2019年1月30日水曜日

サヨナラダケガ人生ダ

 部屋を片付けようと思った。今の住処に弾き越してきてからもうずいぶんになるが、その時に持ってきたもの、使うかどうかわからないがとりあえず押入れに突き込んでおけ、そう思って突き込んでおいたものをみんな出そうと思った。大したものはない。せいぜいあったところで着なくなったスエーターとかそんなものばかりだ。
 こういうとき、ちょっと気の利いた人ならばメルカリなんかに売って小金を儲けるのだろうが、あいにくと僕は体が大きく身長が3メートル47センチ、体重が368キログラムもある(真実)からなかなか売り飛ばすことができない。
 しかし僕は思う。物を片付けるに際して小金を儲けることなど考えないほうがいいのではないか。どんどん捨てたほうがいいと思う。断捨離というほど大袈裟ではないが、過去との決別、新たなる自分に向かってゴーイングするという意味において捨てるべきだと思う。そらあこれはエコな行為ではない。しかし時と場合によってはエコよりもエゴを優先すべきことがあると僕は思う。
 と、急にそんなことを云い出したのはなんのことはない、片付けを始めた途端、押入れの中からいろんなガラクタを出した途端、果たしてどうかたをつけたらいいのかわからなくなり、結果、部屋がいわゆるところの汚部屋のようになってしまったんである。さてどうしたらいい。みんな捨てればいいというけれど。さて、どうしたものか。いっそここに住もうか。この乱雑極まる汚部屋に座机を置いてそこで原稿を書くマネでもしたら坂口安吾みたいになるかな。桜の森の満開の下はとっても恐ろしいぞよ。

 閑話休題

 不図思ったけど、あのほれ、別段こちらは何も聞いていないのに「俺、全然テレビって見ないんだよなあ」とか云ってくるなんかスカしたみたいなよくわかんない人があるけれども、あと何年かしたら、こういう人々と同様に「私、全然SNSとかやらないんだよねー」なんて、スカした感じで云ってくるよくわかんない人が出てくるんだろうかねぇ。

 閑話休題

 SMAPからジャニーズのアイドルは積極的に解散しなくなったけど、あれやっぱり無理があるんじゃないのかなあ。アイドルの醍醐味って一瞬しかない青春というか思春期のひとときを共に過ごす、ってところにあるんじゃないのかしらん。モー娘。みたいにメンバーが入れ替わっていくんならまだなんとかなると思うけど。
 青春時代というか、思春期の終わりを実感できないというのもなかなか辛いもんだと思うけど、そういうもんでもないのかな。本来いつまでもそれは続かないものだからなあ。そうしてまた続かないから価値が生まれるんだと思うんだけど、そういうもんでもないのかなあ。ずーっと仲がいいなんてありえないしねぇ。
 コント55号みたいに解散はしないけど別々の道を進んでいく、みたいにすればいいんだろうけど、それだとジャニヲタの皆さんが嫌がるのかな。グループが存在している以上、グループでの活動をしないと嫌なのかなあ。

 閑話休題

 山口百恵が引退したときなんか、自分はまだ小学三年生かなんかだったけど、さよならコンサートをテレビで観たときには、一つの時代が終わっていく感じがすごくしたもんなあ。そうしてその直後に松田聖子がばーんと売れて、アイドルがまた違う時代に入っていくんだ。そういう区切りって必要だと思うけどね。そういう区切りがないと、時代が動く感じもしないから、世界がひどくのっぺりしたものになっちゃう。テレビの笑いが全て吉本興業になってから、テレビの笑いに変化がなくなったもの。時代と呼吸している感じがしなくなったもの。

 閑話休題

 話は変わりますが、近頃、主にハラスメント方面ですが、男性目線で意見を述べると、男女平等の意識が足りないと鋒鋩打たれますが、その一方で、昨今頓に、女性目線で恋愛や性愛の記事やそれを執筆するライターが増えてきたように思うのは、僕が男性だからこその被害妄想ですかね。”OLの経験を生かした女性視点からの恋愛コラムを多数執筆”、みたいなプロフィールが附記されているライターの書く記事って、基本、女性の視点しかなくて、まあ、内容的にハラスメントなものではないにせよ、なんかちょっと引っかかる。ananのセックス特集はエロではない、的な、なんとなく承服しかねる感じの。

 閑話休題

 もうインターネットについて考えるのは無駄だし意味がないかもしらんなあ。フォーマットとして利用するしかないなあ。まあ、風車に戦いを挑み続けるのも、いいのかな。よくわかんねぇや。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ああそうそう『偽りの黒真珠』面白かったですよ。始まりは『オホーツクに消ゆ』で、途中から『ファミコン探偵倶楽部 消えた後継者』の感じになったね。当時のアドベンチャーゲームと比べるとメモリの制限がないから台詞の量が膨大で、ちょっと読むのに苦労した(ひらがなが90%だったからね)。逆説的にいえば、当時の、メモリ制限が厳しい中であれだけの印象的なストーリーを紡いでみせた堀井雄二の凄さを改めて知った感じもしたよ。



