってなあ。
 なんかあれだよ、ずっと観ていた人が引退したり死んだりすること、それ自体ももちろん寂しいんだけど、上に挙げたような自分の体験・記憶が、現実との繋がりを失ってしまう感じがするから余計に寂しいのかもしらんなあ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。まあほんと、我がベイスターズも糞詰まりみたいなゲームが続いているけれども、そんな中でもしっかり選手層が厚くなりつつあるのは存分に感じるから、来年以降はすごくよくなるんだろうと思う。いまのカープみたいになるんだろうと思う。思い返せばゼロ年代なんて、ただでさえ記録的なペースで負け続けているのに未来への展望も全然見えてこないという地獄だったからなあ。




2018年6月25日月曜日

こーこはどーこの多元宇宙じゃ

 しかしあれだなあ、古くからネットをやっている人間ほど、いまやネットとリアルは陸続きになった、って一層強く思っておかないといけないのだろうなあ。ネットとリアルが隔絶されていた頃、ネットの空間には、リアル世界では感じられない桃源郷めいた居心地の良さがあったから、どうしてもその甘美な記憶が抜けきらない部分があるものね。
 リアルの世界で基地外を見かけたらなるべく近寄らない&警察など然るべき組織や機関に相談・通報するのが常道であるように、いまやネットの世界でも基地外を見かけたらなるべく近寄らず、然るべき組織や機関に相談・通報するのが常道となったのではなかろうかね。世知辛いというか、嫌なネット世界になったと暗澹たる心持ちになるけれども、こればかりは仕方がない。
 ネットが皆に行き渡り、SNSという自意識・自己愛を肥大させる装置が手に入ったのだから、それ様にいろんなことが起きてくる。現状、皆、手に入れたばかりのこの装置をどう取り扱っていいかよく分かっていないままに使っている、みたいな過渡期にあるんだろうね。

 閑話休題

 話はすっかり変わるけれど、そうだよなあ、大抵の男は木南晴夏嬢のことが好きだと僕は思うなあ。ああいう自然体というのか、浮ついたところのなさそうな、いつも変わらずそこにいてくれる感じ、というのか、そういう感じの女性のことが大抵の男は好きなのじゃないかしらん。麻生久美子嬢なんかにもそういう感じがあるよね。で、そうした自然体女性の頂きにいるのがの樹木希林氏だという気がするン。

 閑話休題

 そらまあ玉木宏氏と木南晴夏嬢が結婚するっていうんなら、御両人ともテレビなどで見知っているからニュース・ヴァリュウがあると思うけれど、近頃、モデルの誰それと誰それが結婚した、みたいな、夫婦どちらの名前を聞いても誰だか判然としない、みたいな人たちが結婚や婚約したというニュースが、ニュース系のアプリなどを眺めていると飛び込んでくることがあって、こういうのを見るたびに、これは間違った情報社会だよなあ、と思う。どこかで時間の軸がずれて、本来繋がるべくもない別の多元宇宙に繋がってしまったのじゃないか、という気がしちゃうン。

 閑話休題

 多元宇宙といえば、この十年ほど、ごく偶にではあるが秋葉原に足を運ぶたび、この街はどこかのタイミングで別の宇宙に接続されてしまったんだろうな、と思ってしまう。
 八十年代後半から九十年代半ば、即ち世界に冠たる電気街だった秋葉原を存分に過ごした身からすると、石丸電気もラオックスもミナミ電気館もヤマギワも廣瀬無線も、すっかりなくなってしまうなんて、とても考えられない。絶対どこかで時間軸が別の宇宙に繋がってしまったに決まっている。だから僕は、未だ、世界に冠たる電気街のままの秋葉原が存在する別の宇宙がどこかにあると睨んでいる。
 だってさあ、平日の午前中に会社員の皆さんが普通にスーツ着て仕事の感じでたくさんいる秋葉原なんてどう考えても変じゃん。平日午前中の秋葉原なんて、ひと気があんまりなくて、人生の行き場を失った人々の吹き溜まりみたいだったでしょうよ。それを思うとやっぱり幾ら何でも変わりすぎだって。あり得ないあり得ない。

 閑話休題

 ううむ。『マリオテニス』を買ったから試しにネットトーナメントに参戦してみたらいきなりぼこぼこにされてとても悲しかった。これが『マリオカート』だったら八人だか十二人だかで競争するからまあネット対戦で負けても敗残のショックはさほどないのだけれど(レース中の順位変動が大きいしネ)、『マリオテニス』は一騎打ちだからぼこぼこにされるとまじへこむ。まあ任天堂のゲームだから、繰り返しあすぶことで自分が上達している感、を強く覚えられるから、あすんでいて楽しいんだけども、いやあ、それにしたって、誰の目にも中年と映るような年恰好になって、ここまでの敗残の心持ち、何もでききない惨めさ、手も足も出ない情けなさ、を味わうとは思ってもみなかった。
 やっぱりゲームであすぶってのは、いろんな意味で面白いや。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。『マンチェスター・バイ・ザ・シー』とてもいい映画でした。



2018年6月17日日曜日

汝の対象を愛せよ

 多方面で多方面な話題を提供している映画『万引き家族』であるが自分はまだこの映画を鑑賞していない。が、この映画のタイトルならびに粗筋を聞き及ぶにつけ、自分の脳裏に想起されるのは植木等氏が主演した『<a href="http://toshiakis.at.webry.info/201005/article_1.html" target="_blank">喜劇・泥棒大家族 天下を盗る</a>』であり、自分はこれをおよそ八九年前、したまちコメディ映画祭で観たのだが、いやはや、大変に面白い映画で、そう銘打ってはいないものの完全なる正調クレージー映画のノリで、できたらもう一度観たいとずっと念願しているのだが、権利関係がどうとかこうとかでソフト化されることがなく一向に叶わない。
 映画の後半、それまで跛引き引き漸う歩いていた植木等氏演ずる主役の男が突如として真の姿を現し、無責任男としか表現のしようがない活躍ぶりを見せるところなどまさに大喝采もの。基本的には群像劇なのだが、そのあたりの面白さも抜群で、いやあまじで観たい。なんとか権利関係をクリアしてディスクでも配信でもいいから観られるようにしてもらえませんかね、というお話し。

 閑話休題

 齢を重ねてくると記憶がたくさん出来てくるからどうしても現在の事象に対してすぐに関連するような・似ているような過去の記憶を引っ張り出すことが先に来るようになってしまう。記憶の中に生きる時間がだんだん増えて来る。

 閑話休題

 しかしあれだね、Twitterなんかであらゆる事象に対して自分の主張、右掛かっていたり左掛かっていたり、そういう主張を投げつけてくる人を見ていると、もはや大喜利だよなあ、という気がしてくる。手前ェの主義主張を表明する/押し付ける為にあらゆる事象・話題を利用する輩が多くて、なんだか暗澹たる気持ちになる。ほんと、あの手の連中を見ていると、どこまでの話題ならば自らの主義主張に結びつけることができるか、という大喜利をやってるように見えるン。

 閑話休題

 過日『タモリ倶楽部』を観ていたら信号機マニアの若者が登場していた。番組の中でその彼は、信号機に対する愛情に満ちた個人サイトを運営していると紹介されていた。
 そうなんだよなあ、インターネットの醍醐味の一つってそういうことなんだよなあ。商業ベース、とてもマスコミには乗ることがない個人の異常な趣味(同好の士がほぼいないような!)、みたようなものが観られること、これが面白かったんだよな、と思った。行き場のなかった対象愛の迸り、というかね。
 嘗て、ダイヤルアップでインターネットに接続していた頃、私なぞもそういうサイトをずいぶん観ていたっけ。一九〇〇年代前半のクラシック映画をぐんぐんに紹介しているサイトだとか、昭和のプロレスについてぐんぐんに紹介しているサイトだとかね。中でも、プロ野球関連のサイトで、東京スタヂアム時代の東京オリオンズから、現在の千葉ロッテマリーンズに到るまでの変遷を貴重な資料と共に紹介しているサイトなどは、深夜に観ていた時に、その純真さに感極まり覚えず落涙したこともあった。まじで。
 あの時代がもう戻ってこないことは充分承知しているが、それだけにひどく懐かしい。あれからまだ二十年も経たぬというのに。

