2018年5月27日日曜日

有為転変でゴー

 しかしみんなすごいなあ、と改めて思うのは、SNSなんかを閲していると、自分の考えや主張についてこれは正しいものだ! と、一点の曇りもなく信じ切り云い切る人が沢山、それこそ山のようにいることで、自分なぞは、常に自分の考えが間違っているのではないか、と思いながらものを考えたり云ったりしているから、いやほんと、みなさんすごいなあ、と皮肉でもなんでもなく思います。

 閑話休題

 そうして僕はいま、久しぶりに筒井康隆大人が五十年くらい前に著した『脱走と追跡のサンバ』を再読している最中なのだが、ああ驚いた、ここで書かれている、情報に取り巻かれて自分がどこにいるのかわからない、みたいな内容が全く現代の状況と同じじゃん、と僕には思えて、やっぱりすごい人の考えることは凄いものだ、と、全然すごくない感想を抱きつつ読んでいるところ。昔はこんなこと全然思わずに読んでいたそんな二十歳の頃の僕。まあ初読したのは今から二十五年以上前の話だから、世の中がこの作品世界のところまで到達していなかった、というのもあるけど。しかし僕は読書家ではないから読むのが遅くて全然進まないや。

 閑話休題

 若い女性ばかりを選んで体当たりをしてゆく新宿駅の若い男児の動画、などを閲するにつけ、遊郭・公娼の必要性を僕は考えるのですが、罷り間違ってそんな言葉を口にしたが最後、はあちゅう氏とそのフォロワーみたいな皆さまに言葉でどつきまわされてひどい目にあうんだろうと思って恐怖します。嗚呼、早くAIとロボットの技術が人間そっくり、にまでに進化して『ブレードランナー』ンときのダリル・ハンナ的な、セクサロイドが世の中にあらわれないかしらん、と、僕は願ってやみません。二つで充分ですよ。

 閑話休題

 もしもセクサロイド、みたいなモノが本当に世の中に現れたとしても、やっぱ批判を浴びるのだろうねぇ。性的なアニメを観るから性犯罪に走るのだ!  的な感じで、セクサロイドにすることを人間の女性にしてみたくなるはずだ! みたいな。あるいは、セクサロイドを開発するなんて女性を性の対象としか見ていない証拠だ! 的な感じで。

 閑話休題

 話は変わるが自分はサッカーには全く興味がないのですが、そんな自分からしても、W杯サッカーの話題がてんで聞こえてこないような気がするんですが気のせいですかね。ひょっとしたら、もうサッカーファン以外の日本人の大半は、W杯慣れしちゃったのかもしれませんなあ。我が国の人々は全てを一過性のイヴェント・祭りにしてしまいますからなあ。まあ、それでも始まればそれなりに盛り上がってそれが終わる頃には、渋谷の交差点に、頭の中がこんがらがったような人々が集うんでしょうけどね。

 閑話休題

 そうしてまた話は変わるのだが、僕は過日、池袋の東京芸術劇場で『酒と涙とジキルとハイド』という三谷幸喜氏が脚本と演出をした芝居公演を観てきたのであった。今回は再演だったのだが、初演を見逃していた僕はようやく、という感じでこの公演に足を運んだ。なるほど、評判の通り笑いの絶えない内容で出演する役者も皆大変に達者、大に満足して帰宅の途についたのだった。
 二〇〇二年あたりから三谷幸喜氏は、舞台では笑いの少ないものを志向していたように思えた(氏本人もそのように発言している)のだが、この作品の初演(二〇一四年)あたりから笑いに回帰したようだ(って、公演パンフレットにも書いてあったしネ)。
 しかし僕の拙い鑑賞眼には、確かに笑いには回帰しているが、以前とはその質が変わっているように見える。九〇年代の氏の作品は、脚本の力が大変に強かったように思う。隙のない、綿密に過ぎるくらいの脚本だったように思う。しかし今回の作品、それから今年の春先に観た『江戸は燃えているか』にしても、そこまでの綿密な印象は受けなかった。脚本の力で笑わせる場面よりも、くだらなさ・馬鹿馬鹿しさで笑わせる場面が増えたように感じた。また、以前の作品であればきまって、泣かせの場面というかキャラクターが真面目に心情を吐露する静かな場面が終盤にあったのだが、そうしたものが無くなり、笑いのみで完走するようになった。不図、この変化は三谷氏の中で、脚本家としての要素よりも、演出家としての要素の方が強くなったことで起こったのかもしれない、と思った。
 まあ小賢しい考えは兎も角、とにかく、三谷氏が笑いに帰ってきたというのは、笑いが好きな僕にとっては諸手を挙げて歓迎することであり、また、一人の作家の変貌変遷をこうして追えるというのは全く楽しいことだ、と思った一夜でござんした。

