2018年7月31日火曜日

天才に勝る努力なし

 お暑うございます。それにしても今年の夏は殊の外長いですね。晦日とはいえ本日はまだ七月ですよ。これから八月が来るんですよ。夏を感じさせる気象状況はすでに全て体験しちゃいましたよ今年は。

 閑話休題

 剛力彩芽嬢がインスタグラムにおいて炎上している、てな記事をちらと見たのだが、この件に関しては僕は小島瑠璃子嬢の意見がもっともだという気がする。あのゾゾタウンのおっさん、IT長者でありながらSNSの洒脱な使い方を全く心得ておらぬと見える。ただでさえおっさんがネット上で無闇に張り切るのは、若者のそれに比べて五割増しでみっともなく映るというのに、ゾゾタウンのおっさんときたら、芸能人の彼女以上に無闇矢鱈に張り切っていてみっともないったらありゃしない。
 しかしあれかねぇ、ホリエモン氏の、新幹線の椅子を倒す際の声かけや乗車拒否タクシーにぶちぎれるつぶやきといい、IT長者っていうのは、芯のところが野暮天な連中しかいないのかね。まあ、あんまり関わり合いになりたくない連中ばかりだというのは見ていてよくわかるわいな。彼らを見ていると「人品骨柄」ってやっぱり大事なんだって思わされるね。

 閑話休題

 ゾゾタウン、と本来アルファベット表記のところをカタカナ表記にすると、途端に「時代に取り残されし中年臭」が芬芬としてくるから面白いですね。ディーエヌエーとかね。

 閑話休題

 やがてはディーをデーと発音する日本人も絶滅するのだろうね。思えば私らの親の世代などはディズニーランドを必ずデズニーランド、と発声していたものだった。しかし私ら以下の年代でそんな発音をしている人はもういない。いま、ディーをデーと発音しているのはリポビタンDのコマーシャルくらいのものだ。
 聞くところによればかつての日本人はチャップリンと発音することができず、チャンプラン、と呼称していたそうだ。気がつけばきゃりーぱみゅぱみゅもそんなに苦労せず発音できるようになっている。意外と人間は短期間で進化するものだ。

 閑話休題

 そういうわけで僕は『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』を読み了えたのだった。
 僕がプロレスを見始めるきっかけとなったのはやはり初代タイガーマスクの存在で、それ以降、世紀が変わって数年間が過ぎるまでずっとプロレスを見続けたから、当該書籍にある内容の八割方はリアルタイムで見たものだ。
 それだけに読みながら、あの頃に戻りたいという気持ちを強く感じた。裏側で何が起こっているのかを知った状態で体験し直したいと思った。

 閑話休題

 改めて佐山サトルの人生というのはすごいものだなあと思う。誰もが認める天才であり、おそらくは世界中のプロレスラーが欲しくて欲しくて堪らない才能を完璧に備えているにも関わらず、あっさりとその状況を手放し(つまりは間違いなく得られたはずの巨万の富も捨てたということだ)、その当時、誰も具体的に描くことが出来なかった総合格闘技の立ち上げに私財を抛ち奔走し、十年以上をかけてようやくそれが形になったところで、今度はその総合格闘技の世界から石もて終われるのだからあまりに凄い。そうした自らの才気に自らが振り回される姿が本書にはよく活写されていると思う。

 閑話休題

 佐山サトルのプロレス時代の映像を観ていて驚くのは世界各地、どこで試合をしても観客が同じように熱狂していることだ。タイガーマスク全盛の日本の観客は云うに及ばず、サミー・リーと名乗り素顔でファイトしていた頃のイギリスの観客も、タイガーマスク後期に遠征したWWF(現在のWWE)の観客も、皆、同じようなテンションで佐山サトルの試合に熱狂している。WWFに至ってはいまなお、業界に軽量級を定着させたのは日本から来たタイガーマスクだ、という評価があるようだ(因みにWWFではわずかな試合数しか行っていない)。これはやはり天才の仕事だったのだろうと改めて思う。イチローが日米の差を問わず大活躍をしたのと同じことだ。

 閑話休題

 さらに凄いのはタイガーマスクを終わらせてからも、タイガーマスクとは全くイメージの異なる格闘家としての天才ぶりを見せ続けたことだ。格闘技風味なプロレスであるUWFではスーパータイガーを名乗り、キックと関節技を中心としたスタイルでのちの総合格闘技につながる源流を表現した。プロレス界と別れてからはシューティング、現在の修斗を作り上げ、ヒクソン・グレイシーを呼び、日本に総合格闘技が根付くきっかけを作った。仮に日本に佐山サトルがいなかったら、プロレスや格闘技界は全く異なる歴史を歩み、全く異なる姿となっていただろう。
 ああホント、いま一度、当該書籍に描かれた時代を体験したいよ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ちょっとずつですけど作品づくりもやってます。去年ちらと云っていたRPGツクールをなんとかしたいと思って奮励努力しています。って、自分で自分のやっていることをして「努力」なんて表現する奴のことは努努信用してはなりませんよ。