 閑話休題

 あの頃はここまでインターネットが人々の自己愛で満たされるようになるとは夢にも思わなかったよ。まあそう云っている自分もこうして自己愛を放出しているのだから同じ穴のムッジーナだけど。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ああそうそう、先日、有楽町は朝日ホールで開催された五代・桂三木助襲名披露口上を観てきたけれども、いやあ、新・三木助師はいいねぇ。まだ三十半ばだから重厚感というか貫禄はないけれども、なんというか、芯のところが頑丈な感じがして、東京の落語を存分に聴いた気分になる。自分は当然、当代の祖父にあたる三代目・三木助はリアルタイムでは知らず、テープでしか聴いた事がないけれど、不図したときの声音や口調がやはり似ているように感ずる。当夜演じた談志家元に教わったという『五貫裁き』も良い意味で小ざっぱりとしていてまことに程が良かった。これは落語家に限らないけれども、登り坂にある人を観るのは楽しいネ。

 閑話休題

 <a href="http://garbage-coll2.sakura.ne.jp/" target="_blank">僕のホームページ</a>もよろしく。さてさて自己愛が強いのでしょうかどうでしょうか。

2018年6月15日金曜日

御礼旁々ご挨拶まで

 そういうわけで一年半以上ぶりに、自分のホームページに作品をアップすることができて私はいま、結構安堵しています。私ごとで恐縮ですが、この三年くらいちょっと大変な状況が続き、ああこれはもう愈々、みやかけおをやってる場合じゃないかなあ、と悲観しておったのですが、やはり時間の経過とは偉大なもので、大変な状況も次第に落ち着き、どうにかこうにか、みやかけおであることを続けられそうだ、となり、この分であればまあなんとかずっとやって行けそうだと思っておる次第です。
 作品をご覧いただいた皆さま、ツイッターでリツイートやスキをして下すった皆さま、ありがとうございます。亦、ご覧いただいていない皆さまにおかれましては、時間的にはすぐに観終えられる短い作品ですので、ご笑覧いただきますれば幸いに存じます。よろしくどうぞ。

 『<a href="http://garbage-coll2.sakura.ne.jp/v2/works.html" target="_blank">thumbs up!!</a>』リンク先、最新作、とあるところからどうぞ。

 閑話休題

 でもやっぱりなかなか難しいのは、昔に比べて体力が落ちているので作るに当たって集中力が続きません。将棋の羽生名人も、集中力を下支えするのは体力と申されておるようですが、実にその通りで、特に、笑いに関してはやはり作るには余計に体力がいるように思います。
 泣かせたりするのははっきり云って簡単なように私なぞは思います。1+1=2をやればいいのですから。ある状況の中に人間を放り込んで、その状況に即した形で人間を動かせばそこそこの話が出来上がるように思います。関係の厚い人が死ねば無論悲しい、そんな当たり前のことを直截に描けばいいのですから。
 翻って笑わせることは、1+1=5をやって観る側を満足させることのように思います。ある状況の中に人間を放り込んで、その状況とは異なる動きをその人間にさせなければなりません。関係の厚い人が死んだのに可笑しいと思わせる部分を見つけ、そこを描こうとするのですから、まじ面倒です。捻りを加えるのですからやはり体力が余計に要ります。
 でもだから作っていて面白い、とも思うので、僭越ながら私なぞも、観てくださる皆さんを、たとい一瞬だけでも笑わせることができたらいいなあ、と、いつも念願しておるのですが、なかなか難しくって思うように行きません。また私の場合はインターネットの体裁にドラマ的なことを入れるという非常に無体なことをやっているので、余計に面倒です。と、自分で自分のやっていることはとても大変なことだ、と誉めそやすことで自分を盛り上げます。すごいぞ俺。偉いぞ俺。天才だ俺。いいぞ俺。って、とほほ。

 閑話休題

 なんと云うか成る程、たいこ持ち・幇間と呼ばれる職業ってやっぱり必要だったんだろうなあ、と思うネ。偉くなればなるほど、人から悪く云われることも多くなるのだろうし、人なんてそんなに自信を持ち続けられるものじゃあないしね。西洋の王様が道化師を傍に置いたのもそういうことなのかもね。そうして褒めてもらったり笑いの中に本音を云ってもらったりすることで、人間的な心のバランスを恢復させるのかもしらんね。

 閑話休題

 あとあれね、昔はインターネットが世間と隔絶されていたから、陽の当たらないところで安心して作品を作って遊んでられたんだけど、いまは世の中と陸続きになってしまっているから、本当に笑いを作って世の中を渡っている人と同じ光がこちらにも射し込んできちゃう。結果、所詮俺なんて……的な感じになっちゃうからまじ嫌。
 仮に自分がいまの時代の若者だったら、作品を作って人前に晒すなんてこと絶対にできなかっただろうなあ。まあ、つまりは今の自分の状況が私の限界、というか、ほどの良いところ、ということです。

 閑話休題

 話は変わるが、首相官邸でのぶら下がり会見というのか、あれの仕舞い頃になると、総理大臣が向こうに去って行ったのを見計らって「総理ー! 〇〇が〇〇と言っていますがそれについてはー!」って、答えがもらえるはずの無いタイミングで声をかける記者ってのが決まっているけれども、仮にあの、声をかけるだけの仕事、があったら是非やりたいね。あれはもはや様式美だもの。成田屋! 的な。

 閑話休題

 そういや、成田屋! みたいな大向こうからの掛け声ってのはあれだってね、開国して西洋が入ってくるまで、我が国には観劇などの際に拍手を送る、という習慣がなかったが為に、あの手の掛け声が生まれたのだというね。確か昔WOWOWに入っていた頃に観た歌舞伎の番組でそんなことを聞いた。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。まあ端っからベイスターズが今年優勝できるとは思ってなかったからねぇ。だって去年だって日本シリーズに出たったって、所詮シーズンは三位なんだから。開幕からこれだけ選手が揃わないのによく五割近辺で保っている。今永ウィーランド濱口が開幕に間に合わなくて石田桑原倉本が経験値リセットの状態だもの。そう考えたらよくやってる。それだけ選手層が厚くなってきたんだろう。三年前の状況でこのぐらい選手がいなかったら断然最下位だ。

2018年6月11日月曜日

近頃の養分

 Googleプレイミュージックでももクロちゃんの曲が配信され始めたから、久しぶりにももクロちゃんの曲をくんくんに聴いているがやっぱりいいねぇ楽しいねぇ。
 現在、アイドルとしてのももクロちゃんが登るべき坂はすべて登ったように見えるけれども、なんつーか、もうこのままの感じでいつまでもいてくれるといいと思う。メンバーがみんな結婚して小供を産んだりするようになってもずっとももクロちゃんでいればいいと思う。そうしていつまでも楽しくしてくれたらいいと思う。時代に動かされない定番になってくれたらいいと思う。

 閑話休題

 Amazonビデオでレンタルした『グレイテスト・ショーマン』を観た。まあ面白かったがなんというか、フランク・キャプラの映画みたいな、当節としては王道に過ぎるようなストーリーと思った。昨今の映画の中では上映時間が比較的に短かく、それでいて楽曲を沢山入れるから話の展開が素早くなっていて、なんつーか、ミュージカル疲れ、みたいなのに襲われずに観終えられたから良かった。

 閑話休題

 Netflixに入っていたから『セッション』を遅ればせながら観たのだけれど、うーん、大変に面白いことには同意するのだけれど、なんだか、まぐれ当たりみたいな映画だなあ、と思いながら観た。登場人物の全員が袋小路に迷い込んでいるような印象で、どこにも行き当たることができない感、が横溢していて、観ているこちらの状態が悪いときだったら、ぐんぐんに落ち込んでしまうだろうなあと思う。
 でも『ラ・ラ・ランド』を観る限り、やっぱりこの監督のまぐれ当たりな映画なんじゃないのかなあ。

 閑話休題

 Netflixで『<a href="https://www.netflix.com/jp/title/80117470" target="_blank">13の理由</a>』シーズン2を観た。正直なところシーズン1ほどの衝撃・面白さはなかったが、それでも存分に面白かった。しかしこの手のドラマを見るたびに思うのだが、メリケンの高校生って普段どんな暮らしをしてるんだ、と思う。自動車通学に始まり当たり前のように酒を飲みドラッグだのレイプだのと、まあドラマの上だから誇張されてはいるんだろうが、それにしたってこれに対して視聴者に違和感を抱かせないだけの現実、リアリティを感じさせるだけの現状があるんだろうからね。しかしシーズン3とかどうすんのこれ。ハンナもう出てこないの。

