2019年3月31日日曜日

十年一日千秋

 どうもこんにちは。おはようございます。こんばんは。そういうわけで三月も到頭晦日を迎えてしまい、桜もいろんなところで満開を迎え、愈愈平成三十年度も終わりを迎えるのであります。そういや平成も終わるんだってね。
 そんな良き日、平穏なる春の只中である日曜日、だというのに朝から僕はウェブ日記を書いています。そうです僕はいまも、あの頃のあなた方がそうだったように、未だに自分のホームページを運営しています。あの頃から何も進歩していません。十年一日とはこのこと、あの頃から変わったことといえば歳をとり、うんと体力がなくなったことと、日本語の入力方法がローマ字入力から親指シフトに変わったことくらいでしょうか。あとは何にも変わりません。あの頃から既に頭は禿げてしまっていましたしネ。
 そうなのです。僕は平成がまだ十年代だった頃から、ずっとホームページを作っているのです。人間関係を脇に置いてホームページ作りにうつつを抜かしていましたから、人間関係も極めて薄くなってしまいました。お金にはちっともなりません。そうして振り返ってみると人生を随分浪費してしまったような気がして、我が事ながら愕然となります。が、まあこれもひとつの人生ということなのでしょう。電気グルーヴの前身なのでしょう。諦めと思考停止が上手に出来れば人生は随分楽になります。それがうまく出来ないので困っているんですがね。でもまあそこそこ面白いからいいや。

 閑話休題

 イチローが引退会見で妻たる弓子氏について「ホームゲームの時には毎朝おにぎりを握ってくれていた。その数が総計で二千六百個ぐらいのところで引退になってしまい、三千個まで到達したかったと云っていた。実現させてあげたかった」みたようなことを云っていたのだが、それに対してネット上で「妻に対するモラハラである」みたいな意見を表明しているトン吉チン平カン太な人がいて、しかもその発言にいいね!ボタンを押すようなくるくるぱぁみたいな人がたくさんいるということで、なんかもう、こういう連中はどこか、我々一般の人間の目に触れないところに隔離した方がいいと強く思う。
 ネットの辺境というか、特別なSNSを作ってそこにこういう手合いを全員集めて、好き放題なことを云わせて過ごさせればいいんだと強く思った。そうして我々の目には触れさせないようにした方がいいと思った。ネット上の阿片窟みたいなところに押し込めてしまった方がいいと激しく思った。
 ほんと、こういう手合いが伸び伸びと物を云っている姿を見るにつけ、こんな世界ができあがるために何十年も前からパソコンやネットに付き合ってきたんじゃねぇぞこんちくしょう。という気分になる。

 閑話休題

 someone to watch over me.

 閑話休題

 なんというか、ネットサーフィンをしていると、時たま、未だにフォントいじりをやっているブログを見つけることがあって、その度に、いやあ、面白いなあ。すごいなあ。『侍魂』が流行ったのって何時のことだよ。みたいなことを思って心嬉しくなる。ファッションみたいにリバイバルの面白さとは全然違うしね。

 閑話休題

 思えばあの頃からフォントいじりが嫌いだったよ。面白いことを云うときに声が大きくなる人の無残な感じ、いま私は面白いことを云ってるんですよー! と全身から発信するあの無残な感じ、ダメなテレビ番組の五月蝿すぎるテロップの感じ、などと同様の気がしてほんと嫌いだった。あの頃、そうしたフォントいじりが読み手にウケていると知ったときには本当にイライラしたものだったよ。

 閑話休題

 森繁や渥美清の捨て台詞みたいに面白いことほど普通の感じで云うのがいいと思うけどね。

 閑話休題

 同じリズム、テンポで続けるというのはとてもすごいことで、先般最終回を迎えた朝ドラ『まんぷく』などはまさにそうで、私はここで以前、朝ドラの枠を超える突き抜ける瞬間がなかったことに少し不満を感じる、なんてなことを書いたのだけれど、件の最終回を視聴して、いや、そうではない。これはすごいことなのだ。予定調和を完璧にやり遂げるとそれは横綱相撲になるのだ。と思って大いに感心したのだった。

 閑話休題

 で、私は『まんぷく』は通常BSで朝の七時半から視聴していたのだけれど、BSの時間割ではその直前である朝七時十五分から以前の朝ドラを再放送している。今期はそれが『ぺっぴんさん』であり、本放送の時には観ていなかったからいい機会だと思って観ていた。
 埼玉県出身の菅野美穂が関西弁のイントネーションでナレーションを務めている時点で、このドラマ結構やばいんじゃないかと思って観ていたのだが、後半になるにつれ、そのやばさは倍加していって、最終的にはものすごく面白いものになった。というか、なってしまっていた。
 このドラマは戦前から高度経済成長時代が終わるまでの長い時代を描いているのだが、役者の入れ替わりが基本的にない。メインキャストのほとんどは二十代前半から半ばの皆さんで、その皆さんが十代から七十代まで演じるから、ドラマの中で時代が進むにつれて画面の中がとんでもないことになってくる。
 結果として見るからの若者が安っぽい老けメイクと老け芝居で老人役を演ずることになり、画面の絵柄だけを見るとほとんどコントになってしまうんである。画面の中に三世代が同居する場面など、画面の中に小供ばかりが集まって家族の問題を話し合っているようにしか見えず、結果的にすごく面白い画面になる。
 こういう意図しない面白さっていうのは何者にも代えがたいネ。

 閑話休題

 『カーネーション』で主役が尾野真千子嬢から夏木マリに変わったのもこれを避けるためだったんだろうなと改めて思った。ただ、オノマチの巧さならたとい百歳の役でも説得力を持たせられただろうけどネ。

 閑話休題

 四月一日からBSで『おしん』の再放送ですってよ奥さん!

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。愛用のグーグルプレイミュージックにチャラン・ポ・ランタンの新アルバム『ドロン・ド・ロンド』が入ったのでそればかり聴いていますよ。チャラン・ポ・ランタンはほんと聴いていると愉快な気分になるン。








2019年3月29日金曜日

Think Different.は遠くになりにけり

 しかし今年はなんという年なんだろうか。まだ今年が始まってから三月しか経たぬというのにピエール瀧氏は逮捕されるしショーケンは死んでしまうし森昌子氏は辞めると云い出すしイチロー選手は引退してしまうし獣神サンダー・ライガー選手も来年には辞めるというし市原悦子氏も死んでしまうしザ・デストロイヤー選手も死んでしまうし和久田麻由子アナは結婚してしまっていたというし『荒川強啓デイ・キャッチ』も終わってしまうというしAppleはこの数年のあいだ新しいイノベーションを全く起こせていないのに動画サービスだとか定額制のゲームコンテンツだとかそんなことにうつつを抜かしているしああなんかもういろんなことが起こりすぎてわけがわからない。これが時代が変わるということなんだろうか。時代の変わり目ということなんだろうか。元号が変わるなんてことは、まあそれはそれで大変なことだけれども、人の生き死ににそれが直接関わりがあるとは思えない、が、これだけ重なるとやはりどこかに連携連帯があるように思われてならん。時代の空気を感じ、それに合わせる形で人々が行動を変えてしまうような機能が社会や人間の深層にあるような気がしてならない。いやあ、にしても時代が変わるってすごいことだよまじで。それまであったこと、それまでいた人々、それまであった価値観をずずずと、過去のものとして一気に押し流してしまうんだから。

 閑話休題

 なるほどそう考えると、昔の日本人が「この度は飢饉とかあったから、いっちょ元号を変じて世の中の気分を変えてこましたろ」的な感じで元号を変えていたというのもわからんでもないね。

 閑話休題

 上の上の項でちらと書いたけど、ほんと最近のAppleってまじつまらないですね。iPadを出したのを最後に、Appleが新しいイノベーションを起こしたってほとんどないんじゃないよね。強いて云えばAirPodsぐらいじゃないかしらん、これがあることで人々の生活の一部が変わってしまう、と云える製品は。Apple Watchったってなあ、あれはちょっと大仰すぎるし、スマホの機能を腕時計に納めているだけで、あれを持つことで生活の一部が変わってしまい、それまでの価値観を時代遅れのものとして押し流してしまうというものではないよね。Apple Watchが真に新機軸だとしたら、それによってスマホがある程度駆逐されていなくてはならんはず。ところがApple Watchは腕時計にスマホの機能みたようなものを追加しただけで、スマホは疎か既存の腕時計を駆逐することすらできていない。