2019年1月27日日曜日

噓吐きは泥棒の始まり

 さあやるぞとやる気を出した途端にダメになると云うのはやはり良くあることで、年明け早々に風邪が治った。さあやるぞとやる気を出した途端にまた風邪をひいた。ある朝、目が覚めたらとにかく体が重くて動かない。まるで鉛を背負っているようだ。瞼を開けているのすら辛くてままならない。体温計で体温を測ったら三七度五分もある。
 これはきっとインフルエンザだ。この世に生を受けて早四十有余年、ついに僕も生まれて初めてインフルエンザに罹患した。流行に乗って。なんて思っていたがそんなことを思っている場合ではない。いかなければならない予定をキャンセルするべく、いかなければならない予定の先に連絡を入れたら、ならばむしろ来るなと云われてちょっと寂しかった。行きつけの医療機関に連絡をしたら、症状が出てから二十四時間が経過していないと、たといインフルエンザの検査をしても陽性とは出ないから今日は大人しく世間から隔離されて明日くればいい。と云われたからまたちょっと寂しくなった。もっとみんな僕を心配して周章ててほしい。
 しかしそうしてするべき連絡を済ませたらなんだか体調が良くなってきた。ご飯が嫌に美味しい。昼過ぎに熱を測ったらもう三十六度八分に下がっている。体の辛さも徐々に抜けてきた。しかし僕の気持ちはインフルエンザに罹患したと思っているから当然病人らしくうーうー云いながら寝ている。鼻が詰まる。なんだかよく眠れない。しかし体調はどんどん良くなってくる。熱もどんどん下がってくる。晩御飯が普段より美味しい。それでも部屋からなるべく出ずに自ら進んで隔離をされていた。病人だし。夜はやはり鼻が詰まってあんまり眠れない。病人だし。そうしているうちにとうとう明くる日になった。寝不足感はあるがそんなに体調は悪くない。熱を測ったら三十六度一分しかない。体は妙に軽い。病人なのに。
 約束の通り、行きつけの医療機関に、病人だからと思って大枚を使いタクシーを誂えていちばんで行き、早速インフルエンザの検査をしてもらったら陰性と出て僕はすっかり仮病の人になってしまった。
 体調はすっかり良くなったが気分は晴れない。なにやら自分で自分にトラップを仕掛けて自らのやる気を削いだような格好だ。一月からこの有様では今年一年の惨状が今から予測される。どうせ今年も僕は何もできないのだろう。そんなことを思いながら呆然と日を過ごしている。体調はそこそこいい。鼻も詰まっていない。気分だけが病人のそれで、気持ちは寂しく世間から隔離されている。寂しい。

 閑話休題

 こうして寂しい寂しいと云っていれば優しくて素敵な女性が急に現れて心配してくれて声をかけてくれたりデートしてくれたりするのじゃないかと中学生の頃から思ってたまに人前で寂しがってみせるのだがそんな優しい女性が現れてなんかしてくれたことなど一度もないのだった。寂しい。

 閑話休題

 大坂なおみ選手を見ているとメジャーに初めて行った頃の野茂英雄をちょっと思い出す。とんでもないことをやってのけたのに、当人は湯船に浸かっているみたいな平気な顔をしている。周りはわあわあ騒いでいるのに、その騒ぎを起こしている当人は、その騒ぎを遠巻きに眺めている、そんな印象を受ける。でもあの大坂選手のいつもはにかんでいるような感じはとても可愛いね。可愛げがない奴はどんなに能力が高くても駄目。

 閑話休題

 なんというかまあ、嫌いな教師を追い込むために「暴力を振るうように仕向けてそれを動画で撮影してTwitterにアップして炎上させてやろう」なんて発想になるんだから、まあなんというか、これが時代なのかねぇ。仮にかつての横浜銀蝿華やかなりし頃、不良の全盛時代にSNSがあったら、やっぱりこういうことになってたのかねぇ。学校の窓ガラスを金属バットでバンバン割るのや、卒業式後のお礼参りをライブ配信したりしたのかねぇ。
 金八先生の第二シーズンのクライマックス、加藤優が荒谷二中に乗り込んでいって、学生運動の団交めいた騒動を起こしたあのドラマ史に残る場面も、SNSが絡んだ内容になったりしてたのかねぇ。加藤優が荒谷二中の教師を土下座させて謝らせる場面も、傍にいる沖田浩之がスマホで撮影、配信してたりするような内容になったりしたのかねぇ。仮にそうなったとしてもやっぱりBGMは中島みゆきの『世情』だろうけど。

 閑話休題

 これはもう幾たびも書いていることなのだが、YouTuberだとかライバーだとかTikTokだとかが見せる、ああいう、クラスの人気者が楽しくやってまーす。的な空間が小供の頃から苦手で、あんな連中のやることのどこが面白いんだ馬鹿野郎。とずっと思っていて、そういう連中の蔓延る日常世界から逃亡するためにインターネットでなんかやり始めたのに、いつの間にかインターネットもあいつらに占拠されてしまっていて、まじ不愉快。今度はどこへ逃げたらいいんだよ。なんであいつらいつもあんなに楽しそうなんだよ。もっと屈託しろ馬鹿野郎。

 閑話休題

 ではまあそんなことでお後がよろしいようで。大坂なおみ選手を日本人として認めていいのか、なんて云っている人がまだいるようだけれど、我が横浜DeNAベイスターズのラミレス監督が日本国籍を取得しましたので今年からラミちゃん日本人監督ですよ。でもそうなるとあの有能な通訳の人はどうなるんだろう。