2018年7月23日月曜日

生きてるだけで丸儲け

 お暑うございます。こうなると夏と秋の間に「猛夏」みたいな、新しい季節の呼称が必要になるかもしれませんな。

 閑話休題

<a href="http://garbage-coll2.sakura.ne.jp/sblo_files/garbage-coll3/image/hot.png" target="_blank"><img border="0" alt="hot.png" src="http://garbage-coll2.sakura.ne.jp/sblo_files/garbage-coll3/image/hot-thumbnail2.png" width="320" height="183"></a>

 このテレビ画面を見て何かが大きく狂っていると思う私はやはり狂っているのか。みんな平気なのか。何にも思わんのか。

 閑話休題

 あのほれ、ZOZOの社長さんがプロ野球球団持ちてぇー、って云ってみたり、対して千葉ロッテが売らないよー、って云ってみたりするのを見るにつけ、嗚呼、なんだかんだ云ってもプロ野球球団っていうのは、それを保有していることが対世間に於いてはステータスなんだろうなあと思わされますな。してみると、楽天とかDeNAなんて随分世間的なイメージが変わったんだろうね。確かにDeNAが球団を持つことになった時には、どうせビジネスライクにやられて、我々ファンが抱くチームへの愛情など鑑みられなくなるんだろうなあ、と思っていたけれども、全然そんなことはなかったものね。ここまでやるんだ、と驚くぐらいよくやってくれてるものね。
 ただ、楽天の方は優勝した後にオーナーがスタメンを決めたりするようになって全然ダメになっちゃったけど。なんだか十年前の地獄だった頃の横浜を見るようだもの。代理監督に勝ち越せば来年もやらせてやる、なんて云っているところなんてまるっきり同じ。

 閑話休題

 しかしあれですかね、戦後すぐの頃、GHQがプロ野球を存続反映させるために、球団が出した赤字は一定額まで親会社の宣伝広告費として計上できるという措置があったと聞いたけど、まだそのルールってあるのかしらん。

 閑話休題

 うーん、ホリエモン氏が世の中に出てきた頃から感じていたけれども、ITの新興企業の社長さんたちって、どうしてあんなに人間がドライな感じがしちゃうんだろうねぇ。なんていうのかな、雑談がつまらなそうな人ばかり、というか、自分に直接関係する話以外には全く無駄として切り捨てちゃう、みたいな。ITの人じゃないけど、橋下氏が文楽への補助金を無駄としてカットした的な、文化とか芸術なんて所詮は生きる上で必要のない物だから無駄、みたいな感じなんだよな。

 閑話休題

 暑いし用事もないから家に籠ってNetflixで漸く配信なった『Jimmy アホみたいなホンマの話』を全話一気に視聴したのだけれども、いやはや、面白かったですよ。そらあ脚本的に説明不足なところ(場面が東京なのか大阪なのか混乱する)があったりするけれども、さんま師とジミーちゃん、さらにはそれを取り巻く人々との関係がよく描かれていて、涙なしには見られない内容に仕上がっていましたよ。また、ドラマ各話の前後にさんま師とジミーちゃんのトークが入るのも嬉しい。ご用とお急ぎ出ない方は是非ご覧になられるといいと思う。

 閑話休題

 さんま師とジミーちゃんといえば、<a href="https://youtu.be/5SZspex89F8?t=4153" target="_blank">このときの二人</a>は平成のバラエティ番組史に残る面白さくだらなさバカバカしさだったよなあ。

 閑話休題

 うお。いま、<a href="https://osha-kimi.com/memo/google-membership-reward-scam/" target="_blank">Googleメンバーシップ・リワードの詐欺画面</a>が私のMac上のChromeに表示されたよ。試しにクイズに正解するところまでクリックしたけど大丈夫かね。個人情報入れてないから大丈夫だろうけど。Googleをお使いの皆様、って当選通知みたいなのが出てきたらそれは詐欺ですからお気をつけくださいませ。しかしなんでこんなのが出るのかねぇ。こないだ見ていたエロサイトの所為かねぇ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。つーか、張本勲に喝とかあっぱれとか云わせて面白がってないで、ちゃんとバッティングのメカニズムを解説させなさいよ。