 閑話休題

 Macが本質的に世に現れたことでコマンド打ち込み型のPCインタフェイスが、時間はかかったが駆逐された。最初のiMacが現れたことでベージュ色のPCが家庭から駆逐され、ケーブルの接続もUSB中心となりそれ以前のSCSIなどが駆逐された。iTunesが登場したことにより音楽はデータとして取り扱うようになりCDなど録音メディアが駆逐された。iPodが現れたことで何枚ものCDを持ち歩く行為が駆逐された。Mac OS Xが現れたことでPCのオフはスリープが前提となり頻繁な主電源の操作が駆逐された。iPhoneが現れたことで人間がインターネットに常時接続するようになった。iTunes Storeが現れたことで、CDを購入するという行為が駆逐された。App Storeが現れたことでソフトウェアに対価を支払うことから”勿体ない”という感覚が駆逐された。Appleが成し遂げたイノベーションは此処まで。おそらく、それまでの生活を変えてしまうような革新・新機軸はAppleからは生まれないだろうと思う。理由はないけどそんな気がする。革新的だったAppleはもう歴史の中のことになった気がする。革新を生み出す存在としての役割を終えたということなんだろうと思う。

 閑話休題

 iPhoneがあるのはもう生活の中では当たり前のことで、いまそれを手にすることで、高級感は得られるだろうが生活の一部分が革新されることはない。だがアマゾンエコーを導入することによって生活の一部が確実に変わった。Netflixに加入することでテレビ放送を視聴するという行為の大半が駆逐された。こういう革新はもうAppleからは生まれないだろうと思う。これからAppleが生み出せるのは既存の製品・サービスをAppleの文脈に合わせて作り直し「この製品・サービスはAppleの手によって完成された」との印象を与えることだけ。そうして、その製品・サービスに於けるスタンダードの地位を他所から奪い取るだけ。そこに革新はない。

 閑話休題

 いまみんなiPhoneを持ってるけど、みんなが持ってるってことは、どんな馬鹿でも持っているってことだからね。

 閑話休題

 同様にみんなが観てるものってのも、どんな馬鹿でも理解できるっていうことだからね。

 閑話休題

 つまりあれなんだよな、私にとってのAppleっていうのは、iPhone・iPadを出すまでのApple以外の何物でもないんだよな。いま、Apple Storeに大挙してやってくるような洒落乙な人々が絶対に興味を抱かなかった頃のマニアックでファナティックだったApple。ところがいまや、かつてのAppleには絶対に興味を抱かなかったような人々ばかりが、いまAppleを唯一無二の存在として有難がり、各地のApple Storeに日々参集している。

 閑話休題

 てなことを、極めて洒落乙な人たちが極めて洒落乙な感じで集っている極めて洒落乙な表参道の極めて洒落乙なApple Storeの店内で思いましたとさ。

 閑話休題

 お。ほほほ。今日は結構真面目な感じで書いてるねぇ。まあ、面白くはないのかもしれないけど。つーかいつも面白くないのか私の書くものなんて。まあいいや。そういえば昔、立川談志家元が「客から面白くないといわれたときに”プログラムのどこに面白いと書いてある”と云い返した」とまくらでよく云っていたけど、そんな感じで当意即妙な言葉を云い返せるようになりたいもんですな。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ベイスターズ優勝しねぇかなあ。三位からの下剋上じゃなくてリーグ優勝してくんないかなあ。まだそれを実現するだけの揺るぎないものがチームに出来上がってない感じはするけど、なんかの間違いでもいいから優勝してくんねぇかなあ。前に優勝してからもう二十一年だよ。八十五年にタイガースが優勝したときに二十一年ぶり! って大騒ぎになったけど、あのとき中学生だった自分は、二十一年という年月をリアルに想像することができなくて、なんか長そうだなあ。ぐらいにしか思わなかったけど、この歳になってみると二十一年なんてあっという間、だけどもその間、自分がなにをやってきたかを振り返ってみると、かなりの長さであることもわかって、って、うーんと、とにかく優勝しろやいい加減そろそろ。確率からいえば六年に一遍はリーグ優勝できるはずなのになにやってんだまったく。






2019年3月25日月曜日

センチメンタル・ジャーニーマン(実験その3)

 今年の二月上旬に神田明神に行き、滅多に引かないおみくじを引いたら大吉が出て欣喜雀躍した、てなことは以前このWeb日記で書いたことなのだけれども、あれからひと月半以上が経過したが、いまのところ特に良いことは起こっていない。

 閑話休題
 
 改めておみくじの宣託を読むと、あらゆることに良い言葉が並んでいて、逆に信じられないような心持ちになってきた。願望は必ず叶い失物は必ず出るし、待ち人は意外と早く来るし縁談は男子は引く手あまた迷うべからず、と書いてある。しかし昨年から抱き続けてきたささやかな願望は破れ、失くしたPASMO(三千円くらい入っていた)はいまだに出てこない。仕事でもミスばかりしていて周りの人々から呆れられてばかりいる。待ち人は意外に早く来るというから、街を歩いたり電車に乗っていたりするとき、少しいい感じの女性を見かけると「あれが待ち人なんじゃねぇかな」なんて熱視線を送ってしまうから、目が合った見知らぬ女性から変態を見る目で見られ、このぶんでは早晩警察に通報されるだろう。縁談についても迚も迚も……というレヴェルで一本の引く手すら目の前に現れない。

 閑話休題

 こらまったどういうわけだ、世の中間違っとるぅよ、と植木等大人の声音で思ったりしている弥生三月ももう終わりだ。ふと世間を見渡せばすでにちらほらと桜の花が開き始めていて、ああ、春がやってくる。そうして、これまでがそうだったようになにも起こらないままに春が過ぎてゆく。春は辛い。理由と根拠の無い期待感が季節が春になったというだけで煽られ、そうして煽られるぶんだけ、なにも起こらぬ我が身が余計に辛くなる。

 閑話休題

 辛いついでに思い出す、卒業式の日に誰からも第二ボタンを所望されず辛かった十五歳のあの日。なかなか美形だったTさんから第二ボタンを請求された私と仲良しのRくん、なんだかスカした感じで「ずっと憧れてたんだって」と私に云い放った卒業式のあの日。
 しかしその半年後の秋の日、私の家の近所に住まっていたTさん、見るからのヤンキーが運転する原チャリの後ろに所謂ニケツの状態で乗車するような不良となり果て、ついには下校途中の私の目の前でおまわりさんにヤンキーの彼氏共々補導されておった。思い出すだに心嬉しくなって笑顔になる懐かしきあの日。昭和も終わりに近づいていたあの日。

 閑話休題

 って、なんで私はそんな三十年以上も前の話をしているのだ。これもおみくじのご利益がとんと現れぬせいだ。
 しかしとて、如何なおみくじとて万能ではないのだろう。神の御宣託というのは、けして予言の言葉ではないのだろう。かつてイチロー選手が云ったように「毎日コツコツと同じことを繰り返すこと。それこそがとんでもない高みに到達する唯一の方法」なのだろう。

 閑話休題

 ようし、ならば私だってやってやる。コツコツと同じことを繰り返してとんでもない高みにたどり着いてやろう。果たしてなにをコツコツとやり、どこの高みを目指すのかなんにも決めてないけど、なんでもいいからとにかくやろう。おみくじで大吉を引いたことを後ろ盾に、これを自分に対する応援と解釈してなにかをやろう。
 しかしその前になにをやるのか決めなければならん。果たして、これまで無為・無目的に生きてきた私に、そんな目標めいたものが持てるのだろうか。できるかな。うーん……できねぇだろうなあ。こうしてなにをやろうかと思っているうちに人生が終わってしまうのだろうなあ。

 閑話休題

 振り返ってみれば、幼少の砌から将来の夢とか持ったことがなかったもんなあ。周りの皆がやれプロ野球選手だF1レーサーだ電車の運転手だ大きな会社の社長さんだと云っているのに、私ときたら、早いうちに死ななければそれでいいです。どうせそんなすごいことなんか僕できないし。とか云って幼稚園のにじ組担任・原先生に大層心配されたあの日。もうあの頃からなにも為さない人間として世を暮らすことは決まっていたのかもしれない。おみくじで大吉を引いたご利益を受けられぬことは決まっていたのかもしれない。

 閑話休題

 ああ。本当に春は嫌だ。暖かくなって人々が心嬉しそうに振る舞い始めるのを見るのが本当に嫌だ。希望を信じているような顔で過ごしている充実した人たちを見るのが本当に嫌だ。おみくじを信用できなくなってしまうくらいに春は嫌だ。早く春なんか終わってくれればいい。早く五月病とかで苦しむ人々が現れればいい。浮き立っている世の中に身を置くのがまじ辛い。