2019年1月18日金曜日

上手に目を閉じ耳を塞ごう

 「友達、親、過去の自分。この三つと比較しなければ生きるのが楽になる」とはみうらじゅん氏が云った言葉だと記憶するが、なるほどそうかと思って僕はこの数年この言葉を念頭に置いて日々を生きているのだけれど、それでも当節ネットをちょっとでも見れば、知ってる人や知らない人がいろんなこと、面白いことやすごいことを発言したり発表したりしていて、いかんいかん比べてはいかん。比べると自分が辛くなる。と懸命に思うのだけれど脳の方で自動的に我が身と比べてしまい、結果として彼我の差に愕然となる……そんな状態が続いていて本当に嫌になります。もうインターネットなんかなくなればいいのに。いや、正確にはツイッターとかSNSとかなくなればいいのに。いやいや、正確にはやっぱあれだ、人とすぐに比較をしてげんなりしてしまう自分の脳がいけないんだ。だったらもういっそ脳なんかなければいいのに。脳があるからいけないんだ。脳とかまじ絶滅すればいいのに。なんで脳なんかあるんだよ馬鹿野郎。くっすん。

 閑話休題

 やっぱり質を担保するのは量なんだよなあ。まあなんでもいいから作っちゃうか。アイデアはまだそこそこの数出てくるんだ。頭の中から出すことができなくなってるけど。

 閑話休題

 改めて思うけど、神田松之丞氏ってすごいよなあ。いまの時代にあれだけ真っ当な毒舌で人を惹きつけるのはすごいことと思う。ネットを中心に「愛のある毒だから聞いてて不愉快にならない」みたいなふざけたようなふやけたような事を云う輩が増えた昨今、みんなが心の奥底で気に入らないと思っている事を見事な言葉の選択で笑い飛ばしてくれるあの喋りのなんと愉快爽快なことか。悪口や毒舌すらキャラ付けの一つとして世の中に組み込まれてしまう昨今の芸能にあってまじ貴重であり本物の毒舌が聴けるのは本当に嬉しく楽しみ。
 しかしほんと、その時代にあった人がちゃんと出てくるんだなあ。談志家元の後にビートたけし師が出てきてその後に太田光師が出てきてそうして今度は松之丞氏が出てきて。そういう意味でも面白いよなあ。

 閑話休題

 毒舌の中に、対象に対する愛なんかないよなあ。気にくわないことをストレートに云うのは野暮の骨頂だから笑いに繋がる部分を見つけて切り出してるだけで、そこに愛なんかないよなあ。観察力・洞察力は必要だと思うけど。あとは若さ。歳をとると許しちゃったりどうでもよくなったりするからね。

 閑話休題

 いまから三十年近い昔、春風亭昇太師が真打ちに昇進するちょっと前『高田文夫杯争奪 OWARAIゴールドラッシュ』の決勝戦に進出した時のこと。漫才やコントが居並ぶ中で、新作とはいえ着物を着て座布団の上に座り落語を披露することで、それら他の演芸と互角に渡り合った昇太師を「落語家としてここへ出てくるというのは異種格闘技戦を闘うようなもの。着物を着ているというだけで客は引く。それでここまで笑わせるのは大変」と高く評価した、当該大会の審査委員長だった山藤章二氏の言葉をいまでも憶えている。その観点から見ても、神田松之丞氏、講談師でありながらこれだけテレビに出ているのはものすごいことと思う。すでに落語の存在が若い人の間で一般化していたという優位点はあったにせよ、張り扇を叩いているだけで見る側に「何者?」感が出るのが普通なのにちゃんと面白いと思わせる時間・空間を作ってる。ほんとすごいや。

 閑話休題

 話は本当に変わりますが、いま不図思ったんだけど、おいら、ツイッターを見ている時に、ひょっとすると画面に表示されるたくさんのツイートを、一つのコンテンツとしてみているのかもしれないなあ。一つ一つのツイートはそれぞれ別の人が書いているというのを理屈では理解しているんだけど、頭の深い部分で、表示されるタイムラインをツイッターという一つの人格としてみている気がする。そういうものが立ち上ってくる感じがする。わっかるかなあ、わっかんねぇだろうなあ。

 閑話休題

 人の一生もツイッターのタイムラインみたいなものか(文学的)。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。そうねぇ、やっぱり、頭の中にあったものが形になっていくあの瞬間というか時間がたまらなく楽しいし面白いんだよなあ。いままで世の中になかったものが現れるんだから。それを自分の手で呼び出せたんだから。そりゃあ面白いよなあ。


2019年1月16日水曜日

同じ時代を行ったり来たり

 こんにちは。今日も僕は元気です大丈夫ですと自分に嘘をついて生きています。嫌ですね。なるべくなら嘘をつかずに生きていたいと思いますが、しかし人はどうしたって嘘をつくものです。たといば回転寿しで寿しを食べ、お勘定をする際など、僕は決まって店員の人ににこやかな笑みと共に「ごちそうさまでしたー」というのですが、口でいうほどご馳走を食べたとは思っていません。この時の心持ちを正しく言葉にするならば「そこそこの寿司をこの値段でいただけましたから満足です。どうもどうもどもどもども」ぐらいが適当でしょう。こうして人は簡単に嘘をつきます。嘘も方便、などと嘯いて、嘘にまみれた日々を過ごしています。あなたも私も嘘つき。所詮は嘘つき、ってああ、昼寝から覚めたばかりで何を云っているのか自分でもよくわかりません。まあなんでもいいや。もうすぐ夜寝る時間になっちゃうし。そうなりゃまた寝ちゃうからどうでもいいや。寝て起きりゃあ大抵のことはどうでもよくなっちゃうしね。ああ寝よ寝よ寝るのが一番だ。