 閑話休題

 あとNetflixでは『<a href="https://www.netflix.com/jp/title/80161497" target="_blank">ボクらを作ったオモチャたち</a>』というドキュメンタリーが大変に面白かった。ただでさえドキュメンタリーとしての出来がいいところに持ってきて、シーズン2のトランスフォーマーやキティちゃんの回など、日本が大きくフィーチャーされていて大変に親近感を持って観られる。トランスフォーマーの回ではこれを生み出したタカラの人に対する、アメリカ側のリスペクトぶりに覚えず涙腺が緩んだ。
 しかし笑ったのはキティちゃんを紹介する回で、日本における”カワイイ文化”のスターターの役割を担った存在として、松田聖子(『青い珊瑚礁』『夏の扉』『赤いスイートピー』頃の映像が挟まれる)が紹介されたり、更には、瞬間的に”キティちゃん”という文字が映るという理由だけで知る人ぞ知る往年のテレビ番組『3時のおじゃまクイズ』の映像が幾たびも挟まれたりしていて(だから幾たびも番組の司会だった宮尾すすむの姿が出てくる!)、この辺りからも、この番組の熱、みたいなものがよくわかる。

 閑話休題

 Amazonビデオで『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』を特別版のドキュメンタリー共々観た。劇場でも観たから内容的にはまあ初見の時に感じた、内容的にはとても面白いがルーク・スカイウォーカーの取り扱いが兎に角気に入らない、というところと特に変わりはない。
 しかしいちばん面白かったのは、同梱された制作過程を記録したドキュメンタリー映像の序盤にあったマーク・ハミルのインタビューで、氏自身が「この映画で監督が描こうとするルークの姿には全て反対だ。だが映画は監督のものだからその姿の実現のために最大限の努力をする」と云っていることでやっぱりあのルークはダメなんだよ。と改めて思った。自分の心が救われたような思いがした。
 あれがルークの最後だっていうのはやっぱりダメなんだよ。そらまあオビ=ワンもヨーダも、死んだ後も出てきたけど、それだともう物語に深く関われないんだからなあ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ようやくではあるけれども、我が国の商業音楽も、サブスクリプションでの提供・販売が優先順位の一番上になったみたいだね。リスナーの立場からすると、知らない音楽に出会える可能性が高いからこっちの方がいい。


2018年6月8日金曜日

同じことを繰り返し、違う結果を期待しよう。

 しかしあれかね、セリーグの連中ってのは、恥ずかしくないのかね。毎年毎年、交流戦のたんびにパリーグの方が今年も強いだろう、って事前に云われてて、実際、毎年毎年その通りに負けてて。みっともねぇとか思わねぇのかね。永らくジャイアンツの人気にぶる下がってるだけで食えてた根性がいまだに抜けねぇのかね。ほんと、当たり前みたいに負けてやがる。交流戦のセリーグを見てるとなんだか、この期間を仕方なしにやり過ごしてるように見えちゃうン。

 閑話休題

 まあそんな中でも奇跡のような対決が観られる面白さも交流戦にはあって、たといば二〇一五年、横浜スタジアムでのゲームで見られた、<a href="http://news.livedoor.com/article/detail/11909282/" target="_blank">ホークスの柳田悠岐とベイスターズの三浦大輔の対決</a>などは、日本人離れしたパワフルな打撃で今を盛りと活躍する柳田と、四〇歳を疾うに過ぎた現役最晩年の三浦が、ゲームの展開そのものとは隔絶した個人の対決、ストロングスタイルの攻防を見せてくれて、いやあれはまじで面白かった。ベイ・ファンの視点からいうと、あれが出来るからやはり三浦大輔はエースたり得たのだろうな、と強く思ったネ。
 みんなあん時の三浦ぐらいの感じで、知力を含めたポテンシャルのすべてを振り絞ってかかっていけよセリーグの連中。ったくどいつもこいつも躱すことばっかり考えてやがって。そんでアウトコース踏み込まれてガンガン打たれてンだから世話ァ無ぇっつーの。

 閑話休題

 しかし時代は変わったなあ、と思うのは、それはまあ昭和の中頃から既に「人気のセ、実力のパ」なんてことが云われていたが、世紀が改まったあたりからパリーグ人気に火が付きいつしかそれが定着、やがてはセリーグにもその流れが飛び火、ついには、不人気だったベイスターズやカープなどの主催ゲームが連日満員となるまでになった。ベイスターズ対スワローズ戦が横浜・神宮共に満員になるなんて信じられない光景だ。
 さらには、このところAmazonのFireTVのスタート画面に出てくるDAZNの宣伝、そこに登場する複数球団の選手たちのコラージュにジャイアンツの選手が一人もいない。まあこれにはジャイアンツの主催ゲームをDAZNが配信していないという理由があろうけれども、それにしたって、二十年前だったらジャイアンツ不在の有料プロ野球中継なんて迚も成立しなかっただろう。
 ほんと、時代って知らん顔していつの間にか変わってしまうよね。

 閑話休題

 そうそう。時代が変わったといえばSMAP解散以降のジャニーズも下劣なスキャンダル連発で、やっぱ時代が変わったんだ、と、高校時代に北公次の暴露本をクラスのみんなで回し読みした僕は思うのであった。ジャニーさんの手が俺のパンツの中に。

 閑話休題

 だいたい夕方のニュース番組のメイン・キャスターを、特に知的で売っているわけでもなかったジャニーズのメンバーにやらせるって発想自体が狂ってるっつーの。同様に夜のニュース番組で桐谷美玲がキャスターを勤める、ってのもわけがわからない。
 ほんと、普通にやれ普通に。まともにやれまともに。妙ちきりんなことをして悪目立ちしようとすんな。

 閑話休題

 そのうちにヒカキンがニュース番組のキャスターをやったりするんだろうな。テレビかネットかわからんけど。

 閑話休題

 そうしてまた、この十年ほど、日本らしい四季が失われたと僕は思っている。春と秋が無くなり、夏と冬が度を越して苛烈になり、梅雨の時期は快晴と豪雨の繰り返し。剰え当たり前のように各地で雹が降り竜巻が起こる。しかしそうした一年を、四季が失われたと嘆いて過ごすのは、四季の移ろいを豊かに感じられた時分を生きてきた私のような世代以上の人間であって、そうした時分を知らぬ若者や小供たちは、昨今の苛烈な気象状況を当たり前のものとして平気で受け入れ楽しそうに過ごしている。そういうものだ。ハイホー。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。いやほんと、ガチンコ、とか、ガチで、っていう言葉、なんだか汚らしくって嫌ですね。だいたいに於いて符牒とか隠語の類ってのは、本来、表に出る言葉ではないから、大抵汚ならしい響きの言葉ですわいね。


2018年6月3日日曜日

貴方は私の一生もの

 そうして私は、生まれてこの方はじめて中野ブロードウェイへ足を踏み入れ『マカロニほうれん荘展』を観てきたのだった。

<a href="http://garbage-coll2.sakura.ne.jp/sblo_files/garbage-coll3/image/macaroni.png" target="_blank"><img border="0" alt="macaroni.png" src="http://garbage-coll2.sakura.ne.jp/sblo_files/garbage-coll3/image/macaroni-thumbnail2.png" width="320" height="240"></a>

 さして広くはない展示スペースの壁面その全てに『マカロニほうれん荘』の原画やイラスト、当時のチャンピオンの切り抜きや双六みたいなゲーム、更には今回の展示に寄せた鴨川つばめ大人のメッセージ色紙などが展示され、それだけでも懐かしさで泣き崩れそうになるというのに、さして広くはないスペースに年齢層高めな善男善女、つまりは私のような大人になりきれない部分を大いに抱えたような人々が大挙参集していたものだから堪らない。身動きを一つ取るにも往生するような有様で、それでもなんとか写真を撮り(スペース内は撮影自由)、九十九折になったグッズ売り場の行列に並び缶バッジなどを買って展示会場を後にした。
 それはまあゆっくり鑑賞したかったというのが本音だが、それよりなにより、今の私を作り上げるのに欠かせない要素であった(というかいまでも外せない要素だネ)『マカロニほうれん荘』の世界に、単なるノスタルジーではない形で浸ることができたというのは全く素晴らしい体験であった。
 そうしてまた、連載が終わってからすでに四十年近くが過ぎているのだが、これだけの人々の中で、きんどーさんやトシちゃん25歳、そうじやルミたんやクマ先生が未だに生き続けていることを目の当たりに出来たのは、まったく素晴らしい体験であった、ってほら、嬉しくって頭がおかしくなっているから立て続けに同じ文言で段落を締めくくってしまったよ。