 閑話休題

 桜の散り際にいつも思う。散るだけの花を咲かせることができる幸運を思えこのくそったれが、と。こちとら散らすべき花も咲かぬままにただただ枯れていくばかりだ。なんだかわからないままに木の幹が腐っていくばかりだ。なにも出来ぬままにどんどん腐っていく自分を、手を拱いて見ているばかりだ。

 閑話休題

 そんなことを思いながら改めて大吉のおみくじを眺める。「見てのみや人に語らん桜花 手ごとに折りて家づとにせん」そこに書いてある文言を繰り返し読み直す。全く意味がわからない。
 併記された解説文には「花見の話をするのみならず、一枝折って家族の人に土産とすれば家庭円満、その心持ちを忘れなければ幸福な生涯疑い無し」みたいなことが書いてある。
 斯くてようやくこの句の意味を、朧げながらとはいえ諒解したが、しかし生憎私には桜の枝を持って帰るべき家庭がない。桜の枝を見せても喜んでくれる相手がいない。くそう。やっぱり春は嫌いだ。なんにもない我が身を余計に意識させられるからまじ嫌だ。

 閑話休題

 はい、実験はここまで。ご退屈様でした。ああ、自分で読んでも変な文章だねぇ。別に普段の暮らしの中で嫌なことがあるわけじゃないんだけど、というかむしろ、いいこともあったりしてるんだけど、それでもどうも春は好かんのですなあ。

 閑話休題

 あれは青島幸男氏が著した『わかっちゃいるけど ーシャボン玉の頃ー』て本の中に書いてあったと記憶するけど、クレージーキャッツの谷啓大人、春になって人々が浮かれてくるとなぜか気が沈んで、その度にクレージーを辞めると云い出す、というエピソードを読んだ時、自分は高校生だったけど、我が意を得たりというのか、大いなるシンパシーを感じて、以来、クレージーの中で誰が好きって谷啓大人が大好きになった。ま、そのエピソードを抜きにしても、あの屈折しまくった感じは放っておいてもファンになったと思うけどね。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。いつものようになんの推敲もしてませんので読み難くってどうもすみません。あ、あと去年末に発表した『グランドール城にて』の後編はくんくんな感じで作っています。来月の半ばには出せるようにやってますので、完成・発表の暁にはまたよろしくお願いしますね。






2019年3月22日金曜日

おセンチ野郎のお通りだ

 まあそりゃあ科学的にいえば偶然ということになるなんだろうが、やはり時代の変わり目というのはあると思う。そしてそれはまさにいまこの時なんだと思う。元号が変わりピエール瀧が逮捕され来年には東京でオリンピックが開催され横浜スタジアムは改修されて客席の数が増えイチローは引退した。
 繰り返すがこれらが同じようなタイミングで訪れたというのは単なる偶然が積み重なっただけで、そこに、時代の変わり目、なんてことを感じてしまうのは人間のセンチメンタルがそうさせるだけであって、本来そこには何の意味もない。でも、それでもやっぱりこれは時代の変わり目だと思ってしまうのであり、というか思いたい、と、いま私は思っている。だってイチローが引退したんだぜ。
 あのイチローだよ。イチローがプロ野球選手であることをやめちゃったんだぜ。これを時代の変わり目と思わずしてどうするんだよ。イチローが引退するのに、それを単なる一プロ野球選手がいなくなっただけだなんて思って恬然としているなんてできないじゃん。イチローだよ。イチローが辞めたんだよ。イチローがプロ野球の世界からいなくなっちゃったんだよ。もうイチローのプレーが観られないんだよ。イチローだよ。イチローが引退しちゃったんだよ。一つの時代が終わったんだよ。ただの出来事じゃねぇんだよ。イチローが引退しちゃったんだ。

 閑話休題

 プロ野球を真剣に観初めてかれこれもうじき四十年になるから、それなりに記憶に残る瞬間をたくさん記憶しているけれども、いまだにその瞬間を映像としてはっきり記憶している数少ない場面の一つにイチローの打撃練習がある。
 九八年の九月、東京ドームでのファイターズ対ブルーウェーブ戦。イチローが所属していたブルーウェーブはビジターチームだから、早く球場に入ればその打撃練習が観られる、そう思って開場早々にスタンドに着席した。すると果たせるかな、程なくイチローの打撃練習が始まった。
 初めは、稀代の安打製造機たる印象そのままに、フィールドの全方向に、測ったようなライナー性の打球を次々に放つ。さすがはイチローと感心しながら観ていたのだが、圧巻だったのはその後。
 練習の締めくくりという意味合いなのだろう、少しばかり力を入れたスイングをすると、打球はかあん、という乾いた打球音と共に、綺麗な放物線を描いてライトスタンドの一角に吸い込まれていく。それから立て続けに五、六球、全く同じスイングから全く同じ打球音が聞こえ、全く同じ放物線を描いてライトスタンドの全く同じ一角に打球が吸い込まれていく。
 観ていて恐ろしくなった。有り得ないはずの光景をいま目の当たりにしていると思った。いくらプロの頂点にある選手とはいえ、あんなに正確な打球を放てるものかと観ていて震えがきた。これは人間業ではないと思ってまじ怖かった。あの以前もあれ以後も数限りない選手の打撃練習を観たが、あれほど正確無比な打撃を観た記憶はない。
 イチローがメジャーに行って数年が経った頃のこと。何処かのインタビューで「だってバットの芯でボールの下半分を叩けば勝手に飛んでいくでしょう」と事も無げに答えていてまた怖くなった。人間ってどこまでの高みに到達できるんだ。みたいな根源的な疑問が浮かんできて怖くなった。

 閑話休題

 上に挙げたゲームを観に行こうと思った直接の動機は、当時まだ落合博満がファイターズに現役選手として所属していたから、それを観に行こうと思ったんだよな。まだ正式に発表されてはいなかったけれども、落合がそのシーズンを最後に辞めることはみんな解っていたから、スタンドからお別れを云うつもりで観に行った。矢尽き、刀折れた満身創痍の落合と、今を盛りのイチローを並べて見ながら、嘗て落合が座っていたプロ野球最高のバッター、その玉座に現在座っているイチロー、そのコントラストに得も云われぬ感慨を覚えたのを記憶している。あの時も時代が変わるってこういうことなんだろうな、と思ったものだったっけね。あれからもう二十一年、月並みだけど、早いな。すべては一瞬のことだ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。イチローがマリナーズに移籍して一年目に首位打者最多安打盗塁王新人王を取った時には大騒ぎになったものだけれど、正直なところ、なんだよお前らイチローがブルーウェーブにいた頃、最後の何年間かなんてほとんど騒いでなかったじゃんか、球場はいつもガラガラだったじゃないか、評価する言葉すら聞かれなかったじゃんか、当たり前みたいにしてただけじゃんか、と思って腹立たしさを覚えたものだったっけね。あと、パンチョ伊東がイチローがマリナーズに移籍した次の年に亡くなった時、ああパンチョ、イチローがメジャーで大活躍をしたのを最期に見られて良かったな、と思ったなあ。NHK-BSの開局とともにメジャー中継が始まるそれ以前、我々日本のファンはみんなパンチョを介してメジャーを知ったものだったからね。