 閑話休題

 『週刊SPA!』誌上に於いて伝統芸的に続いてきた「ヤレる〜」系の記事が鋒鋩たる批判を浴びたり、ダウンタウンの松本人志師の「お得意の体を使った〜」発言が炎上したりするのを見るに、平成の終わりになってようやく昭和が本格的に終わるのかも知らんなあ。と思ったりしている今日この頃のラッコの毛。

 閑話休題

 今となっては、かつてそういう時代があってそういう時代を生きたという記憶が残るばかり。その記憶を持つ人がいなくなればいずれなくなってしまうもの。そういうものにあの頃のエロ本文化もなったということなんだろう。まあ、今後はひっそりと、表に出すことなく、あくまで自分の記憶の中だけで、たまに思い出すことにするくらいが適当なんだろう。でもそういう時代があって、そこで生きてきたという記憶は消えないからね。
 果たして今の子供たちってどういうエロに触れているんだろうなあ。夜になると中が見えてくるエロ本の自動販売機で、夜、あたりを伺いつつエロ本を買った時の気分みたいなものを味わう現代の装置があるんだろうか。あってほしいね。思春期男子がエロを前にして馬鹿を武器に立ち向かって行くあの時期っていうのは、男子の一生に不可欠な通過儀礼だからね。

 閑話休題

 さっそく『いだてん』の視聴率が第二話にして下落、みたいな記事がたくさん見られるようになったけれども、クドカン氏が脚本のドラマではいつものことなので視聴者としたらもう慣れっこの光景。そうして結果的には視聴率と反比例するように内容の評価が高まり賞を獲得する、というところまでクドカン氏脚本のドラマはセットになってるからね。
 それにしてもこれだけ世の中が進んでいるのに、いまだに視聴率を錦の御旗のごとくに報道するメディアが多い。というかネットニュースとやらが跋扈し始めてからより多くなったような気がする。もう時代の中心はNetflixなんかの方に移っちゃってるのに何をやってるんだろうかねぇ。

 閑話休題

 まあピンクレディーにしろクラッシュ・ギャルズにしろ古来より女性アイドルは仲が悪いというのが定説だからねぇ。しかし本当に、アイドルが知人男性を使って同じグループの別のメンバーを襲わせる、とか、まじシャレにならないレベルの話で恐ろしいねぇ。ほとんど映画『仁義なき戦い』の世界だものなあ。
 ほんと、時代ってなんなんだろう。時代の先端を行っているはずのAKBグループから、こんな陰々滅々たる昭和芸能界テイストな醜聞が出てくるんだものなあ。昭和のエキスが濃縮還元されてるみたいだよ。

 閑話休題

 で、なんであの秋元康氏って人は、AKBグループでコトが起こるといつも他人事みたいな態度を取るんですか。NGTとかとあんまり関係ない人なんですかあの人。つーか高井麻巳子を娶ったという過去を鑑みるに、アイドルプロデューサーとしてなんか信用できない気がしちゃうんだよな。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。十五年くらい前は頼まれて時事ネタのFLASH動画とか作ってたから、こういう話題があると舌舐めずりしてネタを考えたものでしたな。最近はもうなんもネタ的なアイデアは浮かびません。
 最近ではやはりナイツの時事ネタの作り方は実に見事と思う。深追いせずにささっと処理、しているようで実は相当に酷いことを云っているというあの手際の良さは本当に見事。



2019年1月13日日曜日

人品骨柄でゴー。

 おはようございます。早くからご苦労様です。こんばんは。遅くまでご苦労様です。お風邪などお召しではありませんでしょうか。私はといえば先日来より引き込んでいた風邪もほぼ良くなりまして、今はなんだかとっても眠いです。この文章も半分寝ながら書いています。ああ、そういえば僕がまだ若くてギンギラギンだった頃、そうさなあれはいまから二十八年くらい前だったか、二日間徹夜をしてパソコンを操作していたところ、あんまり眠いものだから、まじ半醒半睡の状態でキーボードを叩く仕儀となり、ハッと気づいたら、その時開いていたエディタの画面に意味不明な文字が羅列していて、一体これはなんだ。無意識で自分は何を打ち込んだのだしかもプログラムを打ち込んでいたはずなのに漢字が入ってるし、としばし考え込んだことがありましたな。当時のパソコンで漢字・日本語を入力しようとすれば、現在のように、カーソル位置そのままで日本語が入力できるということはなく、フロント・エンド・プロセッサと云って、日本語入力を命令するショートカットを入力、すると画面の一番下に一行だけ日本語入力の枠が登場、そこに日本語を打ち込んで変換・決定をすると、エディタ本体にその文字が転送される、という手間をかけなければ入力ができなかったのであり、てことは、その半醒半睡だった僕はわざわざ日本語入力のモードを起動、そうして意味不明な文字を打ち込んでいたのであり、ほんと、無意識ってわけわかりませんね。ということを急に思い出しましたが、別段、この話にオチはありません。つーか話にオチなんかいちいちつけるわけないだろうわたしゃ別にプロじゃないんだから。