 閑話休題

 しかしあれかしらねぇ、これだけ面白い『マカロニほうれん荘』にしても、当節のコンプライアンスに照らし合わせるとアウト、の判定がなされてしまうのかなあ。エロ禁止の方面だったりLGBT方面だったり、そういうところから鋒鋩打たれるのかしらん。やあねぇやあねぇあらあらやあねぇあらあら違うのよ。おーっほおっほ。

 閑話休題

 話は変わるがなんで今更『50回目のファーストキス』のリメイクなんだよ馬鹿じゃねぇのかこれだから最近の邦画は。と思って鼻で笑おうと思ったら福田雄一氏と山田孝之氏のコンビに長澤まさみ嬢が加わるギャグだくさんの映画だと聞いてすぐに心の中で、即断して鼻で笑おうとしてどうもすみませんでしたと心の中ですぐに謝まり自分で自分のお尻をぺんぺんしたもちろん心の中で。

 閑話休題

 あーでもあれなのか、ドリュー・バリモアの方は『50回目のファースト・キス』だから違う、ってことなのかしらん。『人間・失格』みたいな、野島伸司的なことなのかな。まあどっちでもいいか。しかしあの頃のドリュー・バリモアは可愛かったよなあ。

 閑話休題

 近頃僕は故あってご老人の皆さんを間近で観察する機会が多くなっているのだけれど、総体的において、好奇心を失っていない方というのは老け込まないものだなあ、という印象を得ております。
 世間で話題になっていること、またはなっていないこと、とにかく自分のアンテナを大いに広げ、そこに引っかかった話題・事象についてフラットな心で目を向け足を運ぶ、みたいなことをしている人は、やはり老け込まず、孫世代のような若者とも、媚びることも高圧的になることもなくフラットに話をしているように見受けられます。
 然し乍ら、それが出来るご老人はやはりほんの一握りで、多くの方々は世間に興味を失い目の前の些事に拘泥し、テレビのワイドショウで見聞きしたことをそのまま話して今の世の中は……と嘆くばかり。若者と話をする様子もやはりどこか高圧的に接しているように見受けられます。
 いいご老人を見ては、持って他山の石、とせんければならんと思い、そうでないご老人を見ては、人の振り見て我が振り直せ、とせんければならんと思いますな。

 閑話休題

 そうして中野ブロードウェイに向かう道すがら、乗車した電車の中、どうした按配か、心中でずっと、伊東四朗師と小松政夫師がさんざ流行らせたフレーズが繰り返し再生されて、いわゆるところの思い出し笑いをしそうになって大いに困った。ニン。どーかひとつ。ながーい目で。ダメなのねー ダメなのよー ニンドスハッカッカー マァ ヒヂリギホッキョッキョー。もーいや、もーいやこんな生活、お金返すからお家帰して。なんてな感じでずっとこんなフレーズの数々が心の中で渦を巻いていて、あー、つまりはそういうことだ、『マカロニほうれん荘』と同じく、僕を構成する要素のひとつだ、ということなんだろうと思った。ツン、ツクツクツクツン。わりーねわりーねわりーね・でーとりっひ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。いまの子供たちも、終生捨てることがないものと出会えるといいね。

2018年6月1日金曜日

噺家は世情のアラで飯を食い

 人生いろいろ。といえば稀代の名歌手島倉千代子嬢のヒット曲であるけれども、いやあしかし、ほんと人生いろいろだなあと思わされるのは、剛力彩芽や石原さとみと交際をするIT社長がいれば、自らプロデュースしたアイドルちゃんに対して同じ旅館の同じ部屋で隣に寝ることを強要したり、更には盗撮したりしてそのアイドルちゃんから訴えられているIT社長もいるということで、ほんと、人生いろいろ。男もいろいろ、てなことを思って僕だっていーろいろ咲きみーだーれーるわー、てな楽しい気分になります。

 閑話休題

 本日六月いっぴから我が国でも司法取引がスタートするという。司法取引のことを知れば知るほど「〇〇だって漫画持ってきてるのに」と、抜き打ちの持ち物検査の際、生活指導の教師から、学校に持ってきてはいけない漫画本を見つかり激しく叱責された際に平気で友達を売った、高校の同級生だったSくんのことが思い出されてならん。
 けれどもSくんはそうして友達を売ったにも関わらず特に量刑が減ぜられることはなく、〇〇共々、乱暴な生活指導の教師にぶん殴られておった。どっとはらい。

 閑話休題

 そうしてその陰で、タバコや酒を持ち込んでいる本当に悪い生徒は準備万端、けして見つからぬように態勢を整え抜き打ち検査をやり過ごしていたっけ。巨悪はいつだって目に付きやすい小悪の陰に隠れのうのうと存在し続ける。

 閑話休題

 近頃、脳科学などの観点から、老人にとってコンピュータ・ゲームをあすぶことはとても良いことだとわかった。みたいなことが云われるようになったが、少し待て。その老人たちというのは我々中年の親世代、ということは最初のファミリー・コンピュータが世の中を席巻した頃、コンピュータ・ゲームを目の敵にして悪者扱いしていた連中ではないのか。ゲーム脳、なんて言葉に諸手を挙げて賛同していた連中ではないのか。まさか現在の風潮に平気で乗って、嬉々としてコンピュータ・ゲームをやり始めたりするのじゃないだろうな。だとしたらいい加減にしろよまじで。

 閑話休題

 しかしあれですよ。老人たちに自動車の運転免許を返納させたいのだとしたら、その対価として公共交通機関の割引を適用するなどの措置が必要なのではなかろうかね。人里離れた地域にお住いの方にはなかなか難しいことだろうが、少なくとも都市部においてはそのくらいの優遇をしなければならんのではないかしらん。
 ただでさえ年寄り扱いされるだけで腹がたつところに、長年持ち続けていたもの(それも生活の便利に直結するものだ)を、周りに迷惑をかけるかもしれないから捨てろ、と要求されて、はいそうですね、と従えるのは、メタ認知にすぐれた相当に理知的な人でないと難しいのではないかしらん。

 閑話休題

 斯く云う私とて、時代がここまで変わったのにいまだに自分のホームページを持つことをやめることができずにいるン。それが無くなったら自分が自分で無くなるような不安があるン。いま、何かを表現するならばYouTubeやSNSの場でやるのが常道になっているのにそれができずにいるン。年寄りを嘲笑していられない。自分が獲得したものからはなかなか離れられるものじゃあないン。

 閑話休題

 因みに語尾に”ン”てつけるのは、ちくま文庫の『志ん生の噺』っていう落語の速記本シリーズの真似をしてるン。なので小池一夫氏のン、とは用法が違うン。

 閑話休題

 しかしなんていうかあれだね、これをこうやって面白おかしくしておけば誰かがSNSに上げてウケるだろう。みたいな計算で何かをし始めるともう面白く無くなるね。キャラ弁だとかお店の臨時休業の理由(”逃げた妻を探しにゆくため明後日まで臨時休業します”)とかそういう類のものってあるでしょう。
 なんてのかな、『プレスリーは生きていた』みたいな妙ちきりんな一面の見出しがウケていると気づいてしまい、狙って見出しを作り始めてからの東スポが急速につまらなくなったのと同じ効果、って例えが古いよ三十年も前の話じゃねぇかそんなもの伝わらねぇよばあか(自己批判)。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。うーん、大和が入ってきたことで倉本の特徴の無さが目立ってしまったようだなあ。守備なら柴田の方が上だし打撃なら山下光輝の方がセンスがあるし足は宮本の方が比べ物にならないほど上だしなあ。ただ存在感は倉本の方が断然あるんだよ、チームリーダーになれそうな雰囲気というのか。チームスポーツって難しいねぇ。



2018年5月27日日曜日

有為転変でゴー

 しかしみんなすごいなあ、と改めて思うのは、SNSなんかを閲していると、自分の考えや主張についてこれは正しいものだ! と、一点の曇りもなく信じ切り云い切る人が沢山、それこそ山のようにいることで、自分なぞは、常に自分の考えが間違っているのではないか、と思いながらものを考えたり云ったりしているから、いやほんと、みなさんすごいなあ、と皮肉でもなんでもなく思います。

 閑話休題

 そうして僕はいま、久しぶりに筒井康隆大人が五十年くらい前に著した『脱走と追跡のサンバ』を再読している最中なのだが、ああ驚いた、ここで書かれている、情報に取り巻かれて自分がどこにいるのかわからない、みたいな内容が全く現代の状況と同じじゃん、と僕には思えて、やっぱりすごい人の考えることは凄いものだ、と、全然すごくない感想を抱きつつ読んでいるところ。昔はこんなこと全然思わずに読んでいたそんな二十歳の頃の僕。まあ初読したのは今から二十五年以上前の話だから、世の中がこの作品世界のところまで到達していなかった、というのもあるけど。しかし僕は読書家ではないから読むのが遅くて全然進まないや。