2019年3月20日水曜日

陽の目を見るかもこの俺だって

 そういうわけでブログの体裁を借りた我がWeb日記をお引越ししたのだった。僕は実生活において引越しの体験が断然少ないのだが、そのぶんインターネット上での引き越しを複数回しているからまあ人並みに引き越しの経験はある方だと思う。なんてなことを仮初にも知り人に向かって言葉として真面目に発したとしたら、そりゃあ気狂と思われるのが関の山だということはモチのロンな感じでわかっている。だって僕は気狂じゃないから。
 現代のように、ネットとリアル社会が完全なる陸続きになり、ネットの動向が世の中を動かすのが当たり前となったとしても「いやあ、僕ちんはネットでサイトやブログを複数回にわたって引き越したことがあるから、実際の引き越しについても結構いけると思うんスよね。引き越しの使える知識を持ってると思うんスよね」なんて云っている輩がいたら、それは誰からも相手にされないだろうと思う。
 そらあその人の周囲にいる人々が大変に優しい人ばかりだったら、柔らかな微笑みを浮かべ(こういう時の笑いを”愛想笑い”というのだそうだ。なんという冷然とした言葉だろう!)仕舞いまで話を聞いてくれるだろうが、話し終わった当人が満足の体ですぃ、と、どこかへ消えていった瞬間から、聞いていた人々は互いの顔を見合わせつつ「やっぱりあの人は気狂ですね」なんて、優しい口調で陰口を云い合うに決まっている。それが人間というものだ。
 つまりはあれだ、経験というのはやはり実際に体験しなければなんにもならないということだ。実際にその場に身を投じ、額に汗して実地に体験をしなければダメだということだ。それは例えるならばあの頃、人の三倍もせんずりをかいていた二十歳且つ未だ童貞だった僕よりも、興味本位でたった一回セックスをしてしまった近所の中学一年生カップルの方が大人としての経験が上等、というのと同じことだ。思えばあの中一カップルもいまではもういいおっさんとおばはんになっているはずだ。元気にしているだろうか。ちゃんと胃カメラとか呑んでいるだろうか。
 そういうわけだから僕がいま持っている引き越しに関する経験はネット上のそれが大半を占めている。故に実際の引き越しに関しては大変に経験が少なく、云ってみればセカンド童貞みたようなものだ。いや、引き越しの業者さんを使った引き越ししかしたことがないという経験からすると引き越し素人童貞か。いったい何を云っているのだ私は。誰か止めてはくれまいか。

閑話休題

 このWeb日記の本体たる『ザ・ガーベージ・コレクション』も、初めは、えーと、あそこなんつったかな、もう名前は忘れてしまった(なにせ十六年も前の話だからねぇ)が、とある有料レンタルサーバを借りて2003年4月29日に公開した。同じ年の6月になったら『相田みつおの世界』てコンテンツが急に評判になって、借りていたとあるレンタルサーバに設定されていたダウンロード容量の制限を超えてしまい、運営会社から「この状況が続くのであればもっと上級なサーヴィスを契約しなさい」的な警告を受けた。周章てて、当時ホームページスペースのレンタルサーヴィスとしてぶいぶい云わせていたinfoseek webのそれを借りたのだった。たしか無料だった。本体サイトの方で「classics」のメニューにあるコンテンツはほぼこの時代に作ったもの。
 それから色々と結構なことがあって作品づくりを一旦休んでいるうちに時代がどんどん変わって行き、個人ホームページはすっかり世の中的に下火、その頃すでに楽天に買収されていたinfoseek webもそのサーヴィスをやめると云い出したものだから、その少し前から作品づくりを再開していた僕は周章狼狽しつつ「ホームページスペース レンタル 無料」でググったら上の方に出てきたFC2のそれを借りてサイトを引き越した。2011年春のことだ。
 世間知らずとは恐ろしいもので、当時僕はこのFC2がアダルト方面でぶいぶい云わせているところだとは露知らなかった。うーん、アダルトを差別するわけではないけれども、アダルティな要素が全くない僕のホームページがそこにあるのは、僕のホームページに僕が込めるものとは違う色がついてしまうやもしれんなあ。加えて無料だけに意図しない広告が入るし。と思ったから、こんだ”無料”のところを”有料”に変えてググったら割と上の方に出てきた、現在使っているさくらインターネットのサーバに引き越したのだった。あれからもうじき丸八年ですか。

 閑話休題

 あれっ。こうしてネット上での引き越し回数をカウントしてみたら三回しかしてないや。ここまでの話が根底からひっくり返っちゃったよ。まあいいか。まあいいやな。せっかく綴ったこの文章だからこのままアップしちゃおう。廃品利用だ。俺はそういうエコなお哥ィさんだ。

 閑話休題

 ああ、いま、作業BGMとして再生させていたグーグルプレイミュージックが野口五郎の名曲『私鉄沿線』を再生したのだけれど、この曲の二番の歌詞に「僕の部屋を訪ねてきては いつも掃除をしていた君よ 僕もわかりません 君はどうしているのでしょう」という箇所があるのだけれど、うーん、これ、現代だったら、いつも部屋の掃除をしてくれていた君の現在も、facebookとかで割と平気に見つかっちゃったりするんだろうねぇ。
 とすると、これからの失恋ソングは、別れた相手がSNS上でで新しい恋人と楽しそうに振舞っているのを複雑な気分で眺めるわたし、みたいな内容になっていくのかなあと思う。ああ、でもそれだとダ・カーポの『結婚するって本当ですか』とかシュガーの『ウェディング・ベル』と同じか。いや、でもその所在を探そうとして探し出せる現代のSNSの方が業が深い印象になるね。

 閑話休題

 うーん、でもあの人の現在は見つけられないんだよなあ。どこでどうしているんだろうなあ。もいっぺんだけでいいから会いたいなあ。

 閑話休題

 facebookの恐ろしいところは実名が基本だというところで、なぜなら私のまこと本名は、おそらく同姓同名がいないだろうと思われるようなものなのであって、だから、実名を出したが最後、すぐに特定されちゃうから、実名主義はいやんばかーんうふふんそこはおめめなのははん、なのでありんす。だっていくらネット上とはいえセカンド童貞とか喜んで活字で書いてたら結構やばい奴じゃん。恥ずかしい奴じゃん。親が見たら泣くよ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。リダイレクトとかよくわかりませんから前のブログには設定しておりませんです。お手数ですが、向後はこちらにアクセスしていただきたく存じます。今後ともよろしくお願いいたします。

 本体サイトも重ねてよろしく。『ザ・ガーベージ・コレクション








2019年3月18日月曜日

その時、歴史が動いたのかもしれない。

 やはりそれは世の中を相手に広く活躍をしていたわけで、そういう人が法を犯したのだから相応の社会的制裁を受くるべきと思う。しかしながら、だからと云ってピエール瀧氏がこれまでその制作にたずさわった音楽、映像、その他あらゆる作品が即座に封印され、市場/史上において未来永劫なかったことになってしまう、というのはやはりどうも行き過ぎのような気がしてならん。
 そうしてまた、これが行き過ぎだと感じる一つの原因として、氏の作品の提供元が、氏が逮捕された途端、それら作品を一目散に、それこそヒステリックと映るほどの周章てぶりで、光速に作品を引き上げてしまうことにもあるように思う。
 そこからは、法を犯したものとの関係を即座に絶ちたいという意識しか感じられず、そこに犯罪とは何か、芸能とは何か、文化とは何かといった本質的な問いが全くないのもよろしくないと思う。ただただ硬直した発想で作品を一目散に引き上げてしまうのがよろしくないと思う。
 ピエール瀧氏という大物が挙がった機会だから、これを好機と捉えて芸能・文化の本質を見据えた議論が必要と思う。

 閑話休題

 しかしあれですかね、こうした我が朝の対応が海の向こうで適用になった場合、名うてのヤク中だったキャリー・フィッシャーを擁する『スター・ウォーズ』シリーズもあかんようになるんスかね。

 閑話休題

 ニュージーランドの事件を見ていて感ずるのは、うーん、こんなにまで承認欲求という奴をこじらせた連中が、それこそ洋の東西を問わずにいるということで、うーん、いや、承認欲求とは違うのか。でも、動画で世界中に自分の思想信条を発信できるという事実に酔っている部分は否定できないと思うんだがなあ。まあ、我が国で育ち海外に渡ったことのない僕などからすると、これに宗教が絡んでくるともう理解の範疇を超えてしまうのだけれど、ただ、この十年の間にわが国においても爆発的に増えた移民の皆さんの存在を思うにつけ、あと二十年もしたら我が国でも同様のことが……という考えがふと浮かんできてならんね。その時は逆に我が同胞がやられているような気もするけど。

 閑話休題

 人間動物園。

 閑話休題

 やっばりあれですかねぇ、同じ警察に就職をした人たちでも、マトリの第一線で活躍し、ピエール瀧氏のような大物を挙げるような警察の人と、小学生の上履きを何足も盗んだ名も無き犯人を逮捕、その押収した上履きを、報道の人に見せるために警察の道場に並べる仕事をなさっている警察の人とでは、やっぱり随分と差があるのかしらねぇ。警察内で差別されたりするのかしらねぇ。

 閑話休題

 人なんて放っておけばすぐに人を差別するものだし、またそれがSNSの時代になって著しく顕在化したよね。自分の了見の範疇にないことをやっている人を見ると、とにかく批判的に、悪し様に云う人ってたーくさんいるものね。SNS以前には、そういう類の人がこーんなにいるとは思いもよらなんだよ。