 閑話休題

 あのー、ほら、よく「〇〇も変わった。昔の方がずっと面白かった」みたいなことを簡単に云う人ってあるけれども、ああいう人たちってのは、単純に作家の方だけが変わったと思ってるのかしらん。鑑賞者たる自分の感覚が変わったのかも、っていう疑問は抱かないのかしらん。だいたい、物の見方が変わらない奴なんて、基本的に面白くない奴だと思うんだがなあ。だってそれは感性が動かないってことだから。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。こうやって他の五球団が連勝連敗を繰り返しているうちにそれをしないカープがいつの間にかぶっちぎっているという去年一昨年と変わらぬセリーグの展開。





2018年5月18日金曜日

すべて時代のせいにして

 その当時、自分が年端も行かない小供だったことを割り引いても、七十年代後半のテレビというのはまだ夢の国だったように思う。我々庶民の住む世界とは隔絶された世界、多少大袈裟な物云いをすれば、ブラウン管を通じて天上界を覗くような感覚で、仰ぎ見るようにしてテレビを観ていたと記憶している。
 そんな天上界の中でもひときわ大きく輝いていた星々、スター、その一つが西城秀樹だったと思う。
 八十年代の十年間でテレビという天上界はすっかり下界に降りてしまい、庶民の住む世界と陸続きになった。じねん、天上界に住まう人だった西城秀樹をはじめとする数々のスターは時代の向こうに追いやられた。それでも天上界に住んでいた人々が持つオーラは、たとい時代が変わっても消えることはなかった。彼ら、かつて天上界にいたスターを見るたびに、かつてそういう世界があったこと、それを仰ぎ見ていた記憶が蘇った。
 巨きな星がひとつ消えて、あの頃といまの自分を繋ぐ懸け橋がひとつなくなった。やがて全ての星が消え、あの頃の世界が、自分の記憶の中にだけ存在するものになるんだろう。最後はその自分すらも消えて、かつてテレビを観ることは恰も天上界を覗くが如き素晴らしいものであった、と誰かが文字に書き残す唯の”歴史”に変わる。

 閑話休題

 あれは小学二年生の頃だったと記憶するけれども、テレビだったかラジオだったかは忘れたが不図、聞こえてきた『<a href="https://youtu.be/pDUpRSGpMfM" target="_blank">ブルースカイブルー </a>』を聴いたら一発で参ってしまい、歌詞の意味は解らないながらもしばらくの間、登下校の際に頭の中で曲を再生しながら歩いていたものだったなあ。ラジカセすら持っていなかったから頼りは自分の記憶のみ、まして小学二年生の脳味噌だから曲を完璧に憶えることなど出来よう筈もない。だから、頭の中で勝手に曲を編集してしまっていた(後年、小遣いでレコードを買ってようやく頭の中で編集していることに気づいた)のだけれど、それでも頭の中で絶唱すれば気分は高揚、そうして雲ひとつない青空を眺め「ブルースカイブルー」という曲名から受ける、言葉が二度塗りされたような語感にそこはかとない可笑しみを覚えつつ登下校していたことを思い出す。あー、できたらあの頃に戻りたいネ。

 閑話休題

 そうはいっても僕は八十年代に、テレビの世界なんて嘘っぱちだ、とばかりにそれを破壊しまくったビートたけし師の存在と行動に快哉をあげ、影響を受けまくったのだけどね。これは別にたけし師が元凶、みたいなことではなくって、それが時代ということなんだろうと思う。時代が天上界の存在を許さなくなっていたのだと思う。そこにたけし師という、次の時代を背負える才能がたまたまいた、ということなのだと思う。そういう存在が時代の寵児、ということなんだろう。時代ってのは知らん顔して変わっていってしまうものだからね。

 閑話休題

 時代の寵児、と思ったり書いたり云ったりするたんびに、レツゴー寵児、と云いたくなる衝動を抑えるのに苦労する。まあ、時代の寵児、なんて言葉ぁ滅多に使いませんがね。

 閑話休題

 やはり時代が変わったな、と思うことは他の世界でもやはりあって、たといば、いまから十年前のホリエモン氏や三木谷氏のような感じで世の中に出てくるIT関連の人、というのはもう現れないと思う。あれはあの時代だったからこそ、ああいう「新奇な人種」みたいな形で世の中に出てくることができたのだと思う。これが当節のように、プロ野球十二球団のうち1/4に当たる三球団をIT企業が保有する時代、つまりはITの存在が当たり前の時代にあっては、ああいう形で世の中に登場することはないだろう。
 その代わり、広く世間に浸透した当節のIT長者は、剛力彩芽や石原さとみを平気で掻っ攫ってゆくようになった。そこまでのレベルで世の中にITとそれを主導する人間の存在が浸透した、そういう時代に変わったということだ。

 閑話休題

 プロレスもそうだったよな。吾輩が餓鬼の時分のプロレスの世界って、恰も、鬼たちの棲家のように思って観ていたものな。下手に近寄ったら殺されるぐらいの感覚で観ていたよなあ。それがストロングスタイルということだったんだろうなあ多分。