 閑話休題

 若い女性ばかりを選んで体当たりをしてゆく新宿駅の若い男児の動画、などを閲するにつけ、遊郭・公娼の必要性を僕は考えるのですが、罷り間違ってそんな言葉を口にしたが最後、はあちゅう氏とそのフォロワーみたいな皆さまに言葉でどつきまわされてひどい目にあうんだろうと思って恐怖します。嗚呼、早くAIとロボットの技術が人間そっくり、にまでに進化して『ブレードランナー』ンときのダリル・ハンナ的な、セクサロイドが世の中にあらわれないかしらん、と、僕は願ってやみません。二つで充分ですよ。

 閑話休題

 もしもセクサロイド、みたいなモノが本当に世の中に現れたとしても、やっぱ批判を浴びるのだろうねぇ。性的なアニメを観るから性犯罪に走るのだ!  的な感じで、セクサロイドにすることを人間の女性にしてみたくなるはずだ! みたいな。あるいは、セクサロイドを開発するなんて女性を性の対象としか見ていない証拠だ! 的な感じで。

 閑話休題

 話は変わるが自分はサッカーには全く興味がないのですが、そんな自分からしても、W杯サッカーの話題がてんで聞こえてこないような気がするんですが気のせいですかね。ひょっとしたら、もうサッカーファン以外の日本人の大半は、W杯慣れしちゃったのかもしれませんなあ。我が国の人々は全てを一過性のイヴェント・祭りにしてしまいますからなあ。まあ、それでも始まればそれなりに盛り上がってそれが終わる頃には、渋谷の交差点に、頭の中がこんがらがったような人々が集うんでしょうけどね。

 閑話休題

 そうしてまた話は変わるのだが、僕は過日、池袋の東京芸術劇場で『酒と涙とジキルとハイド』という三谷幸喜氏が脚本と演出をした芝居公演を観てきたのであった。今回は再演だったのだが、初演を見逃していた僕はようやく、という感じでこの公演に足を運んだ。なるほど、評判の通り笑いの絶えない内容で出演する役者も皆大変に達者、大に満足して帰宅の途についたのだった。
 二〇〇二年あたりから三谷幸喜氏は、舞台では笑いの少ないものを志向していたように思えた(氏本人もそのように発言している)のだが、この作品の初演(二〇一四年)あたりから笑いに回帰したようだ(って、公演パンフレットにも書いてあったしネ)。
 しかし僕の拙い鑑賞眼には、確かに笑いには回帰しているが、以前とはその質が変わっているように見える。九〇年代の氏の作品は、脚本の力が大変に強かったように思う。隙のない、綿密に過ぎるくらいの脚本だったように思う。しかし今回の作品、それから今年の春先に観た『江戸は燃えているか』にしても、そこまでの綿密な印象は受けなかった。脚本の力で笑わせる場面よりも、くだらなさ・馬鹿馬鹿しさで笑わせる場面が増えたように感じた。また、以前の作品であればきまって、泣かせの場面というかキャラクターが真面目に心情を吐露する静かな場面が終盤にあったのだが、そうしたものが無くなり、笑いのみで完走するようになった。不図、この変化は三谷氏の中で、脚本家としての要素よりも、演出家としての要素の方が強くなったことで起こったのかもしれない、と思った。
 まあ小賢しい考えは兎も角、とにかく、三谷氏が笑いに帰ってきたというのは、笑いが好きな僕にとっては諸手を挙げて歓迎することであり、また、一人の作家の変貌変遷をこうして追えるというのは全く楽しいことだ、と思った一夜でござんした。

 閑話休題

 あのー、ほら、よく「〇〇も変わった。昔の方がずっと面白かった」みたいなことを簡単に云う人ってあるけれども、ああいう人たちってのは、単純に作家の方だけが変わったと思ってるのかしらん。鑑賞者たる自分の感覚が変わったのかも、っていう疑問は抱かないのかしらん。だいたい、物の見方が変わらない奴なんて、基本的に面白くない奴だと思うんだがなあ。だってそれは感性が動かないってことだから。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。こうやって他の五球団が連勝連敗を繰り返しているうちにそれをしないカープがいつの間にかぶっちぎっているという去年一昨年と変わらぬセリーグの展開。





2018年5月18日金曜日

すべて時代のせいにして

 その当時、自分が年端も行かない小供だったことを割り引いても、七十年代後半のテレビというのはまだ夢の国だったように思う。我々庶民の住む世界とは隔絶された世界、多少大袈裟な物云いをすれば、ブラウン管を通じて天上界を覗くような感覚で、仰ぎ見るようにしてテレビを観ていたと記憶している。
 そんな天上界の中でもひときわ大きく輝いていた星々、スター、その一つが西城秀樹だったと思う。
 八十年代の十年間でテレビという天上界はすっかり下界に降りてしまい、庶民の住む世界と陸続きになった。じねん、天上界に住まう人だった西城秀樹をはじめとする数々のスターは時代の向こうに追いやられた。それでも天上界に住んでいた人々が持つオーラは、たとい時代が変わっても消えることはなかった。彼ら、かつて天上界にいたスターを見るたびに、かつてそういう世界があったこと、それを仰ぎ見ていた記憶が蘇った。
 巨きな星がひとつ消えて、あの頃といまの自分を繋ぐ懸け橋がひとつなくなった。やがて全ての星が消え、あの頃の世界が、自分の記憶の中にだけ存在するものになるんだろう。最後はその自分すらも消えて、かつてテレビを観ることは恰も天上界を覗くが如き素晴らしいものであった、と誰かが文字に書き残す唯の”歴史”に変わる。

 閑話休題

 あれは小学二年生の頃だったと記憶するけれども、テレビだったかラジオだったかは忘れたが不図、聞こえてきた『<a href="https://youtu.be/pDUpRSGpMfM" target="_blank">ブルースカイブルー </a>』を聴いたら一発で参ってしまい、歌詞の意味は解らないながらもしばらくの間、登下校の際に頭の中で曲を再生しながら歩いていたものだったなあ。ラジカセすら持っていなかったから頼りは自分の記憶のみ、まして小学二年生の脳味噌だから曲を完璧に憶えることなど出来よう筈もない。だから、頭の中で勝手に曲を編集してしまっていた(後年、小遣いでレコードを買ってようやく頭の中で編集していることに気づいた)のだけれど、それでも頭の中で絶唱すれば気分は高揚、そうして雲ひとつない青空を眺め「ブルースカイブルー」という曲名から受ける、言葉が二度塗りされたような語感にそこはかとない可笑しみを覚えつつ登下校していたことを思い出す。あー、できたらあの頃に戻りたいネ。

 閑話休題

 そうはいっても僕は八十年代に、テレビの世界なんて嘘っぱちだ、とばかりにそれを破壊しまくったビートたけし師の存在と行動に快哉をあげ、影響を受けまくったのだけどね。これは別にたけし師が元凶、みたいなことではなくって、それが時代ということなんだろうと思う。時代が天上界の存在を許さなくなっていたのだと思う。そこにたけし師という、次の時代を背負える才能がたまたまいた、ということなのだと思う。そういう存在が時代の寵児、ということなんだろう。時代ってのは知らん顔して変わっていってしまうものだからね。

 閑話休題

 時代の寵児、と思ったり書いたり云ったりするたんびに、レツゴー寵児、と云いたくなる衝動を抑えるのに苦労する。まあ、時代の寵児、なんて言葉ぁ滅多に使いませんがね。

 閑話休題

 やはり時代が変わったな、と思うことは他の世界でもやはりあって、たといば、いまから十年前のホリエモン氏や三木谷氏のような感じで世の中に出てくるIT関連の人、というのはもう現れないと思う。あれはあの時代だったからこそ、ああいう「新奇な人種」みたいな形で世の中に出てくることができたのだと思う。これが当節のように、プロ野球十二球団のうち1/4に当たる三球団をIT企業が保有する時代、つまりはITの存在が当たり前の時代にあっては、ああいう形で世の中に登場することはないだろう。
 その代わり、広く世間に浸透した当節のIT長者は、剛力彩芽や石原さとみを平気で掻っ攫ってゆくようになった。そこまでのレベルで世の中にITとそれを主導する人間の存在が浸透した、そういう時代に変わったということだ。