 閑話休題

 次の元号はまた昭和でいいんじゃないかしらん。いかにも過去に生きている国みたいでいいじゃん。あるいは「又昭和」にするとかね。

 閑話休題

 ああ、獣神サンダー・ライガーもとうとう引退するんだなあ。そらそうだよなあ。ライガーって全身タイツで見た目ソフビ人形みたいだから年齢が消えちゃうけど、闘魂三銃士より先輩なんだよなあ。いま、四度目の年男を生きている僕ちゃんが小学六年生の時には山田恵一としてもう新日本プロレスに居たんだもんなあ。でもいろんな試合を見たなあ。まだ素顔だったのはもちろん、一介の若手だった頃、一回目のヤングライオン杯の優勝戦、両国で小杉に負けた試合を観たなあ。まだ獣神ライガーだった頃、やはり両国で佐野直喜と闘ったダブルノックアウトの試合も観たなあ。ペガサス・キッドとのタイトルマッチも観たなあ。あの頃、ライガー、佐野、野上、ペガサス・キッドなんかが、当時の常識を超えた激しい試合をやり始めたんだよな。あの頃のジュニアの試合がいまの新日の原点という気がするね。その後もたくさん観た。青柳政司との喧嘩みたいな異種格闘技戦は興奮したっけなあ。スーパーJカップは本当に面白かったよなあ。他の団体を巻き込んでジュニア王座8冠統一の実現もしたし。橋本との階級を超えたシングルマッチもあったなあ、対ヘビー級用のコスチュームで登場してなあ。Uインターとの対抗戦で佐野と再び相まみえた試合では、当時Uスタイルだった佐野にトペを飛ばせたんだ。ムタとの異次元対決ではマスクを破られたんだけど、その下に恐ろしいペイントをしてたんだよなな。パンクラスに上がって鈴木みのると闘って、既にプロレスの範疇には居なかったパンクラスに議論を巻き起こしたんだ。いや、ほんと、思い出は尽きないねぇ。
 いつもここで書いていることだけど、ファンっていうのは、観ることと忘れずにいることしかできないんだよなあ。だから一所懸命に観なくちゃいけないんだ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。我がベイスターズのドラ1ルーキー、上茶谷の投球フォームってなんとなく盛田幸妃のフォームに似てるなあ。いずれにしても上茶谷はいいピッチャーになりそうだ。そのマウンド捌きからはバッターと対決するんだという意識が芬芬と漂ってくるしね。バットをへし折るのに快感を感じてそうな投手。伝統的に大人しい我がチームの投手にあって異彩を放つかもしれん。


2019年3月13日水曜日

魔が差すこともあるよ

 ラジオはいろんなマスメディアの中ではかなりリスナー、受け手との距離が近いものだと思う。特にAMラジオの平日昼のワイド番組となると、それをいつも聴いている人にとってはすっかり生活習慣の一つとなってしまう。だから、そういう暮らし向きをしている僕にとって、TBSラジオ『たまむすび』を聴くのは生活習慣の一つ。メイン・パーソナリティの赤江珠緒女史の、テレビ出演時にはけして見られぬ桁違いのポンコツぶりに笑い、そうして女史が繰り出すエッジの効きすぎたポンコツに対して、暖かくも鋭く突っ込み、その笑いを倍加させる各曜日毎のパートナーの見事を、まったく以って日常の風景として、気楽な感じで、自分もそこに加わり至極楽しい雑談をしているようなつもりで楽しんでいた。それだけに、ピエール瀧氏の逮捕はまことに残念で、送り手と受け手の距離が近いラジオの人だと認識しているからこそ、テレビその他で報道されるニュースソースとしての取り扱い以上の衝撃を受けている。今日放送の『たまむすび』で、水曜パートナーの博多大吉師が発した「たまむすびはこのメンバーで永久に続くものだと思っていた」という発言と同じようなことをリスナーとしても思っていたわけで、そういう、当たり前にあるものだと思っていた、日常を構成する一片が突然なくなってしまったことに落胆、というか困っている。この事実に対してどう反応していいのかわからずに心が困っている。

 閑話休題

 歴史的に見てもこれだけ薬物の使用による逮捕者が出ているのに、未だ、芸能界から薬物の使用が消えないというのは、やはり、相当に根強いネットワークというのか、それを供給する巧妙な手段があるのだろうと想像できるのだがどうなんだろうか。でもピエール瀧氏ならば、そういう悪い波を器用に躱して行ける人だと思っていた。もちろん、メディア上で見た印象だけだから、本質的な、生活者としての素性の面まではわからないのだけれど。それでも、本業の電気グルーヴを始めとするアーティスト/演技/タレント活躍からも、また、主にラジオで表現される生活者としての姿からも、我々一般市民が理想とする仕事ぶり、暮らし向きを軽々と、易々と、サンダル履きの感じで実践している印象を受けていた。そこから、薬物との繋がりを想起させる悪辣な要素は一切見受けられず、故に報道を見るにつけ、またこれまでの活躍を思い出すにつけ、何故、と不思議に思うばかり。やはり、魔が差した、ということなんだろう。

 閑話休題

 ではそんなことでまた。珠ちゃんも、広瀬麻知子アナウンサーも辛かろうになあ……明るくって笑ってばっかりの人が悲しんで泣いている姿は、普段が楽しいぶんだけ余計に辛くなる。

2019年3月11日月曜日

若いという字は苦しい字に似てるわー

 本当に毎日毎日嫌なことばかりで嫌になってしまいます。ウディ・アレンの映画を観ていると、特に氏が若い頃に作った映画に出てくる主人公(そのほとんどは氏自身が演じている)は、押し並べて「人生は辛いことばかりだ」と云っていて、それを観ていた若い頃の私は「そうかなあ。結構楽しいこともあるような気がするけどなあ」と思っていたものだけれども、成る程、それなりに齢を重ねてみると、平均して辛いことの方が多いような気がする。
 なんというか、物事の裏面みたいなこと、人間の裏面みたいなことといった、若い頃には絶対に見えていなかった部分が見えてくるようになると、うーん、成る程ウディ・アレンの云う通り、辛いことの方が多いな。という気になる。
 そういえば音楽家の細野晴臣氏が還暦を迎えた頃、どこかに掲載されたそのインタビュー記事に「歳をとって老眼になると、余計なものを見なくて済むようになる。耳が弱くなると余計なことを聞かなくて済むようになる。集中力がなくなってくると、細かいことにこだわらなくなってくる。これはいいな、と思った」というようなことを述べておられたと記憶するけど、できたら自分も早くその域に達したいものだと思う今日この頃のラッコの毛。
 そこそこものが見えてきたのにまだ感受性はそこそこ生きているから畢竟いろんなことが辛くなって仕方がない。おまけに立ち直る力は若い頃と比べて精神・肉体両面共にぐんと落ちているからなおのこと辛い。やーねぇ。

 閑話休題

 でもウディ・アレン映画の名作の一つ『ハンナとその姉妹』のラストでは、ウディ・アレン演ずるキャラクターに「ハートって弾力性のある筋肉だね」てな台詞を云わせることで、心は意外と持ち直す、ってことも云ってるから、まあ、色々大変だけど頑張ろうやお互いに。

 閑話休題

 あれはやっぱり透析患者の方は医師に誘導されて殺されたんだよなあ。透析は開始されるまで通常、自覚症状がない状態で悪化してゆくというから、してみると、基本的に体が平気な状態であるにも関わらず、辛いとされる透析を開始するわけで、となると、なぜ透析をする必要があるのか理解できない患者さんがいても不思議じゃないんだろう。そうした類の患者さんの考えとしたら、苦痛なしでここまで来たのに、透析をすることでこんなにも辛い思いをするんなら、いっそやめちゃった方がいいかも、みたいな気持ちになるのかもしれない。そこを医師から言葉巧みに誘導されたら、透析の中止を選んじゃう人が出てきてもおかしくないだろうと思う。でも、ほとんどの透析患者の皆さんは、透析をしていれば普通に近い形で生活ができているように見えるけど。

 閑話休題

 こういう問題が起こると、決まって長谷川豊のように「自堕落な患者は殺せ」といった、想像力の完全に欠落したことを胸ェ張って云い募るバカがたくさん現れるからほんと嫌。昔はこういう話は井戸端会議でしか聞かれなかったからまだ良かったけど、いまはネットという天下の往来でもって平気で云って退ける真のバカが現れて、こっちの目に飛び込んでくるからほんと嫌。馬鹿は隣の火事より怖い。