 閑話休題

 話は変わるがやっぱり言葉ってのは、広く流布・浸透してしまうとその持つ力が弱まってゆくよね。一年くらい前から、無駄にメンタルが強いような人が「はは。私のツイートが炎上してる」なんつって、自分が発した品性の下劣なつぶやきに続々と反論が寄せられているのを、どこか嬉しそうに眺めている、みたいな状況を目にすることが増えたように思う。もうこうなると炎上、という言葉が本来持っていた、只事ではない様子、の意味合いは霧消してしまう。
 斯くの如く、感性の鈍い人がみんなが使っていて面白そうだからというだけで言葉を濫用すると、あっという間にその言葉の命脈は尽きてしまうよね。

 閑話休題
 
 ではそんなことでお後がよろしいようで。他所様のことながら、タイガースはどうして掛布雅之より金本監督を選んだのかねぇ。

2018年5月16日水曜日

人間なんてララーラーラララ ラーラー

 ああ、国際信州学院大学の偽サイトはよく出来てて面白いなあ。公式サイトもいい塩梅にギャグが散りばめられていてとても面白い。大学の歴史を紹介するところなんて特に好きだ。周辺のツイッターアカウントもみんな同じぐらいのレベルで作っていて、そのレベルから外れているのが無いのもいいね。終着点が見えなくなるような作り方だけど面白いからどんどん頑張れ。

 閑話休題

 しかしこうした案件に際して、簡単に釣られてしまう人ってのが結構な数いるものだと改めて思わされる。そうした釣られ上手な人々を見るたびに、嗚呼、人ってのは、話題になっている事柄に対してとにかくひとこと云いたいものなんだなあ、いっちょ噛みしたいものなんだなあ、と思わされますな。
 ましてこれがSNSの時代たる当節となると、自分もなにかを発言せねばならん、何某かの意見を持たなくてはならん、話題の輪の中には入らなくてはならん、と皆普通に思い込んでいるから、結句、傍観者でいることができなくなってしまうのだろうなあ、と思いますです。まあ、云ってる俺がまさにそうなんだけどネ。

 閑話休題

 んまあ、そうねぇ、おいらの拵えた作品であっても「これは本当にあった話なんですか」なんて云っている人が結構いたからねぇ。明らかにギャグとわかる異質な文言を入れてあったり、どう見てもセコイに過ぎるデザインだったりしているのにそこには全然気がつかないでね。
 つーか、アレなんだろうな、人って、自分が発見したものを本物だと思いたい、偽物だとは思いたく無い、という深層心理があるのかもしらんね。一旦、本物だ! と思っちゃうと、散りばめてあるギャグすらそれと気付かなくなっちゃうのかもしらんなあ。だって嘘の話に対して真剣に意見してたら馬鹿みたいだものね。みんな馬鹿にはなりたくないものね。
 ほんと、人間ってのぁ面白いですなあ。

 閑話休題

 話は変わるんですが、いまこれだけの世の中で、まだ「アニメオタクは犯罪予備軍」とか思ってる人なんているのかしらん。いるとすればそれは最早、これまでのマスコミの報道に踊らされているだけの人なのではなかろうかね。まあ、見出しを作る側にしてみれば、ある種のテンプレートに従っているんだろうけどね。大衆の中に広く流布しているフレーズの方が読者のイメージを喚起しやすいから、アニオタ=犯罪予備軍、と、とりあえずしておくんだろう。

 閑話休題

 しかしインターネットが広く行き渡ってから、旧来からあるマスコミが時代をリードして作ってゆく、という現象が全く見られなくなりましたな。当節の旧来マスコミを見ていると、世の中の移り変わりに、押っ取り刀で後を付いてくるばかり、に見えて仕方がない。もう世の中のスピード感が変わってしまったんだろうなあ。

 閑話休題

 頭にボールが当たったら死ぬぞという高校野球の先生vs無法なタックルをしろという大学アメフト部の監督。

 閑話休題

 そらまあ大昔に田淵幸一が頭にデッドボールを食らった時には実際に死にかけたし、かつてのスワローズの名三塁手、角富士夫も守備機会の際に打球が頭に当たり頭蓋骨を陥没骨折、次に同じところに打球が当たったら命の保証はできないと医師に云われたというからなあ。そらあたかが野球とはいえ硬球が当たったら死ぬこともあるわいな。まあ、その言葉以前に、その監督さんが生徒に対して相当にひどい叱り方をしたんだろうがね。