2018年7月22日日曜日

素晴らしき日曜日

 お暑うございます。

 閑話休題

 マサ斎藤のことを思うたびに感ずるのは、他のレスラーから大変なリスペクトを受けていたのだろうなあ、ということで、私も嘗ては重症のプロレスファンだったから相当数のインタビュー記事を読んできたが、マサ斎藤のことを悪く云っているレスラーというのはちょっと記憶にない。キャリアの全盛期に主戦場アメリカに置いていたから、私のようなファンからすると正直なところ、リング上での印象となると最高級の脇役というところに落ち着く。狼軍団ではヒロ・マツダのパートナー、維新軍団・ジャパンプロレスでは長州力以下が最敬礼でリスペクトする象徴的な存在、80年代後半に力が落ちてきた猪木が重用した対戦相手、という、常にサポートの立場にあったとの印象になる。然し乍ら、どこにいてもアンタッチャブルな領域にいるという印象を受けた。マサ斎藤にしか出来ない役割を任されているという印象があった。87年の年末だったか、両国国技館での猪木&ディック・マードック対マサ斎藤&藤原喜明のタッグマッチは、プロのレスリングの面白さが詰まっていて実に見事だったといま思い返しても陶然とする。

 閑話休題

 あとマサ斎藤といえば90年代の前半からはテレビ中継の解説者となったのだが、これがとんでもなく面白かった。覆面レスラーの正体は平気で言うわ、アメリカのレスラーをヤンキー呼ばわりするわ、同席した当時現役レスラーだった馳浩を平気で叱責するわ。それでいてプロレスの奥深さも一言で言い表す凄さもあって、いや本当に面白かった。
 本当にみんないなくなっていくなあ。ひねりを加えたバックドロップ。一度決まったらどちらかが死ぬまで外れない監獄固め。ルーチャですか? ゴー・フォー・ブロック。

 閑話休題

 話はマジ変わりますが、この数日、テレビの天気予報などを閲しておりますと、このところ予報士の方がさかんに「熱中症の危険がありますので、昼間の時間帯は原則運動禁止です」てなことを繰り返し述べておりますが、その数分後には別のニュースを読むキャスターが「熱戦続く高校野球の予選」みたいなことを述べていて、嗚呼、こんなことをやっているうちは、少年野球の人口は減る一方だろうなあ、と思いますです。
 加えて昨今のプロ野球は、客入りだけを見ればライヴ人気が高まったとも云えるけれども、そこに漂う空気は「観るもの」としてしか捉えられてないように感ずるよ。プロのプレーを観た少年が、それに憧れて僕も私も野球をやってみよう、となるような空気感は微塵もない。ライヴ感覚で応援歌を歌って勝敗結果のみに一喜一憂するのみ、という感じがするよ。野球の将来を鑑みると相当まずい状況だと思うけどね。街中や公園・広場でキャッチボールをしている友達や親子なんてまるで見かけなくなった。いまの三十代になると最早野球よりもサッカーを見てきた人の方が多いだろうから、親がとにかく野球が好きで、という家庭もいまでは少ないだろうし。

 閑話休題

 私らの親の世代、いまの後期高齢者の年代の皆さんを眺めていると、自分が取扱えぬテクノロジーをテッテ的に忌避するのに比例して、自分が取り扱えるテクノロジーについてはテッテ的に使い倒すように見受けられます。スマホやインターネットは気味わるがって使わぬのに、テレビや電子レンジは狂ったように使い倒します。
 エアコンにしても同様で、一旦使うとなると、やたらと温度設定を低くして、体が冷えきるような状態にして使います。そうして「エアコンは体が冷えるから嫌い」などと嘯いてはエアコンを忌避して暑い部屋で我慢大会のようなことをしています。
 テクノロジーに対して適度に距離を置いてほどよく使う、ということがどうも出来ないようです。エアコンの温度設定を、暑さを感じない程度にする、または窓を少し開けて使う、ということがどうも出来ないようです。あの世代の人々にとってそれは取りも直さず「無駄」ということになるようです。テッテ的に冷たくしないのならばエアコンを使うのは無駄、という理屈のようです。
 そうしているうちにエアコン=過度に冷える=体が冷えて調子が悪くなる=だから使わない、みたいな論法が成立しているようです。自分で自分を洗脳してしまっているのでしょう。
 まあもちろん、あの世代が若かりし頃のエアコンというのは無闇に冷やすものだったというのも事実なんですが、まずはそのイメージ・記憶を取り除かぬことにはいかんと思いますです。