 閑話休題

 話は変わるが、そんなに詳しく見たわけじゃないけど、あの東京新聞の記者さんって、いつも官房長官に質問をする際に、一人で時間を長く取って、自分の納得する答えが出るまでしつこくしつこく同じ話を繰り返す、ような印象を受けてたんだけど違うのかな。あんまり記者が自分の信条に凝り固まるのはどうなのかなあ、って、あの記者さんの姿勢にそこはかとない疑問を感じてるんだけど。

 閑話休題

 十四歳の女の子がSNSで東京新聞の記者さんを応援する、みたいな話題があったけれども、やっぱりあれかねぇ、みんなジャンヌ・ダルクを欲してるのかねぇ。

 閑話休題

 ジャンヌ・ダルクと八百屋お七を比べると、同じ火あぶりでも西洋と日本との違いがわかるような気がするン。っていま思いついて適当に云っただけだから本当にそうかどうかはわかりまちぇーん。

 閑話休題

 相変わらず『いだてん』が好きなので、グーグルストアで販売されていたテーマ曲をダウンロード購入、そうして繰り返し聴いているために、いまや、それを聴いていないときでも頭の中でテーマ曲が再生されるようになってしまっている。あの曲は本当にいいよなあ。陽気な感じで元気が出て前向きな気分になるのに加えて、志ん生の滑稽話のような軽妙さが同居しているから聴いてて飽きがこない。

 閑話休題

 しかしもういちいち「ダウンロード購入」とか断りをいれなくてもいいよね。ダウンロードで購入しない方がイレギュラーな状況になっちゃってるんだから。いまンなって考えると、シングルCDなんか二曲しか入ってないのに税別八百円とかしてたんだよなあ。

 閑話休題

 週刊プロレスが通巻二千号を達成したというから久しぶりに週プロを買った。キンドル版だけど。巻頭インタビューにあったターザン山本の言葉「昔のプロレスは”俺のプロレス”だった。いまは”みんなのプロレス”になった」とあって、流石は腐ってもターザン、と思って唸った。そうなんだよな、当節のプロスポーツを含めたエンターテインメントは基本的に”みんなのもの”なんだよな。シェアするのが当たり前なんだよな。一対一で対象と向き合って観戦する、なんて時代遅れもいいところ。それを未だにやっているおいら、シェアなんて糞食らえ、とか思っているおいらはもう随分と時代に取り残されているんだ。

 閑話休題

 週プロを初めて買ったのは通巻二十四号で、それから千三百号ぐらいまで毎週買ってたんじゃないかな。中学一年生が三十半ばのおっさんになってたよ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ああ。石田が左肘の張りで開幕絶望とな。ほんとになにやってんだ我がベイスターズの有望先発投手たちは。去年は今永濱口が揃って開幕に間に合わず、今年は東と石田が揃って開幕に間に合わずって、なにやってんだ本当に。もうすぐ筒香いなくなっちゃうんだぞ。いい加減にしろよまじで。




2019年3月10日日曜日

忘れていた物語(実験2)

 昔々あるところに、一堂のお寺がありました。

 そのお寺には、厳しくも優しい和尚さんと、その元で修行をする三人の小僧さんたちがおりました。
 それはどこにでもある、ありふれたお寺の風景でした。

 ただ一つだけ、大きく違っていたのは、小僧さんのうちの一人が、のっぺら坊主だったことです。
 目も鼻も口も耳もなんにもありません。首の上に、ただただ顔のようなものが載っているばかりでした。

 その小僧さんがいつからそのお寺にいるのか、どうしてそこにいるのか、誰もわかりませんでした。
 それでも、他の小僧さんと同じように、毎日修行に励んでいました。

 和尚さんはもちろん、他の小僧さんたちも、このお寺にのっぺら小僧がいることを、当たり前のことと思っていました。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 ある日のことです。和尚さんが一昼夜、お寺を留守にすることになりました。

 「わしがいなくとも、普段と同じように生活をするのだぞ。努努、羽目を外すようなことがあってはならんぞ」

 そう云って和尚さんは山を降りて行きました。

 その日、小僧さんたちは和尚さんの云い付けをよく守り、普段通りに修行をしました。

 でもそこは遊びたい盛りの小僧さんたちです。すべて云い付け通りに過ごすはずはありません。
 一日の修行が終わり、本当ならば、床に就いていなければならない刻限を迎えました。
 けれども、うるさい和尚さんがいないのですから、素直に寝られるはずがありません。
 小僧さんたちは、本堂に敷いたせんべい布団の上で車座になって、いつ果てるともしれないおしゃべりに興じていました。

 そんな中、三人の中でいちばん年嵩の小僧さんが、こんなことを云い出しました。

 「のっぺらちゃんの顔に、顔の絵を描いてみよう」

 のっぺら小僧はなんにも云いません。でも、彼が嫌がっていないことは、他の二人によく伝わっていました。

 年嵩の小僧さんにそう云われて、年若の小僧さんが筆と墨汁を用意してきました。

 年嵩の小僧さんは、筆を取り上げると、その筆先にたっぷりと墨汁を染み込ませ、大きく「へのへのもへじ」を書き入れました。

 のっぺら小僧の顔に大きく書き入れられた「へのへのもへじ」。それを見て、二人の小僧さんは大笑いをしました。
 のっぺら小僧も、笑いこそしませんでしたが、一緒になって楽しんでいることは、他の二人によく伝わってきます。

 「今度は僕の番」そう云って、年若の小僧さんがおぼつかない手つきで、顔のようなものを書き入れました。まだ幼いとその小僧さんは満足な顔を書くことができません。出来上がった顔は、まるで失敗した福笑いのようになってしまいました。
 それを見て、また二人の小僧さんは大笑いをし、のっぺら小僧も一緒になって楽しんでいました。
 それからしばらく二人の小僧さんは、のっぺら小僧の顔にいろんなものを書き入れては、大笑いをしていました。

 どのくらいの時間が経った頃でしょうか。どれほどたくさんの顔をのっぺら小僧に書き込んだ頃でしょうか。年嵩の小僧さんが、ふと、まじめな顔つきになって、のっぺら小僧の顔に筆を走らせました。

 そこには、険しい顔をした大人の男の人の顔が書かれていました。

 「これは誰なの」年若の小僧さんが尋ねます。
 「俺のおとうだ。俺が小さい頃に死んでしまったのさ」年嵩の小僧さんは、少し悲しそうな、それでいて少し嬉しいような顔をしながら、そう答えました。

 三人の小僧さんたちの間に、さっきまでの楽しい雰囲気と打って変わった、神妙な空気が流れました。

 その時でした。

 小僧さんたちの周りを、まばゆいばかりの光が包み込んだのです。

 「うわあ」
 「なにこれ」

 光はどんどんと強くなり、小僧さんたちはもう目を開けていることすらできません。どこからか、きぃん、という、金物をこすり合わせるような音も聞こえてきました。

 やがて、金物をこすり合わせるような音が聞こえなくなり、小僧さんたちは恐る恐る目を開けました。

 「うわっ」
 「誰ですか」

 それまで、のっぺら小僧が座っていたところに、厳しい顔つきをした大人の男の人が座っていました。

 男の人は、しばらく押し黙ったまま年嵩の小僧さんの目を見つめていました。それからふっと小さく笑い、こう云いました。

 「久しぶりだな、坊」

 年嵩の小僧さんは、もう目に涙をいっぱい溜めていました。「おとう! おとう! おとう!」

 年嵩の小僧さんは、おとう、おとう、と繰り返しながら、男の人に、むしゃぶりつくようにして抱きつきました。そうして、その胸で、わあわあと泣きました。

 「おとう。会いたかったよ」
 「大きくなったな、坊よ」
 「もう、どこへも行ってくれるな」
 「坊よ、これからも強く生きるんだぞ。おとうはいつでもお前のそばにいるのだからな」
 「おとう! おとう! おとう……」

 また、小僧さんたちの耳に、きぃん、という音が聞こえてきました。その音が大きくなるにつれて、また、まばゆい光が当たりを包み込みます。小僧さんたちは、また目を開けていられなくなりました。

