2019年1月18日金曜日

上手に目を閉じ耳を塞ごう

 「友達、親、過去の自分。この三つと比較しなければ生きるのが楽になる」とはみうらじゅん氏が云った言葉だと記憶するが、なるほどそうかと思って僕はこの数年この言葉を念頭に置いて日々を生きているのだけれど、それでも当節ネットをちょっとでも見れば、知ってる人や知らない人がいろんなこと、面白いことやすごいことを発言したり発表したりしていて、いかんいかん比べてはいかん。比べると自分が辛くなる。と懸命に思うのだけれど脳の方で自動的に我が身と比べてしまい、結果として彼我の差に愕然となる……そんな状態が続いていて本当に嫌になります。もうインターネットなんかなくなればいいのに。いや、正確にはツイッターとかSNSとかなくなればいいのに。いやいや、正確にはやっぱあれだ、人とすぐに比較をしてげんなりしてしまう自分の脳がいけないんだ。だったらもういっそ脳なんかなければいいのに。脳があるからいけないんだ。脳とかまじ絶滅すればいいのに。なんで脳なんかあるんだよ馬鹿野郎。くっすん。

 閑話休題

 やっぱり質を担保するのは量なんだよなあ。まあなんでもいいから作っちゃうか。アイデアはまだそこそこの数出てくるんだ。頭の中から出すことができなくなってるけど。

 閑話休題

 改めて思うけど、神田松之丞氏ってすごいよなあ。いまの時代にあれだけ真っ当な毒舌で人を惹きつけるのはすごいことと思う。ネットを中心に「愛のある毒だから聞いてて不愉快にならない」みたいなふざけたようなふやけたような事を云う輩が増えた昨今、みんなが心の奥底で気に入らないと思っている事を見事な言葉の選択で笑い飛ばしてくれるあの喋りのなんと愉快爽快なことか。悪口や毒舌すらキャラ付けの一つとして世の中に組み込まれてしまう昨今の芸能にあってまじ貴重であり本物の毒舌が聴けるのは本当に嬉しく楽しみ。
 しかしほんと、その時代にあった人がちゃんと出てくるんだなあ。談志家元の後にビートたけし師が出てきてその後に太田光師が出てきてそうして今度は松之丞氏が出てきて。そういう意味でも面白いよなあ。

 閑話休題

 毒舌の中に、対象に対する愛なんかないよなあ。気にくわないことをストレートに云うのは野暮の骨頂だから笑いに繋がる部分を見つけて切り出してるだけで、そこに愛なんかないよなあ。観察力・洞察力は必要だと思うけど。あとは若さ。歳をとると許しちゃったりどうでもよくなったりするからね。

 閑話休題

 いまから三十年近い昔、春風亭昇太師が真打ちに昇進するちょっと前『高田文夫杯争奪 OWARAIゴールドラッシュ』の決勝戦に進出した時のこと。漫才やコントが居並ぶ中で、新作とはいえ着物を着て座布団の上に座り落語を披露することで、それら他の演芸と互角に渡り合った昇太師を「落語家としてここへ出てくるというのは異種格闘技戦を闘うようなもの。着物を着ているというだけで客は引く。それでここまで笑わせるのは大変」と高く評価した、当該大会の審査委員長だった山藤章二氏の言葉をいまでも憶えている。その観点から見ても、神田松之丞氏、講談師でありながらこれだけテレビに出ているのはものすごいことと思う。すでに落語の存在が若い人の間で一般化していたという優位点はあったにせよ、張り扇を叩いているだけで見る側に「何者?」感が出るのが普通なのにちゃんと面白いと思わせる時間・空間を作ってる。ほんとすごいや。

 閑話休題

 話は本当に変わりますが、いま不図思ったんだけど、おいら、ツイッターを見ている時に、ひょっとすると画面に表示されるたくさんのツイートを、一つのコンテンツとしてみているのかもしれないなあ。一つ一つのツイートはそれぞれ別の人が書いているというのを理屈では理解しているんだけど、頭の深い部分で、表示されるタイムラインをツイッターという一つの人格としてみている気がする。そういうものが立ち上ってくる感じがする。わっかるかなあ、わっかんねぇだろうなあ。

 閑話休題

 人の一生もツイッターのタイムラインみたいなものか(文学的)。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。そうねぇ、やっぱり、頭の中にあったものが形になっていくあの瞬間というか時間がたまらなく楽しいし面白いんだよなあ。いままで世の中になかったものが現れるんだから。それを自分の手で呼び出せたんだから。そりゃあ面白いよなあ。


ありがとうございました。これからもよろしく。

 とりあえずこのWeb日記と云い張っていたブログは今日でおしまいにします。  閑話休題  昨年の五月、置かれた状況・環境に翻弄されてすっかり減退してしまった創作意欲に再び火をつけて、みやかけおを再起動するのを目的に、ブレインストーム的にブログを始めたのですが、あれから一年...