 閑話休題

 でもあれだ、私なんかが餓鬼の時分には随分と乱暴な叱り方をする教師が結構いたものだけれど、あれから三十年以上の月日が流れたいま思い返すとそれも懐かしい良い思い出、なんてことは全然思わなくって、いま思い返してもまじむかつく。無駄に威張ってやがって。手前ぇの乱暴狼藉を、我々の行為の所為だと正当化しやがって。
 思い出すのはあれは吾輩が中二の時、指した生徒が満足に答えられなかったというだけで逆上、教師自らが一週間に渡り授業をボイコットした、ってこともあったっけ。しかも次の年になったらそれを生徒を脅す材料にしてやんの。「あの時を経験してる奴もいるだろう」とか云って。いま思えばあいつの振る舞いはまるっきり馬鹿のそれだったよなあ。
 おっさんになったいまの頭脳と了見を持ったままあの頃に戻れるなら、当時の教師連中に、手前ぇらの行動が如何に道理に反しているか、ということを滔々と述べて大いにとっちめてやりたい気がする。

 閑話休題

 それはもちろんあの頃みたいな理不尽な教育はしてはならん。そういう教師がいまもいるなら早く絶滅した方がいい。が、その一方で、人間というのは放っておけば他人に対して理不尽な振る舞いをするものだ、という認識は持っておかねばならん。

 閑話休題

 話は変わりますが、近頃あまりテレビを観ないのでよくわからんのですが、あのほれ、小藪さんっていう関西のタレントの人、あの人、バランス感覚にすぐれた発言をしていてとても良いね。

 閑話休題

 あとあれですよ、このところ頓に思うのは、玉袋筋太郎師ってまじすごいよなあ、ということですよ。あの芸名でマスコミに出て売れているというのは、本当に一つの奇跡だと思うなあ。実際、ものすごく面白いし。いま、ビートたけし師の遺伝子をいちばん強く感じさせる人だと思う。真っ当な東京芸人の系譜にある人という感じがする。

 閑話休題

 やはりこの、褒めるよりも貶す方が簡単なんだろう。嫌なこと・不快なことってのは、違和感として自分の中に残りやすい。だからすぐに気が付いて言語化することができる。翻って、良いこと・快適なことっていうのは、ごく自然に自分の中に入ってしまうから気づきにくく、従って言語化するに至らない場合が多い。
 それに嫌なことはすぐに吐き出して楽になりたいし、良いことは別段吐き出したいとは思わない。だから勢い、貶す方が増えるんだろう。自戒を込めて常にそう思っておかなければいかんネ。たとい貶す時でも洒落っ気を忘れてはいかんよね。

 閑話休題

 しかしあれかね、二十年三十年前と比べると、テレビ番組もコンプライアンスが重視されるようになって、随分と清浄な番組が増えたと思うのだけれど、かつて、テレビは俗悪と云って文句ばかり云っていた市民の皆様ってのは、いまの清浄化したテレビ番組に大層満足して、それはそれは日毎夜毎に熱狂してテレビを観ているのかしらん。あの頃、『全員集合』や『ひょうきん族』を俗悪として怒っていた人たちっていまどんな風にしてテレビを観ているのだろうね。それとももうみんな死んじゃったかな。

 閑話休題

 水清ければ魚棲まずと申しましてな。世の中が清潔になったら途端にアレルギー持ちが増えたりするのが世の習いですからな。

 閑話休題

 いま上で『全員集合』って書いたけれども、いまはもうこれだけだと通用しないのね。我々の年代の感覚からすると『全員集合』といったらそれは取りも直さず『8時だヨ! 全員集合!!』のことだと諒解されたけれども、いまの若い人にそう云ってもてんで通用しない。更にはドリフターズ、と云っても、ああ平野耕太のマンガですか、などと真剣に云われる始末。だめだこりゃ。
 いまから十数年前、ナンシー関氏のコラムを読んでいたら「自分が当たり前と思っていたことがそうではなくなり、自分の世代が世の中のメインストリームではなくなったと感じた」みたような文があったのだが、いままさにそんな感覚を味わっている哀しいおっさんとは吾輩のことさ。次行ってみよう。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ほんと、頭が馬鹿の人ってすぐに極論を云うから面倒ですよね。



2018年5月11日金曜日

世の中は「面白い」に溢れています。

 なんというかこの、Y氏が云ったとされる「農業とか面倒臭い。正直だりぃよ」という発言であるけれども、なんつーかこの、アイドルを生業としているイケメンおじさんが、自分が為した仕事の中でも相当に高い評価を受けているものについて、酒に酔った挙句、二人きりとなった密室で十五歳の少女相手に愚痴っている、という図柄が僕にはとても面白く思えてしまいます。
 そうしてまた、なんというか、この時のY氏って、途方もない幸福感に包まれていたのではないかなあ、と想像します。だってその、酒にだらしのない人がだらしなく酒に酔い、自分の性的嗜好に最も合致する未成年の女の子に対して、無駄話の中では相当に楽しい部類に入る仕事の愚痴を云い放っているのですから、そらあ筆舌に尽くし難い幸福感に包まれておっただろうなあ、と想像しますです。

 閑話休題

 なんというかこの、上のような週刊誌の記事について「真剣に農業をやっていた証拠」みたいなネット世論が形成される刻下の状況というのもまた、大変に面白いものだなあと思います。記事を作った皆さんにしてみれば、斜め上どころじゃあない予測不可能な反応であるように思いますです。こういう、発案者・発信者の意図とは完全に異なる何かが形成されてゆく流れ、というのは傍から見ていて大変に面白いものです。