 閑話休題

 プロレスもそうだったよな。吾輩が餓鬼の時分のプロレスの世界って、恰も、鬼たちの棲家のように思って観ていたものな。下手に近寄ったら殺されるぐらいの感覚で観ていたよなあ。それがストロングスタイルということだったんだろうなあ多分。

 閑話休題

 話は変わるがやっぱり言葉ってのは、広く流布・浸透してしまうとその持つ力が弱まってゆくよね。一年くらい前から、無駄にメンタルが強いような人が「はは。私のツイートが炎上してる」なんつって、自分が発した品性の下劣なつぶやきに続々と反論が寄せられているのを、どこか嬉しそうに眺めている、みたいな状況を目にすることが増えたように思う。もうこうなると炎上、という言葉が本来持っていた、只事ではない様子、の意味合いは霧消してしまう。
 斯くの如く、感性の鈍い人がみんなが使っていて面白そうだからというだけで言葉を濫用すると、あっという間にその言葉の命脈は尽きてしまうよね。

 閑話休題
 
 ではそんなことでお後がよろしいようで。他所様のことながら、タイガースはどうして掛布雅之より金本監督を選んだのかねぇ。

2018年5月16日水曜日

人間なんてララーラーラララ ラーラー

 ああ、国際信州学院大学の偽サイトはよく出来てて面白いなあ。公式サイトもいい塩梅にギャグが散りばめられていてとても面白い。大学の歴史を紹介するところなんて特に好きだ。周辺のツイッターアカウントもみんな同じぐらいのレベルで作っていて、そのレベルから外れているのが無いのもいいね。終着点が見えなくなるような作り方だけど面白いからどんどん頑張れ。

 閑話休題

 しかしこうした案件に際して、簡単に釣られてしまう人ってのが結構な数いるものだと改めて思わされる。そうした釣られ上手な人々を見るたびに、嗚呼、人ってのは、話題になっている事柄に対してとにかくひとこと云いたいものなんだなあ、いっちょ噛みしたいものなんだなあ、と思わされますな。
 ましてこれがSNSの時代たる当節となると、自分もなにかを発言せねばならん、何某かの意見を持たなくてはならん、話題の輪の中には入らなくてはならん、と皆普通に思い込んでいるから、結句、傍観者でいることができなくなってしまうのだろうなあ、と思いますです。まあ、云ってる俺がまさにそうなんだけどネ。

 閑話休題

 んまあ、そうねぇ、おいらの拵えた作品であっても「これは本当にあった話なんですか」なんて云っている人が結構いたからねぇ。明らかにギャグとわかる異質な文言を入れてあったり、どう見てもセコイに過ぎるデザインだったりしているのにそこには全然気がつかないでね。
 つーか、アレなんだろうな、人って、自分が発見したものを本物だと思いたい、偽物だとは思いたく無い、という深層心理があるのかもしらんね。一旦、本物だ! と思っちゃうと、散りばめてあるギャグすらそれと気付かなくなっちゃうのかもしらんなあ。だって嘘の話に対して真剣に意見してたら馬鹿みたいだものね。みんな馬鹿にはなりたくないものね。
 ほんと、人間ってのぁ面白いですなあ。

 閑話休題

 話は変わるんですが、いまこれだけの世の中で、まだ「アニメオタクは犯罪予備軍」とか思ってる人なんているのかしらん。いるとすればそれは最早、これまでのマスコミの報道に踊らされているだけの人なのではなかろうかね。まあ、見出しを作る側にしてみれば、ある種のテンプレートに従っているんだろうけどね。大衆の中に広く流布しているフレーズの方が読者のイメージを喚起しやすいから、アニオタ=犯罪予備軍、と、とりあえずしておくんだろう。

 閑話休題

 しかしインターネットが広く行き渡ってから、旧来からあるマスコミが時代をリードして作ってゆく、という現象が全く見られなくなりましたな。当節の旧来マスコミを見ていると、世の中の移り変わりに、押っ取り刀で後を付いてくるばかり、に見えて仕方がない。もう世の中のスピード感が変わってしまったんだろうなあ。

 閑話休題

 頭にボールが当たったら死ぬぞという高校野球の先生vs無法なタックルをしろという大学アメフト部の監督。

 閑話休題

 そらまあ大昔に田淵幸一が頭にデッドボールを食らった時には実際に死にかけたし、かつてのスワローズの名三塁手、角富士夫も守備機会の際に打球が頭に当たり頭蓋骨を陥没骨折、次に同じところに打球が当たったら命の保証はできないと医師に云われたというからなあ。そらあたかが野球とはいえ硬球が当たったら死ぬこともあるわいな。まあ、その言葉以前に、その監督さんが生徒に対して相当にひどい叱り方をしたんだろうがね。

 閑話休題

 でもあれだ、私なんかが餓鬼の時分には随分と乱暴な叱り方をする教師が結構いたものだけれど、あれから三十年以上の月日が流れたいま思い返すとそれも懐かしい良い思い出、なんてことは全然思わなくって、いま思い返してもまじむかつく。無駄に威張ってやがって。手前ぇの乱暴狼藉を、我々の行為の所為だと正当化しやがって。
 思い出すのはあれは吾輩が中二の時、指した生徒が満足に答えられなかったというだけで逆上、教師自らが一週間に渡り授業をボイコットした、ってこともあったっけ。しかも次の年になったらそれを生徒を脅す材料にしてやんの。「あの時を経験してる奴もいるだろう」とか云って。いま思えばあいつの振る舞いはまるっきり馬鹿のそれだったよなあ。
 おっさんになったいまの頭脳と了見を持ったままあの頃に戻れるなら、当時の教師連中に、手前ぇらの行動が如何に道理に反しているか、ということを滔々と述べて大いにとっちめてやりたい気がする。

 閑話休題

 それはもちろんあの頃みたいな理不尽な教育はしてはならん。そういう教師がいまもいるなら早く絶滅した方がいい。が、その一方で、人間というのは放っておけば他人に対して理不尽な振る舞いをするものだ、という認識は持っておかねばならん。

 閑話休題

 話は変わりますが、近頃あまりテレビを観ないのでよくわからんのですが、あのほれ、小藪さんっていう関西のタレントの人、あの人、バランス感覚にすぐれた発言をしていてとても良いね。

 閑話休題

 あとあれですよ、このところ頓に思うのは、玉袋筋太郎師ってまじすごいよなあ、ということですよ。あの芸名でマスコミに出て売れているというのは、本当に一つの奇跡だと思うなあ。実際、ものすごく面白いし。いま、ビートたけし師の遺伝子をいちばん強く感じさせる人だと思う。真っ当な東京芸人の系譜にある人という感じがする。

 閑話休題

 やはりこの、褒めるよりも貶す方が簡単なんだろう。嫌なこと・不快なことってのは、違和感として自分の中に残りやすい。だからすぐに気が付いて言語化することができる。翻って、良いこと・快適なことっていうのは、ごく自然に自分の中に入ってしまうから気づきにくく、従って言語化するに至らない場合が多い。
 それに嫌なことはすぐに吐き出して楽になりたいし、良いことは別段吐き出したいとは思わない。だから勢い、貶す方が増えるんだろう。自戒を込めて常にそう思っておかなければいかんネ。たとい貶す時でも洒落っ気を忘れてはいかんよね。

 閑話休題

 しかしあれかね、二十年三十年前と比べると、テレビ番組もコンプライアンスが重視されるようになって、随分と清浄な番組が増えたと思うのだけれど、かつて、テレビは俗悪と云って文句ばかり云っていた市民の皆様ってのは、いまの清浄化したテレビ番組に大層満足して、それはそれは日毎夜毎に熱狂してテレビを観ているのかしらん。あの頃、『全員集合』や『ひょうきん族』を俗悪として怒っていた人たちっていまどんな風にしてテレビを観ているのだろうね。それとももうみんな死んじゃったかな。

 閑話休題

 水清ければ魚棲まずと申しましてな。世の中が清潔になったら途端にアレルギー持ちが増えたりするのが世の習いですからな。

 閑話休題

 いま上で『全員集合』って書いたけれども、いまはもうこれだけだと通用しないのね。我々の年代の感覚からすると『全員集合』といったらそれは取りも直さず『8時だヨ! 全員集合!!』のことだと諒解されたけれども、いまの若い人にそう云ってもてんで通用しない。更にはドリフターズ、と云っても、ああ平野耕太のマンガですか、などと真剣に云われる始末。だめだこりゃ。
 いまから十数年前、ナンシー関氏のコラムを読んでいたら「自分が当たり前と思っていたことがそうではなくなり、自分の世代が世の中のメインストリームではなくなったと感じた」みたような文があったのだが、いままさにそんな感覚を味わっている哀しいおっさんとは吾輩のことさ。次行ってみよう。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ほんと、頭が馬鹿の人ってすぐに極論を云うから面倒ですよね。