 閑話休題

 ああそういえば昔は、フロントエンドプロセッサ略してFEPと呼ばれていた日本語変換エンジンは基本、ATOKみたいに別売りで用意するのが当たり前だった(OSが用意する日本語変換エンジンはみんな使い物にならなかったからネ)。そんな頃、九〇年代の中頃にMac版の変換エンジンを買いに、かつてあったパソコンショップ(うわ、この響きももはや懐かしい)J&Pへ行き店員に「エフイーピーはどこに売ってますか」と尋ねたら店員、寸刻考えてから「ああ、フェップですか」と、なんかこちらを「ものを知らぬやつ」みたいな感じで見下して云いやがったから腹が立って、売り場の案内だけさせて買わずに帰ってきたことがあったっけ。そうこうしているうちに時代が変わり、FEPはIM(インラインマネージャー)と呼ばれるようになり、OSに搭載された変換エンジンが高級になり、だーれもフェップなんて云わなくなりましたとさ。あの店員も今頃どうしているのやら。思えば道玄坂の真ん中にパソコンショップJ&Pがあったなんて、それも結構大きな店舗があったなんていまとなってはなんだか夢みたいだ。

 閑話休題

 ちなみに僕はEGBRIDGE派でしたよ。

 閑話休題

 なんていうか、金持って下品ですね。大金をやるからリツイートしろだなんて、ほんと品性が下劣ですね。金なんかたくさん持ってたって、人間が下品だったらしょうがねぇねほんと。あれを下品だと思わない人とは到底話が合わないだろうな。なんなんだあれほんと。いやだねぇああいうの。ほんといやだ。

 閑話休題

 あの百万やるからリツイートしろ、を見るだにつけ思い出すのは映画『キングスマン』でサミュエル・L・ジャクソンが演じた頭のおかしい悪役で、若作りのIT社長を演ずる彼は、本体から通話料からタダで使える携帯をみんなにあげるから使ってくれというのだけれど、やっぱりそれは世界を征服しようとする悪巧みなんだよな。
 ほんと、みんな百万もらえるかもと思って安易にリツイートしているといつの間にか服は全部ZOZO TOWNで買わされることになり、さらに気づいた時には身体中にZOZOスーツを作るための白い水玉が刺青されるようになってたりするぞあれきっと。

 閑話休題

 しかしほんと、ITバブル以降、世の中に登場してくるIT金持ち社長さんってみんな頭おかしいよな。いや頭おかしいというか、日本人の美徳につながる感性がまるで感じられないというのかな。無駄の排除が全てにおいて正しいと思い込んでいるというのか。それをいっちゃあおしまいよ。という寅さん的観点がまるで通用しないというのか。なんだかどいつもこいつも雑談のつまらなそうな奴ばかりだし。

 閑話休題

 いやあ『いだてん』まだ始まったばかりだけど面白くなりそうだなあ。まずもってクドカン氏を大河ドラマの脚本として起用するに当たって、それを実現するおそらくは唯一にして最適のタイミングだったと思うネ。この、オリンピックが来る直前という最大のタイミングを逃さなかった時点で、面白くなるのはもはや決まってる、ってな感じがするもの。何れにしても一年間、大いに楽しめそうだ。第一話の最後、顔面を朱に染めた勘九郎丈が走り込んできた時には観ていてぞくっとしたものなあ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。人的補償とか、どうして陰々滅々たる要素が発生するシステムを採用するんだろうなあ日本のプロ野球は。でもみんな完全に面白がってるよな、長野とか内海が人的補償になる残酷物語を。要は荒川尭や江川やKKのドラフトの頃から感覚が変わってないんだ。なんだか下品な連中が多いや。ドラフトのショーアップも人的補償の盛り上がりも詰まるところ人買い風景の物凄さだもの。もうプロ野球なんか、かつての半分も世の中に影響を与えてないのにいつまでこんなことやってんだ。



2019年1月11日金曜日

きのうの続きがきょうになる

 あけましておめでとうございました(過去形)。

 閑話休題

 今年はやるぞ。作品をたくさん作るぞ。そうだ今年こそ俺はやるんだ。いままで寡作だったぶんを取り戻して驀進するんだ。と、決意を新たにし、相応に行動も変え始めた二〇一九年正月、だったにも関わらず、その矢先である五日に風邪を引き込みダウン、その後、四日間もウンウン唸って寝込んでしまう為体。
 こうなるとせっかく新たにした決意も何処へやら、やはり今年も何も変わらないのかもしれない。今年も何もいいことはないのかもしれない。もう僕の人生はこんな調子で無残な感じで終わってゆくのかもしれない。と、悲しい気分になっているところであります。
 まあそれでもインフルエンザに罹患していなかったことは物怪の幸い、そう思って自分で自分を励まし鼓舞しているけれどもやっぱり僕はもうダメです。空元気すら出やしません。それが証拠にもう二十五年も好きなままでいる内田有紀嬢のことを思ってもいっかな元気が出ません。『夜空にYOU KISS!!』の録音を聴いても元気が出ません。ファースト写真集『YOUKISS』はもうずいぶん昔に売っちゃったんで手元にないし。
 これはもう非常事態です。僕的非常事態宣言です。トランプが作ると息巻いている国境の壁どころの騒ぎではありません。まじ誰か助けてください。助けてくれないのならばせめてお金をください。あるいは、これをご覧のあなたが若くて素敵な女性であるのならば是非おっぱいを触らせてください。もう僕はダメです。だから助けると思って金を寄越すかおっぱいを揉ませるかしてください。できたら金かおっぱいが絶対に必要なのです。