 閑話休題

 話は変わりますが、最近街を歩いていてふと思うのは、どっ。どっどっ。どっどっどどっ。どっどどっどっどっどっどっ。みたいな、大音量で異様な重低音の音楽を流している、不良や元不良の人たちが運転しているとひと目でわかる自動車から聞こえてくる楽曲が、いずれも同じものに聞こえる、ということであります。あれ、多分、ああいう自動車から流れてくる音楽を、どれも同じ曲である、あるいは、不良の自動車から聞こえてくるノイズである、と認識するような、高度な省略化の機能が、我々のような常人の脳みそには搭載されているのではないかと思うのです。

 閑話休題

 と、いうようなことを書いていて急に思い出したのですが、あれはいまから十五年くらい前だったかなあ、当時の住処、その最寄駅の前を歩いていたら、不良の人が運転していると思しきビッグスクーターから、街中に響き渡るような大音量で、浜崎あゆみ氏が歌唱する『卒業写真』のカヴァーヴァージョンが流れてきて、笑いを堪えるのに必死になった、ということがありましたよ。
 怖い不良の人が怖い顔で跨るビッグスクーターから「そつぎょおー しゃしーんの あのひとはー やーさーしーいー めーをー してーるー」なんて、情感たっぷりの歌声が、耳をつん裂くような大音量で聞こえてきたらそらあーた、笑いますって。しかも不良の人ったらちゃんと赤信号で止まってんの。不良なのに。『卒業写真』大音量で流しながら止まってんの赤信号で。不良なのに。

 閑話休題

 あとあれですね。ネットでの炎上騒動を見かけるたびに、なるほど、関東大震災の昔には、都々逸を歌わせてこれを満足に歌えぬものは日本人ではないと断定してぶちのめす。みたいな乱暴狼藉が行われた、というのも本当のことだったのだろうなあ、と思いますです。

 閑話休題

 朝の連ドラをちらと見たのだけれど、なんだかテンポが鈍いなあ、と思った。昭和末期から平成初期の話であると映像で懸命に説明しようとするあまり、それを示す小物であるとかセリフであるとかを長くやるから変になるんじゃないかしらん、と思った。ちら、としか見てないからたまたまそういう場面だっただけかも知らんけど。『あまちゃん』だと、現代と八十年代の話がてれこっぽくなってたんだよな。

 閑話休題

 しかしあれだ、朝の連ドラなんて、我々の祖父母や父母の人たちが、かつて自分が生きた時代を懐かしんで観るものだとばかり思っていたのに、いつの間にか自分らがその対象に入ってきてしまっているじゃあないか!

 閑話休題

 いま、我が家の近傍から、幼い男児と思しき人物が、おそらくはご自宅の玄関ドアーと思われる板様のものをバンバン叩きながら「いれてー」と繰り返し泣き叫んでいる音声が聞こえてきます。なかなか入れてもらえぬようで、とうとう地団駄を踏みながら(足音からするとどうも裸足のようです)「いーれーてーよー」と泣きながら絶叫しています。ここで私が飛び出していってその幼い男児を我が家に匿ったら、果たしてどんな騒動が起きるだろう……なんて想像しています。
 まあそれを実際にやったところで、ご近所さんのことなので警察沙汰までにはならないでしょうが、きっと私はそのご近所さんから異常者としてテッテ的にマークされることでしょう。
 と、そんなことを考えている間に、幼い男児と思しき人物があげていた泣き叫ぶ声が聞こえなくなりました。きっとお家に入れてもらえたのでしょう。よかったね。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。ああやっぱり『カーネーション』は飛び抜けて面白いや。そうそう昔はミシンは踏む、といったのだよな。チャンネルを回す、みたいに。



2018年5月9日水曜日

子供叱るな来た道だもの年寄り笑うな行く道だもの。

 ツイッターを閲していると公人・有名人・著名人のアカウント名の隣に、なりすましではないことを示すレ点みたいなのが付くが、あれを見るたびになんだか面白いものを見る気分になる。自分が自分であることの証明を他人にしてもらう、っていうのかな、いくら自分が自分だと云ったところで、ツイッター社からあなたは確かにあなたです、って認めてもらわぬ限り本人になれない、というか。粗忽長屋的な面白さとでもいうのか。

 閑話休題

 私の好きなのんちゃんなんて完全にそうだよ。自ら能年玲奈であると、本名を公に名乗ることすら許されていないんだからもうわけがわからないよ。

 閑話休題

 今から三十五年ぐらい前にビートたけし師と立川談志家元が対談した音源をYouTubeで聴いた。家元は「経済的に満たされた時代に生まれた、ある意味不幸な今の若者を救う役目がたけしにはある」と云い、対するたけし師は「救う必要はない。自分の人生は自分で生きていくべきだ」と答えていて、二人の主張は平行線てあった。似ているようで二人はやはり違うのだなあ、と改めて思った。でもお互いに尊敬して大事に思ってるのもよくわかるんだよなこの音源を聴いていると。