2018年5月11日金曜日

世の中は「面白い」に溢れています。

 なんというかこの、Y氏が云ったとされる「農業とか面倒臭い。正直だりぃよ」という発言であるけれども、なんつーかこの、アイドルを生業としているイケメンおじさんが、自分が為した仕事の中でも相当に高い評価を受けているものについて、酒に酔った挙句、二人きりとなった密室で十五歳の少女相手に愚痴っている、という図柄が僕にはとても面白く思えてしまいます。
 そうしてまた、なんというか、この時のY氏って、途方もない幸福感に包まれていたのではないかなあ、と想像します。だってその、酒にだらしのない人がだらしなく酒に酔い、自分の性的嗜好に最も合致する未成年の女の子に対して、無駄話の中では相当に楽しい部類に入る仕事の愚痴を云い放っているのですから、そらあ筆舌に尽くし難い幸福感に包まれておっただろうなあ、と想像しますです。

 閑話休題

 なんというかこの、上のような週刊誌の記事について「真剣に農業をやっていた証拠」みたいなネット世論が形成される刻下の状況というのもまた、大変に面白いものだなあと思います。記事を作った皆さんにしてみれば、斜め上どころじゃあない予測不可能な反応であるように思いますです。こういう、発案者・発信者の意図とは完全に異なる何かが形成されてゆく流れ、というのは傍から見ていて大変に面白いものです。

 閑話休題

 話は変わりますが、最近街を歩いていてふと思うのは、どっ。どっどっ。どっどっどどっ。どっどどっどっどっどっどっ。みたいな、大音量で異様な重低音の音楽を流している、不良や元不良の人たちが運転しているとひと目でわかる自動車から聞こえてくる楽曲が、いずれも同じものに聞こえる、ということであります。あれ、多分、ああいう自動車から流れてくる音楽を、どれも同じ曲である、あるいは、不良の自動車から聞こえてくるノイズである、と認識するような、高度な省略化の機能が、我々のような常人の脳みそには搭載されているのではないかと思うのです。

 閑話休題

 と、いうようなことを書いていて急に思い出したのですが、あれはいまから十五年くらい前だったかなあ、当時の住処、その最寄駅の前を歩いていたら、不良の人が運転していると思しきビッグスクーターから、街中に響き渡るような大音量で、浜崎あゆみ氏が歌唱する『卒業写真』のカヴァーヴァージョンが流れてきて、笑いを堪えるのに必死になった、ということがありましたよ。
 怖い不良の人が怖い顔で跨るビッグスクーターから「そつぎょおー しゃしーんの あのひとはー やーさーしーいー めーをー してーるー」なんて、情感たっぷりの歌声が、耳をつん裂くような大音量で聞こえてきたらそらあーた、笑いますって。しかも不良の人ったらちゃんと赤信号で止まってんの。不良なのに。『卒業写真』大音量で流しながら止まってんの赤信号で。不良なのに。

 閑話休題

 あとあれですね。ネットでの炎上騒動を見かけるたびに、なるほど、関東大震災の昔には、都々逸を歌わせてこれを満足に歌えぬものは日本人ではないと断定してぶちのめす。みたいな乱暴狼藉が行われた、というのも本当のことだったのだろうなあ、と思いますです。

 閑話休題

 朝の連ドラをちらと見たのだけれど、なんだかテンポが鈍いなあ、と思った。昭和末期から平成初期の話であると映像で懸命に説明しようとするあまり、それを示す小物であるとかセリフであるとかを長くやるから変になるんじゃないかしらん、と思った。ちら、としか見てないからたまたまそういう場面だっただけかも知らんけど。『あまちゃん』だと、現代と八十年代の話がてれこっぽくなってたんだよな。

 閑話休題

 しかしあれだ、朝の連ドラなんて、我々の祖父母や父母の人たちが、かつて自分が生きた時代を懐かしんで観るものだとばかり思っていたのに、いつの間にか自分らがその対象に入ってきてしまっているじゃあないか!

 閑話休題

 いま、我が家の近傍から、幼い男児と思しき人物が、おそらくはご自宅の玄関ドアーと思われる板様のものをバンバン叩きながら「いれてー」と繰り返し泣き叫んでいる音声が聞こえてきます。なかなか入れてもらえぬようで、とうとう地団駄を踏みながら(足音からするとどうも裸足のようです)「いーれーてーよー」と泣きながら絶叫しています。ここで私が飛び出していってその幼い男児を我が家に匿ったら、果たしてどんな騒動が起きるだろう……なんて想像しています。
 まあそれを実際にやったところで、ご近所さんのことなので警察沙汰までにはならないでしょうが、きっと私はそのご近所さんから異常者としてテッテ的にマークされることでしょう。
 と、そんなことを考えている間に、幼い男児と思しき人物があげていた泣き叫ぶ声が聞こえなくなりました。きっとお家に入れてもらえたのでしょう。よかったね。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ああやっぱり『カーネーション』は飛び抜けて面白いや。そうそう昔はミシンは踏む、といったのだよな。チャンネルを回す、みたいに。



2018年5月9日水曜日

子供叱るな来た道だもの年寄り笑うな行く道だもの。

 ツイッターを閲していると公人・有名人・著名人のアカウント名の隣に、なりすましではないことを示すレ点みたいなのが付くが、あれを見るたびになんだか面白いものを見る気分になる。自分が自分であることの証明を他人にしてもらう、っていうのかな、いくら自分が自分だと云ったところで、ツイッター社からあなたは確かにあなたです、って認めてもらわぬ限り本人になれない、というか。粗忽長屋的な面白さとでもいうのか。

 閑話休題

 私の好きなのんちゃんなんて完全にそうだよ。自ら能年玲奈であると、本名を公に名乗ることすら許されていないんだからもうわけがわからないよ。

 閑話休題

 今から三十五年ぐらい前にビートたけし師と立川談志家元が対談した音源をYouTubeで聴いた。家元は「経済的に満たされた時代に生まれた、ある意味不幸な今の若者を救う役目がたけしにはある」と云い、対するたけし師は「救う必要はない。自分の人生は自分で生きていくべきだ」と答えていて、二人の主張は平行線てあった。似ているようで二人はやはり違うのだなあ、と改めて思った。でもお互いに尊敬して大事に思ってるのもよくわかるんだよなこの音源を聴いていると。

 閑話休題

 家元って芯のところがすごく綺麗なんだよな。柔らかくって透明度の高い球をいつも壊さなようにと大事に抱えてる感じ。もって生まれたものだとはいえ、きつかっただろうな、あれだけ綺麗なものを抱えたまま生きるってのは。

 閑話休題

 年寄りが若者に対して「俺の若い頃はもっと大変だった」とか云いだしたらもうダメだよな。苦労自慢になって説得力が皆無になる。まあ、若い連中に小言を云って煙たがられるのが年寄りの役目、というのは一面の真実だけれど。

 閑話休題

 まああれじゃないの、我々みたいな団塊ジュニアがみんな死んじゃう頃になったら、日本も小ぢんまりとした良い国になるんじゃないの。今日はてんやの天ぷらが食えて嬉しかった、みたいなことを、妥協ではなくて真に最良の幸せとして享受できるような程の良い国になるよきっと。
 そのレベルでは嫌だ、てんやの天ぷらじゃなくって銀座の天ぷら近藤で食いたいと、さらなる上を目指すことが幸せと感じていた今の老人かつての若者には、てんやの天ぷらで満足する価値観は”低いものである”としか理解できないだろうし、天ぷら近藤を目指さぬことをして”ハングリーではない”と断ずるんだろう。
 そうしてまた我々団塊ジュニアとて、少年期の終わりにバブルを見てしまい、あの異常な好況が正解でその後の不況は不正解だと心の何処かで思っているから、つまるところ現在の老人と大差ない。
 だからまあ、我々が生きている間は、現在が不幸な状況である、という空気は日本から抜けないと思うよ。ごめんね。まああとは君らでなんとかしなよ。

 閑話休題

 しかしあれかしら、タイムマシーンが発明されて、江戸時代の人とかが現代にやってくるようになったら、杉田玄白とか村田蔵六みたいな人が、なんだお前若造のくせに、とか云って、高須クリニックの人を叱りとばしたりしないかしらん。そうなったら面白いのだけれど。