 閑話休題

 話は本当に変わりますが、たといばこうして日曜日の朝っぱらからブログなるものを書いている自分のことを思うに、二十代の初め頃、週末となると夜っぴてパソコン通信にのめり込んでいた頃と何も変わらぬと思ってまじ情けなくなります。しかし若い頃と比べると、人生についてだいぶんどうでも良くなり始めているので、そんなに悶々としなくて済みますから今の方が断然気は楽です。思えば若い頃は金曜の夜ぐらいから週末の間、ずっと悶々としていたものね。
 さらに当時はまだ世の中にバブルの残り香が大いに漂っていたから、週末の夜にうかうか街に出れば浮かれ気分なカップルばかりでまじ癪に触る、きぃ。なんて思って街を歩くから余計にカップルに目がいくという負のスパイラルに陥っていたし。
 果たしてもっと歳をとればもっと楽になるんだろうか。それとも持たざる人間として人生が終わってゆく事実に愕然とする気持ちの方が強くなるのか。明日は、どっちだ。

 閑話休題

 でもあれだ。じゃあ彼女が出来て晴れてカップルになったらその悶々とした感覚が消えたのかというと、確かに消えたのは消えたんだけど、あの頃の悶々とした感覚とは繋がりがないような気がするんだよなあ。違う何かで上書きされたようなそんな感じ。裏を返せば、あの悶々とした感じというのは、いまでも心の何処かに蟠っているんだろう。それが一番必要とされた時に、それを持つことが出来なかったというのはきっと一生蟠ったままで残るんだろう。

 閑話休題

 あれは誰だったかなあ、映画監督かなんかが苦労の末に何かの賞を取った時に、その受賞スピーチで「(観客や評論家に対して)私が一番あなた方を必要としていた時、あなた方は一体どこにいたんですか?」と云った、というのをどこかで読んだような気がするんだけど誰がどの場面で云ったのか思い出せないし調べても出てこない。

 閑話休題

 まじで話は突然変わるが、ユーチューバーの何が困るって、あの人たち、ずーっとこっち見てくるでしょう。あれが困る。一対一、みたいな空気感出してくるでしょう。あれが耐えられん。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。常田富士男氏も亡くなっちゃったけど、そらあ『日本昔ばなし』の声も素晴らしかったけど『カリキュラマシーン』や『ゲバゲバ90分』で見せたコメディアンぶりも実に見事でした。機会があったら探してご覧になられるといいと思いますよ。




2018年7月17日火曜日

好きな時代を行ったり来たり

 もうその話題の旬は終わったようだけれども、えーと、あのほら『さよなら、おっさん社会』なんという、ばかみたいなフレーズが大書された電車の中吊り広告があったでしょう。あれを目にするたんび、僕は「ゼロ年代的だなあ。前時代的なあ。あっ。そうか。考えてみりゃゼロ年代って、もうずいぶん昔の話なんだよなあ」と思い、六本木ヒルズがITの総本山、みたいに思われていた頃を思い出してなんだかくらくらしておりました。
 あの頃の感覚を”巨人対DeNA”と表記されて微塵の違和感も抱かなくなった二〇一八年になって尚、大々的に広告展開する時代錯誤っぷりに僕はくらくらとしたのです。電車の中で。いやほんと倒れなくてよかった。
 その広告主はそれだけでは飽き足らなかったのか、件の広告の少し後にはホリエモン氏を、まるで『アプレンティス』の時のドナルド・トランプ氏のように取り扱うかのような広告も電車の中で展開していたりして、これまたゼロ年代だなあ、と、くらくらしました。ただでさえ暑い今年だってのに。
 然しまあ、いつの時代にもこういう「新しぶりっ子」をする古い奴ってのぁいるもんでさぁね。

 閑話休題

 やはりこの、僕なぞは「ぶりっ子」と見聞きするたんびにどうしても山田邦子氏のことが思い起こされるのですが今や若い人に山田邦子のなんたるかを説明するだけでも時間がかかるので大変です。かわい子ぶりっ子ぶるぶるぶりっ子。おもてなし、裏があってもおもてなし。右手をご覧ください一番高いのが中指でございます。