 閑話休題

 家元って芯のところがすごく綺麗なんだよな。柔らかくって透明度の高い球をいつも壊さなようにと大事に抱えてる感じ。もって生まれたものだとはいえ、きつかっただろうな、あれだけ綺麗なものを抱えたまま生きるってのは。

 閑話休題

 年寄りが若者に対して「俺の若い頃はもっと大変だった」とか云いだしたらもうダメだよな。苦労自慢になって説得力が皆無になる。まあ、若い連中に小言を云って煙たがられるのが年寄りの役目、というのは一面の真実だけれど。

 閑話休題

 まああれじゃないの、我々みたいな団塊ジュニアがみんな死んじゃう頃になったら、日本も小ぢんまりとした良い国になるんじゃないの。今日はてんやの天ぷらが食えて嬉しかった、みたいなことを、妥協ではなくて真に最良の幸せとして享受できるような程の良い国になるよきっと。
 そのレベルでは嫌だ、てんやの天ぷらじゃなくって銀座の天ぷら近藤で食いたいと、さらなる上を目指すことが幸せと感じていた今の老人かつての若者には、てんやの天ぷらで満足する価値観は”低いものである”としか理解できないだろうし、天ぷら近藤を目指さぬことをして”ハングリーではない”と断ずるんだろう。
 そうしてまた我々団塊ジュニアとて、少年期の終わりにバブルを見てしまい、あの異常な好況が正解でその後の不況は不正解だと心の何処かで思っているから、つまるところ現在の老人と大差ない。
 だからまあ、我々が生きている間は、現在が不幸な状況である、という空気は日本から抜けないと思うよ。ごめんね。まああとは君らでなんとかしなよ。

 閑話休題

 しかしあれかしら、タイムマシーンが発明されて、江戸時代の人とかが現代にやってくるようになったら、杉田玄白とか村田蔵六みたいな人が、なんだお前若造のくせに、とか云って、高須クリニックの人を叱りとばしたりしないかしらん。そうなったら面白いのだけれど。

 閑話休題

 上のような急に莫迦みたいなことを云うから、真面目に日本を憂いているような人々から僕は莫迦と取り扱われる。しかし莫迦と思われているぐらいがちょうど良い。

 閑話休題

 しかしあれですよ、僕の目には麻生大臣が政治家の中では一番人間的に魅力があるように思えるのだがなあ。世界の舞台へ出ても違和感がない(まあ体は小さいがね)政治家ってこの人以外にはまずいないと思うんだけど。あれだけ洒落がわかって、上流のなんたるかがわかるような人だと、庶民の下品なことにほとほと嫌気がさしているだろうなあ。

 閑話休題

 しかしあれですよ、近頃、街を写真を撮りながら歩くことが、昔ほど恥ずかしくなくなりましたな。だってみんなスマホで写真を撮っているから。昔はここまで撮っていなかった。日曜日の晴海通りなんかはもう本当にみんな角角でスマホを構えてパシャりとやっている。十五年くらい前、FLASHの作品を作るのに服部時計店の前あたりで写真を撮っていた時など、まあ往来を歩く人に見られてすげく恥ずかしかった。ただ、いま、そうして繁華街で写真を撮っている人の半分以上は中国などからの旅行客だがね。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。いつもすみませんどうも。


2018年5月7日月曜日

人生も打ち直しができると良いのだけれど。

 気がつけば五月の連休も終わり一年の半分が過ぎようとしている。僕は相変わらずなにをする気も起きず、作品づくりなど遠い昔の話になりつつある。リアルが充実するとネットが疎かになる、なんて云っていたのはもう十五年以上も前の話。今やリアルとネットを分けて考えている方が少数派。しかし僕は断然分けてゆく。日常なんか糞食らえ。ゴールデンウィークの最終日におっさんひとりで横浜スタジアムで野球観戦していたって僕は寂しくなんかない。絶対に寂しくなんかない。若い人たちがベイスターズのユニフォームを着込み、仲間とともに楽しそうに声援を送り、グラウンドを背に記念撮影をし、我先にとその写真をSNSにアップしているのを横目で眺めつつ、ロペスの打ち直しホームランを噛み締めるたったひとりの僕。完全に観客席の中で浮いている。僕の周囲では、若い人たちも、のみならずそうでない人たちも、知り人のみならずその辺にいる人たちとハイタッチを繰り返し喜びを分かち合っている。僕のところには誰もこない。おっさんひとり、満員の横浜スタジアムで浮いている。そう。僕は浮いている。思えば僕はネットでも浮いている。絶対的に浮いている。たゆたうように浮いている。たゆたうどんぐり。というのは漫画『ぼのぼの』に出てくるセリフだが意味はわからない。なぜこのセリフを急に思い出したのかもわからない。そうしてよーいどん、で書き出したこの文章、行く当てもないままここまで来たが結局どこにもたどり着かないまま漂流を続ける。