 閑話休題

 上のような急に莫迦みたいなことを云うから、真面目に日本を憂いているような人々から僕は莫迦と取り扱われる。しかし莫迦と思われているぐらいがちょうど良い。

 閑話休題

 しかしあれですよ、僕の目には麻生大臣が政治家の中では一番人間的に魅力があるように思えるのだがなあ。世界の舞台へ出ても違和感がない(まあ体は小さいがね)政治家ってこの人以外にはまずいないと思うんだけど。あれだけ洒落がわかって、上流のなんたるかがわかるような人だと、庶民の下品なことにほとほと嫌気がさしているだろうなあ。

 閑話休題

 しかしあれですよ、近頃、街を写真を撮りながら歩くことが、昔ほど恥ずかしくなくなりましたな。だってみんなスマホで写真を撮っているから。昔はここまで撮っていなかった。日曜日の晴海通りなんかはもう本当にみんな角角でスマホを構えてパシャりとやっている。十五年くらい前、FLASHの作品を作るのに服部時計店の前あたりで写真を撮っていた時など、まあ往来を歩く人に見られてすげく恥ずかしかった。ただ、いま、そうして繁華街で写真を撮っている人の半分以上は中国などからの旅行客だがね。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。いつもすみませんどうも。


2018年5月7日月曜日

人生も打ち直しができると良いのだけれど。

 気がつけば五月の連休も終わり一年の半分が過ぎようとしている。僕は相変わらずなにをする気も起きず、作品づくりなど遠い昔の話になりつつある。リアルが充実するとネットが疎かになる、なんて云っていたのはもう十五年以上も前の話。今やリアルとネットを分けて考えている方が少数派。しかし僕は断然分けてゆく。日常なんか糞食らえ。ゴールデンウィークの最終日におっさんひとりで横浜スタジアムで野球観戦していたって僕は寂しくなんかない。絶対に寂しくなんかない。若い人たちがベイスターズのユニフォームを着込み、仲間とともに楽しそうに声援を送り、グラウンドを背に記念撮影をし、我先にとその写真をSNSにアップしているのを横目で眺めつつ、ロペスの打ち直しホームランを噛み締めるたったひとりの僕。完全に観客席の中で浮いている。僕の周囲では、若い人たちも、のみならずそうでない人たちも、知り人のみならずその辺にいる人たちとハイタッチを繰り返し喜びを分かち合っている。僕のところには誰もこない。おっさんひとり、満員の横浜スタジアムで浮いている。そう。僕は浮いている。思えば僕はネットでも浮いている。絶対的に浮いている。たゆたうように浮いている。たゆたうどんぐり。というのは漫画『ぼのぼの』に出てくるセリフだが意味はわからない。なぜこのセリフを急に思い出したのかもわからない。そうしてよーいどん、で書き出したこの文章、行く当てもないままここまで来たが結局どこにもたどり着かないまま漂流を続ける。

 閑話休題

 ロペスのホームラン(実はファウル)。

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 閑話休題

 ロペスの打ち直しホームラン。
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 閑話休題

 そうして僕はこの日に野球を観に行ったことで、<a href="https://www.baystars.co.jp/news/2018/05/0504_03.php" target="_blank">五月十七日がお茶漬けの日</a>だということを知ったのであった。先着二万名の来場者に合致したから永谷園謹製のうちわと海苔茶漬けを一袋もらった。

 <a href="http://garbage-coll2.sakura.ne.jp/sblo_files/garbage-coll3/image/P1020587.png" target="_blank"><img border="0" alt="P1020587.png" src="http://garbage-coll2.sakura.ne.jp/sblo_files/garbage-coll3/image/P1020587-thumbnail2.png" width="320" height="240"></a>

 閑話休題

 かつて、テレビはいろんなことを教えてくれた。音楽番組を毎週見ているとそれだけで、自分の興味の埒外にある楽曲まで聴くことができた。それはまあヒット曲が中心ではあったけれども、それらを見ることでいろんな音楽に偶然出会うことができた。
 音楽番組が軒並み終了する頃にはTSUTAYAが伸してきていて、百円とかそのくらいの安価で、名前ぐらいは聞いたことがあるけれどもその実、曲は聴いたことがない、みたいなアーティストのアルバムをぐんぐんに借りた。そうしてまた新たな音楽との出会いがあった。
 さらに時代が進みiTunes Storeが始まり、曲をダウンロードで購入するのが当たり前になった。至極便利だったが何しろ邦楽の場合、一曲二百五十円などと大変に高価だったからおいそれと買うわけにはいかなくなった。相変わらずアルバムはTSUTAYAで借りていたが、ダウンロード楽曲からDRMが削除される頃にはもう面倒でCDなど使っていられない。さりとて折柄の不況でそうそうアルバムをバンバン買うというわけにもいかない。CD自体が疎ましくなっているからTSUTAYAにも行かない。結局、お気に入りのアーティストの曲ばかりをダウンロードで買うようになって、偶然の結果による音楽との新しい出会いは無くなった。
 ああもうこういう時代なんだろうなあ。音楽番組をぼうと見ていた頃の、見知らぬ音楽との偶然の出会いはもうないんだろうなあ。と思っていたら、また時代が一つ進んだ。
 サブスクリプションで音楽を聴くようになって、また、偶然の出会いが始まった。先日、愛用のGoogleプレイミュージックでジャズのラジオをかけていた時に偶然耳にしたSANOVAとカルメラ、この二組の楽曲をいま、くんくんになって聴いている。

 閑話休題

 それにしても、野球場のビールの売り子ってどうしてあんなに美人ばっかりがいるんだろうなあ。売り子の格好だから美人に見えるってわけでもないんだろうになあ。儂が餓鬼だった時分には売り子なんてみんな男ばかりだったものじゃよ。ビール売りのみならず弁当の売り子も皆、って、ああ、そういえば野球場で弁当を売りに来なくなったなあ。昔は横浜スタジアムに行くと泉平(いずへい)の稲荷海苔巻き弁当を食うのが楽しみでのう。そうしてまたこの稲荷海苔巻き弁当の売り子というのが、いつでも全くやる気のない青年男児が勤めておってのう。泉平と染め抜かれた法被を纏い、スタンドの通路で、弁当の箱を掲げたまま何も云わずに立っているのみなのじゃよ。あとブー笛(ぶーてき)のおじさんというのもおったのう。五十絡みぐらいのおじさんでなあ。何。ブー笛がわからんとな。そんなものは自分で調べなさい君らの手にはインターネットがあるのだから。あのブー笛のおじさん、浜スタのみならず関東近郊の野球場にいてなあ、対戦カードに合わせた応援歌をブーブー奏でておったものじゃよ。
 おっと、話が昔に遡りすぎてしまったようだが、それにしても野球場のビールの売り子はみんな美人だ。おのののか、なんていまいたってそうは目立たんぐらいのレヴェルだ。そうしてまた観客もビールを買うのはやはり男児の方が多いから、そうした美人と話したい、あわよくば顔見知りになりたい、ぐらいな助平根性でもってどんどんビールを買うから、やはり美人の方が売る側も儲かるんだろう。ま、儂はノンアルコールじじいじゃからそんな美人の売り子とはとんと没交渉じゃよフォッフォッフォッ。

 閑話休題

 そうして野球を観た帰りに、横浜そごうへ立ち寄り、一階の食品売り場で無駄に食い物を買ったのだが、あの手のデパ地下へ行くたびに思い出すのは、私淑する立川談志家元が云っていた「デパートの地下に行くと、こんなに食い物があって良いのかと思う」という言葉で、私なぞは飽食の時代に生まれたからその感覚はよくわからないのだけれど、確かに、あれ、売れ残ったらどうするんだろう。と思うことは毎回だ。

 閑話休題

 ああそうそう。海賊版サイトへのブロッキングが話題になっているけれども、DAZNって広島県からのアクセスを遮断してるって聞いたけれどもあれはブロッキングには相当しないのかしらん。広島東洋カープのゲームを地上波で見られる地域からのアクセスを遮断してるらしいんだけど。カープのゲームのみ遮断してるんだろうけど。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。早く電子書籍もDRMフリーになりませんかね。






ありがとうございました。これからもよろしく。

 とりあえずこのWeb日記と云い張っていたブログは今日でおしまいにします。  閑話休題  昨年の五月、置かれた状況・環境に翻弄されてすっかり減退してしまった創作意欲に再び火をつけて、みやかけおを再起動するのを目的に、ブレインストーム的にブログを始めたのですが、あれから一年...