 閑話休題

 然しあれですよ、テレビのワイドショウなどでコメンテーターと称する電波芸者のみなさんが、あらゆる事象・話題について意見を述べているのを見るにつけ、うーむ、何だか全ての話題が同じ地平にあるように錯覚しそうになるなあ、と思うのであります。政治も芸能も兇悪犯罪も天変地異も、もう何もかもが同じ地平にある話題だと錯覚しそうになります。本来ならば、全ての話題には相応の見識を持った専門家がいるはずなのに、そうした人々の意見を聞くことはほとんどなく、同じ面子のコメンテーターの皆さんの意見をあらゆる話題において聞くばかりで、全ての話題が同じ地平にあるように思えてしまってなりません。
 そうしているうちに、ネットニュース全盛の時代となった昨今、到頭テレビに出ている人が全てフラットに取り扱われるようになったような気がしてなりません。政治評論家もジャーナリストも元スボーツ選手も役者もバラエティタレントも落語家もニュースキャスターも、全てコメンテーターとして同じ地平にいる、そんな取り扱いを受けるようになったように感じます。うーん、うまく伝わるかなあこの感覚。
 たといば立川志らく師がワイドショウで何某かの話題に関して発言をした場合、それは落語家としての見識からの発言であると捉えるべきと私なぞは思うのですが、数多のネット・メディアの取り上げ方は、志らく師の個性や専門などは脇に置かれ、テレビに出ている志らくなる者が、あの事件についてワイドショウでこんなことを云った、という視点でしか取り上げぬのですね。そうして、そのニュースを読んだ人々がSNSで志らくなる者はけしからん、みたいなことを云っていて、うーん、何だこれ。と、私なぞは思うのであります。テレビに出ている人はみんなテレビに出ている人以外の何物でもない、みたいな感覚がここにきて益々強くなってきたように感じますよ。

 閑話休題

 然しあれですよ、Yahoo!ニュースとかってさ、テレビ・ラジオで有名人がこんなことを云っていた、ていうのをニュースとしてたくさん流しているけれども、あんなのニュースでも何でもないよなあ。それってお前がテレビやラジオで見聞きしたことをそのまま書いてるだけじゃんか。放送の剽窃じゃんか。と思うんだよなあ。まあ、番組を作る側からしたら宣伝にもなってるんだろうけど、こんなものニュースでもなんでもねぇじゃねぇか。と思っちゃうン。

 閑話休題

 然しあれですかね、昨今の猛暑・酷暑ぶりからすると、小学校のプールの時間で、体が冷えてしまって唇が紫になって震えている生徒さんとかってもういないんでしょうかねやっぱり。プールの時間で熱中症、てな話題を聞くくらいだから、やっぱりいないんでしょうなあ。私がガキの頃なんて、曇りの日に遊園地の屋外プールに行くと、うわなんだ今日は外よりも水の中にいる方が暖かいじゃんか、みたいな日があったものね。三十数年前の関東南部の話でござんす。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。プライムデーって逆になに買っていいんだかわかんなくなりますね。やはり買い物の上手においては女性には全く敵いませんや。


2018年7月13日金曜日

人を呪わば穴二つ

 文芸家たらんとする中学生は、須らく数学を学ぶ事勤勉なるべし。然らずんばその頭脳常に理路を辿る事迂にして、到底一人前の文芸家にならざるものと覚悟せよ。

 閑話休題

 ということをかの芥川龍之介大人は仰っておるのですが、流石だなあ、なるほどそうだよなあ。作劇というのは論理以外の何物でもないよなあ、足し算引き算以外の何物でもないよなあ、と思いますです。
 しつこいようで恐縮ですが『半分、青い』のあらゆる面での論理破綻を見ているとそんな気にさせられます。ご都合主義で人を出し入れするというのは本当にダメですね。行動にはやはり理由と理屈がないとダメですね。メインキャストの性格が破綻しているのも本当にダメですね。主人公の成長が何もないのもダメですね。発言もめちゃくちゃだし。登場人物だって物語世界の中で実際に生きている人間だということが全然表現できていなくてダメですね。他人を揶揄する酷い言葉を早いテンポで云えばコメディ場面になると思っているところもダメですね。
 然し乍ら、まるで作劇の”べからず集”を見ているようで逆に勉強になります。

 閑話休題

 そうは云っても同作品に出ている滝藤賢一氏や斎藤工氏や嶋田久作氏やキムラ緑子氏など手練れの皆さんが出ている場面では、その演技に見るべき部分が沢山あって、成る程、巧い役者さんというのは凄いものだなあ、と思わされます。逆に云えば、主人公が経験を積んだ女優さんであったなればもう少し観られる内容になっていたかもしれません。然し乍ら、現時点では実力よりも将来性の方が優っている永野芽郁ちゃんにはちょっときついですよね。ましてこの内容で五十代まで演じさせるのは可哀想以外の何物でもないよね。

 閑話休題

 考えてみれば、九十年代を席巻したトレンディ・ドラマというのは内容よりもキャスティングが重要視されていたと聞きます(キャストが決まってから内容が検討されると聞いたことがあります)。してみると、ほぼそのジャンルのみで一家を成した今作品の脚本家さんが作りそうなドラマ、という気も致します。なにがミートゥだ。
 そらあリアリティ皆無みたいな浮ついたセリフでも、美男美女を極めたような見目麗しさ、更に相応の技術を持った役者さんが演じれば、それは脚本のポテンシャルを大きく超えて成立しますものね。それがトレンディ・ドラマだったということなんでしょう。