 音と光がおさまりました。小僧さんたちが目を開けると、もう、大人の男の人はいなくなり、そこにはのっぺら小僧がいるばかりでした。

 「こらっ! あれほど普段通りにせよと云っておいたのに!」

 予定を早く終えた和尚さんが帰ってきました。和尚さんは、小僧さんたちが、こんな夜更けまで起きていたことに、とても怒っていました。

 「違うのです。いま、この子のおとうがやってきたのです。それで、泣いて喜んでいたのです」
 「ばかを云うな。のっぺら小僧に抱きついて泣いているばかりではないか」

 和尚さんにそう云われて、年嵩の小僧さんはようやく、自分がのっぺら小僧に抱きついて泣いていることに気づきました。「あれ? おとう?」

 和尚さんは、なにを寝ぼけているのだ、と呆れ顔です。
 
 それでも年嵩と年若、二人の小僧さんは一所懸命に和尚さんに説明をします。

 「本当なのです。のっぺらちゃんの顔に、おとうの顔を描いたら、おとうが現れたのです」
 「なにを寝ぼけたことを云っておるのだ。嘘をついてはいかんと常日頃から云っておるだろうに」

 和尚さんはまるで取り合ってくれません。

 その時でした。のっぺら小僧が、和尚さんに向かって、そっと、筆を差し出しました。他の二人の小僧さんも真剣な顔つきで和尚さんを見つめています。

 「そこまで云うのなら……相わかった」和尚さんは、さらさらさらと、見事な筆さばきで、のっぺら小僧の顔に絵を書き入れました。「どうだ」

 「和尚さま、それはずるいです」
 「それは人の顔ではありません」

 小僧さんたちは口々に不満を云いました。のっぺら小僧の顔には、かわいらしい猫の顔が描かれていました。

 「お主らの云うことが本当ならば、これも現れるはずだ」

 和尚さんがそう云い終わったときです。また、きぃん、という音が聞こえてきて、辺りを、まばゆい光が包み込みました。

 「……みぃ子ちゃん。ごめんね。あのとき、助けてあげられなくてごめんね」

 和尚さんは、そこに現れた一匹の子猫を抱き上げると、頬ずりをして涙を流しました。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 どこで聞き及んだのか、のっぺら小僧の不思議な力は、いつしか多くの人の知るところとなりました。

 朝日が昇る頃には、山門の前には黒山の人だかりができるほどでした。
 小僧さんたちが、山門を開けると、待ちかねていた人々の波が、我れ先にとのっぺら小僧の元へ向かいます。
 
 お寺は、すっかりと、目の回るような忙しさになっていました。

 数え切れないほど多くの人々が、のっぺら小僧の不思議な力を借りて、いまはもう逢えなくなった誰かに再び逢い、いまはもう手にすることができなくなった何かを手にしました。

 どの人々も、逢えないと思っていた人や物との再会を大変に喜び、大いに懐かしみ、涙を流して喜びました。そうしてその時間が終わると、こんどはそれらと別れ難いと云って涙を流しました。

 そんな日々が、いつ終わるともしれず、続きました。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 ある春の日のことです。

 朝はまだ早く、山門を開けて人々を招き入れる前のこと。小僧さんたちは、いつもそうしているように、境内の掃除をしていました。

 のっぺら小僧も、他の二人と同じように境内を掃除しています。その傍らには桜の樹があり、頭の上には、満開の桜の花が咲き誇っていました。

 境内を、さっ、と爽やかな春の風が吹き抜けます。

 その風に誘われて、のっぺら小僧は掃除の手を止めて、ふと、顔を上げ、桜の花をじっと見つめました。
 春の風に吹かれた桜の樹が、はらはらと、その花を散らせます。その様を、のっぺら小僧は、じっと、まるで時が止まったかのように眺めていました。

 その時です。

 境内の陰から、一人の男が、のっぺら小僧の前に飛び出してきました。

 男は、一目で浪人ものとわかるあやしい風体をしていました。着物は薄汚れ、髪の毛はざんばらにみだれ、いやな匂いが漂っています。それはまるで、生きながらにして死んでいる人のようでした。

 男は、のっぺら小僧の前に立ち、その顔を正面から見据えました。

 男は、腰に差した刀の柄に手をかけてから、低く、くぐもった声で云いました。

 「なぜ、思い出させるのだ……なぜ、ふたたび別れの悲しみを与えるのだ……」

 のっぺら小僧は、男の方に顔を向け、小首をかしげました。

 その刹那、男の刀が一閃し、のっぺら小僧を袈裟斬りにしました。

 どう、と倒れ込んだのっぺら小僧を、男は憐れむような目で見つめていました。やがて、男は、我に返ったようにはっとなり、どこやらへ駆け出し、その姿を消しました。

 あっけにとられてこの光景を見ていた小僧さんたちが、のっぺら小僧の元に駆けよります。

 でも、その時にはもう、のっぺら小僧は息絶えていました。

 本堂からその様子を見ていた和尚さんはなにも云わず、天を見上げました。


 その時、境内に、またもやさっと、春の風が吹き抜けました。

 その風に誘われるように、桜の花びらが、のっぺら小僧のなきがらと、その傍らでひざまずいて泣いている小僧さんたちの上に一輪、また一輪と降りそそぎました。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 小僧さんたちは、桜の樹の下に、のっぺら小僧のなきがらを埋め、小さなお墓を建ててあげました。

 やがて、お墓の脇から小さな樹が生えて、見たこともない綺麗な花を咲かせました。



 『のっぺら小僧譚』 おわり




 

2019年3月6日水曜日

おもしろうてやがてかなしき浮世かな

 うすら花粉症なのでいま頭がぼうとしている。この時期に決まって思うのは、戦後すぐに杉の植林を進めたお役人の連中の責任のことで、できればそいつらを見つけ出して一発殴ってやりたいと思うのだが、戦後すぐにお役人だった人がいま健在だとしたらもうその人はかなりの老人になっているわけで、そんな人をうっかりぶん殴ってしまったら、たといこちらに完全に理があったとしても、傍目にはこちらの方が悪者と映るのであって、それが見つかれば、どうかすれば逮捕・投獄ということになりかねない。逮捕・投獄されないまでも、その辺の人にスマホで動画を撮影されてツイッターとかインスタのストーリーとかにアップされて世間から魴鮄たる批判を浴びるのは必定。そういうわけだから僕は嚔を連発し洟を垂らし目をゴシゴシこすりながら殴らずに我慢している。
 しかし考えてみればもはや廿一世紀も廿年に垂んとしているこの節にあって、いまだにたかだか花粉症ひとつ満足に解決できないのだから、いくら人間が万物の霊長である、などとそっくり返ってみたところで、所詮はこんなものだ。ふん。なんだよ。こんなもんじゃねぇか人間なんて。てな心持ちになる。人間なんてららーらーららららーらー。

 閑話休題

 しかしあれなのかなあ、大戸屋の厨房でプリンを吐き出してるような若者って、世の中でバイトテロなるものが話題となっていることを知らないのかしらん。面白半分にアップした反社会的行為の動画が誰かに見つかり拡散・炎上、それがためにバイトをクビになり、どころかバイト先の本社から賠償請求がなされたりしていることを知らないのかしらん。しらないんだろうなあ。そういう程度のばか者だから、あんな動画を平気でアップするんだろうし、だとしたら、そういうばか者たちは基本、バイトテロが問題になり賠償請求されるまでのことになっているということを知らないわけで、そうなると、知らないからまた面白半分にバイトテロを平気でやる、その動画を見た他のばか者が、バイトテロの行く末を知らないからまた面白半分にバイトテロをやり、その動画を見たばか者がまた……という負のスパイラルに陥るような気がして、うーん、まあもうどうにもなりませんやね。
 まあいずれ、ホリエモン氏がいうように、安い店の給仕や支度はみんなロボットがやるようにやるようになるんであって、そうなればいずれバイトテロもなくなるだろうけどね。
 ああ、でも『ブレードランナー』的なヒューマノイドが跋扈するようになったら、そいつらがまたやるようになるのかな。世にばか者の種は尽きまじ。

 閑話休題

 しかしあのバイトテロの動画を見るたびに、可哀想だなあこの子たちは。これが面白いと思うような感性に育っちゃってまじ可哀想。と思うんであります。

 閑話休題

 そういや女子ハンドボール世界大会の宣伝惹句が「エロを想像させてけしからん」なんて問題視されて宣伝そのものが取り下げられていたけど、なんてのかなあ、SNSが流行る前からこういう動きをしたがる人っていたよなあ。掲示板だとかそういうところでやたら文句をつけて、企業なりなんなりの、本来であれば個人では太刀打ちができるはずのない相手を、意のままに動かそうとする輩っていうのがいたよなあ。こないだのLoftの広告もそうだったしなあ。企業なり団体もあんまり相手にしないほうがいいのにな。まあそのうちに、その手の批判に簡単に屈するほうが企業・団体としてはダメ、っていう風潮になってくるとは思うけど。