 閑話休題

 ロペスのホームラン(実はファウル)。

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 閑話休題

 ロペスの打ち直しホームラン。
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 閑話休題

 そうして僕はこの日に野球を観に行ったことで、<a href="https://www.baystars.co.jp/news/2018/05/0504_03.php" target="_blank">五月十七日がお茶漬けの日</a>だということを知ったのであった。先着二万名の来場者に合致したから永谷園謹製のうちわと海苔茶漬けを一袋もらった。

 <a href="http://garbage-coll2.sakura.ne.jp/sblo_files/garbage-coll3/image/P1020587.png" target="_blank"><img border="0" alt="P1020587.png" src="http://garbage-coll2.sakura.ne.jp/sblo_files/garbage-coll3/image/P1020587-thumbnail2.png" width="320" height="240"></a>

 閑話休題

 かつて、テレビはいろんなことを教えてくれた。音楽番組を毎週見ているとそれだけで、自分の興味の埒外にある楽曲まで聴くことができた。それはまあヒット曲が中心ではあったけれども、それらを見ることでいろんな音楽に偶然出会うことができた。
 音楽番組が軒並み終了する頃にはTSUTAYAが伸してきていて、百円とかそのくらいの安価で、名前ぐらいは聞いたことがあるけれどもその実、曲は聴いたことがない、みたいなアーティストのアルバムをぐんぐんに借りた。そうしてまた新たな音楽との出会いがあった。
 さらに時代が進みiTunes Storeが始まり、曲をダウンロードで購入するのが当たり前になった。至極便利だったが何しろ邦楽の場合、一曲二百五十円などと大変に高価だったからおいそれと買うわけにはいかなくなった。相変わらずアルバムはTSUTAYAで借りていたが、ダウンロード楽曲からDRMが削除される頃にはもう面倒でCDなど使っていられない。さりとて折柄の不況でそうそうアルバムをバンバン買うというわけにもいかない。CD自体が疎ましくなっているからTSUTAYAにも行かない。結局、お気に入りのアーティストの曲ばかりをダウンロードで買うようになって、偶然の結果による音楽との新しい出会いは無くなった。
 ああもうこういう時代なんだろうなあ。音楽番組をぼうと見ていた頃の、見知らぬ音楽との偶然の出会いはもうないんだろうなあ。と思っていたら、また時代が一つ進んだ。
 サブスクリプションで音楽を聴くようになって、また、偶然の出会いが始まった。先日、愛用のGoogleプレイミュージックでジャズのラジオをかけていた時に偶然耳にしたSANOVAとカルメラ、この二組の楽曲をいま、くんくんになって聴いている。

 閑話休題

 それにしても、野球場のビールの売り子ってどうしてあんなに美人ばっかりがいるんだろうなあ。売り子の格好だから美人に見えるってわけでもないんだろうになあ。儂が餓鬼だった時分には売り子なんてみんな男ばかりだったものじゃよ。ビール売りのみならず弁当の売り子も皆、って、ああ、そういえば野球場で弁当を売りに来なくなったなあ。昔は横浜スタジアムに行くと泉平(いずへい)の稲荷海苔巻き弁当を食うのが楽しみでのう。そうしてまたこの稲荷海苔巻き弁当の売り子というのが、いつでも全くやる気のない青年男児が勤めておってのう。泉平と染め抜かれた法被を纏い、スタンドの通路で、弁当の箱を掲げたまま何も云わずに立っているのみなのじゃよ。あとブー笛(ぶーてき)のおじさんというのもおったのう。五十絡みぐらいのおじさんでなあ。何。ブー笛がわからんとな。そんなものは自分で調べなさい君らの手にはインターネットがあるのだから。あのブー笛のおじさん、浜スタのみならず関東近郊の野球場にいてなあ、対戦カードに合わせた応援歌をブーブー奏でておったものじゃよ。
 おっと、話が昔に遡りすぎてしまったようだが、それにしても野球場のビールの売り子はみんな美人だ。おのののか、なんていまいたってそうは目立たんぐらいのレヴェルだ。そうしてまた観客もビールを買うのはやはり男児の方が多いから、そうした美人と話したい、あわよくば顔見知りになりたい、ぐらいな助平根性でもってどんどんビールを買うから、やはり美人の方が売る側も儲かるんだろう。ま、儂はノンアルコールじじいじゃからそんな美人の売り子とはとんと没交渉じゃよフォッフォッフォッ。

 閑話休題

 そうして野球を観た帰りに、横浜そごうへ立ち寄り、一階の食品売り場で無駄に食い物を買ったのだが、あの手のデパ地下へ行くたびに思い出すのは、私淑する立川談志家元が云っていた「デパートの地下に行くと、こんなに食い物があって良いのかと思う」という言葉で、私なぞは飽食の時代に生まれたからその感覚はよくわからないのだけれど、確かに、あれ、売れ残ったらどうするんだろう。と思うことは毎回だ。

 閑話休題

 ああそうそう。海賊版サイトへのブロッキングが話題になっているけれども、DAZNって広島県からのアクセスを遮断してるって聞いたけれどもあれはブロッキングには相当しないのかしらん。広島東洋カープのゲームを地上波で見られる地域からのアクセスを遮断してるらしいんだけど。カープのゲームのみ遮断してるんだろうけど。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。早く電子書籍もDRMフリーになりませんかね。






2018年5月4日金曜日

web2.0に進化したよ! 十年遅れで!