 閑話休題

 そういや先頃も同番組の中で「出た! アラビア語に聞こえる岐阜弁!」というナレーションが入ったから、私ァてっきり作品の中で度々使われてきたルーティーンのギャグなのかと思ったら、アラビア語云々というのは初めて出たフレーズなんだそうで、いやはやびっくらこきましたよ。
 まず岐阜弁がアラビア語に似てる、というイメージが世の中に浸透していませんし、またそうした方言を「アラビア語に似ている」というギャグとして使うための仕込みもしていないというのですからまじ驚きです。いやはや、勉強になるわあ。

 閑話休題
 
 いやいや、どうもすみませんでした。もう『半分、青い』については書きませんので平にご容赦を。何かに対する罵倒なんて、書いている・云っている当人は面白くっても、読む方・聞く方は、不愉快になるばかりで、てんで面白くありませんものね。重ねてどうもすみませんでした。でもあれですよ、御用とお急ぎでなければ、いちど、ご覧になられるといいと思いますよ。理論の欠落したドラマの進行というのはなんと歯がゆいものか、と思うこと請け合いですから。こないだのあれどうなったんだよ! 自分が働く店に客として来た弟を忙しいからってすぐにレジ打ちなんかやらせる阿呆がいるかよここは無法地帯か! みたいな苛立ちを、ネ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。人を呪わば穴二つ。肝に命じて生きてゆきたいですね。

2018年7月8日日曜日

笑えるうちが花

 あれは九十年代初頭だったか、新宿駅西口の、小田急百貨店と小田急ハルクをつなぐ陸橋の下、雨のかからないところで、オウム真理教の信者の人たちが踊っているのを見たことがあったっけ。踊っていた皆さんが揃って『宇宙戦艦ヤマト』の乗組員みたいな装束を身に纏ってくるくる舞っていたっけ。確かオウム真理教って書いてある立て看板みたいなのを脇に置いていたような記憶がある。まだあの頃は、変わった集団があるなあ、ぐらいの認識だったんだよなあ。

 閑話休題

 いま調べたらあれは平成四年、一九九二年、大川興業が当時得意にしていた時事ネタアカペラ『ウィーン伝道こけし合唱団』のライブを日本青年館に観に行った時にも、オウム真理教のネタをやっていたっけ。
 仮面ライダーのメロディーに乗せて”せまるー ショッコー オウムのぐーんだーん”、”ショーコー ジャンプ!(浮いたぞ!、の合いの手) ショーコー キーック! あーさはらしょーこー あーさはらしょーこー 義太夫ー 蛾次郎ー” なんてメンバーがアカペラで歌唱した後、麻原彰晃氏の扮装をしたグレート義太夫氏が舞台にせり上がってきたんだよなあ。笑ったなあ。そうしてその後、江頭2:50氏を始めとする大川興業のメンバーが、いわゆるところの空中浮遊をやりながら舞台の上で競馬さながらの競争をする、みたいなパートの構成だったと記憶している。
 ほんと、まだあの頃はみんな結構面白がっていたんだよなあ。

 閑話休題

 ごく私的に、九十年代を通して最高に面白かったバラエティ番組と思っている『浅草橋ヤング洋品店』の中で、一つの到達点となった企画『江頭グランブルー』も、いわゆるところの水中クンバカだものねぇ。
 しかしあの『江頭グランブルー』は素晴らしかったよなあ。コーナーの大団円では爆笑と感泣が同時に到来するという、あり得るはずのない状況が視聴者に訪れたんだよ。腹をよじって爆笑しながら深い感激に大泣きして観ていた。

 閑話休題

 そうそう、オウム真理教の兇悪が明らかとなった後、オウム真理教がそれ以前に起こした坂本弁護士一家殺害事件について、TBSが坂本弁護士に対して行ったインタビューを、放送前にオウム側に見せてしまったことが事件の引鉄となった、ということがあった。それが明らかになった時、看板番組の『ニュース23』で、アンカーマンだった筑紫哲也氏が「報道のTBSは死にました」てなことを同番組内で云い、それ以降、TBSはいわゆるワイドショウを全て廃止して『はなまるマーケット』なんかの生活情報番組を始めたんだよな。それから数年が経ち、TBSが再び昼間のワイドショウを始めた時には、おいおいいいのかよ、と思った憶えがある。というか、いまでもたまに、おいおいいいのかよ、って思う時がある。

 閑話休題

 まああれですよ、始まりはそんなに悪逆無道な集団に見えなかっただけに、あそこまで行っちゃうのか、って、余計に恐ろしい印象だったよね。しかしあの頃の上祐ギャルとかって今頃どうしてんのかねぇ。