 閑話休題

 ツイッターなんかで芸能人にやたらと批判的なリプライを飛ばすような人も同じことなんだろうな。本来であれば相手にされるはずのない相手から何某かの反応が来るんだから、そらあ面白いんだろうと思うよ。まあ、そんなことをするのは人間として下の下の下だとは思うがね。

 閑話休題

 しかしあれだ、ZOZOTOWNの人やPayPayがやった現金ばら撒き作戦とその成果を見るにつけ、もう真摯に、頭を使って宣伝やピーアールをすることなんて無駄な時代になっちゃったのかもしれないなあ、という気になる。所詮、金ぇばら撒いたほうが勝ち。みたいなになっちゃった気がするね。嫌な時代だよぅ。

 閑話休題

 昨秋から半年の間に渡って楽しんで観てきた『まんぷく』も愈々カップヌードルの開発段階にまできてしまって、ああ、本当にもう直ぐ終わるんだなあ、という気がしておるわけですが、振り返ってみると、ドラマ全体を通して至極話がわかりやすかった分、グンと突き抜けるような瞬間はなかったなあ、ということを思いますです。しかしそれは取りも直さず、朝ドラらしい、毎日同じ歩幅で進んでいくドラマ進行、それがもたらす安定感にも繋がっているわけで、一概に悪いわけではないのですが、うーん、出来たらその朝ドラ感をぶち破るような感じがどこかにあったら、なお良かったかなあ、という気がしているのも事実。

 閑話休題

 そう考えると私めがドラマ史上に残る傑作と思う『カーネーション』なんかは完全に朝ドラの感じではなかった。前向きではあったけど明るいだけの話ではないし、人間の醜い部分もたくさん描いていた。説明的でもないし事実セリフも少ない。でもその朝ドラらしさの不足が、却ってグンと突き抜ける感じに繋がったんだろうと思う。しかしながらそういうのはきっと狙っては出来ないんだろう。ほんと「面白い」ってなんなんだろうなあ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。『いだてん』でもそうだけど、クドカン氏の脚本って”握手”と”拍手”がよく出てくるよね。


2019年3月1日金曜日

東風吹かば匂いおこせよ梅の花

 ついこないだ年が明けたと思ったらあっという間に弥生三月。とはいえまあ別に本当に「あっ」と云っていた訳ではないから、実際には正月が明けてから風邪をひいたり治ったり色々あった訳ですが、そうはいっても暦が弥生三月ともなってくると、うはあ。どうしよう年が明けてからの二ヶ月間、自分は何も為さなかった。なんらの成長も果たさなかった。ただただ日々を無為に過ごしてしまった。と、ちょっと焦りが出てくるのだがそれは誤謬、だって僕ときたら年が明けてからの二ヶ月間だけではなく、生まれて此の方、日々を有意義に過ごしたことなどなかったのであり、そう考えると、別にたかが二ヶ月を無駄にしたからと云って恐るに足らずといった気分になってきて、俄然、焦りも薄れて大丈夫な感じになってくる。しかしこれも誤謬。こうして呑気に、のんべんだらりと日々を暮らしている間に、僕と同年輩の連中などはどんどんと出世を果たし、大きな商談を成立させて巨額の資金を動かしたり、女房子を持ち共に素敵な家庭を築いたり、不倫の泥沼にはまって苦しんだりと、何れ劣らぬ立派な生活者として君臨しているのであり、そう考えるとやはり何も為さぬままにここまできた自分に対する焦りはぐんぐんに出てくるのだが、まあ、焦ったところですでに大幅に手遅れなので焦るだけ無駄、ということに思考は落ち着き、今日も明日も明後日も明々後日も弥明後日も、ずっと呑気に、のんべんだらりと過ごしていこうと心を決めるのが大抵弥生三月に入った今頃。

 閑話休題

 しかしなんつーか、トランプと金正恩の首脳会談の図を見ていると、なんつーか、この世の終わりってこういうことなんじゃないかなあ。という気になってくるね。ものの解らない者同士が何も解らないままに話を決裂に導いている感じがして。まあ、絵柄としては面白いけどね。

 閑話休題

 たといばSNSを閲していると、全く知らない人が結婚の報告をしている投稿を目にすることがあるのだけれど、その度に僕は心の中で「別れればいいのに」と思います。投稿をしたお二人がキラキラしていればしているほどそんな気分になります。結婚した投稿をするお二人ですから、きっと別れた時も投稿をするでしょうから、その落差を想像して楽しくなったりしています。だって所詮は知らない人のことだもの。

 閑話休題

 たといば横浜スタジアムでプロ野球を観ていて、僕の応援するベイスターズが九回の表を終わってリード、球場はクローザー山崎康晃の登場を迎える”ヤスアキジャンプ”で大盛り上がりをしている……そんな中に身を置いている時でも不図、ヤスアキ打たれていまはしゃいでいる観客の連中が落胆すれば面白いのに。と思ってしまう僕はちょっと精神がどうかしているんでしょうね。ま、実際に打たれちゃうとやっぱり嫌なんですけどね。

 閑話休題

 つまるところ僕は、あれだけ嬉しがっていた人たちが一斉にシュンとなったその落差、こういう状況、光景がとっても好きなんでしょうな。そういう意味ではバブル期にぶいぶい云わせて万札振り回してタクシー止めてたような人が、いまやコンビニで百円のおにぎりを買うのも考えている、みたいな状況もちょっと面白く感じる。ま、考えてみりゃあ我が国自体がそんな感じですぁね。アメリカとの戦争が終わってからしばらくの間は随分とぶいぶい云わせていたのに、バブルが弾けてからずっとシュンとしちゃってる感じで。

 閑話休題

 なんつーかあれですよ、ダウンロード違法化の議論などを見ていると、インターネットはとにかく悪。インターネットを世の中から無くしたい。と思ってる人たちがまだまだたくさんいるってことがよくわかるねぇ。こういう人たちが我が国の進歩というか時代に適応した変化を止めてきて、その結果、GAFAMに一切歯が立たないような国にしてしまったんじゃないかしらん。という気になるね。いまや日本なんて世界から相手にされてない感じがするものね。

 閑話休題

 たといばハリウッド製の映画を観ていても、昔だったらここで日本や日本企業の存在が出てくるだろうな、という場面が悉く中国に肩代わりされてるものね。『ダイ・ハード』だっていま作られてたら舞台は日本の企業が持つナカトミ・プラザじゃなくて、中国の企業が持ってるビルってことになってるだろうね。

 閑話休題

 なんていうかグリコのサイトに掲示された内容がネット上でクレームを受けて削除。てな話があったようだけれど、なんつーか、名の知れた企業がちょっと変わったようなことは最早やらないほうが吉、やるだけクレームがついて損、みたいなことに世の中の流れがなっていて、なんつーか、つまらん世の中になってきたなあ、という気がする。ウェブはバカと暇人のもの、という事態がまじ訪れたなあ、という気になる。バカと暇人が世の中の面白い角というか尖ををどんどん削っている感じがすンね。面白そうなネジ山を次々に潰して回ってる、っつーか。

 閑話休題

 ネット上とはいえ卑しくも広告を打とうとするんであれば、その広告のバナーを「ぱくたそ」の無料画像で済ませるのはどうかと思うぜよ。「ぱくたそ」の画像はどれも使い勝手の良い、レベルの高い面白いものだからおいらも作品中にずいぶん使わせてもらってるけど、本当の広告に使っちゃダメだよなあ。かけるべきところにはちゃんとコストをかけろよ。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。梅の花も綺麗だけれど桜みたいに浮かれ気分にならないのはどういうわけなんだろうね。桜を見ると浮かれ気分になるというのも、所詮は花見があるからという学習が為なのかね。梅の木の下で花見をやることが当たり前だったとしたら梅の花を見ても浮かれ気分になるのかもしらんね。まあ僕は友達もいないし酒も飲めないから花見など行ったことがほとんどないのでよくわかりませんや。


ありがとうございました。これからもよろしく。

 とりあえずこのWeb日記と云い張っていたブログは今日でおしまいにします。  閑話休題  昨年の五月、置かれた状況・環境に翻弄されてすっかり減退してしまった創作意欲に再び火をつけて、みやかけおを再起動するのを目的に、ブレインストーム的にブログを始めたのですが、あれから一年...