 閑話休題

 こんなことを書いたすぐ後くらいに、私が泥棒や痴漢を働いた廉で逮捕されて新聞種にでもなった日には、このブログが世間に出るのだろうなあ。一丁やるか。ってダメだやっちゃ。

 閑話休題

 このところテレビジョンの報道を閲していると、なにがしかの犯罪を犯した犯人・容疑者のFacebookやツイッターのアカウントがすぐさま発見、放送されるのが当たり前になりましたな。これを見るたびに『古畑任三郎』で云ってたように、人間誰しも犯罪者・殺人者になる可能性があるということなんだろう。別段、犯罪者や殺人者が我々とは種類の違う人間という訳ではないことの証左がFacebookのアカウントなんだろうと思って、自分だっていつそうなるやもしれないという想像力だけは失わないようにしたいものと思う。

 閑話休題

 ほんと、これからは犯罪者やノーベル賞受賞者の卒業アルバムを探すのに変わって、SNSのアカウント探しに躍起となるんだろうね我が朝のテレビ報道の人たちは。次の元号の世では、すごい犯罪を犯した人が高校時代にアップしていたTikTokの動画、みたいな間抜けな報道を目にすることが増えてくるんでしょうな。何年か後に自分がすごい犯罪を犯すなんてことをまるで想像だにしない感じで楽しそうにくりくり踊っている動画とかが世の中に流されたりするんだよこれから。くわばらくわばら。

 閑話休題

 そうはいっても昨日あたりからは体調も上向いてきたので田崎健太氏が著したkindle本『全身芸人』を読んだのであった。
 作家・演芸評論家の吉川潮氏が書かれた数々の芸人伝ものが、芸人の人生を物語化した、その芸人の内側に立ったものだとすると、こちらはずいぶんと対象となる芸人との距離感があるように感じた。しかしながらそれによって、ドキュメンタリーとして迫力のあるものに仕上がっていると感じた。冷静な目でその芸人のあり方と、時代との乖離を描いていると大いに感心して読んだ。トリを飾るこまどり姉妹の来歴など完全に芸人残酷物語として、当の芸人自身が練り上げてきたものに他ならないと思うのだが、それを物語化するとことなく、それを語る、八十歳を超えた子飼いの芸人の姿を描いているのが物凄い。そういうある種の冷ややかとも云える高所大所からの視点が貫かれているのがドキュメンターとしてとても良いと思って読んだ。

 閑話休題

 私が思う”芸人”というのはやはり当該書籍に紹介されているような、カタギの世界では到底暮らすことができない困った人たち、結界の向こう側に行ってしまった人たち、のことで、軽々しくそれになれるものではないという憧れと畏れが同居する存在。だから簡単に”芸人”という言葉を使うことができない。然るに当節のバラエティ・タレントが「僕ら芸人なんでー」なんて、結界の向こう側に行く覚悟もなく(というかそんな結界があることすら気づかない)軽々に口にするのを見るたびに、こんな風に言葉に対して鈍感な奴が真に面白いものを作れるはずがない。と思って嫌な気持ちになる。

 閑話休題

 芸人周りのエピソードで好きなのは、戦前の頃から浅草などの繁華街を浮浪児のごとくうろつき、大量の演芸、エンターテインメントを鑑賞してきた色川武大氏が、藝人という存在を、世間からドロップアウトした存在として世間の基準から見れば実にいい加減な人間であると描いたのに対し、戦後の浅草フランス座で座付き作家として内側からそこに参加していた井上ひさし氏が、藝人とて銀行員と同じように真面目に仕事に取り組んでいた、と真っ向から主張を異にしていたこと。聞けば、二人はその主張の違いからパーティなどで顔を合わせても誠にそっけない態度を取り合っていたという。しかし色川氏が逝去されたのち、井上氏が、色川氏の書斎を訪れた際、自分が血眼になって集めていたアメリカのコメディのビデオなどが書棚に並んでいるのを見つけ「内側と外側、見る方向が違っただけで同じものを見ていたのだ」と深い感動に包まれた。という話が私は好きでありんす。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。Netflixに入っていたから久しぶりに『めまい』を観たけど、いやあ、面白いのはもちろんすごく面白いんだけど、やっぱりヒッチコックって異常な変態だよなあ。と思った。





2019年1月4日金曜日

立って半畳寝て一畳天下取っても二合半(実験)