 閑話休題

 話はまじで変わりますが、いやあ、あんまりすごかったんでつい『半分、青い』をBSで一週間分、続けて見たのですが、いやあ、これはまじすごい。キャラクターの造形からセリフからストーリーの運びから、いやもうとにかく何もかもいい加減で雑で上調子な感じがして、いやあ、すごい。人の配置や動きもいわゆる御都合主義を平気でやっているし。これはもう反面教師というレベルを遥かに超えていて、まじすごい。ドラマ全体に、脚本家さんの「こういうスイッチを押せば見る人は感動するんだよね?」的な、観る人を完全に舐めている感じが横溢していて、ほんとすごい。コメディチックな場面でもその感覚は遺憾無く発揮されていて「顔がでかいからモアイ像と呼ぶ」的な幼稚なレベルで全ての笑いが作られていて、いやあ、まじすごい。これを朝ドラの枠で放送しているのは一つの奇跡だと思う。いやあすごい。多分、脚本家さんは作っていてすごく楽しいんだろうと思う。

 閑話休題

 永野芽郁ちゃん、可愛らしくって無垢な感じがあっていずれ素敵な女優さんになりそうだから、今回の、ものすごい朝ドラに主演したことで、女優として不必要な遠回りをさせられなければいいよなあ、と思う。『純と愛』に主演した夏菜嬢が不必要な遠回りを未だにさせられているのと同じことにならなければいいと芯から思う。

 閑話休題

 お相撲だとか高校野球の為に『カーネーション』の再放送が今月三十日までないというから残念で、そういうわけだからKindle unlimitedで見つけた同作品のノベライズを読み始めた。ドラマの場面を忠実に追い、放送の中で印象的だった台詞を絶妙に配置してあるから、読んでいて場面が脳内で明瞭に再生されて面白い。
 そうして不図、ああ、そうか。江戸や明治の頃、歌舞伎の戯曲がよく売れていたというのはこういうことなのだろうなあ、と思った。ヴィデオもレコードもない時代、観劇した芝居を再度観劇する以外で、もう一度見直す方法がこれしかなかったんだろう、と思った。確かに、一度観た芝居や映画やドラマの戯曲やシナリオ本を読んでいると、その場面がパッと頭に再生されるものね。

 閑話休題

 話は再び変わりますが、借金がために馘首になった千葉ロッテマリーンズの大嶺翔太元選手や、やはり借金に困り、同僚の有名選手が使用する用具を多数盗んで売り飛ばしたことが発覚してこれまた馘首になった読売巨人軍の柿沢元選手などの話題を聞き及ぶにつけ、うーん、プロ野球というジャンル自体が下り坂にあるんだろうなあ、という思いがどうしてもしてしまいますな。なんというか、下り坂なところには下り坂に向かいやすい人が集まって来ちゃうんだよねぇ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。皆さん、どうかご無事で。



2018年7月4日水曜日

虎は死して皮を残し人は死して名を残す

 歌丸師が亡くなったという報せがワールドカップのそれにも負けないくらいの大きな話題になったのは落語ファンの一人としては安堵するところ。昭和の大名人の一人であった三遊亭圓生師が死んだ時には、同じ日に上野動物園のパンダが死に、それが為に「圓生も」といった塩梅で報道されるに至った、とまあこれは笑い話でもあるのだけれど。
 しかし数多の報道や人々の感想を閲するにつけ、あまりこれはよろしくないなあ、と思うのは、常に「笑点の」という枕詞やイメージがつくことで、自分なぞはつい『笑点』というか大喜利というのはあくまで落語家がやる余興であって落語とイコールではないのですよ、それのみを以って歌丸師のことを評価・判断してはダメなんじゃねぇんですかぃ。と思ってしまうのでありんす。だから『笑点』での姿は、あくまで師の持つ魅力面白さの一面でしかない、と思っておかないとダメなんでないの。ということなのでありんす。更に云えばあれらは基本的に『笑点』用のキャラクターであるしね。
 とにかく『笑点』を以って、落語とはこういうもの、落語家とはこういうもの、と単簡に思ってしまうのはひどく危険ですよ、と自分なぞは思うのでありんす。

 閑話休題

 しかし『笑点』の偉大は、世の中に落語という芸能があり、落語家という職業があるということを大衆に知らしめ続けていることにあるとも思う。もしもあの番組がなかったら、落語の大衆への浸透の度合いは随分と低くなっていたように思う。
 斯く申す自分とて、小供の時分に当たり前のように『笑点』を観ていたから、長ずるに従い落語を聴き込むようになる素地が、覚えず知れずのうちに出来上がっていたと思う。
 まああれですよ、歌丸師が亡くなったのは残念だけれど、これもいい機会だと思って落語を聴いてみるのもいいかも知れませんよ。当節、YouTubeでちょいと探せばいくらでも聴けるんだから。それもロハで。