 まあそう云うわけでブログを持つことになりこれでとうとう僕もWEB2.0を全身で体現することになった。しかしあの頃、大見得を切って鼻を膨らませつつウェブにいてんぜろ! とか声高に叫んでいたあの人たちはどこに行ったのか。きっとどこかにいるんだろうが、いまはなにを云っているんだろう。やはりまだ大見得を切って鼻を膨らませてなんか云っているのだろうか。少し前にお金2.0なんて言葉があったと記憶するが、そんなようなことを云っているのだろうか。まあなんでもいいや。現象に言葉をつけることでさも自分がその現象を発見した。みたいに振る舞う人って多いものね。
 似たような感じで、やたらレッテルを貼りたがる人が頓に増えたね。ちょっと日本えらい、みたいなことを云うとウヨウヨ、とか云って、反対のことを云うとサヨサヨ、なんてすぐに云う。なんなんだろうねあれ。ああ云う人々はやっぱ人間を一方向からしか見ないのかしらん。まあなんだかわかんないけど、なんにしても僕はいまWEB2.0の只中にいるんだぜ。十年前の世界を生きているんだぜ。

 閑話休題

 <a href="http://garbage-coll2.sakura.ne.jp/sblo_files/garbage-coll3/image/YAMATOE5BE8CE3828DE5BE8CE3828D.png" target="_blank"><img border="0" alt="YAMATO後ろ後ろ.png" src="http://garbage-coll2.sakura.ne.jp/sblo_files/garbage-coll3/image/YAMATOE5BE8CE3828DE5BE8CE3828D-thumbnail2.png" width="320" height="266"></a>

 ※画像はアップロードのテストで内容とは関係ありません。つってな。

 閑話休題

 イチローを全て観られた幸せ。結局、観客って観ることしか出来ないんですな。懸命に観て、いつまでも忘れずにいることしか出来ないんですな。けれども、そうすることでしか、そこからしか見えないものってのがあると思うんですよ。観るだけ。そうしていつまでも記憶しているだけ。ただそれだけ。懸命に。細胞に擦り込むようにして。

 閑話休題

 kindleで見つけたから出来心で買って久しぶりに読んだら止まらなくなった筒井康隆大人著『家族八景』。思い出すのは一九九二年五月頃のよく晴れた土曜日、当時の知り人と横浜スタジアムへ野球を観に行こうと約束、JR川崎駅で待ち合わせをしたら当日になって知り人がいつまで経っても来ない。いまのように電話を持ち歩く時代ではなかったから結局、二時間待ちぼうけだったのだが、その待っている間に『家族八景』をすっかり読み了えてしまった。
 野球の方は当時大洋ホエールズにいたシーツなる外国人選手の止めたバットに当たった打球が三塁線を抜けて我がホエールズがサヨナラ勝ちをした。知り人とは現地で解散、その帰宅の足で自宅近傍の書店に直行すると『家族八景』の続編である『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』を同時に購入。あくる日が日曜日で休みで用事もなかったから家から一歩も出ずに二冊を一気に読み了えた。けして読書家ではない自分がこれほどまでに、熱に浮かされたごとくに読書をしたのは後にも先にもこれが最後であった。
 二十六年ぶりに邂逅した火田七瀬嬢はやはり知的で可憐で優しくって強くって不思議で、素晴らしい小説世界の主人公であった。そうしていま『七瀬ふたたび』を読み了えてこれから『エディプスの恋人』に向かうところだ。

 閑話休題

 しかしすっかり歳を取ってしまって小説本を読む体力も落ちているから二十六年前のように一気に読むことが出来ない。そのぶん、昔よりも長い間、火田七瀬嬢と共に居られる。

 閑話休題

 ではそんなことでお後がよろしいようで。なにができるかお楽しみ。まあ、なにも出来ないと思うがね。なにしろ十年遅れてるんだから。






ありがとうございました。これからもよろしく。

 とりあえずこのWeb日記と云い張っていたブログは今日でおしまいにします。  閑話休題  昨年の五月、置かれた状況・環境に翻弄されてすっかり減退してしまった創作意欲に再び火をつけて、みやかけおを再起動するのを目的に、ブレインストーム的にブログを始めたのですが、あれから一年...