 夜になると寝てしまう。ひとり布団に入るとその中は体温で次第に暖かくなってくる。現実と夢の境が次第に曖昧となりふっと眠りに落ちる。数時間すると目が覚める。もういい歳だからそんなにたくさんは眠れない。すっかり目覚めてしまう。しかしまだ朝は早い。陽も昇っていない。布団の中は暖かい。冬だから外は寒い。だからできれば出たくない。
 僕は出なくもいい人だからずうっと布団の中にいる。でもいい歳だから二度寝もうまくできない。外は冬で気温が低いし世間の風は冷たく人の心はなお冷たい。しかし布団の中は暖かい。暖かいからずぅっといる。僕はずぅっといてもいい人だからそこにずぅっといる。でも中年も終わりかかっているから二度寝はできない。すると頭の中には妄想が広がってくる。現実にならない思いが具体性を伴い頭の中のスクリーンにビスタビジョンで上映される。
 僕は妄想の中では完璧な人間だ。勇者だ。英雄だ。天下人だ。全てが思いのままになる。かつてしくじった事柄もここでは全てがうまくゆく。かつてしくじった人たちもここではみな僕に良くしてくれる。現実ではいままさに失敗しつつある事柄だってすいすいと成功に向かって動き始める。水着姿の傳谷英里香ちゃんから好き。と急に真剣に告られたのにお前タイプじゃないからゴメンな。なんて簡単に断って彼女を泣かせたりもする!
 妄想は素晴らしい。妄想は素敵だ。現実よりはるかに素晴らしい。ここから出たくない。外は冬で寒いし世間の風は冷たいし人の心はなお冷たい。現実なんか嫌いだ。布団から出たくない。妄想だけをしていたい。妄想をしていればこうして寝ているだけで天下人になれるのだからよほど妄想の方が素晴らしい。
 妄想をする僕はいまや紛う事なき天下人。立って半畳寝て一畳天下取っても二合半。ここに二合半という言葉が入っていることからわかるように天下人とて腹が減る。寝ているだけでも腹が減る。生きているかぎり腹は減る。腹が減っては戦もできないし妄想も広がらなくなる。気づけば頭の中はものを食うことで満たされてしまう。泣いていた傳谷英里香ちゃんも大急ぎで消えていってしまう。代わってオムライスの画像が頭にばあんと効果音付きで浮かんでくる。その表面にはケチャップで「USB-C」と書いてあって食欲が大いに刺激される。頭の中がオムライスでいっぱいになってしまう。こうなるともう駄目だ。かくて泰平の夢は破られた。かくて妄想は現実の前に容易く敗れ去った。暖かい布団を出て冬の寒さと世間の風や人の冷たさに立ち向かわねばならん。
 ふん。と、裂帛の気合と共に掛け布団を蹴り上げる。寒い冷たい寒い冷たい。冬は寒く世間の風はやはり冷たい。人の心も冷たいに決まっている。暖房は嫌いだからつけないしストーブは火事が怖いからつけない。湯たんぼは間違ってお湯を飲んじゃうといけないから使わない。だから僕の周囲にあるなにもかもが冷え切っている。傳谷英里香ちゃんが冷たい人だったら嫌だな。
 現実は冷たく辛い。妄想はあんなに楽しいのに現実は辛い。しかしいつだって勝利するのは現実だ。冷たく辛い現実は妄想の上位自我だ。結局は現実の通りに僕も動かされてしまう。そうして僕は現実の奴隷となり、暖かく優しい布団を出て冷たく辛い現実に身を置いた。
 映画『レディ・プレイヤー1』では仮想世界に耽溺する主人公が艱難辛苦の末、そこに蔓延る悪を倒すことで彼が住まう現実を少し良いものにした。まさにスピルバーグの映画。ハッピーエンド。それがエンターテインメント。しかしその幸福な結末こそがエンターテインメントの限界。僕にはこの主人公が幸せを獲得したとはとても思えない。現実が良くなったところで所詮現実は冷たく辛い。人の心も冷たいままだ。いま抱き合っている女性が明日も抱きしめてくれるという保証はどこにもない。
 映画『未来世紀ブラジル』の主人公、サム・ラウリーは幸福な妄想の中に永遠に封じ込められた。二度と現実世界と関わることはない。しかし彼の方が僕の目にはよほど幸せと映る。絶望に満ちた現実を見ることなく自分が体験したいと念願する妄想の中に生き続けられる(あるいはその妄想の中で死んで行ける)彼のなんと幸福なことか! 冷たく辛い現実から完全に逃げ果せた彼のなんと幸福なことか! 艱難辛苦の果てに愛する女性を救い出し幸せな生活を獲得(しかもその女性は二度と彼を裏切らない!)した彼のなんと幸福なことか! 生暖かい布団の中から二度と出なくて良い彼のなんと幸福なことか!
 オムライスは旨かった。ちゃんとケチャップで「USB-C」と書いた。現実も捨てたものではないのかもしれないと少し思った瞬間にオムライスが載っていた皿を落として割った。
 いまは一月四日。正月早々僕はまたしても現実の冷たさと辛さを味わった。もういやだ。現実は嫌だ。どうせいつまでだって寝ていていい僕だ。また寝よう。暖かい布団に潜り素敵な妄想の中に暮らそう。水着姿の傳谷英里香ちゃんと南の海で泳いで過ごそう。布団はすっかり冷えてしまったが寝ているうちに僕の体温で生温くなるだろう。遠くから陽気なサンバのリズムが聴こえてきた。まだ現実は楽しいものだと思っていた頃になんども聴いたあのリズム。クレシェンドする「Brazil」のメロディに包まれ僕は妄想の中に完全な生を獲得する。布団の中はどこまでも生暖かくて生易しくて生優しい。