 閑話休題

 しかしあれですよ、私らなんかの世代からすると歌丸師の喧嘩相手といえば真っ先に思い浮かぶのはやはり三遊亭小円遊師ですな。ハゲ対お化けの抗争でしたっけね。翻って当代円楽師は、小円遊師亡き後に現れた気鋭の若手落語家・楽太郎との印象が強く、歌丸師との抗争が始まった頃は、どこか世代闘争的に見ていたものですよ。プロレスで云えば鶴田対天龍と鶴田対三沢の違い的な、って、どうです、引き合いに出す話の方がポピュラリティがないというこの例え下手のほどは。

 閑話休題

 正直なところ、追いかけてまで聴いた落語家ではなかったから、語るに相応しいだけの思い入れや記憶はないのだけれど、それでも観るたびに聴くたびに、世の中を怜悧冷徹に観ている目を、軽妙洒脱でコーティングして隠しているような様子が感じられて、落語家らしい、ってこういうことだよなあ、と思って観ていたものです。餓鬼の時分『<a href="https://www.youtube.com/watch?v=eoeAHGViQzs" target="_blank">化粧術</a>』を『花王名人劇場』だったかな、観て随分笑ったっけね。なんとなく敬遠していた圓朝作品も聴いてみようか。いい機会だしネ。

 閑話休題

 しかしほんと、当たり前のように観ていた人たちがどんどんいなくなるなあ。そういや自分がぐんぐんに落語を聴き始めた餓鬼の頃、親世代の連中に「君は落語が好きなのか。俺は志ん生や文楽を生で見てるけど、君は間に合ってないから可哀相だね」と自慢されて大変に悔しかったものだけれど、いまや自分の方が「君、落語が好きなの。俺はね、談志や志ん朝、円鏡の円蔵を生で聴いてるよ」なんて自慢げに思ったり云ったりするようになってしまっていてまじ老害。

 閑話休題

 話はまじで変わるが、昨日、出来心で初めてまともに『半分、青い』を見てしまったのだが、うわあ、主人公が譫言で「本物の刀で切られてどくどくと血が出た」といったような心情の吐露を、ナレーションならまだしも、譫言とはいえ普通に台詞として云っていて、見ていて恥ずかしくて死にそうになった。私は悲しいです辛いです衝撃を受けました、って直裁に説明してどうすんだ。
 さらには中村雅俊氏演ずる主人公の祖父が、自分の未来に絶望している主人公と電話で話している際、主人公に請われてギターを抱えて『あの素晴らしい愛をもう一度』を電話口で歌唱するという、かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう、的な場面があって、こりはだみだ、と感情を余所に遣り、ドラマ世界から一目散に逃走した。
 あの祖父が中村雅俊氏じゃなくって泉谷しげる氏やなぎら健壱氏が演じてるっていうんならまだドラマにもなるだろうけど、かっこいい人がかっこいいことをやるなんて当たり前のことじゃんか。そもそも我輩ら団塊ジュニアの祖父母の年代の人間がギター掻き鳴らして「あの素晴らしい愛を思う一度」なんか歌わねぇよ。ドラマの嘘としても到底通用しない。

 閑話休題

 そうして夜になって録画した『カーネーション』を観て、今日も今日とて素晴らしい内容に大いに感心し、心を安寧させたのであった。浮気していた勝さんを終戦とともに許し、新時代の到来で知己の八重子さんにパーマ屋をやらせることで、糸子自らがパーマをあてて女っぷりが上がるようにもって行き、そこに新たな恋の対象となる周防を登場させるというプロットの妙。まったくもって自然な流れ。物語を運んでゆく手際の良さといったらない。そうしてまた、視聴者に状況を理解させるためだけにしかないリアリティの欠落した台詞なんて一切ないしね。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。うーん、今年は勝負所で投手が抑えられない展開が続くなあ。それとラミレス監督、采配の自家中毒に陥ってないといいんだけど。まあ井納を先発に戻した判断などを見るとそうでもないんだろうけど、ちょっと意固地になってるかな、と感じる時がある。

ありがとうございました。これからもよろしく。

 とりあえずこのWeb日記と云い張っていたブログは今日でおしまいにします。  閑話休題  昨年の五月、置かれた状況・環境に翻弄されてすっかり減退してしまった創作意欲に再び火をつけて、みやかけおを再起動するのを目的に、ブレインストーム的にブログを始めたのですが、あれから一年...