2019年1月2日水曜日

元日や今年もあるぞ大晦日

 あけましておめでとうございます。おはようございます。皆様におかれましては平穏無事なる新年を迎えられたのではないかと想像しては、へっ。つまんねーの。とか思っているというのは全くの嘘でして、私はいつだって皆様の平穏無事と幸福を願っております。もちろん嘘ですけど。
 さて私めの正月はと申しますれば、数年前より正月らしいことを一切しないと決め(というほど決然としたものではなくて自然にそれをしたいという欲求がなくなった)ました故、大晦日に天ぷらそばを手繰ったのを最後に紅白歌合戦も初詣爆笑ヒットパレードも見ずに、普段と変わらぬ暮らしを続けております。ですから朝にはトーストを食し、昼には日清食品の冷凍汁なし担々麺を食し、近所の百均に行ってノートを買い、道で出会った野良猫とだるまさん転んだをやってあすび、夜には藁人形に五寸釘を打ち込むなどしています。
 正月らしいことはほんとしにしていません。御節も雑煮も元より嫌いですし、餅を食うと奥歯の被せ物が取れますし、正月のテレビは『モヤさま』以外に見たいと思うものも特にありませんし、年賀状を書くのもやめてしまいましたし、もうなんにもいたしません。ただただ日常を日常として過ごしています。
 そうはいっても正月というのはやはり偉大なもので、そうして正月らしい行為を一切しなくとも、正月らしい気分というのは心に芽生えてくるもので、たといこんな私であっても、元日の晴れ渡った青空を眺めながら、関東の乾いた冬の空気を胸に吸い込みながら、今年も平穏無事に過ごせたらいいな。今年一年、死なずに生きていられたらいいな。なんて思ったりなんかしちゃったりしてこのぉ。と、文章の始末に困ると決まって用いる広川太一郎節を持ちまして年頭のご挨拶とさせていただきます。本日はおめでとうございました。お二人の未来に幸あれ。

 閑話休題

 正月の意気もなるほど良いものですが、年末のあの忙しない空気、日常がどんどん消失していくあの感じというのも僕は大好きで、だから僕は年末掉尾、官公庁の仕事納めが終わるときまって霞が関から虎ノ門や溜池山王、神谷町や議事堂周辺、さらには赤坂のあたりまでをひとり歩くのです。
 普段、勤め人や役人でごった返しているこれら日本の中心部も、この年末掉尾を迎え仕事納めが済むと、往来を行き交う人々や車の列がぱたりとなくなり、そこにいるのは議事堂や官邸を警備するお巡りさんばかりとなるんであります。あの感じ、まるで日本の中心部がゴーストタウンになってしまったかのような状況・空間がとても好きなんであります。
 昨年末も霞が関を出発して赤坂方面へ向かい、途中、勝海舟邸跡地を通り氷川神社で手を合わせ、官邸の脇を警備のお巡りさんから不審者と目をつけられぬよう「僕は安全な人間です」という空気を醸しつつ歩き、ふうふう云いながら山王坂を上り議事堂をぐるりと半周、正面前で記念撮影をするいやに元気な中国からの観光客の皆さんを眺め、年末で閉門されている国会前庭の前を通り江戸城の方に向かってターン、お堀に向かって坂を降りつつ井伊直弼のことを思い、やがて桜田門から江戸城に入り、やはりこれもいやに元気な中国からいらした皆さんが二重橋前で記念撮影をするのを眺め、このあたりでもう足腰が辛くなってきたからと日比谷の駅から地下鉄に乗ったときには随分みんなくたびれた。あたしもくたびれたよ。なんて、古今亭志ん生の口調で思ったりしながら、極私的年末恒例行事を滞りなく済ませたのでありました。

 閑話休題

 あとあれですよ、冬場の野球場ってのもいいよね。存在がすごく無駄じゃん。だから横浜スタジアムとか神宮球場とか冬になると意味なく見にいったりする。あんなにでかい建物がなんの役にも立たぬまま、ただただそこにある……このことがすごく僕の心を慰撫するン。こんな僕でも生きていていいんだ。という気分になる。

 閑話休題

 話はまじで変わりますが、いまから数年前、SNSが世の中に定着し始め芸能人がそれをすることが当たり前となった頃、それまで芸能マスコミによる虚偽の報道に悩まされてきた芸能人たちが、SNSを使って自ら発言・発信をすることで虚偽のマスコミ報道に苛まれずに済むようになるからSNSは芸能人にとって有用。みたいな意見をよく目にしたものだけれど、あれから数年が経ってみると、その間にネットニュースなる報道スタイル・メディアが台頭したために、芸能人自ら発信したSNSでの発言が、どこかスキャンダラスな雰囲気を纏う「ネットニュース」として逐一取り上げられることとなり、なんつーか、こりゃあ無間地獄。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。講談には詳しくないけれども真打昇進が決まった神田松之丞氏がすごく面白いことはよくわかる。こういう飛び抜けて面白い人が出てくることでそのジャンルが活性化されるのはとてもいいことと思う。惜しくも早逝されたけれども浪曲界に国本武春先生が出てきたときも若い観客が詰めかけた。ちなみに講談師や浪曲師の敬称は先生。と、こういう細かいことを他人に強要したり説教したりするのは野暮のすることだけれど、こういう部分を大切にしない奴・理解しない奴はすごく嫌だネ。
 






ありがとうございました。これからもよろしく。

 とりあえずこのWeb日記と云い張っていたブログは今日でおしまいにします。  閑話休題  昨年の五月、置かれた状況・環境に翻弄されてすっかり減退してしまった創作意欲に再び火をつけて、みやかけおを再起動するのを目的に、ブレインストーム的にブログを始めたのですが、あれから一年...